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今日の妃殿下は、比較的穏やかに過ごされています。近頃は『嘆きの妃殿下』なんて密かに言われていますが、今日は楽しそうに祖国からの手紙に返事を書き、私の失敗には軽やかな笑い声をたてたほどでした。
失敗してしまったのは恥ずかしかったけれど、妃殿下が笑ってくれたのなら、そんなものは帳消しになってしまうのです。用事で外に出たクレアも、澄ました顔をしながらも嬉しそうでした。
出来ればこのまま、こんな平穏な時間が続けばいい。そうすれば以前のように、庭を散策出来るようになるかもしれない。
手仕事をしながらそんな事を考えていた時、部屋の扉がノックされる音が響きました。
「あら。どなたかしら」
「私が出てきますね」
顔をあげた妃殿下にそう言いながら立ち上がって、扉を開けると立っていたのはシャルル様でした。今日は殿下が一緒では無いようです。少し緊張しているようなのは、そのせいでしょうか。時々、シャルル様はクロード様が苦手なのでは、と思う時があるので。
取り敢えず部屋に招き入れると、クロード様が微笑んで首を傾げました。
「いらっしゃいシャルル。どうしたの?」
「あの、少し相談が。殿下の事で……」
「珍しいわね。まぁいいわ。アンジェリカ、少し早いけれどお茶の支度をしてきてくれるかしら。新しいのを出してもいいわ」
おそらくそれは、しばらく席を外してくれということだと理解して、頭を下げて部屋を出ます。隠し扉を出てすぐ簡易的な台所があって、いつでもすぐにお茶の支度が出来るので、時間をかける方が難しいのですが仕方ありません。
どの茶葉がいいかな、と悩むふりをして、お湯を沸かしながらも、ついつい思考がさ迷ってしまいます。
「……殿下の事で相談ってなんだろう。具合が悪い、ならあんな言い方はしないよね。まさか、例の女性を後宮に、とか言わない、よね?」
ああ、ダメダメ。そんな事考えてはダメよ、アンジェリカ。妃殿下が悲しむわ。きっと、殿下が働き過ぎで困る、という事に違いないわ。
と首を振って、お茶の支度に集中する事にします。
しばらくして、もうそろそろいいかなと考えながら、なるべくゆっくり歩いて戻ると。
「妃殿下、私はあなたを……」
「駄目よ。手を離して」
そんな言葉が聞こえてきました。思わず息を止めてそっと覗くと、シャルル様が妃殿下の手を取っているのが見えます。
これはあれです。紛れもなく、シャルル様がクロード様を……。
けれど私はただ、成り行きを見ている事しか出来ませんでした。止めなきゃと思うのに、体が動かなかったのです。
「ですがこれ以上は見ていられません。私は、何を捨てる事になろうとも、殿下を裏切ろうとも、あなたのお側に」
「お願い、やめて!そんな事はいけないわ!」
ふるふると首を振るクロード様に、シャルル様が言います。
「妃殿下。いえ、クロード様。私にとって、あなたは太陽です。あなた以上に素晴らしい女性を、私は知りません。そんなあなたを、私はずっとお慕いしていたのです」
「あぁ!」
「どうか私に、あなたを慰めさせてください。あなたに、苦しそうな顔は似合わない。あなたの笑顔が見たい。あなたの辛そうな顔を見るたびに、胸が張り裂けそうになるのです」
シャルル様の落ち着いたその言葉に、顔を反らしていたクロード様が、ゆっくりと顔を上げました。こちらからは横顔しか見えませんが、二人とも少し笑ったように見えました。
「……シャルル。本当に、私を?」
「はい。誓って、あなたを一人にはさせません」
「何があっても?」
「ええ、はい。火の海に飛び込む事になろうと」
「まぁシャルルったら。そんなに安請け合いしては駄目よ。悪い女に騙されても知らなくてよ」
「あなたのような方になら喜んで」
「まぁ。あなたは優しい人ね、シャルル。あなたとなら、私……」
クロード様がシャルル様の肩に手を置いて、背伸びをします。そして二人の唇が……。
「何してるのよ?」
突然声をかけられれば、誰だって驚くのです。その拍子に、ガシャンッ、とワゴンに体が当たって耳障りな音が響きました。
声をかけてきたクレアも驚いたようでしたが、もちろん、クロード様とシャルル様もこちらを振り返ります。私は無駄と分かっていながら、頭を下げるしかありませんでした。
「申し訳ありません!何も見てません!首にはしないでください!」
「そんな事はしないわ。黙っていてくれればね」
「は、はい」
「シャルル。取り敢えずあなたの気持ちは分かったけれどね、もう少しだけ、殿下を信じさせて」
「……かしこまりました。ですがお忘れなく。私はいつでもあなたの味方です」
「ありがとう」
恐る恐る顔を上げると、シャルル様が出ていくのが見えました。それを見送ったクロード様は悩ましそうなため息を吐き、一人にさせてと寝室へ行ってしまいました。
意見をもらいたくてクレアの方を見ると、彼女は肩を竦めて言います。
「何となく事情は分かったけれど、決めるのは妃殿下よ。私たちはただ従うだけ。もちろん、妃殿下の笑顔のために。でしょ?」
クレアはそれだけ言って、自分の仕事に戻ります。一見すると冷たく聞こえますが、妃殿下の為に働きたいという気持ちは同じでしょう。
ただ私は自分の仕事に戻りながらも、何度も妃殿下の寝室の方を窺ってしまうのでした。