妃に
維月は、碧黎を引っ張って奥の間へと入った。ずかずかと迷い無く歩いていたが、奥にある大きな天蓋付きの寝台を見た時、さすがにためらって立ち止まった。…本当に、こんなことをしていいのかしら。
「…維月?」
碧黎が、機嫌を伺うように維月に声を掛ける。維月は、意を決したように顔を上げると、また歩き出した。碧黎は、その迷いのない動きに焦った…このままでは、本当にそうなってしまうやも…何しろ、自分はあの磁場逆転の異変から、こういうことを普通の神並には欲するようになっていたのだ。しかも、相手は維月。本気で来られて、抗えるとは思えなかった。
それでも、碧黎は言った。
「維月、このようなことはならぬであろう?主、我のことなどなんとも思うておらぬだろうに。そんな我の子を生むなど、考えられぬことではないのか。いくらこの宮のためと言うて。聖が気に入らぬなら、他の候補も居るのだから、主がそんな犠牲を払わずとも良いのだ。」
しかし、維月は首を振ってドンッと碧黎を寝台へと突き倒すと、自分もその上に馬乗りになって言った。
「良いのですわ!どうせ、ここに篭められて出られぬ身。こんなことでないと、お役には立てぬのですから。それに、なぜか碧黎様のこと、初めて見た時から嫌いではありませぬの。とても慕わしい感情がありますわ。なので、大丈夫。」
自分の腰紐に手を掛けて引っ張る維月を見て、碧黎は慌てて言った。
「あ、維月!ならぬと言うに、後にややこしいことになるのだと言うに!」
維月は、不思議そうな顔をしながらも、自分の袿も脱いだ。
「?ややこしいこと?碧黎様がおっしゃるのは、時々わかりませぬ。」
確かにそうかもしれない。前の記憶を封じて、偽りの記憶が少ししかない維月が、元の状態へと戻した時、自分達がこうなって神世がどう思うかなどわからないだろう。
碧黎は、困った。まさか、維月がこんな行動を取るとは思わなかった。しかも、自分は維月には逆らえないのに。
「維月…とにかく、待て、う。」
碧黎は、維月に口付けられて、言葉を遮られた。これでは、あの時と同じではないか!
それでも、維月を邪険に出来ない碧黎が、どうしたらいいのかと思いながらもそれに応えて口付け合っていると、急に維月の唇が離れて、自分の上にズシ、と体重をかけたのが分かった。維月が自分に全身を預けているのだと思った途端、もはやこれまでかと思ったが、耳元に感じる維月の頬と、その息は、どうもそうではないようだった。
「…維月?」
碧黎が維月をそっと自分の上から下ろして見ると、維月は襦袢の前も肌蹴た状態ではあったが、それは安らかにすーすーと寝息を立てていた。碧黎が維月を腕に呆然としていると、すぐ側で聞き慣れた声が言った。
「…だから言っただろうが。こいつは思い通りにはならねぇんだよ。」
碧黎がそちらを向くと、十六夜が人型で腕を組んで立っていた。碧黎は、ホッと肩の力を抜いた。
「そうか主か。助かった。もはや我はこれを抱いてしまうのではないかと覚悟したわ。」
十六夜は、険しい顔をした。
「オレがそんなことはさせねぇよ。こいつがいつもの状態で親父を望んでるってんならオレだって口を出さねぇが、記憶を封じられてんだからな。」と、ため息をついて碧黎と維月を見た。「で?どうするつもりだ。神世じゃあ、ここに入っただけでも妃なんだろうが。維月は、もうあいつらの常識で親父の妃って認識だと思っていいだろう。」
碧黎は、じっと維月の寝顔を見つめた。そして、襦袢の前あわせを直してやりながら、言った。
「我の、妃として遇する。なに、誰も何があったかなど分からぬよ。維月にも婚姻が成立したと言うておく。これに我の気だけまとわせておけば、覚えておらぬだけで、確かに交渉はあったのだと思うであろうて。後は、ここで共に休んでおればいいだけのこと。我は歳だからそう毎日出来ぬとか何とか言うて凌ぐ。」と、十六夜を見た。「こんな予測のつかぬことをして来るのは、維月だけであろうから、それが我の手元にあれば都合が良い。後は、手早く済ませてしまおうぞ。本当に見たいのは、これからぞ。」
十六夜は、また眉を寄せて厳しい顔つきで言った。
「まだ、やるのか。維心が王の器を保ったまま転生してるのが分かったら、いいんじゃねぇのか。他の神の品定めはもうやめればいいじゃないか。」
碧黎は、首を振った。
「何度も言わせるでない。我は地。世を統べさせる王を、助ける王もまた選びたいのだ。役に立たぬなら、そう長く世に置いて置く必要もないであろうから、神本来の寿命をまっとうさせて死なせるのみ。王は、老いが来ぬと長く生きるからの。特別扱いする必要のない者まで、この世に居る必要はない。」と、維月を抱きしめて横になった。「では、我はこのまましばし休む。さすれば妃扱いになる。主のお陰で、維月もよう寝ておるしな。今回は助かったわ。引き続き、黙って見ておるが良いぞ、十六夜。」
十六夜は、しばらく黙ってそこに立っていたが、すーっと光に戻ると月へと打ちあがって行ったのだった。
「それは…維月は碧黎殿の妃になったということか?!」
炎嘉が立ち上がって叫んだ。維心も、横で険しい顔をしている。蒼は、頷いた。
「はい…あくまでも子を産むというだけで、妃とは違うかもしれませんが。」
「同じことぞ!」炎嘉は、言ってうろうろと歩き回った。「奥の間に連れ入るとは、そういう意味がある。気持ちが無くとも、それで妃と言われるのが神世。知らぬ訳ではあるまい。」
連れ入るっていうか、連れ入られたのは碧黎様の方なんだけど。
蒼は思ったが、そこは言わなかった。
「…我らには、異を唱えるなど出来ぬ。」
維心が、絞り出すようにやっと言った。炎嘉が、驚いたように振り返ると、苛々と言った。
「何を言うておる!諦めるのか?!今から行けばまだ…!」
維心は、首振った。
「行ってどうする?自分の妃にしたいと申し出るか?己の立場、わかっておらぬの、炎嘉。」
炎嘉は、ハッとしたように口をつぐんだ。そうだ…今、止めても…。
「我らでは、維月を幸せには出来ぬ。宮も何も無い…記憶すらない我らが、その様な事を望む権利などないのだ。」
炎嘉は、悔しげに下を向いた。蒼は、どう言えばいいのか分からなかった。維心が、蒼を見た。
「とにかくは、主の不名誉な噂は、維月が晴らしてくれようぞ。我にとり、取るに足らぬと思うておった聖というあの命、これからは警戒せねばなるまいて。有らぬことを碧黎殿に吹き込んで、我らを追い出そうと考えておるやもしれぬから。皆、気を付けるのだぞ。」
それから、その日は皆暗く沈んだ雰囲気で過ごした。時に聖を空に見かけることがあっても、皆はさっと見えない所へと移動して、決して関わらないようにと気を遣って過ごした。維心の言うように、あること無いこと碧黎に吹き込まれては、自分達の病の治癒どころではない。
維心も、表面上はいつもと変わらない無表情だったが、しかし共に図書館などで過ごしていると、ふと息をついて窓の外を眺めていることがあった。蒼は、そんな維心の姿など見たくなかった…間違いなく、このかたが王。しかも、世を統べている龍王のはずなのに。こんな病などにかかっていなければ、あんな聖などというどこかの宮の第二皇子などに、負けるはずなどないのに…。
そう思うと、蒼は我が事のように悔しかった。しかし、維心はやはり表情を変えることもなく、そうして一日は過ぎて言ったのだった。
しかし、次の日いつものように登校した教室で、事情を知っている裕馬が申し訳なさげに入って来たのを見て、皆が表情を凍らせた。
裕馬の後ろに付いて入って来たのは、聖だったのだ。




