面会(6)
「本当に久しぶりだね」
ナターシャ所長は応接用のソファに座ると、どうぞと反対側のソファに座るよう促した。
革張りのソファに座ると、ガサゴソと足下から音がしたので怪訝に思っていると、「ああ、それ、気になる?」と好奇心いっぱいの顔でナターシャはテーブル越しに顔を近づけた。
ナターシャ所長は顔だけならば恐ろしく整っている。写真を切り抜いて並べれば、誰でも一目惚れするほどの美貌の持ち主だ。
だが、写真と違ってリアルのナターシャ所長からは生臭い悪臭が漂っているので、一目惚れをする前にたいていの男はうめき声をあげる。
僕はできるだけうめき声を出さないように後ろにのけぞった。
「あれ、ダンくん。どうして鼻をつまんでいるの?」
「……おならをしたからです」
「まあ、お下品ね」
これでも礼儀は弁えている。とてもではないが、かつての上司に向かって、臭いますね、とは言えない。
ただ、一緒になって自分の鼻もつまみ始めるナターシャ所長の困ったような表情を見ると殴りたくはなった。
「それで、なんですか、この虫かご」
僕はソファの下にある虫かごを指差した。いまもゴソゴソなにかが蠢いている。
「ああ、それはね。伯父が先日私に送ってくれた昆虫なの。私の伯父が今、どのような仕事をしているのか教えたかしら?」
「ええ、確か、貿易関係の仕事とか」
この人は美貌と教養以外にも多くのものを持っている。法律事務所としての経営が赤字でも実家は超がつくほどの資産家なのだ。
彼女自身もいくつか不動産を所有しているし、実業家の彼女の兄はこの国でもっとも成功している企業の経営者だ。
人が羨むようなものはほとんど揃っている。ナターシャ所長の社会的な身分だけを見れば、多くの人は嫉妬するだろう。
本当に――なぜこんなに臭いのだろう。良家のお嬢様なのに身体を一日一回は洗いましょうと習わなかったのか?
「それはね、今伯父がいる国の密林で見つけたゴキブリなの」
「捨ててください」
「だ、ダメよ。もしかしたらまだ発見されていない希少種かもしれないのに」
「大丈夫ですよ。こいつらならこの街でも野良としてやっていけます」
「うぅ、相変わらず血も涙もないことを言う……ダンくんはそういう所がなければ可愛い男の子なのに」
――うぜえ。くそ、殺虫剤はないのか?
僕は部屋の周囲を見渡したが、昆虫愛好家兼弁護士のナターシャ所長がいるオフィスにそのような兵器が存在しないことは、以前勤めていたときから痛いほど知っていた。
閑話休題。とにかく話しが一向に進みそうにないので、ゴキブリの入っている虫かごは一旦別室に置いてきた。以前、大事にしていたナメクジに塩をまいて溶かしたらこの人は突然泣き出したことをふと思い出したからだ。
捨ててもいいことはない。それに……
――この人は、泣くとうるさいのだ。
ついでに所長をシャワールームに追いやり、身体を洗えと命令した。とりあえず身体を洗えば生臭さもなくなるだろう。
窓を開き、換気扇のスイッチをいれるとゴオオオオと唸るような音が天井の方から聞こえた。
シャワールームの方からはナターシャ所長の甲高い歌声とシャワーを浴びる音が聞こえる。
「……掃除するか」
ホウキと雑巾の場所はわかっていた。昔勤めていたときも、雑務は仕事に含まれていなかったが、どうしようもなくオフィスが汚かったので自分から徹底的に掃除をしていたからだ。
本棚や窓枠、部屋の隅々までキレイに磨き、再び雑巾を絞って所長のデスクに近づくと、先ほどまでナターシャ所長が読んでいた資料がそこにあった。
手に取ると、資料の中から一枚の写真が落ちた。
そこにはまだあどけなさが残る、一人の少女が写っていた。