異常
次の日の朝、十六夜が目を覚ますと、維月がまだすーすーと寝息を立てて横で眠っていた。十六夜は、やっと落ち着いている自分の気持ちに驚いていた。なんだか気だるくて、碧黎に言っても気のせいだと言うし、苛々として落ち着かなくて、どうにかして欲しかったのだが、こうして維月と一緒に居て、夜を共にした途端、すっとイライラが収まった。気だるさもない。何が原因だったのかと十六夜が首をひねっていると、維月が寝返りを打って十六夜の胸にぴったりとくっついて来た。
途端に、また身の奥底から何かが押し寄せて来た…昨夜は、それでなくても今までしたことが無いほど長く維月を愛していた十六夜は、さすがにここで、寝ている維月を起こしてまでというのは、気が引けた。そんなことを今更気遣わなくても、維心などそんなことはいつものことだったので、維月は慣れっこだったのだが、十六夜にはそこまで出来なかったのだ。
なので、無意識にそういう気持ちを押さえつけようとした時、再びあの気だるさと、苛々が戻って来た…そこで、十六夜はやっと知った。自分は、これがしたくて苛々していたのか。
十六夜が、そんな衝動とは無縁で生きて来ていたので、その事実に戸惑っていると、維月が気配にうーん、と唸って目を開いた。
「十六夜…?」
十六夜は、驚いて維月の肩を掴んでじっとその目を見た。
「お前…!その目、どうした?!」
維月は、気だるげに目をこすった。
「何?何かなってる?…寝起きだもんね。腫れてる?」
十六夜は、首を振った。
「違う!赤いぞ。薄っすら赤く光ってやがる。まるで…前世、陰の月が出て来たみたいだ。」と慌てて髪を掴んだ。「ああ、髪は黒いままだ。これで金髪なってたら、陰の月がまた出て来たんだと思うとこだ。」
維月は、顔をしかめて十六夜の手から髪を放した。
「ちょっと、やめてよ十六夜!痛いじゃないの。」と、ふふと笑うと十六夜の胸を押した。「それより…まだ朝も早いでしょう?」
十六夜は、ひるんだ。まるで…ほんとにあの陰の月になったみたいに見える。
「維月…、多分、お前もオレもおかしい。オレだって、こんな衝動感じないはずなんだ。それなのに…。」
維月は、十六夜を押し倒して上から十六夜の顔を覗き込んだ。
「いいじゃない。何が悪いの?私達…いつでもこうして来たじゃない。」
「維月…。」
十六夜は、碧黎の所へ行かなければ、と思いながら、その衝動に抗うことが出来ず、結局近付いて来る維月の唇を受けて、そのまままた愛し合ったのだった。
碧黎は、苛々としていた。
何がどうとは言えないのだが、ここ数日苛々する。維月が戻って来て、その姿と気に癒されて少しマシになったように思ったが、それも一瞬のことで、また苛々と落ち着かない気持ちになっていた。
十六夜が、同じようなことを言っていたが、自分の気に乱れはない。十六夜も維月も、陽蘭にも乱れは無かった。それなのに、何がこんなに苛々とさせるのか。何かを感じ取っているのだろうか。
陽蘭も何やら苛々としているので、維月は苛々しないのかと思ったが、戻って来た維月の機嫌はすこぶる良かった。やはり最近は、前世の記憶があるとはいっても、今生を生きているので、今生の記憶に沿って子供っぽい所が多い維月だが、それでも何も問題はなかった。維心も同じように、前世の記憶があるとはいってもやはり今生は若い龍なので、わがままが多いのだと聞く。それでも、うまくやっていた。
なので、苛々の原因が、その転生にあるとは思えない。十六夜は、前世と同じように落ち着いて生きていたのだ。なのに、むしろ落ち着いたその十六夜が、苛々するのだと言う。
碧黎は、何がなんだか分からないことに、また機嫌を悪くしていた。すると、横に座っていた陽蘭が、不意に立ち上がった。
「…もう、何が何やら。我もなんだか、落ち着かぬの。しばらく、地に戻って来てみるわ、碧黎。十六夜のこと、頼みまするわ。原因が分かったら、正してくださいませ。我にはどうにも出来ぬだろうし。」
碧黎は、眉を寄せたまま、頷いた。
「いつなり、我に任せきりにしおって。しかし、主の力ではどうにも出来るだろうの。十六夜と話して、何とかしてみることにする。」
不機嫌にそう言って横を向いた碧黎に、陽蘭は一つため息を付くと、すっと光に戻って地の宮へと戻って行った。碧黎はそれを見送りもせず、長いため息をつくと、もう傾き始めた空に、未だ出て来る様子のない十六夜の部屋へと、宮の中をすっと浮いて飛んで行ったのだった。
十六夜の部屋の前に着くと、戸は開いたままだった。碧黎は、その戸の前で言った。
「十六夜、維月、入るぞ。」
返事はない。仕方なく、碧黎が戸の中へと入って行くと、中には維月が一人、側のソファでうとうととしていた。そして、碧黎を感じ取ってはたと目を開けた。
「…お父様?」
「維月。」と、碧黎は回りを見た。「十六夜の気配がないの。どこへ行った?」
維月は、空を指した。
「気を回復しに参るのと、頭を冷やすのだと言って、先ほど月へ。」
碧黎は、そう言った維月の目を見て、驚いた。目がほんのり赤い…これは、感情が高ぶった時などに出る色ではないのか。
「維月、どうした。どうして目を赤くしておる。怒っておるのか?」
維月は、気だるげに首を振った。
「いいえ。違いまするの。どうしたのかしら、こうしておると何やらもやもやとしますの。龍の宮に居た時は、このようなこと、無かったのに。どうしたのかしら…十六夜と居ると、少し落ち着きまするのに。十六夜は、何やらこんな衝動がどうの、と言って、戸惑っておるようでしたし。」
碧黎は、ハッと息を飲んだ…もしかして、そのもやもやは、我らが感じておるこの苛々と同じなのではないのか。
碧黎は、維月に歩み寄って、その隣りに座った。
「維月、そのもやもやとやらは、どういった感情ぞ。我らには、ないものなのだ。我にも、理解出来ぬ。」
維月は、少しためらった顔をした。
「え…」そして、言いにくそうに下を向いた。「あの…お父様にお話しするのは、とてもしづらいことですのに。」
しかし碧黎は、維月の両肩を持って、必死に言った。何しろ、今まで知らぬ感情などなかったからだ。
「言うのだ、維月。我も知らぬことがある。知らねばならぬ。これを正さねばならぬから。」
維月は、その必死な様子に、渋々といった様子で口を開いた。
「あの、夜のことでありまする。」維月は、寝台を指した。「人や神は、お父様のような生命体とは違って、ああいうことをしたいという衝動がありまするの。私には、人だった記憶がありまするから、その衝動がまだ残っておるようで…そういうことを、したいと思うような気持ちですわ。」
碧黎は、愕然とした顔をした…そうか、これはその衝動か。今まで、何千年と生きて来て、これだけは知らなかった感情だった。それが、我らには苛々として感じるのか。
碧黎が、その事実に呆然としていると、維月がふと身を震わせたかと思うと、軽くめまいを起こしたようだった。
「維月?!」
慌てて碧黎が維月を抱きとめると、維月は碧黎の胸で顔を上げた…その目は、更に赤く光っていた。
「…お父様…」維月は、碧黎の頬に触れた。「龍の宮では、いつなり維心様がいらしたのに。十六夜は、月に帰ってしまって側に居てくれませぬの。でも、お父様は…」
碧黎は、びっくりして身を引こうとした。しかし、そこはソファの上で、背後にはその背しかなかった。退路がない碧黎は、維月を邪険にも出来ず、急いで言った。
「ならぬ!ならぬと思うぞ、維月。確かに我ら、父と言うても名ばかりであるし、見た目の年齢も同じであるし、同じ種類の命でしかないので、主ら兄妹も婚姻関係であるのであるが、確か神世では、こういう婚姻は表立って出せぬのではないのか…第一、維心にどう言い訳するのだ。面倒なことになる。」
維月は、それでもぐいぐいと碧黎に迫って、碧黎はソファの背に押し付けられる形になっていた。
「私はお父様なら良いです。だって、維心様は居ないのですもの。いつなり、お側に居てくださっておるのに…。」
碧黎は、困った。そうは言っても、神世の理に慣れろと言われたばかりであるのに。
「それは、我は主ならば己の手にしたいと望むがの。だが、神世に生きる理を、主達が守れと言うたのではないのか。以前の我なら、遠慮はせなんだが。」
碧黎の目も、薄っすらと光った。抑えても、どうしたことか、この衝動はまるで試すように碧黎を翻弄する。維月も、恐らく我を失っておる状態なのだろう。
「お父様なら」維月は、碧黎に重なって顔を近づけた。「きっとどうにでも出来るのではありませぬか…?」
確かに、出来る。碧黎にとって、記憶の操作など造作もないことだった。だが、そこまでしてこの衝動に飲まれてしまうのもどうだろう。十六夜は、そんな自分を冷やすために月へ戻ったのだろう。
「維月、ならぬ。何かが起こっておる…主は本心からそのように言うておるのではない。後悔す…んん!」
最初はじたばたとしていた碧黎だったが、維月に唇を塞がれてしばらく、次第にそれが心地よく落ち着くのに安堵感を感じて、結局お互いに深く口付け合ったのだった。