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救命病棟

 気がつけば眠りに落ちていた。


 次に目を覚ましたのは早朝で、けたたましく鳴る携帯電話の着信音が僕に早く起きろと急かしていた。


 イライラさせる不快な着信音は耳心地が最悪で、僕はテーブルに突っ伏した顔を上げて携帯電話を掴み取った。


 時計を見た。時刻は午前4時28分。


 一体誰がこんな朝っぱらから?


 携帯電話のディスプレイを見ると、まったく身に覚えのない番号だった。非通知ではないからちゃんとした人間からなのだろうが、もしもこれがイタズラ電話だったら携帯を投げ捨てて壊していたところだ。


 知らない番号の主は救命病棟からの連絡だった。


 一瞬、誰か死んだか?と思った。僕の周囲で死にそうな人間といえば、所長かな?


 そんなことを考えているうちに、電話越しから『ジェシカ・ベルキューズ』の名前が出た。


 やけに切迫した声から、ジェシカがひどく危険な状態であることがわかった。


 病院関係者の話によると、ジェシカの携帯電話の連絡先に片っ端から電話してみたが誰もつながらず、ようやく僕が出たらしい。


 危険な状態なので関係者ならばすぐに来て欲しいとのことだった。


 冷水を浴びせられたような気分だった。あのジェシカが、重体?それももうすぐ死にそうだと言う。


 もっとも死とは無縁そうな人間が、死のうとしている。


 電話を切ると僕はそのまますぐに家を出た。救命病棟までは距離があったのでタクシーを捕まえる。


 タクシーの運転手に目的地を告げると、40歳は過ぎていると思しき運転手はこちらの事情を察したのか急発進、車を飛ばした。


 10分、20分、と時間が経つうちに救命病棟に到着した。薄暗い廊下を走り抜け、受付でナースに場所を聞き、そしてまた走り抜けた。


 救命病棟のさらに奥、救急患者だけが搬送される特別治療室にジェシカはいた。


 既に緊急手術は終えた後だった。だが、まだ予断を許さない状況らしい。


 ――予断ってなんだよ。


 僕は医者に面会の許可をもらい、特別治療室のジェシカを見舞った。


 ベッドの上で寝ているジェシカは昨日見たときの血色の良い顔と違い、完全に血の気を失って青白い肌をしていた。


 ――見る影もない。


 体中のいたる所にチューブを挿入されているジェシカ。あのチューブを通じて何か得体の知れない液体が体内に流れ込み、同時に不要な液体を体内より吸引しているようだった。


 とても一人では延命できない。機械に助けられているだけの状態だった。


 ベッドに近づくと、半眼のジェシカの瞳が移動してこちらを見た。


 唇が青白い。たぶん、サマンサ主査よりも青白い。


 ぱくぱくと何かつぶやいている。


「なんだ?」


 僕が近づくと、小声で「ごめんなさい」と言った。


「なにが?」


「あれ、盗んじゃいました」


 あれ?なんのことだ?


 盗まれたもの……「水晶玉か?」


 たぶん、頷きたかったのだろう。半眼の瞳をうっすらと閉じ、首を縦に振ろうとした。だが、もはやそんなことをする体力もないらしく、小刻みに首が揺れるだけだった。


 一体、何ていえばいいんだろう?僕には言葉が見つからなかった。


 馬鹿野郎と怒鳴ればいいのか?


 そんなこと気にすんなといえばいいのか?


 なんだかどれも場違いで、正解とは違う気がした。


「あれは大事なものだ。もしかしたら今日の裁判で重要な証拠になるかもしれない」


 ――何を言っているんだ、僕は?


 だが、一度言葉が口をついて出るとなかなか止まらなかった。


「よくもやってくれたな」


 ジェシカはまた口をパクパクと動かす。「ごめんなさい」と言ったようだが、今度は声が小さすぎてよく聞こえなかった。


「それで、どこにあるんだ?」


「盗まれました……だから返せません」


 それだけ言うとジェシカは口を閉じ、そして目も閉じた。その瞳からうっすらと涙がこぼれ、頬を伝い、やがて枕に落ちた。


 本当はひどく痛いのだろうが、全身麻酔が効いている今は痛みは感じていない。それでもジェシカはどこか痛そうな、苦しそうな表情を浮かべていた。


 ぴっ、ぴっ、ぴっ、と心電図が鳴る音が部屋の中によく響いた。


 延命をするためのあらゆる処置が施されているジェシカができることは、ただ意識を保つ。それだけだった。


 一瞬でも意識を断ち切ってしまえば、その瞬間に死んでしまいそうだった。


 新緑色のジェシカの髪をそっと撫でると、ゆっくりと瞼を開いた。


「誰も……来てくれないと思っていました」


「そんなことないだろ?」


「私、家族はいません」


 覇気も生気も感じられない声で、ジェシカはゆっくりと、ひどく緩慢な声で言った。


「友達もいません。私のこと嫌いっていう人はいても、好きって言ってくれる人はいません。私、不要な人間なんです」


「……」


 僕は……僕は……彼女の手をそっと握り締めた。


「ここにいるだろ?」


「だにえる、さん。ずっといてくれますか?」


 涙声だった。ただ子供っぽく泣きながら、必死に訴える女の子がそこにいた。


「ダメだよ。今日は裁判だ。僕はずっとはいられない」


「ケチ。ケチ、ケチ、ケチ、ケチ……」


「後でまた来るよ。まだ、報酬払ってないだろ?」


「もういいです。もう嫌です。もうこれ以上、生きたくないです」


「そんなこと、言うなよ」


 ああ、よかった。やっと、反論の言葉が見つかった。

 とてもシンプルで、ありきたりで、捻りも工夫もない誰でも思いつきそうな単語だが、これ以上の正解はないような気がした。


「もう少し生きてみろよ」


「生きてて何があるんですか?」


 唇を噛み締めながらジェシカは言った。


「騙されたり、裏切られたり、嫌われたり……大事な人はみんないなくなりました。これ以上、生きたくないんです」


「辛かったんだな」


 僕はゆっくりと彼女の頭を撫でてやった。


「生きるのは、辛いな。でもな、それは君が一人で生きようするのが悪いんだぜ」


「え?」


「甘えろよ。他人に甘えることができれば、人生は結構楽しいぞ」


 しばらくの間、僕はそこにいた。


 一時間、二時間とそこにいて、ジェシカを励ましてやった。


 時間がくると病室を出た。もう少しいてやりたかったが、僕にはもう一人、助けてやらないといけない人がいたから。


 救命病棟の外はまだ早朝だ。ようやく日が登り始めたようで、太陽とは反対側の空にはまだ薄い紫色が残っている。


 闇の残り香が消えるのは時間の問題だろう。僕は一度家に戻り、準備を整えた。そのとき、ふとした拍子に一冊の資料が開いた。


 それは図書館で見つけた資料だった。たまたま開いたそのページを見て、僕はようやく水晶玉の正体に気がついた。

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