衝動
「どういうことぞ!」維心の、月の宮に響き渡る声が鋭く碧黎の耳に届いた。「主、親子で良いと言うておったのではないのか!」
碧黎は、十六夜の部屋のソファの目を開いた。腕には、眠る維月を抱いている。しかし、着物は着ていた。碧黎は、うんざりしたような顔で、維心を見て言った。
「我らは、主らの言う親子関係ではないと言うたであろうが。血の繋がりはない。同じ命なだけぞ。なので、一緒に生まれた十六夜と維月が婚姻関係にあるのだろうが。己の価値観だけでものを見るでないわ。」
維心は、わなわなと震えながら言った。
「…何やら嫌な予感がして来てみたら」維心は、握った拳を震わせた。「十六夜は月へ帰っておるし!何をしておったのだ、あやつは!」
碧黎は、維月を起こさないように、そっとソファに横たえて自分の胸から下ろすと、維心を見た。
「維月が起きる。やっと眠ったというのに。こちらへ参れ。」
維心は、碧黎を睨み付けながら、ここでは話にならないと思ってぐっと堪えると、言われるように隣の部屋へと移動した。碧黎は、見るからに疲れていて、ドサッと側の椅子に腰掛けると、それを見ながら立ったまま自分を睨みつけている維心をちらと見た。
「…座らぬのか?」
維心は、王族にあるまじき乱雑さで側の椅子へと音を立てて座った。それを見た碧黎が苦笑した…前世の維心は、こうではなかったのに。やはり若いの。
維心は、面白くないように碧黎に唸るように言った。
「なんぞ?何がおかしい。」
碧黎は、手を振った。
「いや。主らしゅうないと思うたまで。」と、維心が何か言い返そうとしたのを手で制した。「我は疲れておる。といって、維月とよろしくやっておったわけではないぞ?そうせぬように、神経を削った。主には出来まい?維月と激しく口付けておるのに、その身に手を掛けぬように己を律しておらねばならなんだ。」
維心は、少しホッとしたのような顔をしたが、横を向いた。
「…何を言うておる。そんな衝動がないのであろうが。」
すると碧黎は、急に真面目な顔になった。維心は、驚いて碧黎を見つめた。
「それが、事の発端よ。維心、我ら、ここ数日おかしいのだ。何やら苛々落ち着かぬと、十六夜でさえ言うておった。それが、主らのあの行為の衝動であるなど、我らにはわからなんだ。何しろ、今まで無かったことであるから。陽蘭も十六夜も、訳の分からぬ衝動に本体へ帰っておる…維月と我が残っておったから、こうしてややこしいことになっておったのだ。維月など、弱いものよ。元が陰の月であるし、こういうことには、かなり長けておる。つまりは、こんな衝動には簡単に飲まれてしまう。ここのところ、維月の様子がおかしくはなかったか?」
維心は、驚いたようにそれを聞いていたが、考え込むような顔をした。
「…確かに、我ら四六時中奥の間に居ったの。何しろ、維月が我に身を摺り寄せて来るゆえ、我とてそれを断る道理もないし、そのたびに奥へ戻っておったから…だが、常の維月は、あそこまで我を求めたりせぬの。」
碧黎は、呆れたような顔をした。そこで、異常だと気付かないとは。
「では、なので維月は苛々せずに済んでおったのだの。主がそうやってずっと応えておったのであるから、満たされておったのであろう。こちらへ帰ってから、こうなったわけであるし。十六夜が、己の衝動に戸惑って月へ戻ったゆえ、残った我に迫って参って…我とて、断る道理など己の中にはない。だが、神世に生きておる限り、おそらく維月は後悔しよう。なので、手を出さなんだのよ。我の神世対応の良識が育っておったことに感謝するが良いわ。」
碧黎は、そう言うとスッと眉を寄せると、薄っすらと目を光らせた。維心は、それを見て険しい顔をした。
「…主、もしかして?」
碧黎は、額に手を置きながら維心を見ずに頷いた。
「身の内を突き上がって来るような衝動よ。波がある…何と連動しておるものか。」と、月を見上げた。「月ではないの。」
すると、側の戸が、すっと開いた。
「お父様?こちらですの?」
維心と碧黎が声の方を見る。維月が、薄っすらと目を光らせて立っていた。碧黎は、険しい顔をして、維心に鋭く言った。
「維心!今はならぬ。我は押さえが利かぬ。主が相手せよ!その間に、我は原因を探る!」
維心は、大真面目な顔ですっと立ち上がると、維月の手を取った。
「維月…我に挨拶も無しか。」
維月は、ぱあっと嬉しそうな顔をした。目は、まだ赤いままだった。
「ああ、維心様!」と、維心に抱きついた。「維心様…お会いしたかった!」
維心は、そんな維月を抱き上げると、頬を摺り寄せた。
「おお、我こそよ。さあ、我の対へ参ろうぞ。主の望むようにしてやるゆえな。」
維月は、ホッとしたように力を抜いた。
「はい、維心様…。」
碧黎は、出て行く維心の後姿から無理に目を反らした。早く何とかしないと、我も節操無くあっちこっちに妃をということになってしまうやもしれぬ。とにかく、調べなければ!
碧黎は、どうにか維月から意識を反らして、そしてこの月の宮の中に居る大氣の所へと飛んで行ったのだった。
碧黎が心持ちふらふらと大氣の対へと到着すると、大氣が奥から面倒そうに出て来て側の椅子に座った。
「何ぞ、碧黎?主から来るなど珍しいゆえ出て参ったが、こちらの都合も考えずに突然に訪ねるのは、神世では無礼ではなかったのか。我はそう学んだがの。」
碧黎は、じっと大氣を見つめてから、いきなり言った。
「主、維織はどうか?ずっと奥へ篭っておるのではないのか。」
大氣は、驚いたような顔をした。そして、眉を寄せた。
「だから何ぞ。他の女は駄目でも、維織は良いのではないのか。我の対であるし。」
碧黎は、それでも厳しい顔を崩さなかった。
「大氣、思い出さぬか。我ら、そのような衝動は無かったであろうが。あくまでこれが神の愛情表現だと思うておったからこそするが、欲求というものはなかった。違うか?」
大氣は、ハッとしたような顔をした。そして、何か言い返しかけたが、一度口をつぐんで、そして考え込むように言った。
「…確かにそうだ。そうか、これが神達が持っておる衝動というものか。どうも維織と離れておると苛々として、あれと寝台に居ると落ち着く。維織も同じであるようだし、ならばこうしておれば良いかと思うておったが、今まで無かったものがあるのがおかしい。主も、陽蘭と?」
碧黎は、首を振った。
「我らはそれが何か分からぬから、ただ苛々と過ごしておったわ。それに耐えかねた陽蘭は、今本体へ戻っておる。何とかしてから呼べと申しての。」
大氣は、奥の方をうかがった。
「そうか…維織は神として育てられたからの。苛々の原因を知っておったのだ。なので、ああして我を寝台へ引きとめようとしておったのか。なので、我は苛々もそう、せずに済んでおったからの。主らはお互い知らぬから。」
碧黎は頷いた。
「皆そうよ。十六夜もいきなり現れた己の衝動にためらって月へ戻っておるし、維月は知っておるうえ陰の月であるから正気を失ってしもうて我に迫って来るし、我は己を抑えるのにどれほどに苦労しておるか。」と、ため息をついた。「今は、維心が来たゆえ世話を任せた。とにかく大氣、我と共に原因を探ってくれぬか。このままでは、我とて神世で節操のない男になってしまうではないか。気が付いたらあっちこっちに我の子が、などと、考えただけでも恐ろしいわ。」
大氣は、深刻な顔をして頷いた。
「それは、我も同じよ。ずっと奥へ篭っておっては、何も出来ぬではないか。しかし、維月は維心が居るから良いが、維織はどうするのだ。このままここへ置いて行くのか?我の居らぬ間に、正気を失のうてしまってあっちこっちの男となどと、考えたくはないが。」
碧黎は、ふんと鼻を鳴らした。
「そっちは己で考えよ。檻にでも篭めて置いたら良いのではないのか。とにかく、早ようせよ!我は主と違って、ずっと押さえ込んでおるのだ!」
苛々も極限に近くなっている碧黎は、吐き捨てるようにそう言うと、窓枠に手を掛けてすっと飛び立った。大氣は、ため息をついて考えながら、奥へと取って返したのだった。