異変
「お父様!」
龍の宮で、維月が大喜びで碧黎を迎えて駆け寄っていた。維月が一目散に飛び出して来た先の王の居間から、維心も渋い顔でゆっくりと歩いて出て来ている。碧黎は、飛びついて来た維月を受け止めて頬擦りをした。
「おお維月、壮健であったか?」と、ぐっと抱き上げて、「何との、少し重うなったような。主、エネルギー体であるのにの。」
維月は、声を立てて笑った。
「まあお父様ったら!もう子供ではありませぬ。なので、成長もしませぬわよ?レディにそれは失礼でありまする。」
「そう、もう子供ではない。」維心の不機嫌な声が、背後から割り込んだ。「全くいつまでもそのように。さあ、こちらへ、維月。」
維月がバツが悪そうに碧黎を見ると、碧黎も苦笑して維月を下ろした。維月は、維心が差し出した手を取るために、急いで維心に並んだ。維心は、それを見てホッとしたような顔をして、碧黎を見た。
「それで、舅殿は何用でここへ?」
碧黎は、肩をすくめた。
「我が婿は、義父が娘と会うことも不機嫌になるのであるの。ま、良い良い。今日は、維月が気にしておってはならぬと、知らせに寄ったのだ。すぐに帰る。」
維月は、不思議そうに碧黎を見上げた。
「まあ。何のことでありまするか?」
碧黎は、微笑んで維月を見た。
「猛よ。」維月は、驚いた顔をしたかと思うと、心配げに維心のほうを見た。それを見た碧黎は、笑って手を振った。「こら、我はあれを獣に戻して来たのではないぞ?」
維心が、維月の代わりに言った。
「では、どうしたのだ。」
碧黎は、頷いた。
「炎嘉が、あれを欲しいと言うて参った。どうせ同情からであろうとあれの力を試しに行って来たら、そこそこの軍神に成長しておって…あれならば、あちらで他の軍神に素気無く扱われることもないであろうと思うての。」
維月が、ぱあっと明るい顔をした。
「では、お父様?」
碧黎は、微笑んだ。
「そうよ。あれを、炎嘉の所へ任せようと思うておる。あれもその方がいくらか…ぐ、」
碧黎は、いきなりご丁寧にも飛び上がって頭に抱きついて来た維月に顔を塞がれて、言葉を続けられなかった。
「ああお父様!!そのようなことを思われるなんて!それに、猛を案じておったなんて!とても嬉しい!」
碧黎は、相手は維月なので振り払うことも出来ず、もごもごと言いながらもがいた。
「こら維月…どかぬか!維月!分かったゆえ!」
我が娘ながら大変にすばしこく力が強いので、碧黎はさすがに慌てた。すると、急にフッと楽になってホッとして見ると、維心が眉を寄せて維月を小脇に抱えていた。
「これはこうやって、いつなり我にも飛びついて参るのだ。不意を食らわされて我もよう同じ状態になる。」と、維月をたしなめるように見た。「ならぬ。言うておるであろうが、もう子供ではない。主は我の妃であるのだから、我以外にこのようなことを不用意にしてはならぬ!」
維月は、恨めしそうに維心を見た。
「でも維心様…今生ではこうやって、父に育てられて来たのですわ。なので、その習慣が抜けませぬの…。」
維心は、厳しい顔で首を振った。
「子供の頃と身の大きさが違うであろうが。碧黎も困っておったわ。主は月であるし、その素早さは並ではない。碧黎も追いつかぬほどぞ。分かったの。」
維月は、しょんぼりと下を向いた。
「はい…維心様。」
すると、それを見ていた碧黎が、維月がかわいそうになって言った。
「維月…父は気にしておらぬぞ。しかし、小さな頃のように首に飛びつくのはやめよ。我は主の胸に溺れるかと思うた。それにの、維心が機嫌を悪くするゆえ、里へ帰って来た時存分に甘えるが良いぞ。ここは厳しいからの。維心の言うことを聞いておくが良い。」
維月は、まだ維心に抱えられたまま、碧黎を見て微笑んだ。
「はい、お父様。」
維心はまだ何か言いたかったが、それは飲み込んで言った。
「それで、猛はいつ南へ?」
碧黎は、ああ、と維心を見た。
「そうよの、すぐにでも。我が許可を出したら炎嘉が迎えを寄越すそうだ。なので、これより月の宮へ戻って書状を遣わせようぞ。蒼に頼めば良いようにやりおるだろうしの。」
維月は、明るく言った。
「では、炎嘉様のところへ参った時、猛の様子も見て参らねば。まあ、楽しみだこと。」
維心は、それはそれでまた眉を寄せた。
「炎嘉に会いに参るのが、待ち遠しいと申すか?」
維月は、あ、と口を押さえて、ぶんぶんと首を振った。
「そうではありませぬ!あの、猛の様子を見たいだけでありまする。」
維心は怪訝な顔をした。碧黎は、嫌な空気を感じ取って浮き上がった。
「では、父は帰るぞ、娘よ。」と、維心をちらと見た。「それにしても、面倒な男よ。」
そうして、維心に言い返す暇を与えずに一気に飛んで行ったのだった。
月の宮の王の居間では、蒼が十六夜と話していた。十六夜は、最近めっきり地上へ降りて来ていなかったが、特に機嫌が悪いというわけでもないようだった。
「そうか。なら、その猛って軍神は、炎嘉様の所へ行くんだな。そんなに優秀なら、うちに欲しいぐらいだったのに。」
蒼は言って、目の前に気だるげに座る十六夜を見た。十六夜は、手を振った。
「こっちにゃもう、いろいろ居るじゃねぇか。炎嘉の所は、まだ少ねぇんだからよ。上から見てたが、親父も一瞬驚いたようだったからな。ま、あれぐらいの闘気じゃ、親父はびくともしねぇが。」
蒼は頷いて、だるそうにしている十六夜に、今まで月に居たにしては疲れているようでおかしいな、と首をかしげた。
「十六夜?なんだか、疲れてるように見えるんだけど。」
十六夜は、フッとため息をついた。
「なんだろうな。だるくて仕方がねぇ。月に居たらマシだろうかとずっと上がってたんだが、苛々するような感じがして、落ち着かねぇし。降りて来たら、こうしてなんだかだりぃしよ。」
蒼は、心配そうにじっと十六夜を見て気を探った。
「…特に、気を失ってるとかないけど。むしろ、気の流れが活発なぐらいだよ。」
十六夜は、頷いた。
「そうなんでぇ。親父が戻ったら、聞いてみるさ。心配するこたないよ。」と、立ち上がった。「あーなんかじっとしてるのがつれぇんだ。ちょっと軍にでも行って訓練に付き合ってくるよ。」
蒼は、頷きながらも不安げだった。
「気を付けなよ。どっか悪いのかもしれないし。」
十六夜は、窓枠に手を掛けながら笑った。
「いや、そんな感じじゃねぇな。とにかく、一週間もしたら維月が戻って来るんだし、それまで軍の訓練に集中してたら、忘れてるだろうさ。」
十六夜は、飛び立って行った。蒼は、その背中に、何か嫌な予感がした…あの、滅多に具合が悪くならない月が、こうして具合が悪いとか言い出したら、何かある。何しろ、前世でも陰の月が反乱した時がそうだった。
蒼は、今度こそ何でもありませんように、と心の中で祈っていた。
結局、碧黎が戻って来て蒼の所へ、炎嘉に書状を返して欲しいと頼みに来たので、蒼は十六夜のことを聞いてみたものの、何も気取れぬ、と言われて終わりだった。蒼は、碧黎に分からないなら、本当に何もないんだろうか、と思うようになっていた。それで、その後炎嘉との書状のやり取りやらなんやらで忙しくしているうちに、そのことは忘れてしまっていた。
そこへ、いつものように、維月が戻って来た。十六夜に連れられて戻って来た維月は、迎えに出て来た嘉韻と共に、嘉韻の屋敷へ戻っていた。その後すぐに、前までの十六夜が決めたことならば、異次元の維心の所へ行くはずだった…が、十六夜は、言った。
「別にいい。」びっくりする維月に、十六夜は維月を抱き寄せて言った。「あっちは、親父が時間を調節するんだから、いつ行っても同じだ。あんまり待たねぇんだよ。だが、オレは待った。だから、今回はあっちのシンの所へは、後にしな。いいだろうが。」
維月は、ためらいながらも頷いた。
「そうね…確かに、あちらの維心様には時間は関係ないものね。いいわ。一緒に居よう、十六夜。」
十六夜は、嬉しそうに微笑むと維月を連れて部屋へと急いだ。あまりにぐいぐいと引っ張って歩いて行くので、維月は驚いていた。これは、まるで久しぶりに会った時の維心様みたい。
「い、十六夜?どうしたの、何を急ぐの?まさか、あの、早くしたいからとかじゃないわよね?」
維月が必死に歩幅をあわせながら言うと、十六夜は振り返った。
「そうだ。何が悪い?オレだってしたい時があるんだっての。」
維月は、目を丸くした。だって、月なのに。今まで、そんなに必死になって寝室へ引っ張って行ったことなんてなかったじゃないの。いつも、余裕を持って連れて行く感じなのが十六夜で、一刻も早くと急くのは維心様。これじゃあ、まるで維心様みたい。
「でも…月って元々、こんな衝動ないって言ってたじゃないの。それは、私は元は人の記憶があるし、同じ月でも無い訳じゃないけど。」
十六夜は、ずるずると引きずるように維月を引っ張って寝室へ入ると、ぽいと維月を寝台の上へ放った。維月は、それこそ維心がすることなのに、と十六夜を急いで振り返った。すると、十六夜はそれこそ維心のように、目を薄っすらと金色に光らせて維月に遅れて寝台へと飛び込んで来た。
「もうごちゃごちゃどうでもいいんだよ。とにかく、お前でないと駄目なんだから、お前がオレの相手してくれなきゃ誰に頼むんでぇ。」
維月が何か言う前に、十六夜は維月の唇を塞いで、その日はそのまま、維月はそこから出ることはなかった。