私の姉は変態が過ぎる
学校から帰宅すると私はまず始めに梓紗ねえさんが先に帰ってきているかをチェックする。家に居なければ私はゆっくりと台所を物色して飲み物とお菓子を持って二階の自室に上がる。けどもし家に居るのなら注意しなくてはいけない。
今日は……靴がある。どうやらすでに帰ってきていたようだ。
私は玄関のドアを静かに閉めると階段を軋ませないようにそろそろと二階へ上がった。階段をのぼり右に進むと梓紗ねえさんの部屋。左に進むと私の部屋。私はスニーキングミッションさながら壁に張り付きつつ自分の部屋を目指した。まぁたかだか数メートルなのであっと言う間に着くわけだけど。
部屋の前に到着すると私はドアに耳を当てた。
『……んん――』
案の定なかから人のうめき声のようなものが聞こえてきた。ともすれば不審者かと疑ってしまいそうな状況だが、私は気にも留めずにドアを開ける。
予想通り私の部屋には人がいた。私のベッドの上でうつ伏せになり、枕に顔を埋めてすーはーすーはーと呼吸をしている。時折「んー」と鼻に掛かった声や「凪沙ぁ」と切なそうに呼ぶ声が聞こえてくる。太ももをもじもじと動かすたびにシーツの擦れる音がかすかに響く。入ってきた私に気が付かないくらい夢中のようだ。
はぁ、と深く溜息を吐いてから息を吸い込んだ。
「梓紗ねえさんっ! 勝手に入るなって言ったでしょ!」
私の怒声にベッドにいた人物が顔を上げた。
栗色のショートボブにどこかのほほんとした顔立ち。私の姉の梓紗ねえさんは恥ずかしがりもせずにニコっと笑う。
「あ、凪沙ぁ。おかえり」
「おかえりじゃなくて、人のベッドで何やってんの!?」
「え? あぁ、ここ凪沙の部屋かぁ。間違えちゃった」
「間違えるわけないでしょ! これで何度目!?」
「あー、間違えたじゃなくて、自分の部屋で寝てたらいつの間にか凪沙の部屋にいたみたい。ほら、夢遊病ってやつ?」
「どうやったら夢遊病で人の服に着替えられるの!?」
私は梓紗ねえさんの服を指さした。長袖の白ニットとチェックのキュロットスカート。私がこの前買ったばかりの服でまだ1回しか着ていない。
私の指摘に梓紗ねえさんがにへらと笑った。
「いやぁ、不思議ねぇ」
「ほんとにね」
私の枕を撫でながら笑うだけの梓紗ねえさんに皮肉を込めて呟いた。まったく効果はないのは分かってるけど。
「ほら、さっさと部屋に戻って着替えてきなさい」
梓紗ねえさんを無理矢理追い出して、腰に手を当て息を吐く。
まったく、何回言っても止めようとしないんだから。
乱れたシーツを整え枕の位置を直す。私の枕の匂いを嗅いで何が楽しいのやら。
ふと私も自分の枕に顔を埋めてみる。慣れ親しんだ自分の匂いだ。さっきまでここにあった梓紗ねえさんの顔を思い出し、これって間接キスになるんじゃないかと慌てて顔を離した。私は梓紗ねえさんと違って変態じゃないのだ。
私はぽんと枕を叩いてからカバーの皺を伸ばした。
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「――っていうわけでさ、ほんと梓紗ねえさんの変態さには困ってるんだよね」
学校でのお昼休み。私は友達の果帆とお弁当を囲みながら愚痴を零した。
けれど果帆の反応は薄い。「へぇ」と呟いたあとは黙々と箸を動かすだけ。
「ちょっと果帆、それだけ?」
「それだけって何が?」
「もっとリアクションあるでしょ。大変だねとかうちもそうなんだとか」
果帆が箸を止めてうんざりした表情で反論する。
「凪沙さぁ、その話題何回目よ?」
「え? まぁ何回か同じようなことは言ったかもしれないけど……」
「もうウン十回と聞かされてるわ! こちとらお腹一杯だっての」
「そう言わずにさぁ、私の愚痴にくらい付き合ってよ」
「愚痴? どこが? 凪沙も喜んでんじゃん」
「喜んでないよ」
「本当にイヤならぶん殴ってでもやめさせりゃいいじゃん。あたしの兄貴が同じことしたら問答無用で顔面殴るわ」
「暴力はダメだって」
「じゃあどうすんのよ。言って聞かない動物は痛い目を見なきゃわかんないの」
「だからって梓紗ねえさんを殴るなんて私には出来ないよ。自分がされて嫌なことは人にしちゃいけないって教わらなかった?」
果帆が呆れて首を振った。再びお弁当を食べ始める。
「はいはいそーですね。じゃああたしから出来るアドバイスはもうないよ」
「えー」
「凪沙が許せる範囲なんだったらそれでいいじゃん。まぁ同じことされるとして、兄よりかは姉の方がマシだろうし」
「そうかなぁ。梓紗ねえさんの変態っぷりもすごいよ?」
「そこで張り合う理由が解らんのだけど」
ぼやく果帆に私は「あ、そうだ」と言葉を続ける。
「梓紗ねえさんがどれだけ変態か教えてあげる。他にも変態エピソードあるからさ」
「……いや早くご飯食べなって」
果帆が小さく呟いた。そうやって無関心なのは実態を知らないからだ。私が梓紗ねえさんの変態さを教えてあげれば反応も変わってくるだろう。
仕方ない。面倒だけどこの友人に語って聞かせてあげるとしますか。
「えーと、この前の日曜なんだけど」
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休日の何もない日というのはだいたい部屋でごろごろとスマホをいじるかマンガを読んで過ごすことが多い。お母さんに見られたら『勉強しなさい』と注意されるが、見られなければいいだけ。
その日曜も勉強机にカモフラージュ用のノートを広げ、ベッドに寝そべりながらマンガを読んでいた。
お昼の3時を回ろうかというときに部屋のドアがノックされた。
「凪沙ぁ、おやつにアイス買ってきたんだけど食べる?」
「あ、食べる食べる」
梓紗ねえさんは頻繁に私の好きな食べ物を買ってきてくれる。数々の変態行為のなかで唯一の良いところだ。
部屋に入って来た梓紗ねえさんがアイスの袋を手渡してきた。赤いパッケージの中央に一口かじられたようなアイスの絵。光沢のあるチョコレートコーティングの中には白いバニラアイスが見えている。森永から販売されている棒アイス、PARMだ。チョコもバニラもコクがあって濃厚なのに甘さがしつこくなく、その二つが舌の上で混ざり溶けていく瞬間はまさに至福。
私の好きなアイスのトップ3に入るものを買ってきてくれるというのはさすが梓紗ねえさんだ。さっそくパッケージを開けて包みをゴミ箱に捨て、アイスにぱくりと食いついた。
「――!?」
アイスがかなり溶けていたようで、チョコが割れたとたん中のバニラがとろりとあふれ私の唇から顎へと垂れていく。
とっさに手をお皿にして私が受け止めるよりも先に、梓紗ねえさんが動いた。
「あら、溶けちゃってた? ごめんねぇ」
梓紗ねえさんはハンカチを私の顎下に当てて下から撫でるように溶けたバニラをぬぐい微笑んだ。
「あ、ありがと」
お礼を言って、これは気を付けて食べないと、と注意を払い再び口を開けたところで違和感を覚えた。
梓紗ねえさんがうっかりで私に溶けたアイスを渡すだろうか。アイスやスイーツを買うときには保冷剤と保冷バッグを必ず持っていくような人だ。その理由は当然私にベストな状態で食べさせる為なんだけど、そこまで注意を払える梓紗ねえさんがこんな初歩的なミスをするとは考えづらい。なによりハンカチを出すタイミングが早かった。あれは事前に分かっていなければ差し出せない。
「…………」
私が疑いの目を向けると梓紗ねえさんはのほほんと微笑んだ。
「どうしたの? 早く食べないと溶けるよ?」
「…………」
確証が無ければ問い詰める方法もない。アイスがこれ以上溶けるのもイヤだし、さっさと食べきってしまおう。
バニラがこぼれないように吸うようにしてアイスにかじりつく。うん。溶けかけていても美味しい。むしろ溶けかけならではの美味しさというのがある。
「端っこにバニラついてる」
梓紗ねえさんが人差し指で私の唇の端をぬぐって自分の口に持っていった。嬉しそうに顔をほころばせ「甘くて美味しい」と呟く。
「あとでティッシュでぬぐうからいいよ」
「そう? でも垂れて服に落ちちゃったらシミになるかもしれないし」
ニコニコと見つめてくる梓紗ねえさんの考えがそろそろ私にも分かってきた。
アイスに口をつける。今度はバニラがこぼれることを気にせず普通に食べた。案の定こぼれたバニラは顎の方へと伝っていく。そしてそのバニラを梓紗ねえさんが再度指でぬぐって舐めた。
「…………」
無言で視線を向ける私とずっと微笑んでいる梓紗ねえさん。
私は確信を込めて言った。
「わざとアイス溶かしたでしょ」
「なんで? わざわざアイスを溶かすなんてもったいないことしないよ」
「私にアイスをこぼさせて、それをぬぐうのが目的だって分かってるから」
「やだ凪沙ったらぁ、考え過ぎ。だってそんなの凪沙がこぼさないように食べればいいだけじゃない」
「まぁ、そうだけど」
梓紗ねえさんはおかしそうに笑ったあと、さきほどぬぐったハンカチを自分の口に当てて目を細めた。
「……でも、アイス買ってきたご褒美があったら嬉しいなぁ、なんて」
「…………」
まったくこの姉は。自分の考えを隠したいのかバラしたいのかどっちなんだろう。
けどまぁ、アイスのお金はいつも梓紗ねえさんが出してくれてるし、ずっと貰うばかりというのも気が引ける。梓紗ねえさんに多少は恩返しをしてあげてもいいかもしれない。
労働には正当な対価を。そう。これはアイスを買ってきてくれたという行為に対しての私からの報酬なんだ。
仕方ない、と一息吐いてから私は溶けたバニラを気にすることなくアイスを食べ始めた。
//
「――って感じでさ、わざわざ私がこぼしたアイスをぬぐうためにそこまでするかって話だよね」
「待て待て、おかしいおかしい」
果帆が私の話に難癖をつけた。
「なにかおかしいとこあった?」
「凪沙のお姉さんが変態ってのはまぁいいとして、最終的に凪沙も受け入れちゃってんじゃん。変態行為容認しちゃってんじゃん」
「してないよ。仕方なく見逃してあげただけ」
「だいたい報酬ってなに? ストーカーからお菓子もらって『わーありがとうお礼にキスしてあげる』ってなる?」
「ストーカー? 梓紗ねえさんはストーカーじゃないよ」
「いや……あ、はい。そうですね」
果帆は何故か自己完結してお弁当を食べ進めていく。やっぱりまだ梓紗ねえさんの変態さを理解しきっていないようだ。
「じゃあ次の話なんだけど」
「え? まだ続くの?」
嫌そうな顔をする果帆に私は続きを話し始めた。
「私がお風呂に入ってるときにね――」
//
お風呂は肩までつかって手足をだらりと伸ばすのが私の入り方だ。こうしているだけで一日の疲れがお湯に溶けてなくなっていく気がする。
ふと浴室のドアの向こう側の洗面所で動く人影を見つけた。折れ戸タイプのドアは磨りガラスのようになっているのでシルエットからその人物が誰なのかが私には分かった。
私は湯船を移動して浴室のドアを開けて顔を出す。
「……なにやってるの梓紗ねえさん」
そこには洗濯かごをあさる梓紗ねえさんがいた。梓紗ねえさんは両手を洗濯かごにつっこんだままこっちを見た。
「あ、凪沙がお風呂入ってたんだぁ」
「かごの服見たら分かるでしょ」
「確かに」
「で、そこでなにやってるの。まさか、私の服をあさってるんじゃ」
さすがに脱いだばかりの服をごそごそとあさられるのは良い気はしない。私の疑惑の眼差しに梓紗ねえさんは首を大きく横に振った。
「そんなことしてないよ。これはほら、下着とか柄物の服って別で洗うじゃない。だからいまのうちに分けておこうと思って」
「まぁ、そういうことなら。……私の下着とか盗まないでよ?」
「盗まないよぉ。今まで凪沙の下着が無くなってることあった?」
「ない、かな」
「でしょぉ? そこまで常識がないことはしないんだから」
何故か腰に両手を当て胸を張る梓紗ねえさん。その手には私の下着が握られていた。
「……それ、私のなんだけど」
「え? あぁごめん! これはそういうことじゃなくてたまたま掴んだのがこれだっただけで!」
「……本当に?」
「本当本当! 凪沙も言ってたよね? 無くなった下着はないって」
「今のとこはね」
「これからも! 私は無実なのぉ~」
私の下着をかごに戻して嘆く梓紗ねえさん。そのとき梓紗ねえさんがぴたりと動きを止めて私を見た。
「そうだ。私の無実を証明するにはアリバイを作ればいいんだ」
「?」
「凪沙がお風呂に入ってる間、私が変なことをしてないって分かればいいんだよね? じゃあ私が凪沙の目の届く場所にいるのが一番だと思うんだ」
「えーと、つまり?」
「私も凪沙と一緒にお風呂入る~」
勢いよく服を脱ぎ始めた梓紗ねえさんに私は待ったをかける。
「ちょっと待ってよ! お風呂狭いんだから二人も入れないよ!」
「凪沙が湯船にいる間は私はシャワー浴びてるから」
「うー、でも……」
「私を疑ったのは凪沙なんだから、ちゃんと無実だって証明する手伝いもしてくれないと」
確かに最初に疑ったのは私だ。下着ドロボウなんて汚名を梓紗ねえさんに被せようとした責任は取らないといけない。
「……分かった。いいよ」
私が頷くと裸になった梓紗ねえさんが嬉々として浴室に入ってきた。シャワーを浴びながら笑顔を向けてくる。
「ねぇねぇ、背中流しっこしよぉ?」
「私もう体洗った」
「じゃあ私の背中だけ凪沙が洗ってよぉ。ほら、手が届かないからさぁ」
ぷるぷると自分の背中に手を伸ばそうとする梓紗ねえさんを見て、まったくもう、と息を吐く。
なんとも子供っぽい変態だ。
梓紗ねえさんが変なことをしないように監視する為に、私は立ち上がってボディスポンジを受け取った。
//
「――さすがに洗濯物をあさるのは止めてほしいよねぇ」
「そこかよ!?」
果帆が箸を持った手でチョップを作り虚空を叩いた。
「え? 果帆だってお兄さんに洗濯物あさられたら嫌だよね?」
「そんなんされた日には兄貴の顔面に膝叩きこむわ。……ってそうじゃなくて、なんで最後しれっと一緒にお風呂に入ってんの」
「だって梓紗ねえさんが下着盗まないように見といた方がいいでしょ?」
「いや、下着よりもよっぽど大切なもの見られてるけど……」
「家族なんだから裸くらい見られたってどうってことないよ。果帆だってお兄さんに見られるの平気じゃないの?」
「絶対ヤダ。死んでもヤダ。お父さんでも無理。お母さんならいい」
「可哀想に……お兄さんとお父さんは普段から果帆に虐げられてるんだね」
「あたしの話はどうでもいいの! そんで、結局下着は取られなかったってこと?」
「うん。まぁ梓紗ねえさんは変態だけど、私が嫌がるようなことはしないから」
「……痴漢を現行犯で捕まえたときにカメラを持っててさ、『盗撮はしてません』なんて言われて信じる?」
「痴漢? 梓紗ねえさんは痴漢じゃないよ。あ、痴女だからって意味じゃなく。痴女でもないし」
「いや……あ、はい。そうですね」
既視感のある言葉と表情で果帆が呟いた。心なしか疲れているようにも見えるが気のせいだろう。
「それでね、お風呂を出てからなんだけど」
「まだ話続くんかい!」
「え? まだ終わってないよ?」
「それはいいから早く弁当食べなよ……」
私のお弁当はまだ半分くらい残っていた。休み時間もだいぶ少なくなってきたが急いで食べれば全然余裕がある。今はお昼ごはんよりも梓紗ねえさんの話の方が大事だ。
「大丈夫大丈夫。でね、お風呂出て体を拭いてるときにさ――」
//
洗面所で体を拭いていると、梓紗ねえさんが私の足元をじっと見て言った。
「凪沙の足の爪伸びてない?」
「え? うん、そろそろ切ろうかなって思ってたとこ」
「私が切ってあげようか?」
「自分で切れるからいいよ」
「足の爪ってさぁ、自分だと切りにくい角度とかあるじゃない。だから人にやってもらった方がいいんだって」
「まぁ小さいころはお母さんに切ってもらってたね」
「それにほら、爪ってお風呂を出てから切るのが良いって言うし、これはもう神様が凪沙に今爪を切りなさいって告げてるんだよ」
「神様がわざわざ一人の人間の爪ごときを気にかけるとは思えないんだけど」
「私には確かにそう聞こえたの。だから部屋行こ? 私の部屋でいいよね?」
腕を引っ張られてたまらず抵抗する。
「待ってって! 私も梓紗ねえさんも服着てない!」
「服着たら爪切らせてくれる?」
どういう理屈なんだろう。そこまでして私の爪を切りたいのか。梓紗ねえさんは爪フェチだった?
何はともあれここで頷かないと裸のまま引っ張っていかれることになる。しょうがなく私は頷いた。
「分かった、爪切らせてあげるから服着よ」
わぁいと喜ぶ梓紗ねえさんにやれやれと溜息を吐く。部屋着を着て、お互いにドライヤーをかけあって髪を乾かしてから梓紗ねえさんの部屋へ行った。
私がベッドに腰掛けると梓紗ねえさんが足元に新聞紙を広げた。ティッシュを横に置いてから私の右足を持ち上げる。いとおしそうに足を撫でてから梓紗ねえさんが言った。
「まるでシンデレラにガラスの靴を履かせるシーンみたいねぇ」
「梓紗ねえさんが王子様ってこと?」
「凪沙がお姫様みたいに綺麗で可愛いってこと」
そういうことを正面から言われるのはなんともむずかゆいものがある。変態のくせにたまにこういうことを言うのが梓紗ねえさんの侮れないところだ。
照れる私に微笑んでから梓紗ねえさんが爪を切り始めた。
パチリ、パチリ、と爪切りの音が部屋に響く。最初こそ切られる瞬間は少しおっかなく感じる部分もあったが、慣れてしまえばむしろそれが心地よくなってくる。足の指を誰かにさわられるという新鮮さもあるかもしれない。もちろん梓紗ねえさんだからこそ安心して任せられるんだけど。
爪切りは数分で終わった。梓紗ねえさんは私の足の指先をやすり部分で整え、一本一本ティッシュで拭いてから最後に足の甲にキスをした。
「ちょっと梓紗ねえさん!」
「終わったよっていうしるし」
「別にそんなのいらないから」
私が注意しても梓紗ねえさんはえへへと笑うだけだ。後片付けを始めた梓紗ねえさんだったが新聞紙の上に溜まった爪を見てぽつりと呟いた。
「ねぇ、爪の垢を煎じて飲むって言葉知ってる?」
「知ってるけどダメだよ。変なこと考えたら」
梓紗ねえさんの考えていることは手に取るように分かる。私の爪でそれを試したいとか言うのだろう。
「やだなぁ凪沙。いくら私でもさすがにそれはしないよぉ」
「本当に?」
「本当だって。もしするにしてもちゃんと殺菌してするから」
「しちゃダメだからね!」
「分かってる分かってる」
新聞紙を丸めてごみ箱に持っていき、入れる前に私の方を振り向いた。
「やっぱり一個だけ欠片もらっていい?」
「ダメ! 早く捨てる!」
「は~い……」
とぼとぼと帰ってくる梓紗ねえさんの足元を何気なく見たときに気が付いた。
「あれ、梓紗ねえさんも足の爪伸びてない?」
「え? あ、本当だ。少し伸びてるね」
「私が切ってあげようか?」
「いいの?」
梓紗ねえさんがきらきらと目を輝かせた。
「私だけが切ってもらうのも不公平だし」
「やったー」と喜びながらベッドにどすんと飛び乗る梓紗ねえさんを眺め、くすっと笑う。たかだか爪を切ってもらうくらいでおおげさな。
仕方ない。たまには姉孝行でもしてあげますか。
私は息を吐いて立ち上がり、嬉しそうに待ち侘びている梓紗ねえさんの足元に腰を降ろした。
//
「――いくら殺菌しても爪が入ってるものなんて飲めないよねぇ」
「…………」
反応のない果帆の目の前で手を振る。
「果帆、大丈夫? 目開けたまま寝た?」
「寝てないわ! 呆れて言葉を失ってたの」
「え、呆れる要素なんてあった?」
「あーあーそうですねー。結局姉妹が仲良く足の爪を切り合っただけやんけ、なんて言っても凪沙には無意味ですよねー」
「爪切り合っただけじゃないよ。梓紗ねえさんの変態ぐあいちゃんと聞いてた?」
「…………」
「足にキスするのもどうかと思わない? 王子様って言ったら普通は手の甲だし、足にあそこまで興味を示すっていうのがもう変態っぽいよね」
「…………」
「果帆? おーい、聞こえてる?」
「……っさい」
「はい?」
黙って聞いていた果帆が突然声を荒げて叫んだ。
「うっさいわ! さっきからなんなの梓紗ねえさんが変態変態って、ただのシスコンの姉とシスコンの妹がじゃれあってるだけじゃん!」
「え、いや……」
「いい? 本物の変態ってのは人が食べ終わったアイスの棒を咥えたり、下着の匂いをかぎながら○○○○したり、爪を切ると見せかけて足の指に吸い付いたり足の裏を舐めたりするやつのことを言うの! 凪沙のは変態としてのレベルが低いの!! わかった!?」
はぁはぁと肩で息をする果帆に私は恐る恐る聞いてみた。
「果帆……もしかしてお兄さんにそんなことされてるの? 相談に乗ろうか?」
「いいからさっさと昼ごはんを食べろ!!」
果帆にせかされて私はお弁当をかきこんだ。
もし果帆が兄から何かしらの変態的行為を受けているのだとすると、頼れるのは友達の私しかいない。何があっても私達は友達だよ、ともぐもぐしながら視線で話しかける私に、果帆はただ頭を抱えるだけだった。
//
「――果帆はさぁ、梓紗ねえさんのこと知らないから変態のレベルが低い、なんて言えるんだよ。毎日いればイヤってほど分かるんだから」
「凪沙は私のこと嫌なの?」
頭上から聞こえてきた梓紗ねえさんの悲しそうな声に私は慌てて答える。
「あ、イヤっていうのはもうしょうがないなぁってニュアンスで、まぁ困ってるのは困ってるけどそこまでイヤじゃないっていうか」
「それなら良かったぁ」
今私は梓紗ねえさんの太ももの上に頭を乗せて耳かきをしてもらっている。これは別に変態的な行為じゃない。耳かきは誰かにしてもらうのが一番効率的なのだ。耳かき用の機械というのもあるらしいけど、私は人の手の方が気持ちが良くて好き。自分では届かないところに耳かき棒の先端を入れられてこそがれる感覚は得も言われぬ心地がする。
あらかた耳の掃除を終えると梓紗ねえさんは綿棒で中と外を綺麗にしてから仕上げに耳に「ふぅっ」と吹きかけた。この最後の仕上げが最高に気持ち良い。ずっとこの仕上げをやってもらいたいくらい。
顔の向きを逆にして今度は反対側の耳を見てもらう。梓紗ねえさんが優しく手を動かしながら言った。
「でもその果帆ちゃんだっけ? 心配ねぇ」
「そうそう。帰りにもう一回聞いてみたんだけど『天然もいい加減にしろ』としか言ってくれなくてさ」
「うーん、もし何かあったらうちに連れてきていいから気にかけてあげてね」
「うん、そうする。梓紗ねえさん以上の変態がいるんだったら助けてあげないと」
「……ちょっと気になってたんだけど、私ってそんなに変態?」
「変態じゃないの?」
「変態だっていう自覚はないかなぁ」
「じゃあなに?」
「妹のことが好き過ぎて、たまぁにやり過ぎちゃうところがある至って普通の姉」
「それを変態って言うんだと思う」
「違う違う、だって変態の人って自分のことしか考えないじゃない。でも私はまず凪沙のことを第一に考えて行動してるから」
「本当~?」
「本当本当。全部凪沙に喜んでもらうためにやってるの」
「んー……」
確かにアイスを買ってきてくれるのは私の為と言ってもいいけど、それ以外は微妙なとこだと思う。だって私は喜んでないから。いつも仕方なく許してあげてるだけだ。そこのところを勘違いして欲しくない。
「ふぅっ」と耳に息を吹きかけられて耳掃除が終わってしまった。名残惜しさはあるがずっと耳かきをしてもらうわけにもいかない。
けれど梓紗ねえさんは私の頭を解放しようとしなかった。膝に上向きに私を乗せて頭を撫でながら窺うように口を開く。
「……このあと、私に凪沙の歯を磨かせて欲しいなぁ、なんて」
私はにやけそうになった口元を引き結んだ。
なにが自分は変態じゃない、だ。高校生にもなって妹の歯を磨きたいだなんて立派な変態だ。
けれどこのまま放置することは出来ない。梓紗ねえさんが暴走しないように制御するのは私の務めだからだ。抑圧しすぎた結果限界を超えて爆発してしまう前に、定期的にガス抜きをしなくては。
こんなに出来た妹がいるなんて姉としては恵まれているんじゃないだろうか。心の底からそう思う。
仕方ない、と小さく息を吐いてから、私は変態が過ぎる私の姉に向かって「いいよ」と答えた。
終