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殿下に第一講堂へ行けと言われてやって来ると、窓の外を眺める一人の女性がぽつんと座っていた。ウェーブがかった栗色の髪に、空色のワンピースドレスを着ている。
彼女は僕が入って来たのに気がつくと、振り返って満面の笑みを浮かべた。
「やっと来てくださったのね。待ちくたびれてしまうところでしたわ、シャルルお兄様!」
と、そう言った明るい声はよく知る声で、少しだけ戸惑ってしまった。
「……クロード?」
「あら残念。もうバレてしまったわ」
なんて言いつつも、僕が分かった事が嬉しそうだ。これで分からなかったら、きっと泣き真似をしながら、すぐ分からないなんて悲しいわ、とでも言うのだろう。
そんな茶目っ気溢れるクロードも、もちろん好きなわけだけど。
「その格好は一体……」
「あなたの従妹という設定よ。今日は田舎から出てきたの。どう?」
「可愛らしいです、けど」
「私は後夜祭の準備があるからって、殿下がお兄様の相手をしてくれているの。最後だから行って来い、って。ミラベルと出会って、殿下は気が回るようになったわね。いいことだわ」
「では、後で私からもお礼を」
「そうね。あ、今の私の事はシンシアと呼んで。おばあ様のお名前だけど」
「分かりました、シンシア」
「敬語は駄目。私は従妹ですのよ、お兄様?」
「……分かった」
僕が頷くとクロードは笑みを浮かべ、僕の腕に自分の腕を絡めながら歩き出す。腕を引かれるままに講堂を出て模擬店の方へ歩けば、クロードは本当に田舎から出てきた令嬢のように、辺りをキョロキョロと興味深そうに眺めて歩く。
あれは何ですの、と、さも何も知らないかのように聞いてきて、ひとつひとつ説明していると、本当に妹か従妹を相手にしているような気になってくるから不思議だ。
さすがは『王太子殿下と仲睦まじい王女』を演じているだけはある。……なんて、感心していいのかは分からないけど。
途中、何人かの学友と言葉を交わしたけれど、誰もクロードだとは気がつかない。まぁ、ミラベル嬢の担当する模擬店に行っても、最初は気がつかれなかったのだから当然か。
ミラベル嬢の担当はアイスクリーム店で、結構な賑わいを見せていた。模擬店と言っても生徒たちが自身の手で作るわけではなく、大抵王都の店から仕入れる。
とはいえ、いくらでどのくらい仕入れるかは、生徒たちに委ねられているから、売上を出さなければ赤字、という事もあった。
「どうぞ、シャルル様。そちらの方もどうぞ」
ミラベル嬢はそう言いながら、僕らにアイスクリームを手渡す。その間、物問いたげな表情で、僕とクロードを見ていたのだけど。
「まぁ!とっても美味しいですわ。アイスクリームなんて、食べたのはいつ以来でしょう。私、感激ですわお兄様!」
ミラベル嬢の目の前で一口食べて見せたクロードがそう言った瞬間に、その瞳がみるみると見開かれた。声で誰か分かったのだろう。
けれど、ミラベル嬢が何かを言う前に、クロードは僕の手を引く。
「あちらは何かしら。行ってみましょう?」
そう言ってさっさと歩き出すクロードにつられながら後ろを振り返ると、ミラベル嬢は苦笑しながら手を振った。どうやら、浮気を疑われずに済んだようだ。
その後もクロードと一緒に歩いていると、不意にクロードが立ち止まって言った。
「お兄様だわ。ちょっと隠れなきゃ。お兄様とはよく変装して遊んだから、きっとバレてしまうもの」
僕が言葉を発する前に、クロードは素早く人混みに紛れてしまう。猫のようだ。僕は少し驚きつつ、気がつかれないように脇へ退こうとしたところで、アレクシス殿下と目があってしまった。
アレクシス殿下はちょっとだけ首を傾げてから、殿下に声をかける。おそらくは、あなたの従者では、とでも言っているのだろう。
振り返った殿下は、嫌そうな顔をしたものの、こちらへと二人揃って歩いてくる。
「シャルル。従妹殿はどうした?」
「ちょっとあれです、お手洗いに」
「そうか。ではアレクシス殿下、次はあちらに……。アレクシス殿下?」
あっさり引き下がろうとした殿下に対して、アレクシス殿下は何故か僕をじっと見ていた。殿下が少し焦ったような声で呼んでも、何の反応も示さない。
男とはいえ、綺麗な顔をしている者に見られていると、どぎまぎしてしまうのは何故だろう。何もかもを見透かすようなその瞳が、少しだけ怖い。
僕がそう思うのと同時に、アレクシス殿下は僅かに微笑みながら、呟くように言った。
「──、──」
「え?」
どういう意味かを尋ねる前に、アレクシス殿下はにこりと笑い、戸惑う殿下と一緒に人混みに紛れて消えた。
気がつけば、クロードがいつの間にか側に来て、心配そうに僕の顔を覗き混んでいる。
「どうしたの?何か言われたの?」
「──灰色の毛をした、可愛い猫を見つけた」
先ほど確かに、アレクシス殿下はそう言った。僕には何の事か分からなかったけれど、クロードはすぐに思い当たったらしい。苦笑しながら言う。
「昔ね、ガルムステットの王宮で可愛い猫を見つけたのよ。もちろん、今も可愛くて愛しいのだけど。手紙にたくさん書いてしまったから、覚えていたのでしょうね。失敗したわ」
「私に何の関係が?それに、王宮に猫なんていましたか?」
記憶にない、と僕が言うと、クロードは微笑みながら僕を見つめた。慈愛に満ちた、とでも言うべき瞳には、自意識過剰でなければ、僕への愛で溢れている。
「……猫は私ですか」
僕が言うと、クロードはにっこり満足そうに笑った。
「そうよ。私の可愛い猫。見つけた瞬間に好きになったわ」
「将来的にはそれが噂になりそうですね。王太子妃殿下は猫を飼っている」
もちろん、猫とは、愛人の事だ。愛人の事を、猫とか犬とかで表すことはよくある。
「いいわね、それ」
「楽しそうなのはいいですが、大丈夫でしょうか」
「お兄様には私から話すわ。私に任せて。お兄様の弱味はたくさん知っているもの」
「頼もしいですね、クロードは」
そう言った僕にクロードは、当然でしょ、と言って笑った。