来訪
あの日、私は行きつけのカフェに行き、そこでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。なんてことはない。いつもの休日の光景だったはずだった。
おかしいと思ったのは、トイレにたった時である。立ち上がった瞬間にめまいがして、意識が遠くなった。
これはおかしいぞ。と、思った時には床に倒れていた。周りの人からかけられる声が遠くの方に聞こえた。
次第に目が重くなり、残りのかすかな意識も薄らいでゆく。
死ぬのか、あっけなかったな。
脳の血管が裂けたのだろう。
人間、案外簡単に死ぬのだろう。
やり残したことはあるだろうか。
短い間にいろいろなことを思ってはかき消し、思ってはかき消しを繰り返す。そして、私は死んだのである。
「おはよう」
ふと目を覚ますとひげの蓄えた小太りの老人の顔が目の前に飛び込んできた。こげ茶色の暖かそうだが汚れている上着を着ている。
「うぉ!おおお」
あまりの顔の近さに驚きを隠せず声を上げると、老人はひげをこすりながら更に顔を寄せてきた。
「どこから来たんじゃ?」
「えぇ、どこからと、いいますと?」
息も絶え絶えに返すと老人はふふっと笑い、顔を離した。
「ここらでは見ない顔をしておるからの。お主は昨晩、ニーシャの森の入口で倒れているところを孫が見つけたのじゃ」
「ニーシャの・・・森・・・?」
「さよう。昨晩の記憶はあるかの?」
「記憶・・・ですか・・・」ひどくぼんやりしている。「確か、駅前のカフェでいたところまでは・・・」
「ふむ、エキマエ、カフェ、知らない土地じゃな。人さらいに会ったのかの」
老人はそういいながら薄汚れた上着のポケットから紙切れを取り出した。その紙切れを少しずつ広げていく。広げきるとそれが地図であることがわかった。
「どこら辺から来たんじゃ?」
言いながら、老人はこちらに地図を見せるが、それは私が知っている日本の地図とは明らかに異なっていた。
「この中には・・・ありません・・・」
「なんと、世界地図の外からとな」
老人は目を丸くして、自分の方に地図を向けてなにやらぶつぶつと独り言を言い始めた。
「すみません」私は、まだぼんやりとする意識の中、老人に尋ねる。「今、世界地図といいましたか?」
「そうじゃが」老人は、再度私のほうへ地図を向ける。「何かおかしいことを言ったかの?」
「私の知ってる世界地図ではないのですが・・・」
見間違えるはずがない。その地図にはユーラシア大陸もアメリカ大陸も、オーストラリアもアフリカも、そして日本列島も存在しなかった。まるで見覚えのない大陸が、まるで知らない大洋が、まるで子どもの落書きみたいに広がっていた。
「ほう」
老人は、少し考えてから言った。
「もしかしたら、別の世界から来たのかもしれんな」
「え・・・ご冗談ですよね」
少しずつはっきりしてきた意識が、危険信号を発信している。これ以上知ってはいけないと。自分は今、理解してはいけないことを理解しようとしているのだと。
「ごくまれにあるのじゃ。ごくまれにな」老人は目を細めて私の顔を見る。「異なる世界からこの世界に来るものじゃ」
「いやいやいや・・・ご冗談を。ここは、日本のどこなんです?」
「ニホン、ふむ、少なくともここはニホンではないな」
「冗談でしょ・・・笑えない冗談ですよ」
「ここは、バレスト公国セルディーン区ニーシャだ」
「バレスト?なんなんです一体、おかしいですよそんな国はあるわけがない。ここは、日本という国だ。バレストじゃない!」
「ここじゃ」老人は地図上の二つ目に大きい大陸を指差す。「少なくとも、バレストはここにあるし、ニホンという国はない」
汗が噴き出てくるのがわかる。きっとそうなのだ。にわかには受け入れがたいが少なくともこの老人が嘘をついているようにはどうしても見えなかった。
「お・・・」言葉を繋ごうとする。しかし、喉につっかえて次の言葉が出てこない。「落ち着かせてください」
老人は、あごひげをなで、地図と私の顔を二度ずつ見た。そして、「わかった。落ち着いたらこちらに来なさい」と言って、地図を置いて私のいる部屋から出ていった。
老人が出て行ってから、部屋をぐるりと見回した。木造の内装に、古めかしいよくわからない雑貨品が所せましと並べられている。自分が横になっていたところを見ると、これまた細かで不思議な飾りのあるベッドだった。相当古いものである。
壁にかけられている時計(と思われるもの)には、見覚えのない文字が並んでいる。その横には、小さな旗があるが、これまた見覚えのない模様のものだった。真ん中に槍が三本描かれている紅色の旗であるが、今までにまったく見た覚えのないものだ。
ゆっくりとベッドから降り、立ち上がると床がみしっと音を立てる。
「本当に、日本じゃないのか」
足元に転がっていた本に手をとり、広げてみると、ぎっしりと見たことのない文字でつまっていた。
どうすればいいんだ。いや、どうすることもできないのかもしれない。
あの世ってやつか、彼岸ってやつか、どうにもならない場所にまで来てしまったのだろう。
「どうするんだ・・・」
ベッドに座り込む。こんなことになるなど誰が知るだろう。
親は、兄弟は、友人は、先輩は、後輩は、このことを知るだろうか。私がこのようなところに一人連れてこられたことは皆知らないだろう。
不安と恐怖で胸が締め付けられてくる。
「どうすればいいんだ・・・」
ガチャ
音と共に、部屋の戸が開いた。先程の老人かと思ってそちらを見ると、そこから入ってきたのは頭をターバンで巻いた女性だった。先程の老人と同じような上着を着ており、同じように汚れていた。
「おはよう。目覚めたのね」
「ど、どうも」
「私はナターシャ。祖父と二人で住んでる。お兄さんは誰?」
目は細く、鼻はすっと高く、凛とした顔立ちをしていた。老人の顔を見たときはそうは思わなかったが、日本人とは明らかに顔の造りが異なっていた。
「私は、カナエ。奥畑鼎といいます」
「カナエ。変な名前だ」女性はくすりと笑う。「カナエは昨晩、ニーシャの森の前で倒れていた」
「ニーシャの・・・森・・・」
「私たちが普段着ているものではない服を身にまとっていたからすぐにただごとではないとわかったわ」
「あ・・・助けていただき、ありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくてもいいわ、カナエ」ナターシャが笑顔を見せる。「カナエはどこから来たの?」
「日本という、国です」
「ニホン、知らない国ね。顔は、ノークス人に近いけれど、あっちの方にあるのかしら」
ノークス人、また知らない言葉が出てきた。
「ノークスが、どんなところかは知らないけれど、多分この世界とは違う世界から、来たんだと思う」
にわかに受け入れがたいが。
「異世界ってこと?」ナターシャは目を丸くする。祖父と反応の仕方が同じだ。「それは不思議だわ」
「不思議ですね」私も言う。「意識を失い、気がつけばここにいた」
バレストだったか、ニーシェだったか、少なくとも知らない地であることだけは確かだった。
「カナエの話、ニホンの話、私聞いてみたいわ」
ナターシャが興味津々といったようにこちらをのぞきこんでくる。
私こと
奥畑鼎は、サラリーマンだった。28歳、男、独身、父と母は存命で下に弟と妹がいた。友人関係は少なかったものの今でも交流があるし、会社の上司には恵まれ、同世代の先輩後輩とも良い人間関係が築けていたと思う。地方都市の片隅で、日々営業に明け暮れていた一人だった。休日には、駅前近くの裏路地に面した小さなお気に入りのカフェに出かけ、静かに過ごすのが日課だった。
多く語るに値しないと自分では思っていたが、それを聞いているナターシャの顔は楽しそうだった。
「私も聞きたいことがある」
自分の身の上話をかいつまんで話をしたら、気持ちも落ち着いてきた。
「この世界のことについて知りたい」
私はこの世界について知らなければならない。
「教えてほしい」
ナターシャは、少し困った顔になった。
「どこから話したらいいのかしら」




