不幸蟲の幸せ
――数メートル先も見えない夜の山奥で、体中を正体不明な蟲に喰われている。
腕は既に二本とも肘から先がなくなり、なんとか原型を保っている下半身も時間の問題だろう。
なぜか痛みはない。しかし徐々に肉体が失われていく感覚だけはやたら鮮明に感じるため、肉体より先に精神が蝕まれていく。むしろ、まだこうして冷静な思考を保てている事が自分で不思議なくらいだった。
意識が朦朧としていく中、どうにかこれまでの経緯を整理しようと試みる。
「僕は、確か……」
仕事の女後輩に、夜道は危険だから送ってくれと頼まれた。普段からどこか抜けていて、些細な事まで一々メモしなければ覚えられない、危なっかしい彼女の様子を良く知っていた僕はそれを引き受け、車を出したのだ。
その途中、山道も深くに差し掛かった途端、急にあらゆる操作が利かなくなり、道路を外れ木々のど真ん中に突っ込んだ。
覚えているのはそこまで、意識を取り戻した時には、既にこんな状態だった。
どうしてこんな事になっているのだろう。僕はただ、幸せになりたかっただけなのに。
この世に幸せなんかない――その一言が、僕の人生の全てだった。
生まれた直後には母親を亡くし、父は幼い僕にさんざん暴力を振るった挙げ句、吐き気がする臭いを平然と撒き散らす女と一緒に蒸発した。
ろくな教育も受けられなかった僕に、選べる将来なんてない。小学生の時分から学校の目を盗みながら働き口を探す日々。運よく見つけられたところで、小学生にできる仕事なんてたかがしれているから、学校が終わったあと夜までくったくたになるまで働いても、コンビニ弁当をいくつ買えるかという程度の稼ぎにしかならない。
大した栄養も取れずに体はボロボロ、倒れた事だって一度や二度じゃない。それが原因で仕事をやめさせられた事もある。
それでもなんとか体は成長してくれた。世間的には大学生と呼ばれる年齢になれば、そうそう倒れる事もなくなり、多少は仕事を探しやすくなった。実際に大学なんて通う余裕はないから学歴は高卒止まりだが、選り好みしなければなんとかなった。
たとえば人を騙して大金を奪い取る仕事とか。
恨みなら散々に買った。買いすぎて、もはや自分では一々把握していられない。自分が生きる為だけに、数え切れないほどの他人を不幸のどん底にたたき落とした。
そんな自分が人並みの幸せなんて望むこと自体が――
「……間違い、だったのかな……?」
まだ綺麗な形を保っている口を動かすと、心の枯れた声が出た。
「まあ……いっかぁ……」
汚れて汚れて、最後には幸福の大逆転などという奇跡は起こらない。徹頭徹尾、不幸なだけの人生だった。
幸せなんて感じた事もないのだから後悔なんてしようもないし、この結末に関してもこんなもんかとしか感じない。生への未練がないのだから、死への恐怖なんて感じるわけもない。痛みもなく死ねるのだから、むしろ死に方としてはマシな方なのではないだろうか。
ただ一つだけ、心残りがあるとすれば。
「彼女は……無事なのかな……?」
あらゆる箇所が無残に変形してしまったひしゃげた車はすぐ横にあったのだが、同じ車に乗っていたはずの後輩の姿は、頭を動かして見える範囲には確認できなかった。あの状況で無事であったとは考え難いが、死体がないという事は自力で逃げ出せた可能性も十分にあるということ。もしかしたら、助けを呼びに行ってくれたのかもしれない。
あの子は汚れ仕事とは無縁の良い子だった。生きているとしたら、必死に僕を助け様として動いているだろう。
「間に合うとは……思えないけど……」
自分は死ぬ。あと数分もしないうちに、こんな山奥に生息する得体の知れない肉食の蟲に食われて、死ぬ。いまさら、逃げようとも思わない。
どうせ死ぬのならばせめて安らかな気持ちで逝きたいと、眠る様に両目を閉じようとした時……
「……ん?」
ぱさりと、目の前に一枚の小さな紙が落ちてきた。
メモ紙の様に見えたそれには、見覚えのある柔らかい文字でこう書かれていた。
『今夜、ウチで、先輩に好きですと告白する!』
「――――」
頭が真っ白になった。
理解が浸透するのに比例するかのごとく唇から血の気が引き、水分という水分が失われていく。
「い……いやだ……」
自分のものとは思えないほどカサカサした口から出るのは干からびた言葉。しかし水を注ぎすぎたグラスが決壊するかのような勢いで、気持ちだけが溢れていく。
「しに、たく……ない……っ」
幸せが、すぐ側にあった。
もうほんのあと一歩で、掴めるはずだった幸せが!
「しにたくないしにたくないしにたくないしにたくないシニタクナイ!」
蟲はもう、喉元にまで――
「いやだああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!」
そしてぼ のい きは……
彼女は全てを見ていた。
かつて先輩と慕っていた男が――自分の父を卑劣な罠に嵌め、家族を崩壊に追い込んだ男が。
品種改良を施された蟲の群れに食い殺され、無様な断末魔を上げる様を全て見ていた。
そして、彼女は笑った。
両目から何かが零れるのも構わず大声で笑って、言った。
「ざまあみろクソヤロウ」