1-3
セドリック様が寮の私の部屋まで送ってくれたところで、私は掴んでいたセドリック様の手を離した。それから、アストラから一緒に来てくれた侍女のメリーを呼んでハンカチを受け取り、ゆっくりとわざとらしく手を拭う。指の一本一本まで、丁寧に。
「……あからさまではないか?」
セドリック様の、呆れたような声が聞こえる。苦虫を噛み潰したような顔をしているのだろう。見なくても分かるほどには、長い付き合いだ。
婚約者となって、早十年。結婚するまで、あと二年。時間が経つのはあっという間だ。早く結婚式を挙げて、早い所別居してしまいたい。セドリック様が卒業するまで待ち、その後も数年は一緒に暮らさなければならない事が、少しだけ憂鬱だけれど。
「触れたくないものに触れてしまいましたわ」
そう言った私に、セドリック様がため息を吐いた。部屋に入ってしまえば誰に見られる事も無い為、ついつい本音が零れてしまう。
寮はもちろん男女別、西棟と東棟に分かれている。どの部屋もそれなりに豪華で、居間と書斎、寝室が別々になっていた。日が沈むまでは、節度を保ってさえいれば、部屋に異性であろうと招く事は可能だ。高潔であることが望ましい貴族の家出身であるならば、下手な真似はしないだろうという信頼の下。
この学園内での行動は全て、後の貴族社会での行動に繋がるのだ。貴族としての行動を見られているという事を、忘れてはならない。
とは言いつつ、限度はある。私室でくらい、息抜きをしたっていいじゃない。愚痴の一つ、本音の一つ、零してしまうのは仕方がないと思うの。
「まったく。吐き気がするな。ふりも疲れる」
「それはこちらの台詞ですわ、殿下」
「さっきのように名前で呼ばないのか?」
「何故ですの?呼ばれたいのですか、私に?」
「いや。ごめんこうむる」
「まぁ酷い。傷つきましたわ!」
なんて言いつつ、セドリック様の後ろに目を向ける。そこには一人の男子生徒が立っていた。灰色の髪と瞳をした、セドリック様の従者だ。校舎を出る時に合流して、ここまで一緒に来たのである。
彼はガルムステットでは由緒ある侯爵家の子供だが、三男である為、家督は継げない。けれど殿下と同い年で、利発で剣術も優れているという事で、セドリック様の従者に選ばれたという過去を持つ。そして、従者とはいえ貴族だから、この学園の生徒でもあった。
「ねぇシャルル?あなたの主は冷たい人ね?」
私が可愛く見えるように首を傾げながら言うと、目を反らされた。だけど少し耳が赤いから、効果はあったはずだ。
可愛い。
「……自業自得かと」
「まぁ!主が主なら、従者も従者ね!」
「楽しそうに言うな」
「あら。怒って言えばいいんですの?……私にそんな口を利くなんて、躾のなっていない犬ね!」
咳払いをしてからそう言い直し、肩にかかった髪を鬱陶しく払う。不機嫌な王女の完成である。
「お前はどこでそういう言葉を覚えてくるんだ?」
呆れたような、付き合いきれん、とでも言うようにため息を吐き、セドリック様は勝手にソファに座る。ネクタイを緩め、メリーが入れてくれた紅茶を飲む。さすが王族と言うべきか。ふてぶてしい。
余談だけれど、制服は男女ともにネクタイがある。学年で色が違い、二学年下のセドリック様とシャルルは紺色、私は緑色。
私は、部屋の主人を差し置いてすっかり寛いだ様子のセドリック様に近づき、にっこりと笑って見下ろした。その瞬間に少しびくっとしたことを、私は見逃さない。
植え付けられた恐怖は、そう簡単には消えないものらしい。そう思ったら、溜飲が下がってスッキリとした。