魔導心理研究所(3)
エレベーターに乗り、2階のラボに案内された。ラボの扉の横にはテンキーを模したタッチパネルがあり、そこに暗証番号らしきコードをサマンサ主査は打ち込む。すると扉の赤いランプが緑に点滅し、音をたてて開いた。
魔導心理研究所全体には暖房が効いているのか生暖かい空気が充満していたが、サマンサ主査のラボラトリーからはひんやりと冷たい空気が漏れてきて、一瞬全身がゾクリと震えた。
「ああ、ごめんなさい。私のラボ、他の人よりも少し温度が低く設定されているから」
「そ、そうなんですか?」
「ええ、私……とりあえず中に入りましょう」
――続きを言えよ。気になるだろ。
2階に到着して以降は他の人の視線が気にならないのか、後ろからピョコピョコと擬音が聞こえてきそうな歩き方でついてきたジェシカは特に疑問に思わずラボに入った。
「あ、本当だ、なんか涼しい。でも不思議と寒くはないですね」
「このラボにはいろいろ危険な薬物とか置いてあるから。あまり気温は上げたくないのです」
――爆発物でも置いてるのか?
一歩ラボに足を踏み入れると、その理由もなんとなくわかった。ラボの中はいかにも研究室といった様子で、床はごちゃごちゃとした配線やらコードやらが伸び、高価そうな機材に接続されていた。
機械は赤やら緑やらのランプが点滅していて、その上には奇妙な色をした液体がたっぷりと入っているビーカーがある。
ラボには数台の机があったが、そのどれにも実験用器具が置いてあり、歩けるスペースを探すのも一苦労だった。
ラボの奥の方を見るとちょうど人一人が寝られるほどの大きいソファがある。ソファの上にはピンク色の毛布がぐしゃぐしゃの状態でおかれていた。きっとそこでこの骸骨みたいな女は寝起きしているのだろう。
「座っていいですよ」
不健康そうな体をしているにも関わらず、サマンサ主査は軽い足取りでラボの奥の方へと歩いていく。よく見ると縦横無尽に伸びているコードの束の中にもわずかなスペースがあり、そこを踏み場にすればなんとかラボの中を自由に行き来できそうだった。
――歩きづらい。
僕が四苦八苦している間にジェシカはぴょんぴょんと跳ねてラボの奥へと突き進み、やがてパイプ椅子を見つけるとそこにちょこんと座った。
「うわあ。あの、博士は……」
「サマンサでいいですよ」
サマンサはビーカーを持って黒い液体を蒸留している2メートル大の機械に近づくと、そこにビーカーを置き、赤いボタンを押した。すると機械の透明チューブから黒い液体がどぼどぼと出てきて、ビーカーの中に注ぎ始めた。
「コーヒーです」
サマンサはさも当たり前のように言う。「お嬢さん、コーヒーは?」
「あ、あの、私、その、苦いのは苦手で、コーヒーはちょっと……」
「あら、じゃあココアとかの方がいいかしら?」
「はい!ココアとかじゃないとちょっと飲めません」
するとサマンサは新しいビーカーを実験用器具の中から取り出し、それを機械に設置。先ほどとは別のボタンを押す。
透明のチューブから再びなにかの液体が出てくる。今度は妙に甘ったるい匂いがした。
「どうぞ」
「え?」
ビーカーを無遠慮に差し出すサマンサにジェシカは素っ頓狂な声をあげた。
「ココアです」
「――え?」
ジェシカのアホ毛がぴくりと反応したのが見えた。
「甘いものが好きなんですよね?」
「あ、あの……」
「どうしました?早く飲まないと冷めちゃいますよ?」
まったく覇気のないハスキーボイスなのに、妙に圧力のある態度だった。結局その有無を言わせないプレッシャーに負けたジェシカはココアを受け取った。「いただきます」
「弁護士さんはコーヒーで?」
「いえ、喉渇いてないのでお構いなく」
僕がそう言うとジェシカは悲しそうな目でこちらを見てきたが気づかないフリをした。
「そう。残念」
果たして本当に残念がっているのであろうか?そしてそのビーカーに注がれているものは本当にコーヒーなのだろうか?とりあえず飲まないで正解だろう。
やけになったジェシカがビーカーに口をつけココアを飲んだ途端、「マズッ!」といって吹き出したのを見て、つくづく断って正解だと思った。
そんなジェシカを気に留めることもなく、サマンサ主査は白い機械に近づくと、片手で何かの操作をした。
「それは?」
「酸素発生器です。私、空気中の二酸化炭素濃度が高くなると失神してしまいますから、常に濃度を低くしておかないといけないんです」
「そ、それは大変そうですね」
「ああ、さっき言ってましよね」
ジェシカはハンカチで口元を吹きながら言う。「酸素依存症でしたっけ?」
「……君、酸素に依存しない人間がいるとでも思っているのか?」
とりあえず突っ込んでみたものの、今のジェシカの表現は的を得ているように感じた。
「昔から病弱で。外とか出歩くのも大変なんです」
ずずーとビーカーに口をつけてコーヒーを飲む。特に不味そうな表情をしないところを見ると、コーヒーは別に不味くないらしい。
――味覚がズレてるだけか。
変人なのかもしれない。本当にこんな人でも大丈夫なのだろうか?そんな僕の不安を察したのか、それともたまたまか、サマンサ主査は「病弱だから、研究はちゃんとやることにしています」と言った。
「先天的な引きこもり体質なんです。外に出るのも億劫で、本当に体を動かすのが嫌なんです。だから外にでなくてもできるような仕事を探しているときにこの職を見つけました」
「へえ、じゃあ天職なんですね」
ジェシカは屈託のない表情で言うが、僕はあえて言いたい。――それ、嫌味だぞ、と。
もっともサマンサ自身はそれに気づいているようでもなく、「そうなんです」と言った。
「ちなみに、ここにはサマンサさん以外には研究員は?」
「いますよ」
サマンサ主査はひどく面倒そうな口調で続ける。なんというか原稿用紙一行以上のセリフはこの人にとってはフルマラソンに相当する重労働なのかもしれない。
「私とあと二人主査がいます。それと副主幹だから、全員で4人ですね」
「え?でも外にもっと沢山いませんでした?」
「彼らはまだ技師ですから。見習いみたいなものです。これから立派な監察官になる予定です」
――なったらいいなあ、私も楽できるし、と願望なのか目標なのかよくわからないことをサマンサは続けた。
「こんなに大きい施設なのに、ちょっと少なすぎません?」
「それは仕方ありません。もともと魔導心理研究所自体がまだ設立したばかりの研究機関ですから。私自身、本来は畑違いの分野を専攻してましたから」
「え?じゃあ、前までは何を?」
「心理学です。といっても人間の心理ではなくて、魔法使いや魔女、亜人種などの心理について研究していました」
――だから、詳しいですよ。魔法についても。とサマンサ主査は今の仕事をまるでおまけのような扱いで付け加えた。
「ロックハート弁護士の依頼人」
この人で大丈夫かと不安になっていると突然、サマンサ主査はクラウディアのことを口にした。
「あの被告の鑑定も私がしました。ですから、鑑定以外にもいろいろお力になれると思いますよ」
紫色の唇がビーカーに触れる。やがて最後の一滴まで飲み干すと、「さあ、鑑定しましょう」とサマンサ主査は続けた。




