無題
吐いた溜息や後悔、恨み言や泣き言も、澄んだ空気が真っ白に書き換えて消してくれるから、冬が好きだった。けれども、本当に残して欲しい物にさえ少しの色や形を与えず綺麗さっぱり消してしまうのだったら、冬はとても残酷な季節ではないか。
最後に彼女が放った、白色で不定形の「ごめんなさい。」が高く昇っていった空を見上げたら、身を切る様な12月の風が首筋を撫ぜたので、それに震えた僕は首をすくめて背を丸める。その時の僕は失望と共に在って、失望は目の前の空っぽに置き去りにされた、残響と共に在った。
きっかけは些細な事だった。それでも、あの時の僕が覚束ない足取りでふわふわした白昼夢の日常を駆け始めるに際して、それは十分過ぎるほどの魅力を秘めていただろう。笑顔が眩しい、ただ、たったそれだけの理由だったのだが。近付いて、知れば知る程愛おしくてたまらなくなった。さりとて、僕のこの足の踏み締める物が酷く冷えきった硬い地面である今にあって、その多くを語る事はいたく愚かしい。
錆び付いたブランコが風に吹かれて軋む度響く物悲しい音に慰められている気がして、その事さえ情けなかった僕は溜息をつくと、ゆっくり歩き出した。勿論色は付かない。
公園から出て歩いた街はきらびやかな12月だ。街の雰囲気が12月なのか、12月に街がなったのか。そんなくだらない事を考えながら歩いていても、やはり、店先から流れている幸福を謳歌したラブソングはいやがおうにも耳については脳を割る。
「出会えたものの喜びを歌い上げるラブソングがあるなら、出会えなかったものの悲しみはどこに行くんだ。」
独り言も煙になって消えた。ブランコが慰めだったとしたら、ラブソングはさながら嘲笑だろうか。全くもって馬鹿馬鹿しい。世界も、恋も、幸福も。そんなまやかしを信じる人々も、そして何より、それを求めた僕も。
そうして歩く間も、望まぬエコーは鳴り止まない。
「いい人すぎるのよ、あなたは…それが素だとは思えない程に。あなたの本物は、どこにあるの?」
胸を打ったのは事実だ、けれども、いくらそう言われようと、それ以外知らないのだ、というよりは、知らないふりをしているのだ、人との交ざり方について、僕は。
嘘もつき続ければ真実になる、なんてよく言ったものだが、つき続けた嘘は誰にも見分けが付かない。だから、僕にもわからないのだ。
いったいどれだけの僕がいるのだろうか、そして、その僕はどこにいるのだろうか。仮に見つけたとして、その僕は今の僕と入れ替わるのだろうか、入れ替わった僕の真実性は誰かが担保してくれるのだろうか。そもそも僕が偽物だと断言するなら本物の人間様はどこにいるのだろうか。もし存在するのならば、存在するのならば。
僕は、そいつの首を絞めてやらなくちゃならない。
ぶつかった金髪の男の舌打ちが、半狂乱で酩酊した僕の脳を冬の寒さに引き戻す。
「やめなよ。」
男に囁く白いコートで着飾った女の声がなんだか滑稽だったので、くつくつと笑ってやったら、「馬鹿にしてんのか?」と男に凄まれた。
「馬鹿にしてると言ったらどうなるんだ?」
ヘラヘラ笑いながら吹っかけると、「ぶっ殺されてぇのか?」と返ってきて、それに白けてしまった僕は「じゃあやってみせろよ、出来もしない事言いやがって。」と嘲ってやった後、一際大きく笑ってみせた。
「もういいよ、帰ろう?こいつ、頭おかしいだけだよ。」
女は荒事を避けたいのか、すかさず男を引っ張る。それでも男はよほど癪に触ったのか、或いは彼女の手前引き下がれないのか、その場から動こうとはしない。その様子がまた可笑しかった僕は、さっきの白けもどこ吹く風、「どうした、殴るのか。殴れよ。殴ってくれよ。そのぐらいなら出来るんだろ?なあ!」と、捨て鉢になって本心混じりの啖呵を切る。
そこから先はよく分からなかった。「やめて!」と金切り声で叫ぶ女の声が遠くなって、近くなって、また遠くなって、星が舞う。少し遅れた痛みが走る前に息が詰まって、舞った星は空に浮かんだ。その星の狭間に鬼の様な形相をした男の顔が現れて、「キメェよ、お前。」と吐き捨てる。それがたまらなく心地良かった。
今の僕が本物の僕だったのだろうか。男が去った後、道に伸びて空を見上げたまま、そんなことを考える。だったら僕は、いよいよこいつを生かしておくわけにはいかないだろう。こんな本物を内側に飼うくらいなら、僕諸共消えてやりたい程だ。ここまで考えたところで、さっきの僕が薄笑いを浮かべながらそっくりそのままの言葉で僕を嘲っていることに気が付く。その虚像を振り払う為に頭を振って、捕まる前に僕はまた歩き出した。
あてもなくぶらついていた間に思いの外時間は経っていた様で、ちらと時計を見た時には12時が見えていた。ここまで歩いたりしていなければこのまま歩いて帰っても良かったが、いかんせん疲れには抗えない。なんとか駅前まで歩いて、誰もいない駅前のタクシー乗り場に一人並ぶ。
程なくして、タクシーがやってきた。開かれた自動ドアに倒れ込む様に乗り込むと、運転手は尋ねる。
「どちらまで?」
「えっと…」
ただ自宅辺りの住所を言えばよかっただけなのに、何故か言葉に詰まった。分からない、分からないが、恐らく帰りたくなかったのだろう。ただ、何処かへ連れて行って欲しかったのかもしれない。昔聴いた歌のワンフレーズがフラッシュバックする。
タクシードライバー、夜の向こうへ連れてって。
とは言ってもそんな台詞を実際に言える訳もなく、僕は行き先をこう告げる。
「どこか、好きな所に連れて行ってくれませんか。お金は出しますから。」
バックミラーに映り込む初老の運転手は少し戸惑いの色を見せたが、少し考えてから車を出してくれた。
0時も半ば、深夜も近いタクシーの車窓は放っておくとすぐに寒さで曇るので、それを擦っては外の景色を眺める。
不意に静寂を割ったのは運転手だ。
「私も長い間こういうのをやってますからね、人の顔ってのはよく見るもんですし、それだけで何があったかなんてのは、案外分かるものなんですよ、女でしょう。」
何か気の利いた一言でも言えれば良かったのだが、特に話す気があるわけでもない僕は、ただ沈黙してしまった。
「いえ、不躾な質問でしたかな、ははは。しかし夜が深まって参りますと、何か話したくなってくるもので。なに、老い先短い男の戯言ですから、夜咄半分に聞き流してくだされば。」
そう言って偶然乗り合わせた運転手は、今度は語り部へと姿を変え、その身の上を語り始めた。
何、くだらない話ではあるんですがね、私もその昔こっぴどい振られ方をしましてね。今でこそ家内もいますが、その当時はそれはそれは深く突き刺さったもんですし、今もなお忘れちゃあいませんよ、あの言葉は。
若い頃の話をすると小っ恥ずかしくなるもんなんですがね、こう見えて昔は私も好青年と呼ばれていたんですよ。気品があって誰にでも優しい、だなんて、よくもてはやされたもんです。でも、その正体は情けないもんで、嫌われる勇気が無かっただけなんですね。だから皆に優しくしていただけでした。その実嫌いな人間だって山程いましたし。
それはさて置き、ある時、ある女の子が好きになったんですね。そうと分かったらすぐに告白しに行ってやったんですよ、最も、今からすれば若気の至りですがね、ははは。周りにも、もし上手くいけば接吻でもして帰ってきてやら、だなんて言いふらして、愚かしいもんです。
で、いよいよ告白と相成ったと。私も女の子からの評判はそう悪くはなかったもので、きっと許可してくれるに違いないとね、半ば驕って呼び付けてはただ率直に好きだと告げた訳ですよ。
するとね、彼女曰く、あんたは弱虫だし、ただの良い人だからダメだってんですね。そんな弱虫と誰が好き好んで一緒になるもんですか、と。確かにそりゃあ私は腕っ節が強い方では無かったから強いとは言われなくとも、弱虫だなんて言われるとぐさっとくるもんです。それで私は聞き返してやったんですよ、なら強くなれば良いのかと、誰にも負けない男になれば良いのかと。今から見れば短絡的なもんですね、弱いの反対を強いしか知らないんですから。
そう言うと彼女、呆れた顔でただ私に一言こう告げたんですよ、あんたが今のあんたでなくなったりでもしない限り何をやっても無駄だってね。
それからは問答の日々でしたよ。弱いだとか強いだとか、優しいだとか優しくないだとか、そんな事をずっと考えては、たまに良い人ならそれで良いじゃないかと憤ってみたり。それでね、あるときようやく気が付いたんです。そこが問題だったんだ、と。彼女が気に入らなかったのは良い人である私そのものだったんだと。詰まる所、彼女には見透かされていたんですよ、私が嫌われたくないが為だけにこうして振る舞っていた事が。それが分かった時、胸がすくようでした。彼女には感謝すら述べたくなるほどでしたよ。ああ、彼女だけは私をきちんと見ていてくれたんだな、と。
そこから私は少しだけ、ほんの少しだけ変わりましてね。誰にでも良い顔をするわけではなく、嫌なものは嫌ときちんと言ってみたり、怒った時はきちんと怒ってみたり。勿論、好きな物はきちんと好きと言いましたし、嬉しい時は喜びましたが。そうしていると、なんだか気持ちが良かったんですね、まるで人形から生まれ変わって、本物の人間になったみたいで。
「おっと、長く語りすぎましたな。失恋の話が私の話になっておりました。」
運転手はまた、ははは、これは失敬、と笑ってハンドルを右に切った。
この人なら、僕に答えを教えてくれるかもしれない。そう思った僕は、ただこう尋ねた。
「あなたは、人形だった頃の自分が偽物だったと思いますか?」
苦笑した後、彼は答える。
「確かに自分を偽っていたのかもしれませんが、それも私です。そもそも私は一人なのに、本物だとか偽物だとか、考えるのは疲れますからね。自分の好きな様に、思った様に物を感じていけば良いんですよ、それが最も自分らしい、本物の自分です。」
それを最後に、また長い沈黙が続いた。
「着きましたよ。」
時計を見ると1時を少し過ぎていた。開いたドアから吹きこむ冬の風は、僕の眠気も拭い去っていく。促されるままに外に出た。
彼が連れてきてくれたのは、高台にある展望台だ。そこからは僕の住む街が一望出来て、家やビルの窓から漏れる光が星空の様だった。
「嫌な事があった日は、よくここに来るんですよ、私は。」
僕が景色をぼんやりと眺めている間に近くの自販機で買ってきてくれたのか、暖かいコーヒーをこちらに差し出しつつ、彼は僕の隣に立つ。慌てて財布を取り出そうとすると、お代は結構、と目を伏せて首を振られた。彼は続ける。
「そういう時って身の回りの物全てが大きくて、恐ろしい物に見えたりするでしょう。のしかかられればぺしゃんこになりそうな程に。でも、ここに来れば存外小さいものだな、と笑い飛ばせるんですよ。」
そう言って彼がぐいと缶コーヒーをあおったので、僕も倣って飲むことにした。芳しい香りが擽る。
それから15分程、コーヒーが空っぽになるまで他愛無い話を僕達は続けた。勿論、僕のここまでの話も。
僕の話を聞いた時、初めは似過ぎているから、と彼は驚いたが、話すうちに合点がいった様で、やがて「だからあの時あんな事を聞いたんですね。」と頷いてくれた。
恥ずかしながら、そこから先の事について僕の記憶は曖昧だ。コーヒーの香りが緊張緩めたのか、或いは話をして肩の荷が降りたのか。どちらにせよ車に乗り込んで、自宅付近の住所を伝えて程なくしてから僕は眠ってしまっていた様で、次に目が覚めた時、といっても起こされた時だが、既に僕は家の近くに、もとい現実に戻っていた。
「お代は展望台からの分で結構ですよ。」
そう言ってにこやかに笑う運転手に三度感謝を告げて、僕は偉大なる先人と別れた。一人の部屋に戻ってベッドに倒れ込むと、次の瞬間にはいつもの時間に目覚ましが鳴る。
僕はまた、日常を歩み始めた。ほんの少し、「僕」に別れを告げて。