エピローグ
どこか遠くから、鳴き声がした。
それは耳につんざくような嫌な鳴き声で、やがて鳴き声の正体が赤ん坊であるとわかると僕は思わず身震いした。
病院1階にあるロビーには子供からお年寄りまで様々で、その中には赤ん坊を抱きかかえる中年の女性もいた。
赤ん坊は最初こそ懸命に泣き叫んでいたが、母親があやすと次第に涙をとめて、やがて笑顔を浮かべるようになった。
まるで邪心のない笑顔を浮かべているその姿はまさに天使だった。だが、今の僕はその笑顔の裏には実はどす黒い闇があるのではないのかと疑心を抱かずにはいられなかった。
12月のまだ冬真っ盛りなこの季節に、病院で息を引き取った人物がいた。僕はその関係者で、これからいろいろと手続きをとらないとならず、病室に出向いていた。
病室の入り口付近にあるネームプレートにクラウディア・ラインラントの名前があるのを確認すると、僕はノックせずに入室した。
重症の患者を収容するために設えたその個室にベッドは一つしかない。ベッドの上には清潔感のある白い病衣を着用したクラウディアが、両目を閉じて横たわっていた。
傍から見る分には生きているようにしか見えなかった。穏やかな表情を浮かべているクラウディアはベッドの上でぴくりとも動かず、仰向けになっている。
僕はベッドに近づくとその小さな鼻をつまんで呼吸できないようにした。「おい、起きろ」
しばらくするとクラウディアの白い美肌が急速に赤く染まっていき、やがて「し、死ぬ……」と小さなうめき声が漏れた。本当に死にそうだったので鼻から手を離し、額をパチンと叩いた。
「痛いッ!あ、弁護士さん、おはようございます」
「おはよう。気分はどうだ?」
「最悪です。途中まで良い夢を見てたんですけど、いきなり悪夢に変わりました」
「へえ、そうなんだ。どんな悪夢?」
「……忘れました」
「そっか」
「今日はどうしたんですか?」
「うん。ああ、今日は君に関する大事なお知らせがある。まず、さっき魔王が死んだ」
もっと驚くと思った。だが予想に反してクラウディアは冷静で、ただ目を伏せながら「そうですか」とだけ呟いた。
「ああ、だが生き返った。魔王は死者の宝珠を体内に仕込んでいてな。ゼロ歳児にまた戻ったらしいぞ」
「それを見たくてわざと見殺しにしたんですか?」
クラウディアは怪訝そうな顔をする。
……致命傷を与えたのは自分なのにな。
僕はベッドの脇にあるテーブルに大事そうに置いてある聖剣を見やりながらため息をついた。
「違うよ。手遅れだった。それだけだ。もっとも君もそれは同じだけどな。よく死地から生還したな。元気そうで何よりだ」
「……私、入院中にいろいろ勉強しました。この国の医療技術は凄いですね」
――でも、とクラウディアは窓の外を見やりながら言う。
「傷はこの先一生残るそうです」
クラウディアの胸と背中には魔王に刺し貫かれた傷がある。
「世の中は広い。医療で治せない傷も完治できる魔法使いがいるそうだけど?」
「いえ、いいです。私はこの傷と一生付き合いますから。それより、あの人はどうなるんですか?」
……あの人?ああ、魔王のことか。
「どうもこうも、これから裁きを受けるよ。国際条約がないから戦犯として裁けないけど、殺人罪として起訴される。それだけさ」
もっとも、被告がゼロ歳児になってしまった以上、どのような司法手続きをとるのかは定かではないが。それはあの女検事が上手くやるだろう。
「そうですか。世の中、意外となんとかなるんですね」
「そうだよ。君があれこれ責任感じてどうこうあがく必要はない。面倒事は他人に任せてしまえば意外と解決するもんだ」
――でも、と僕は付け足した。
「君がいて助かった。僕にとっては君は 立派な勇者だよ。ありがとな」
「あ、えと、あの、その、私こそ、この度はありがとうございました」
一瞬泣きそうな顔をしたが、すぐに押し留め、クラウディアは顔を赤くしながらそう言った。
照れてるのかもしれない。
「いや、礼ならいいんだ。それより君に渡さないといけないものがある」
僕は務めて冷静に、カバンから書類の束を取り出して言う。
「それは?」
クラウディアのきょとんとした表情をよそに、僕は笑顔を浮かべて言う。
「請求書だよ」
どさりと僕は机の上に請求書の束を並べる。
「え?え?」
「まず病院の入院代、治療代、診察代。諸々込みで50万Gゴールド。次に器物損壊。クラウディア、拘置所で暴れまくったそうだな。あと、刑務官と受刑者にも傷を負わせたからその治療代もある。それにこれだ、魔王への傷害罪の罰金、30万Gゴールド。全部込みで100万Gゴールドは軽く超えているな。まあ、逮捕されないだけマシだよ」
「あの、その、お金ないです」
「そっか。じゃあ分割払いだな」
「で、でもでも。こういうのって公費で払われるんじゃないんですか?」
「君がここの国民で、保険料払っていればよかったんだけどな。でも国籍ないんだろ?」
「その、それは……」
クラウディアは口を尖らせて不満そうな顔をする。
「ふくれっ面すんなよ。ほら、これやるよ」
僕は請求書の束とは別に住民票を渡す。
「しばらくこの国で厄介になれよ」
「え、いいんですか?」
「ああ。行く所ないだろ?」
「あの、あの、ありがとうございます」
「いいってことよ。書類制作手続きとしてあとで10万請求するから」
「……それもお金かかるんですか?」
「当然。今回はたまたま刑事事件なんて担当したが、僕はもとも民事專門だからねえ。こういう事務手続きは大得意だよ」
がっくりとうなだれているクラウディアに僕は言う。
「落胆するのは早いぞ。まだ魔王は生きてる。あいつから慰謝料がっぽり請求してやろうぜ。あいつ意外と倹約家だから貯めこんでるらしいぞ」
――身包み剥いでやろうぜ、と僕が言うと、クラウディアは久しぶりにクスッと笑みを浮かべた。すると「あ、痛い、いたたたッ」とうめき声をあげながら胸元をおさえた。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないです。重症の患者にこんな酷いこと言うなんて、とんだ悪徳弁護士です」
「仕方ないだろ。世の中金なんだから。僕も国選弁護士なんてやってる身だからな。あんまり財布に余裕がないんだよ」
「……別に、払わないなんて言ってません。ただ、さっきも言いましたけど私お金なんてもってませんし」
「じゃ、働け」
「働けません。その、働き方を知りません」
僕は一度深々とため息をつくと、「しょうがねえな」と言って続ける。
「ちょうどつい最近うちの事務員が辞めてな。人手が足りないんだ。うちで働くか?」
「いいんですか?」
「いいよ。その代わり、たっぷりこき使ってやる」
「はい。お願いします」
何かが大きく動き出した。そんな気がした。クラウディアは深々と頭をさげて、やがて僕を見る。その表情に曇りはなく、明るかった。
前途洋洋とはいえないけれど、彼女ならばなんとななりそうな気がした。
「あ、そういえば君、訴えられたぞ」
「え?誰にです?」
「魔王が。ほら、君あいつ襲っただろ。聖剣つかって。そのことで慰謝料を請求したいらしい」
もちろん、ただの時間稼ぎだ。死者の宝珠をつかってゼロ歳児に戻った今、あの魔王には魔力の欠片も残っていない。
脱獄をするためには力がいる。魔力を取り戻すまでの時間を稼ぎたいのだろう。
時間稼ぎに付き合うのも馬鹿馬鹿しいが、ここは法治国家だ。訴えられればそれ相応の対処はしないといけない。非常に面倒だ。そうこうしているうちに魔王が力を蓄えて脱獄などすれば、さらに厄介なことになる。だが、そうなったらそうなったで誰かがなんとかするだろう。
クラウディアは困ったような表情を浮かべると、
「魔王のくにせに勇者を訴えるんですか?」
とだけ言い、最後に少しだけ笑った。