遮断
蒼が月の宮の維心の対へと入って、気が進まないながら奥へ呼びかけると、しばらくして維心が気だるげに出て来た。
「…何ぞ、蒼?」
蒼は、その姿に本当に維心はずっと、陰の月の、要はそういうことに長けていて気が無尽蔵に供給される維月の相手をし続けていたのだと感心した。普段の維月は、もちろんそんなことはない。むしろ、維心の方が強くて大変なのだと聞いている。だが、本気の維月相手になると、さすがの維心でも疲れるのだろう。
蒼は、苦労して何でもない風を装って言った。
「維心様、碧黎様を話をして、大氣とも調べた結果、今度のことは地の中を流れる気の流れが逆転しようとしているからではないか、と分かりました。」
維心は、驚いた顔をした。
「気?あの、人世で言う磁場とかいうものか。」
蒼は、維心がそれを知っていたことに驚いた。
「ご存知なのですか?」
維心は、頷いた。
「知っておる。維月の記憶も我にはあるからの。」
蒼は、慎重に話を進めた。
「その磁場が、今揺れているようなのです。こういうことは、地が目覚めてから初めてのことではないようで、そのたびに地上ではいろいろとあったと聞いております。」
維心は、遠い記憶を探るように、虚空へ目を向けて少し言葉を切った。そして、言った。
「そうよな…我も書物で見た。あの流れが断たれると、空から見たこともないような気が降って来るので、皆、己で結界を張ってそれを防いだとあった。どれぐらい続いたかは、記録にない。」と、目を蒼に戻した。「しかし、此度の衝動が起こったのは、初めてであると聞いたがの。」
蒼は、また頷いた。
「はい。ですので、今度は何か別の力が働いておるのではないかという話になったのです。そこで、碧黎様にまたあの衝動の波が押し寄せて、それが強いので、地に戻られました。オレが調べることになったのです。」
維心は、眉を寄せてため息をついた。
「あれは逃げよったのか。では、解決するまで維月もこのままであるの。」と、奥を気遣わしげに見た。「…どうも、維月自身も疲れて来ておるようであるのに、身が陰の月であるから…見ていていた堪れぬわ。本来の維月は、あのようにこんなことばかり求める女ではない。なので、維月の精神が持たぬのではないかと、案じ始めておったところ。」
蒼は、今だ、と急いで言った。
「そう、そうなのです!なので、母さんには月へ戻っていてもらった方がいいんじゃないかと思って。」
維心は、それを聞いて眉を寄せた。そして、しばらくそのままじっと蒼を睨むように見ていたかと思うと、口を開いた。
「…蒼。そのようにしては、我は維月に会うことも出来ぬ。それは出来ぬ。」蒼がやっぱり、と肩を落とすと、維心は続けた。「しかし、維月がああなっておる理由が碧黎の気の流れのせいだと言うのなら、それを遮断しておれば良いのだから、とりあえずの対策は立てられようというもの。十六夜!」
維心は、急に窓から外を見て叫んだ。蒼が、呆然としていると、空から疲れたような十六夜の声が聞こえて来た。
《なんだよ。オレは戻らねぇぞ。自分が自分でなくなる感覚は、お前にゃ分からねぇだろうが。》
維心は、フンと空を見上げて言った。
「維月を放って置いて、よく言ったものよ。主の維月を想う気持ちというもの、疑いたくなるものよな。」
十六夜は、ためらうような気を返して来ながら言った。
《維月は…だが、お前が居るから。オレにも、こんなことは初めてでどうしたらいいのか分からねぇんだ。》
維心はそれを聞いて、ほうっとため息をついた。
「ま、そのために二人居るのだからの。良い、そんなことを言うために話し掛けたのではない。主、聞いておらなんだのか?蒼が碧黎達と話して、主らの状態が碧黎の身の内を流れる気の乱れの影響を受けておるのではということが分かった。」
十六夜の声が、驚いたようにしかし明るくなった。
《理由が分かったのか!オレには余裕が無くてよ…今は、地上は見てねぇ。維月はお前と居るのが分かったから安心してたんだ。親父の気って、親父は大丈夫なのか?》
それには、蒼が答えた。
「碧黎様は、地の本体へ戻ったよ。たまらないみたいで。どうも、磁場の逆転が起こるような感じらしい。十六夜、磁場って分かる?」
十六夜の声が答えた。
《ああ、知ってるよ。お前が人の頃の授業の内容だって聞いてたし、それに維月の記憶も持ってるからな。親父から出て、地の回りを包むように回ってる気だろうが。オレも、その流れの中にある。》
維心が、頷いて空を見上げながら言った。
「だから、それの影響を受けておるのよ。碧黎自身のことはこちらで何とか考えるよりないが、とりあえず主と維月のことは、それを遮断することで防げるのではないのか。」
十六夜は、希望を持ったように明るい声で言った。
《やってみる。だが、オレも維月もエネルギー体で地上へ降りてたら、本体は守られてもやっぱり影響は受けると思うぞ。維月もこっちへ帰すか。》
しかし、それには維心が盛大に首を振った。
「ならぬ!では我はエネルギー体を包む気を遮断する膜を張る。」
蒼は、徹底して維月を側から離したくない維心にまた感心した。本当に、維月命なのだ。
すると、十六夜がため息交じりに答えた。
《お前なあ…維月にこの前言われたばっかだろ。責務を忘れんな。維月に執着しすぎなんでぇ。ま、オレも本体を守ったら自分に膜を張って降りてくよ。親父を何とかしなきゃならねぇからな。》
蒼は、ホッとした。十六夜が降りて来てくれる。これで、少しは考える人数も増えた。
「待ってるからね!十六夜!」
蒼が言うと、十六夜は笑って答えた。
《ほんと、お前って人の面倒ばっか見てるのな。すぐに行くよ。》
そうして、十六夜の声は途切れた。すると、奥へと繋がる戸が少し開いて、そこから維月が出て来た。気だるげに着物を着崩している状態で、目は赤く光っていた。
「維心様…?まだご用は終わりませぬか…?」
その姿を見て、維心は慌てて維月に駆け寄ると、着物の肩を上げて前あわせを直しながら答えた。
「維月、今助けてやるゆえな。主の状態の原因が分かったのだ。さ、我が膜を張る。」
維月は、それでも維心の首に腕を回した。
「膜とは…?それよりも、こちらへ参ってくださいませ。」
維心は維月を拒絶したことなど、今までなかった。そんな言葉は、維心の辞書には無かった。なので困ってその腰を抱きながら、それでも必死に言った。
「維月、常の主なら我だって嬉しいが、主は今普通ではないのよ。の?おとなしく膜を…」
維月は、お構いなしに微笑んで維心に唇を寄せた。
「維心様…」
いつもなら、蒼が居たら維月は絶対にこんなことはしない。蒼は、つくづくこれは陰の月で、維月は我を失っている、と思い、慌てて維月の着物の袖を引いて言った。
「母さん、しっかりして!すぐに十六夜が何とかして降りて来てくれるから!」
維月は、うるさそうにその袖を振り払った。
「蒼、あなたには関係ないでしょ…?維心様は嫌がったりしないわよ?」
確かにそうだが、だから正気でないのが問題なんだって!
蒼は思ったが、ハッとした。維月は、自分には何もしない。陰の月って、誰でもおかまいなしな感じなのに。
「あれ。母さん、オレには興味ないんだな。」
維心は、この取り込んでいる時に何を、と思ったが、確かにそうだと思った。維月は答えた。
「何を言っておるのよ。維心様だからよ。」と、維心に身を寄せた。「どんな衝動が湧こうと、私も選ぶわ。」
維心は、それを聞いて一瞬嬉しそうな顔をしたが、不意に何かに思い当たったようで、見る見る眉を寄せると維月の肩を両手で掴んで言った。
「碧黎は?!維月、主、父と言いながら心の底ではまさかあれも想うて…!」
維心がそこまで言った時、維月がふらっとよろめいたかと思うと、ガクンと前のめりに倒れそうになった。両肩を掴んだままだったので、それに力を入れて維心がそれを支えたので事なきを得たが、蒼もびっくりして駆け寄った。
「母さん?!何、何が起こったんだ?!」
維心は、急いで維月を抱きかかえながら、維月を仰向けにしてその顔を覗き込んだ。
「維月?!どうした、維月?!」
すると、ハッとしたように維月が突然に目を開いた。蒼と維心がびっくりして呆然とそれを見ていると、維月はためらうように二人の顔を代わる代わる見た。蒼は、その瞳が鳶色に戻っているのに気付いた。
「あの…?蒼?維心様?」
「母さんか!」蒼は叫ぶと、慌てて窓際へと駆け寄った。「十六夜は?!」
維心は、そんな蒼の後ろ姿を背に、維月に視線を落とした。
「維月…もう、大丈夫よの。さ、我が膜を張ってやろうぞ。」
維月は、ためらいがちに維心を見上げた。
「膜を?何があったのでございまするか?」
維月に、気を遮断する黄色い膜が張られた。蒼の声が、維心の肩越しに聞こえる。
「十六夜!母さんが戻ったよ!」
すると、十六夜の声がダイレクトに聞こえた。
「だろうな。オレもやっと解放されたような気分だ。だが、本体に大きく気を遮断する膜を掛けたから、力が半分ぐらいになってる。あれを維持するのに、力が要るんだ。親父が復活するまでに大きな戦なんかが無かったらいいけど。」
十六夜が冗談めかしてそう言いながら、こちらへと歩いて来た。その体も、ほんのりと黄色い膜が張られてあった。
維月は、何があったのかと戸惑いながら、それでも維心に手伝われて立ち上がった。
「十六夜…何が起こってるの?」
十六夜は、肩をすくめた。
「さあな。これからみんなで調べるんだ。維月、お前も我を失ってる場合じゃねぇんだよ。」
訳が分からない維月に、蒼はまた一から説明する羽目になったのだった。