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「メリー、メリー。どこかしらね、マリアンヌは?」
歌うような声に呼ばれて、私は扉の影から顔を出した。いつもの三人は帰ったようで、部屋には姫様一人。
「お呼びですか、姫様。私の名前を知っていたとは驚きです」
極力無表情を装い、そう言いながら近づくと、姫様は軽やかに笑う。その笑顔は初めて会った時、私たち親子に手を差し伸べてくれたあの頃と、まったく変わらない。いつも明るい、日だまりのようだ。
「あら!可愛いあなたの名前を忘れるはずがないでしょう?」
「その割には、何度かしか呼ばれた覚えがないのですが?」
「だってね、呼ばれないと寂しそうな顔をするから、楽しくて」
「よい趣味をお持ちですね」
「あなたが可愛いからいけないのよ」
「さようでございますか」
姫様のお側近くに控えるようになって学んだのは、姫様は何を言われてもあまり怒らない事と、姫様の軽口に大げさに反応するのは逆効果、という事。
だからこそ、セドリック殿下やシャルル殿はよくからかわれる。私としては、姫様が楽しそうなら何でもいいのだけど。
姫様が貧民街にいた私たちを見つけた時、姫様はまるで犬か何かを見つけたかのように「連れて帰ってもいい?」と同行していた兄殿下にお願いしていた。確か、二番目のオーガスト殿下だっただろうか。
そんな事したらきりが無い、と最初は渋っていた殿下も、当時六歳にしておねだりの達人であった姫様にあっさり陥落した。姫様がその後で私たちに向けて舌を出したのを、今でもよく覚えている。まだ姫様と同じ年だった私だけれど、あの一瞬で姫様に魅了されてしまったのだ。
でなければ、護衛も務められるようにという、騎士団の厳しい訓練に耐えられなかっただろう。
「ねぇ、メリー?」
昔を思い出していると、姫様が名前を呼ぶ。いつになく真面目な声で、といったら、姫様はきっと笑うのだろう。
「お断り申し上げます」
即座にそう返すと、姫様は苦笑した。
「まだ何も言ってないわよ?」
「どこかに嫁げとでも言うのでしょう。私はどこにも行きません」
「じゃあこれを読んでみて」
その言葉と共に渡された手紙に目を通し、次の瞬間には無言でビリビリと手紙を破いても、姫様は楽しそうに笑っているだけだ。
こういう時の姫様の、なんと輝いている事か。私に学院内のスパイじみた事を命じた時も、同じような顔をしていた。
「何か感想は?」
「姫様にこんな手紙を送りつけたのですか?恥知らずにも」
手紙は、私の父親であっただろう人物からだ。内容は、私を結婚させたいと見せかけて、その実、姫様へのお金の要求。王女付きの侍女が結婚すれば、支度金が支給されるから。それが目当てとみて間違いない。
王族といえど追放されれば庶民と同じ、もしくはそれ以下。だがそれまで贅沢な暮らしをしてきた彼らに、普通の生活は苦痛のようでしかなく、どんどん落ちぶれて行く。にも拘らず、自分たちが悪いとは一切考えない。
父もその一人だったのだと、母はよく言っていた。私は小さくて顔も覚えていないけれど、私の事をまだ自分の娘だと思っているらしい。姫様のおかげで公爵家の養女になった私を。
だいたい、私たち親子を捨てたくせに、今さらなんだと言うのだ。
「正確には王宮にだけど。それもそれで問題よね。お兄様も手紙で面白がっていたわ。元王族なのに、なんてあさましいって」
「私の家族は亡くなった母と、養父と養母と、そして姫様だけです。なので、この件で謝罪はいたしません」
「ええ、いいわ。きちんとお灸は据えておいたそうだから。二度と、こんなふざけた真似は出来ないでしょう」
「当たり前です。ところで、こんな手紙で私が心を動かすとでもお考えですか?」
「まさか。ちょっと面白かったから、見せてあげようと思って。ふふ、あなたの反応、良かったわ。特に、まるで蛆虫でも見るようなあの目といったら! あなたは中性的な顔立ちだからかしら、妙な迫力があるわね。とっても私好みよ。その顔で私を罵ってくれても……」
「ひ、め、さ、ま? そういった発言はお控えください。本に影響され過ぎですよ」
姫様は時々、およそ王女らしからぬ発言をする事がある。ただ、昔から、演じる事にかけてはピカイチの姫様なので、表ではアストラの花たる王女に相応しくしているけれど。
私の言葉に、姫様はペロッと舌を出して笑う。
「あらごめんなさいね。あなたの反応を見るついでに、選択肢のひとつとして、結婚という道もあると言いたかったの。あなたは可愛いもの、マリアンヌ。公爵だって、私の侍女でいるよりいいでしょうし。あなたがその気なら、お兄様が紹介してくれるそうだけど、どうする?」
姫様は、静かな口調で言って首を傾げる。姫様がそういう口調をする時は、本気だという事だ。
私を思っての事だろう。姫様付侍女兼護衛の私は、常に姫様と共にあった。そんな私を心配してくれるのは、嬉しい事に違いはないのだけれど。
「……私はもう、いりませんか?」
「いやぁね。その質問はずるいわよ。そんなわけないじゃないの。大好きなメリー」
「それならば問題はありませんね。私は、いつまでもお側にいます。今さらお側を離れるなんて、死んでも御免です」
姫様は、私の負けねと笑って、まるでダンスの誘いを受けたかのように手を差し出した。その仕草の意味するところは、一番最初に姫様に教わった。
私は膝をついてその白魚のような手を取り、手の甲を額に押し当てる。ただし、私のこれは王族への忠誠ではなく、姫様個人への忠誠を誓うもの。
少しして顔をあげると、姫様は美しく、まさに花のごとき微笑みを湛えていた。




