留学
それから、数ヶ月が経過した。
人の世は、まだ安定してはいなかったが、それでも普通の営みは続けられていた。碧黎が言っていた通り、地上には今まで感じなかった気が薄く膜を張るように感じられ、それのせいで人は一昔前の通信手段や、それに生活機器を引っ張り出して来て使わざるをえなくなってしまったようだ。人の世からの神の帰還者を受け入れている月の宮では、リアルタイムの人の世を監視して学ぶ任の者が居り、それらの報告によると、数百年は逆行したような状態なのだという。
それでも、人は命に別状もなく、平和に生活を営んでいた。蒼は、それにホッとしていた。
維明は、今日も訓練場で汗を流して、甲冑のまま箔翔と並んで歩いていた。箔翔は、鷹族の王が自分の代になったら神世に加わって皆に認知される神の宮として、協力して生きて行くと決めていた。父の箔炎が、神世を面倒がって関わらなくなってから、それは時が過ぎていたので、詳しいことを学ぶために、同じように次代の王である維明と共に、龍の宮で学ぶのが一番いいと判断され、ここで生活していたのだ。人の世でいう、留学状態なのだった。
維明が言った。
「主の手筋、おもしろい。あのように閉鎖的な宮から来たゆえ、侮っておったが、勉強になることよ。」
箔翔は、おもしろく無さげにちらと維明を見た。
「よう言うたわ。我が主に勝てた例などなかろうが。ほんに血筋とは、あるものよの。勝てる気がせぬ。」
維明は、それには少し暗い表情をした。
「我など…父上には敵わぬ。いつも甲冑すら身に付けずに、その場から動かぬまま立ち合われる。まだ足元にも及ばぬのに、父の跡を継ぐなど言えぬ…だが、父を越えられる気もせぬ。」
箔翔は、そんな維明を見て、気遣わしげに言った。
「龍王維心とは、最強の代名詞のようになっておるではないか。そんな者を父に持つのだから、主の苦労は分かる。しかし、主の父はまだ若いではないか。まだまだ、充分に時間はあろうよ。我には、その時間がどれほど残されておるか分からぬからな。」
すると、今度は維明が気遣わしげに箔翔を見た。
「箔翔…。」
箔炎は、確かに維心や炎嘉と友であるが、一度死して転生した二人に比べ、まだ一度も死んでいない…つまりは、かなりの高齢なのだ。見た目が若いので分からないが、いつ老いが来るのか分からなかった。
箔翔は、無理に微笑んだ。
「さ、次は政務であろう?主はほんにいろいろと学んでおるわ。我もせめて主には追いつかねば。宮へ戻れぬからの。」
維明は笑って、何かを思い出したのかぱあっと明るい表情になった。
「いや、政務は今日はもう無い。それより、母上が我に褒美があるのだと言うておった。」
箔翔は、驚いたような顔をした。
「褒美?いったい、何の?」
維明は、嬉々として足を速めた。
「この間の、お祖父様の件のことで、人世へ行っていろいろとしたであろうが。それよ。」と、まるで駆け出すようにすっと軽く浮き上がって飛び出した。「早よう参ろう。きっと、もう来てくださっておる。」
箔翔は、ためらいがちに同じように浮き上がって維明の後を追った。維明は、本当に母が好きなようで、普段は大人びて驚くぐらいであるのに、維月が絡むと子供のようになる。維月が維明を、それはかわいがっているのは、箔翔も知っていた。あれほどに身が大きくなっているにも関わらず未だに、屈めと言ったかと思うと、抱きしめたりしている。維明は気恥ずかしそうだが、それでも嬉しいと思っているのは気を見て分かっていた。
箔翔は、維明の対に居候していたので、どのみちそちらへ行くことになるのだが、今日は気が進まなかった。しかし、維明はどんどん自分の対へと入って行って、そして居間へと飛び込んだ。
「母上!」
すると、第一皇子の対の居間で待っていた維月が、振り返って微笑んだ。
「維明。お帰りなさい。箔翔も居るのね?調度良かったわ。ほら、あなたが好きなイチゴタルトよ。一緒に戴きましょう。着替えていらっしゃい。」
維明は、嬉しそうに微笑んだ。
「また、母上が作ってくださったのですか?」
維月は、頷いた。
「ええ。だって、ご褒美ですものね。さ、早く。」
維明は、箔翔を振り返って言った。
「さあ、主も着替えて参れ。特別であるぞ?神世では、ここでしか食すことが出来ぬのだからの。」
箔翔は、驚いていた。王妃が物を作るということにまず驚いたが、神が物を食すことを楽しむという概念がまずなかったからだ。酒ぐらいしか、神はあまり口にしなかった。
だが、確かに月の宮などでは、酒の肴も出て来て珍しいと、酒宴の時など皆が行きたがるとは聞いてはいたが。
箔翔が、それでも着物を着替えて維明の居間へと戻って来ると、維明はもう戻っていて、維月と向かい合わせに座ってそれを食べていた。
「遅いぞ、箔翔。」維明は言って、箔翔を見た。「お、主今日は良い着物を着ておるの。」
箔翔は、赤い色目の着物に身を包んでいた。金髪に緑の混じった金色の目の箔翔は、大変に美しい顔立ちだったので、またそれがよく似合っていた。
「まあ、本当。炎嘉様も箔炎様も、皆赤を基調とした着物が大変にお似合いになるの。箔翔もそうね。」
維月が言うと、維明がもぐもぐと口を動かしながら頷いた。
「やはり炎を使う種族は、赤でありますのでしょうか。」
維月は頷きながら、苦笑して胸元から懐紙を出すと、維明の口元を拭った。
「維明、食べておる時は話してはならぬと申しておるでしょう?口の中に物が無くなってから話すのよ。」
そう言いながらも、その口調には愛情を感じた。維明は、今度は口の中の物を飲み込んでから言った。
「はい、母上。」
維月は微笑むと、維明の隣りを指した。
「さあ、箔翔も。こちらに準備しておるのよ。」
箔翔は、戸惑いながらも進み出て、維明の横に座った。そして、楊枝を手にすると、その赤い果物が乗った甘い香りがするものを、一口大に切って口へと運んだ。
途端に、甘酸っぱい味が口の中に広がる。そして何より、その維月が持つ独特の気が、その食物と共に身の内を流れて行き、箔翔は息を飲んだ…何という、気…!
「良い味であろう?」
維明が、横から言う。箔翔は、ただ頷いた。口を開ける余裕がなかったのだ。そして、ただ一心不乱にそれを口に運んだ…その気の衝撃を求めて、どうしても口に運ぶことを止められなかったのだ。
維月は、そんな箔翔を見て微笑んだ。
「まあ…気に入ったのね。よかったこと。でも、あまり急ぐと喉を詰めるから、ゆっくり食べたほうが良いわよ?」
そんなことを言われていたが、箔翔は食べるのを止めることも出来ず、そのまま完食したのだった。
維明が、満足げに椅子に座っている。維月は、もう辺りを片付けて帰ってしまっていた。それでも維明は、箔翔相手に話していた。
「母上が御手ずから作ってくださるあれは、我の好物での。母自身が前世人であった頃、大変に好んで食したものだったらしい。父上もよう食されておる。」
箔翔は、じっと黙って聞いていたが、思い切ったように維明を見た。
「維明…主の母だが…。」
維明は、不思議そうに箔翔を見た。
「何ぞ?」
箔翔は、黙った。維明に言って、それでどうだろう。ただ、困った顔をされるだけなのではないのか。
「いや…」箔翔は、下を向いた。「何でもない。」
箔翔は、そう言ったかと思うと、いきなり立ち上がって踵を返した。
「戻る。」
維明は、驚いたがその背に言った。
「明日は、朝から訓練場ぞ!」
箔翔は、その声を背に逃げるように己に割り当てられている部屋へと帰った。
箔翔は、実は数ヶ月前、碧黎という地の化身がつれて戻った維月を見た瞬間、その姿から目が離せなくなっていた。
何度も目にしていた姿だったのに、あの日そこへ降り立った維月から溢れる、癒しと催淫の気をもろに受けて、身動き出来なかったのだ。女嫌いの父が、あれほどに望むたった一人の女。最初に目にした時は、こんなものかと思った。気が隠されて分からないと知っていたが、気がどうした、と思っていた。それが、その一瞬で箔翔はそれに囚われたようになってしまった…父が、炎嘉が、龍王が、あれほどに乞うのは、あの月の気のせいだったのだ。
維月が作ったイチゴタルトという食物に、その気がたくさん含まれており、また維明を思うその心のせいか、大変に心地よい気だった。箔翔は、それが身の内を流れる快感に流されて、食すのを止められなかったのだ。
箔翔は、今までそんな気持ちになったことなどなく、ただただ戸惑うばかりであった。




