書状
炎嘉は、南の領地を維心に任されることになり、龍でありながら、一種独立したその地で、月の宮のように他の種族の志願して来たものを受け入れ、それを臣下として受け入れることで一つの宮を形成していた。
つまりは炎嘉は、龍の身になったものの、鳥として生きていた前世の自分を慕って来る鳥の軍神の生き残りや、他の宮で王に従うことが出来なくなった者達を受け入れることで、それらの面倒を見ていたのだ。
そんなわけで、南は以前のように維心の手を離れ、炎嘉の領地として許されていた。しかし、炎嘉が龍である限り、その眷属の王である維心に逆らうことは出来ないことは神世にも周知されていることであったので、しかもすぐ西に龍の王族である明維と晃維が控えているので、炎嘉が維心に反旗を翻すなど誰も思ってはいなかった。
なので、その出来事が神世で大きく取り上げられることはなく、むしろ以前のように炎嘉が王として戻って来たことに、歓迎ムード一色だった。炎嘉は、前世も今生も、その世話好きゆえに皆に慕われていたのだった。
そんな炎嘉が、維心と十六夜から頼まれて地の宮へ出掛け、そこで陽蘭と話すためにと思いつきで世話をしてやった、元は熊でありながら、碧黎に神格化され、今では神へと格が上がった猛という者だった。
この猛は、碧黎が神の宮を真似て飾りにと置いていた門番で、誰にも省みられることがなかったにも関わらず、一生懸命役に立とうと精進していた。それを哀れに思っていた炎嘉は、碧黎宛に書を遣わせた…猛を、自分の宮へ引き取りたいというのだ。
碧黎は、月の宮でその書から顔を上げた。
「…それで、炎嘉殿は何と申して来たの、碧黎?」
陽蘭は、碧黎の横へ座りながら言った。最近では、月の宮へ戻って来た維織の所へ出かけて行ったりと、楽しく過ごしているようだ。碧黎は、ため息をついた。
「すっかり忘れておった。あれは、ほんに忙しいであろうに、細かい所にまで目が行き届くことよ。」と、書を陽蘭に見せた。「猛のことだ。あのまま、あちらの宮へ置いておるであろう。主らが人になってしもうて、それから我もあれのことに構っておる暇などなかったからの。あの折、大層に我を憎んでおるようであったではないか。もうとうに宮を出ておるやもしれぬがな。」
陽蘭は、眉を寄せた。
「本当に…猛が望んでおるのは、誠、軍神になって世のために働くこと。今のように、ただ飾りとして生かされておるのは、本意ではないのですわ。」
碧黎は、頷いて立ち上がった。
「そうよな。我も、あれに神としての命を与えた手前、簡単に獣に戻すなど言うてはならなんだ。だがの、あの時はそれが良いと思うたのだ…間違いであったのは、後にわかった。」と、窓に向かった。「我が宮へ帰って参る。猛の望みも聞いてやらねばの。」
陽蘭は、ふふと微笑んでそれを見送ろうと碧黎を窓際へと追いながら、言った。
「まあ…ほんに神らしゅうなって。」と袖で口元を押さえた。「我は、その方が良いわ。本来、碧黎は優しいのですもの。我が一番よく知っておりまする。」
碧黎は、飛び立とうとしていたのに、陽蘭を振り返って苦笑した。
「何を申す…我は己の良いようにしかしないではないか。優しい神が、己が神格化させた神の心など考えずにおくであろうか。物のようにしか思うておらなんだのに。」
陽蘭は、そんな碧黎に歩み寄って、その頬に触れた。
「あれらを初めに産んだ時、我らはたった二人でありました。その時、主が居てどれほどに心強かったか。碧黎…我は、主の心根が、本当に優しいのだと、知っておるのですわ。ただ、素直なだけ。憤ったりしたら、その優しさを失ってしまったりもするし、そうするとその力の大きさから、何でも出来るゆえ大きなことをしてしまう。でも…それでも愛しておるのですわ。」
碧黎は、そんな陽蘭の言葉をじっと聞いていたが、フッと微笑むと、そっと陽蘭に口付けた。
「我らは対。これからもの。ではな、陽蘭。時は取らぬ。」
陽蘭は、微笑んだ。
「行っていらっしゃませ。」
碧黎は、すっと浮き上がると一瞬にして見えなくなった。瞬間移動ではなく、それぐらいのスピードで飛んで行ったようだ。
陽蘭は、その空を眺めながら、こんな穏やかな日常があるなんてと、その幸福感にため息をついた。
やはり人も神も、いくら長く共に居ようとも話し合って分かり合わねばならないところが必ずあるのだと、陽蘭はつくづく思っていた。
碧黎が地の宮に降り立つと、いつも静かなその宮の庭に、闘気のようなものを一瞬感じた。しかし、それはスッと消え、その気の残照がある方角から、猛が飛んで来て、碧黎の前に膝を付いて頭を下げた。碧黎は、無表情でそれを見下ろしたが、内心驚いていた…確か、こやつは陽蘭と維月を人へと変えた自分を、憎んで王と崇める気持ちもなくなっておったのではないのか。
碧黎が黙っていると、猛は言った。
「王よ、急なお戻りは常のことなれど、此度は何か。」
碧黎は、我に返って頷いた。
「主に用があって参った。」と、猛の来た方角を見た。「何やら闘気を感じたが、あれは主か?」
猛は、少しバツが悪そうな顔をしたが、視線を上げずに頷いた。
「は。炎嘉殿に、闘気も出せぬ軍神などおらぬと言われておったので…我は、未だ戦場などに立ったこともありませぬし、実際に立ち合うたのは炎嘉殿のみ。なので、岩を相手に見立て、猟師に撃たれそうになった時のことなどを思い出して、やってみたのでございます。ですが、まだ不安定で。」
碧黎は、じっと猛と見ていたが、スッと浮き上がると、その方角へ向かった。
「ならば、我が見てやろうぞ。参れ。」
猛は、戸惑った顔をした。王が…?
碧黎は、こちらを振り向きもせず軽く飛んで行く。猛は、その背に叫んだ。
「王!我など…王の前では、虫けら同然でありまする!」
それでも、碧黎を必死に追いながら、猛は悲壮な顔つきだった。何しろ、前に会った時は獣に戻すと言っていた…それで、簡単に負けるようなら、獣に戻すと言われたら?
しかし、碧黎はちらと猛を振り返ると、地へ降り立って言った。
「主でなくとも、我の前では皆虫けらよ。我は地を生かすためにこうして生きておる。誰彼構わず滅してしまうほど、考え無しではないわ。」と、手を前に上げた。「さあ、先ほどしたのと同じように、我にその力を向けてみよ。我は加減が分からぬからの。主は本気で掛からねば、我の力に捉えられては一溜まりもないぞ。」
猛は、必死に構えた。確かに、いつも足元から見上げていても、遠く離れていても、その気の大きさには畏怖よりも憧憬を感じるほどだった。決して追いつかぬその能力に、敬愛して止まない王だった。しかし、王は大変に非情でも知られていた…というよりも、そのような感情がないのではと猛は思っていた。表情一つ変えずに、さっさと神格化させていた役に立たない者達は、簡単に獣に戻してしまった。猛だけではなく、そんな侍女侍従は居たのだ。
猛は、震えて来る足を必死に押さえ、手を上げた。碧黎は、やはり涼しい顔でこちらを見ている。その表情からは、何を考えているのか全く分からなかった。しかし、その気の圧力だけで、猛は消し飛んでしまうのではないかと思えた。
怖い…!命が危ない。危険だ…。危険…。
碧黎が、ふと目を丸くした。心配して見に出て来ていた宮の侍女や侍従達も、息を飲む。
猛は、目を薄っすらと赤く光らせて、碧黎を睨みつけていた。その体からは、間違いなく闘気が大きく湧き上がって来ていたのだ。
碧黎は、フッと口元を緩めた。
「参るぞ!」
碧黎から、青白い光が一直線に猛に向かって放たれた。猛は、それを自分から出た光で受け止め、碧黎の光を抑えた。
光は、二人の中央でぶつかりあって、その衝撃で地はびりびりと揺れた。碧黎は、それでもまるで何かの景色でも眺めているように平然と立っている。猛は、ぐいぐいと光を押し戻そうと力を込めた。それでも、碧黎の光はびくともしない。
そのうちに、逆に猛の光の方が押されて後退し始めた。猛は、額に汗を浮かべてその光を押し戻そうと全ての気を込めて押した。それでも、碧黎の光はどんどんと猛を押して来る。
地に付けた足が、ずるずると後ろへと地を掘って下がって行く。猛は、もう駄目か、と目の光も落ちて来た。所詮、王に敵うはずはない。
侍女や侍従達は、気が気で無く、ただ震えてそれを見ていた。
「…これまでか、猛。」碧黎は、普通に語りかけるように言った。「主の力、戦場で己を守れるか疑問ぞ。」
猛は、キッと碧黎を見た。碧黎は、それでも無表情で、息すら乱してはいない。相変わらず、軽く手を上げているだけだった。
「まだ、我は獣に戻る訳には行かぬ!」
猛は、目をカッと光らせたかと思うと、怒りの力を借りて、最大限に闘気を放った。
一瞬で、回りは真っ白な光に包まれた。侍女侍従は、咄嗟に袖で自分の顔を庇った。それを見た碧黎は、空いていたもう片方の手で、すっと地の宮に結界を張った。それで侍女侍従は事なきを得たが、その光が収まった時には、回りの木々も岩も何もかもが、一瞬で消し飛んでしまっていた。
「やりおったな。」
碧黎が、呆れたように呟く。猛は、その最後の闘気で力尽き、その場に崩れるように膝を付くと、そのままバッタリと前のめりに倒れた。
碧黎は、猛に歩み寄って、見下ろした。猛は、息も絶え絶えな様子で、起き上がることも出来ずに、目だけで碧黎を見た。
「お、王…。我を…戻されるか。」
碧黎は、じっと猛を見下ろしていたが、首を振った。
「我がいつ、我に勝たねば獣に戻すなどと言うたか。」と、その場にしゃがみこんで猛の顔を覗き込んだ。「主の力の限界、見せてもろうた。それならば、炎嘉の所へ行っても、他の軍神に邪険にされることもあるまい。」
猛は、驚いたように目を見開いた。
「え…わ、我が王よ。では、我は…?」
碧黎は、笑って立ち上がった。
「炎嘉から、主を貰い受けたいと申して参ったのよ。なので、我は主の希望を聞きに来た。これほどの軍神に育っておったとはの。惜しい気もするが、ここに居っても役には立つまい。我の結界は何も通さぬし、どんな軍隊も我一人で事足りる。行って参るが良い。近々、迎えが参る。」
猛は、やっと回復して来た体を引きずるようにして、身を起こした。
「王…!我は…!我は王の御ために…!」
猛が涙を浮かべてそう訴えるのを後目に、碧黎は月の宮へ向けて飛び立つべく浮き上がった。
「主は、我が作ったもの。いわば我は、親のようなものよな。ならば、そろそろ親離れせねばならぬ。時々には、ここや月の宮を訪ねるが良い。主はもう、一人の神なのだ。獣などではない。」
碧黎は、そう言うと飛び立って行った。猛は、その姿が見えなくなるまで、ふらつく体で膝を付いていた。