2-10
その日は妃殿下の、何だか頭痛がするわ、という一言から始まった。
妃殿下を起こしに来たら、まだ眠そうな顔で言われたのだ。ちなみに妃殿下を起こしに来るのは、アンジェリカとの交代制で、今日は私の当番だった。
寝台に上半身を起こした妃殿下は、起き抜けだというのに美しい。むしろ、今の方が艶が数倍増しと言っても良いかもしれない。
薄手の夜着一枚という無防備さ。肩紐が片方ずれ落ち、少し動けば豊かな胸がこぼれ落ちそう。甘く蕩けた飴色の髪は艶やかで、化粧をせずとも色づいた唇はきっと柔らかい。
などと、ついついそんな事を考えてしまう。
女の私でも少しドキドキするのだ。シャルル様が恋をするのも無理は無いわね、と思う。まぁ、この姿を見られるようになったのはここ最近でしょうけど。
「では今日は、一日お休みになさいますか?」
妃殿下は優雅に生活しているように見えて、実は忙しい。そのほとんどは勉強やレッスンだけれど、妃殿下は常にひたむきに取り組んでいた。
──もう駄目だと、思うまでは。
「そうしようかしら」
「朝食はいかがいたしますか?」
「少しいただくわ」
「かしこまりました。ではすぐに」
「……可愛い猫がいてくれたら、良くなりそうなのだけどね」
私の去り際に呟かれた言葉の意味は、考えるまでもない。その言葉が合図になっているのだ。寝室を出てマリアンヌさんに妃殿下の言葉を伝えれば、一つ頷いて出て行った。
ふぅ、と息を吐いて視線を動かすと、アンジェリカと目が合って、人懐こい笑みを向けられる。つり目のせいか冷たい印象を与えてしまう私と違い、親しみやすいのがアンジェリカだ。
「アンジェリカ。妃殿下の着替えを手伝ってくれるかしら。私はその間に朝食をもらってくるから。ああそれから、妃殿下は猫をご所望よ」
「分かったわ」
しっかりと頷いたアンジェリカだけれど、すぐに行動を起こさないので首を傾げる。そんな私に、アンジェリカは笑って言った。
「すっかり当たり前になったなぁ、と思って。猫をご所望っていう言葉」
「まぁ仕方ないわよね。それにしても、どうして猫なのかしら。シャルル様は猫っぽくないわよね」
「妃殿下が猫好きだからでしょう?」
「こう言っては悪いけれど、あまり目立たない方よね。なのに妃殿下は毎日のように……。あれかしら、殿下より上手いのかしら」
「ちょっとクレア何言ってるのかしら!?」
慌てふためくアンジェリカに、思わず苦笑してしまった。同じ歳なのにこの純真さが、少しだけ羨ましい。まもなく迎える十八才は、成人と認められる歳だというのに。
家庭環境の差かもしれない。甲斐性があるとは言い難い父に振り回された母が、お前はこんな男に捕まっては駄目だと、男を落とす手練手管を私に叩き込んだせいか。
娘に夜の作法まで教えるのだ。よほど、私には頑張ってもらいたいらしかった。結婚から逃げたのは、それに対する腹いせもあったのだ。今でもまだ諦めていないようで、しょっちゅう手紙が届く。
押し付けられたそれで、本当に幸せになれると思ったのかしら、と疑問に思うけれど。
「冗談よ。アンジェリカはまだまだ初心ね」
「もう。からかわないでちょうだい」
「ごめんなさいね。楽しくて。実は宮殿で働くなんて退屈だと思っていたのよ、私。それがこんな事になるなんて、人生何があるか分からないな、なんて考えていたの。結婚から逃げた甲斐があったわ」
「その言い方はやめた方が良いんじゃないかしら。妃殿下は……」
言い淀むアンジェリカに、私もハッとして口を噤む。逃げられない妃殿下に聞かれたら、きっと悲しませてしまう。
今はシャルル様のお陰で落ち着いているのだ。あんな悲しそうな顔を、見たい訳じゃない。
「そうね。妃殿下の笑顔の為に、だものね」
その言葉はいつしか、私たちの合言葉になっている。妃殿下を悲しませるのなら、殿下さえ許さない。それくらいの気概をもって、一生涯お仕えするのだ。
まさか本当にそうなるなんて、この時は思っていなかったけれど。
「ええ。妃殿下の笑顔の為に……あ! 早く手伝わなきゃ、一人で着替えてしまうわ!」
慌てて寝室に入って行くアンジェリカを、苦笑しながら見送った。
「私も行かなきゃ。朝のお茶は何がいいかしら」




