交渉(1)
彼女の抱える闇は深い――そう思った。だけどかけてやる言葉が見つからない。
僕にできることは黙って聞くことだけのような気がした。
「私――嫌いです」
クラウディアの声は震えている。唇を噛み締めて、長い前髪が碧眼を覆い隠しているが、きっとその奥にある瞳は僕を睨みつけているのだろう。
「あなたみたいな人、大嫌いです――あなただって、そうなんでしょ?」
消え入りそうなほど小さい声で彼女は問いかける。
イエスと答えればいいのか、それともノーと答えればいいのか、僕には正解がわからなかった。
――頭のおかしい人、か。
先ほどのクラウディアの言葉を反芻してみた。
――そんなことは言っていない。言っていないのだが……
「言ったも同然か」そう呟いた。
小さい声で呟いたからてっきり聞こえていないだろうと思ったが、聞こえていたようだ。
クラウディアは何も言わず、ただじっと僕の方を見つめている。
「ごめんな。ひどいこと言って」
「なんで謝るんですか?」
涙声のせいでほとんど何を言っているのかわからないほどひどい発音だったが――彼女の言わんとしていることはわかった。
「悪かったよ。よく知りもしないのに勝手にわかっているつもりで、君のことを悪く言った。僕はただ、君を無罪にしたいと思ってたけど、ただの自分勝手な思い込みだったな――ホント、馬鹿みたいな主張をしたよ」
――だからごめんと最後に僕は謝った。
ぐすっ、と小さく鼻をすする音がした。前髪をかきあげたおかげで彼女の表情がよく見えたが、先ほどまでとは違うひどくブサイクな顔がそこにあった。
いつの間にか目は真っ赤に充血しているし、顔全体も白い肌からピンク色になっている。
鼻水はでるわ、口はだらしくなく開いているわ、神経質に髪をいじるわでだんだん髪型も崩れていく。
でも、これが本当の彼女なんだろう。
口を尖らせながら彼女は言った。「他にいないんですか?」
「他って?」
「弁護士さんです。あなた以外には――誰もいないんですか?」
「いないよ。誰も君の弁護を引き受けなかった。だから国選弁護士の依頼があったんだ。僕も最初断ろうとした」
――誰も君の弁護を引き受けたくないんだよ、と言うと、ただでさえブサイクになっている表情が余計に崩れそうになった。
「私、誰にも好かれていないんですね」
やけに達観したような、諦めたような口調だった。
「本当は――誰も正義の味方なんて求めていないんですね」
彼女の言葉は続いた。
「私って、ただの犯罪者なんですね」
一旦自分を卑下するような言葉が出ると、それは洪水のように溢れ出していた。
正直なことを言えば、癪に障った。
――もうやめろ、馬鹿野郎。
「そうだよ、君の言うとおりだ。誰も君のことなんてどうも思っていない」
思わず本音が出てしまった。だけど、もういい。これ以上、この女に喋らせ続けたら――きっと壊れてしまう。だから今、すぐにでもその口を止めてやらないとダメなんだ。
「あのな、正義なんてものは今まで人類が何千年も研究しているのに、いまだに答えが見つからないような難問なんだよ。君みたいな十代の、それも大した知識もないガキに到達できるような真理じゃないんだ。だから、そんなこと考えるのは一旦やめろ。脇に置け」
「――え?」
「正義と平和は人類普遍のテーマだ。確かに重要で大切な問題だけどな、今ここで解決するのは無理だ。人生を賢く生きるための大人のアドバイスをしてやるよ。人生でホームランを打てる機会は滅多にない。基本はヒット。小さくコツコツ積み重ねることが大事なんだよ」
唐突で、明らかに場違いなことを言っているような気がした。でも、これでいい。とにかくこの場の主導権を握って、彼女をどこかもっと別の場所、こんな鬱々とした湿っぽい場所からもっと明るくて健康的な場所に連れていってやりたかった。
戸惑う彼女に僕は伝えた。
「というわけでだ、こんな退屈な話はやめて、もっと楽しいビジネスの話をしよう」
「びじねす?」
彼女は首を傾げる。気づけばもう涙は止まっていた。固い表情も少しだけ解れ、崩れている。
だけど、今の表情の方が先ほどよりもよほど可愛げあって、ちょっと好きになれそうだった。
「そうだ。さっきも言ったように僕は金をもらって君の弁護を引き受けた。依頼を受けた以上、僕は君を裏切らない。僕のことを嫌っている君が僕を裏切ることはあっても、僕が君を裏切ることは絶対にないんだよ」
――だから利用しろと僕は言う。
「自分の私利私欲のために行動する人間が悪党?結構じゃないか。君の人生を歩めるのはこの世界に一人だけだ。君しかいない。なのにさあ、君の人生は今、社会っていうよくわからないもんのために踏みにじられようとしているんだぞ。こんなのは不当なことだ。人間に対してやっていいことじゃない」
――だからあらがえ、自分のためにさ。
ほとんど投げやりだった。だけど、下手な演技をするよりもよほど迫真に迫っている気がした。
僕はクライアントに――彼女に信頼されたい。だから嘘もつかないし、裏切ったりもしない。
たとえ耳の痛い話でも、正直にすべてを打ち明けることにした。
それでダメなら、それでいい。でも、少しでも僕の真意が伝わってもらえれば――僕はまだ頑張れる。
クラウディアはただ黙って僕の方を見ていた。だけど、いつの間にか彼女を覆っていた翳は消え、憑き物が落ちたような表情を浮かべていた。




