飢えに日回り
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神様と出会ったのは、四月の春のことでした。
「なあ、綾崎、少しいいか?」
最後の授業が終わり、ストーブの暖かさが消えた冷たい放課後。松田善正は同級生、綾崎理恵に話しかけた。綾崎が、長い前髪の隙間から、松田善正を見つめる。少し目を伏せて、席を立つ。松田の高い背に、小さい綾崎の身体が隠れた。……きっとつまらない用事だと、綾崎は予感した。綾崎は知っている。松田はつまらない人間。つまらなくなった。
肌寒い空の下。松田が綾崎を連れ出したのは、校庭を見渡せる、体育館への渡り廊下。
「あの人」
松田が指したのは、渡り廊下から外れて、体育館の壁に寄りかかってる、長髪の女生徒。その整った顔立ちは、綾崎から見ても美しく見える。
「あの子が、どうしたの」
綾崎の声には苛立ちがあった。
「いつもあそこに立っているんだ」
「次はあの人。わかった」
「いや違う、そうじゃない。純粋に気になるだけで」
そう。と綾崎は言うか言わないかぐらいで吐いた。
「じゃあ、なんだっていうの?」
「なんだと思う? 俺は、目線の先に恋しているのかなーって」
女生徒の目線の先、そこにはサッカー部の男子生徒たちが練習をしていた。綾崎はしばらく女生徒を見つめる。女生徒の髪が、冬の風に弄ばれてる。
ため息を吐いた綾崎が「だから、つまらないの」と言って去る。松田善正にはわからないまま。
正
松田善正は、自身についた名前の意味を気にする方の人間だった。名前の由来はもちろん「正義」。頭の中にあるのは「なにが正しくて、なにが正しくないか」それに従うのが、松田善正。だから、好きな人ができたときは、それが正しいと思って行動に移したし、正しいと思う告白をした。失恋したときはそれも正しいと思った。
なら、正しくないことは……
正しいか正しくないか。その線は松田にとって、そんなに重要ではない。判断基準が「正しい」「正しくない」を強調してるだけだ。だから言えるのだ「これは正しかったのだから仕方がない」しょうがないと。
誰に責任を押し付けているんだ?
松田善正はわからないままだった。「正しいから仕方がない」と言えるのは、それは「正しさを見極める者」がいないと成り立たない。わからない。きっと、空想の神様がいる、ということにしている。正しさに従う、まるで宗教だ。松田はこの考えを始めると、いつもここで停滞する。松田にとって、そんな重要ではない。それは正しいこと。
お前にとって、正しいこと、正しくないことって、
都合が悪いかどうかなんだろ。
1
「また見てる」
美術部員の一人が呟いた。
「熱心だよね。もう本当に好きなんだね」
「ストーカーとか、犯罪を犯さないか心配……」
嘲笑気味に、部員たちがひそひそと話す。本人には、聴こえていないようだ。
「あ、でも本人は公認だとかなんとか言ってたよ」
「え、見ることが公認……ってこと?」
ひそひそ、ひそひそ。
飢
美術部員、市部は見つめることしか許されなかった。
姫草と呼ばれる上級生に出会ったのは、四月の春。学校の廊下ですれ違ったときにたまたま見かけて、その容姿端麗な様に惚れたのだ。市部にとって、初恋だった。
市部はキャンバスを埋める主役の存在への飢え、そして恋への焦燥がある。小さい子が、パレットに広げた絵の具を「混ぜちゃえ」と混ぜたように、もはや何が芸術で何が恋か、区別がついたものではない。その混ざってしまった「穴」を埋める存在が、姫草だった。
なんでもいい、言葉が欲しい。
次に飢えたのは、モデルの中身である。今はまだ、その精神、魂だけでいい。魂という、内面を知りたい。血肉や、骨格は、その後でいい。
それはストレートな飢え、暗緑色一色の穴だった。飢えと同時に、迂闊なことをするなという理性も生まれ、その穴を塞ぎ隠す。塞ぐたびに穴は出現し、その都度穴は、大きくなった。
出会ってから二ヶ月、六月。蒸し暑さの中、市部は姫草に辿り着いた。無意識だったかもしれない、理性なんていつの間にか消えていた。
市部は、姫草に告白する。
言葉をください。(魂を、ください。)
姫草は最初戸惑ったが、少し微笑んで丁寧に、市部に命令をする。
「ずっと、見ててよ」
ただ、一言だけ。それに市部は喜んだ。言葉が貰えた、もうそれだけで十分だ、その穴は塞がった。
大切で貴重な一言に従う。市部宗太は、今日も美術室から、体育館前に立つ姫草露子を見ている。キャンバスは数多の姫草で埋まっている。キャンバスの姫草が増えると同時に、姫草に惹かれていき、結果、穴も増えてしまう。穴は混ざり、どんどん黒くなって大きく、深淵の穴へとなっていく。
市部宗太は、見つめることしか、許されない。
2
「あーあ、ふられちゃったよ」
もう秋と言ってもいい、そんな涼しさを取り戻した頃。下校中。松田は綾崎に言ったか、もしくは独り言のように呟いた。独り言と捉えた綾崎は、黙って歩みを進める。
「せっかく相談乗ってくれたのに、ごめんな」
今度はしっかり、綾崎に向かって言った。
「……別に、謝ることないでしょ。ふられたのも、君の言葉で言えば正しいこと、なんじゃないの」
正しいこと。人の言葉から出る言葉に、松田は少し安心する。
「だよな……だよな!」
「松田うるさいよ」
もっと、肯定してくれ。
欲
姫草露子は自身についた名前も、その自身の容姿も、愛おしかった。父にも母にも愛され、道を歩けば花が咲いて、絵画になる。だけど、そんなのは美しければ当たり前で、姫草自身が望むのは、もっと内面を望まれることだった。
初夏を迎えた六月、姫草は下級生の男子生徒に告白をされる。
「言葉をください」
嘘か本当かわからないその告白に姫草は、少し惹かれた。素直に嬉しかった。内面を求むストレートな欲求に、姫草はどうしてやろうと、悪戯心が芽生え、丁寧に言葉を選んで、返事をする。
ずっと、見ててよ。(永遠に。)
言葉が欲しいというのなら、ずっとそう思っていて欲しい。もし本当にそう思っているのなら。これは努力だ。果物の糖度を高めるように、もっと、もっと愛されたい。
姫草には、信じれるものがなかった。
なくてもいいものだったが、姫草は小さい子がおもちゃを欲しがるように、信じれるものが欲しかった。どんなに綺麗で美しくあっても、それは姫草に見つかるものではなかったのだ。
なら、その綺麗なものを作ってしまおう。
姫草にとってその下級生はちょっとした余興。だけど、信じれるものになったら、うんと褒めて大切にしてやろう。そう、姫草は心に決めた。
はやく、私のために育って。
3
お腹が空いた姫草露子は、授業への出席を諦めた。いつもこんなことをしてるわけではない。春の授業は退屈で嫌だから、乗り気じゃなかった。なによりお腹も空いていた。
近くのコンビニに向かう途中、下級生を見かける。背が低くて、野良犬みたいに髪がぼさぼさの子。
「新入生かな」
姫草は一瞬だけ気になって、それだけ。
光
綾崎理恵は、人との関わり合いが苦手だった。離婚を繰り返す母は、まともなコミニケーションの取り方を教えてくれなかった。もちろん親のせいだけじゃないのはわかっていた、それでも、十六歳の綾崎は恨むことしかできなかった。
「綾崎だっけ?」
帰り道、クラスメイトの松田善正に声をかけられた。入学して五日目、まだ桜も満開の頃のことだ。聞くところによると松田は、綾崎と同じ町に住んでいるという。あの廃れた町に、同じ高校の生徒がいたことを綾崎は意外に思った。
それからというもの、お互い部活にも入ってないということもあり、一緒に帰る回数、学校で話す頻度も増えた。綾崎が無口なのは、松田が言うには「正しいことだし仕方がない」と。綾崎には理解できなかった。
友達だとか、そういう枠を考えず、ただただ、松田は大切な人だと、綾崎は思っていた。
「好きな人……できたんだ」
九月の晩夏、松田は綾崎を恋の相談相手として選んだ。
何か、軋む音。
綾崎は思う。なんでそんなつまらない、つまらないこと……つまらない。……なぜ? 私はがっかりしてるのか。なんてことのない、好きな人に好きな人ができて、好きな人が私を頼ってくれてる。そんな、残酷でつまらない話に、綾崎はがっかりする。
綾崎は、松田の話を聞きながら、長い前髪の隙間から松田の動く喉仏を見ていた。高校生らしくとお洒落をしている様、その正しくあろうと都合の良いことに従う精神、身体の陰影、呼吸や細胞の伸縮によるリズム、その運命の正しさ、全て。綾崎理恵は松田善正の全てを愛し、いつのまにか崇拝していた。綾崎にとっての光だった、神だった。あの人の言うことは絶対、待てと言われたら永遠に、死ねと言われたら舌を噛み切る。でもそんな酷いことはきっとしない。綾崎は、信じていた。
でも、私の神様なんだから、もっとしっかりしてほしいな。
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サッカー部でマネージャーをやってる友達を、姫草はいつものように待っていたが、急なミーティングが入っただとかで、姫草は一人で帰ることになった。校門に目をやると、身長差のある男女が並んで歩いている。前髪の長い女の子と、少しチャラそうな男の子、付き合っているのだろうか、羨ましいなと姫草は思った。あんな風に、人並みの青春をする選択肢だってあったかもしれない。世間はもう、赤と緑に飾られている、もうそんな時期なのだ。高校生だというのに、クリスマスを寂しがるのはおばさんみたいだ、みっともないと、姫草は反省した。
クリスマスは、神の子の誕生日。
みんな、何を信じているのだろうか。自身の中に信じるものがあるのだろうか、それこそ羨ましい。姫草には、まだ信じるものはない。まだ、食べれないでいた。
ふと、姫草は後ろを振り返った。今日も、いた。例の子だ。ここ最近は、家まで着いて来るようになった。なにもしないから良いのだけど。……そろそろ、食べ頃と、一瞬だけ姫草はそう思い。
そう思って、姫草露子は、熟すのを……腐るのを待つことにした。これが私にとっての形だと、信じて。




