暴挙
「とっても斬新な主張だったわ」
思わず背筋がひやりとする。声の主はシェーファー検事だった。この女がこういった言い回しをするとき、大抵はこちらにとって都合の悪いことを発言するつもりだと相場が決まっている。
――何を言うつもりだ?
「今の主張が真実ならば、歴史を覆すほどの重大な発見です。真実なら、ね」
――でもそれじゃあダメなのよ、とシェーファー検事は感情のこもらない淡白な口調で言った。
「世の中にはくだらない戯言が腐るほどあるわ。どれもこれも信じるに足らない馬鹿げた主張ばかり。聞いているだけで反吐がでる。弁護士さん、あなたはそんなくだらない連中の一人なのかしら?」
検事席にいる女は瞬き一つせず、僕を真正面から見据える。
「くく、ははははッ!」
魔王の哄笑が法廷に轟いた。
「はははッ!そうさ、そうだよ。誰がそんな戯言信じるかよ。お前の言っていることはただの根拠のない妄言だろ」
魔王の言葉に検事と裁判長が眉を顰めた。裁判長は深い溜息をつく。
「確かに、証人の言うことももっともです。どれほど疑わしい人物がいたとしても、証拠がない限り断罪することはできません」
――ここにきて、証拠か。
当たり前、か。
被告人席にいる何も知らない少女は、間違った証拠を根拠に逮捕され、審議にかけられている。
見るからに疑わしい人物だった。証拠も証言も揃っている。罪の意識の欠片もない、傍から見る分には救いようがない人物だった。
だが、状況は変わった。一つ一つ丹念に証拠を掘り出し、真実を探しだして、ようやく彼女の無罪を証明できるときがきた。
ここまできて、憶測や偏見なんかで終わらせない。やるなら、決定的な証拠をつきつけて終わらせる。
「証拠はあります」
僕は言った。
「弁護側の主張が正しく、被告が無罪であることはこの証拠を見れば納得していただけるでしょう」
「はあ?あるわけ、ねーよ」
魔王の声が小さくなった。今までの自信に満ちていた態度もどこか儚げで、クラウディアとは対称的だった。
彼女は今、背筋をピンと伸ばし、ただ僕の方を注目しているだけだった。
今も相変わらず聖剣を大事そうに肌身離さず握りしめている。だが、以前までとは様子が異なっていた。
彼女は大丈夫だ。憑き物が落ちたような、スッキリとした表情を見てそう確信した。
シェーファー検事は僕を急かすように言う。「証拠がある?じゃあ、見せてよ」
「被害者はそこにいる男ではない。死者の宝珠が使用されたのは50年前であって現在ではない。そして、被告、いやクラウディア・ラインラントが最初に襲った人物が真犯人。ここまで言えば、証拠を見つけるのは簡単だ」
僕は魔王を指さす。そして言う。
「服を脱げ」
法廷に一瞬沈黙が訪れた。やがて動揺が広がり、ざわつき出す。
「お前が犯人なのは間違いない。だから必ずあるはずだ。11月10日にクラウディアに襲われたときにつけられた、背中の傷が」
クラウディアは魔王を襲った。監視カメラの映像がそれは真実だと物語っていた。
「ふむ。確かに。弁護人の主張が真実ならば、そこにいる証人の背中には聖剣でつけられた傷があるはずです。証人、どうします?あなたには黙秘権があります。どうしても服を脱げないというのであれば黙秘権を行使すれば拒否できますが……」
「そのときは、逮捕します」
シェーファー検事はやけに強圧的な口調で言う。
裁判中に証人を逮捕するなんて裁判史上稀に見る暴挙だ。しかし、この我儘で破天荒な女検事がそんなことを気にするだろうか?
「罪状は沢山ありますよ。まず証言の偽証、住居への不法侵入、身分証の偽造、どれもこれも魔族の寿命から鑑みれば大した刑罰にはならない微々たる罪状ですが、逮捕はできます。ああ、あともう一つ、今朝起きた傷害事件の重要参考人としてご同行お願いします」
今朝?もしかして……ジェシカが襲われた事件か?
詰んだ。そう思った。服を脱げば決定的な証拠が出る。しかし、証言を拒否しても逮捕は免れない。
逮捕して、身体検査をすれば結果的に背中にある傷が見つかる。
どっちにしろ、もう逃げられない。法律を盾に逃げる算段はもう通じない。完全なる勝利だ。
――そう、勝ったんだ。よかった。
気が緩んでしまったのか、僕は落下するようにイスに座り込んだ。
クラウディアの方を見ると、目を丸くしてこちらを見ていて、視線が合った。僕がだらしなく笑みを浮かべてやると、クラウディアも口角をあげて、初めて笑顔を浮かべた。
意外と可愛かった。
「何か言うことはありませんか?」
裁判長の言葉にハッと我に返った。まだ裁判は終わっていない。最後まで気を抜くべきではなかった。
魔王は裁判長に何か言うように促されたがそれでもだんまりで、黙秘を続けた。ただ目を細めて、何か考えているようだった。
――なんだろう?
魔王は自信家だった。時折感情的にこそなるが、普段は余裕綽々といった態度でいることが多かった。そんな男がここにきて、やけに無反応だったから拍子抜けした。
もっと激怒して暴れまわると思ってたのに、予想と違って多少困惑したが、案外、人というのはどうしようもない窮地に立たされると観念するものなかもしれない。
「仕方ないか」
小さく、ひどく小さい声で魔王がぽつりと呟いた。あまりにも小さい声なので、聞き取れた人間は僕以外いないのではないのかと思った。
係官が一人、魔王に近づく。何も言わないことを黙秘と受け取ったのか、魔王を拘束するつもりなのかもしれない。
係官が魔王の腕を掴もうとした。しかし、掴まれたのは係官の方だった。
「俺に触れるな」
それは一瞬の出来事だった。魔王は係官の腕を捻り上げるとそのままねじ切り、ボロ雑巾でも扱うように床に放り投げた。
「ぎゃあああああッ!」
絶叫が法廷に響き渡る。係官は片腕から噴水のように血を放出させ、痛みに声をあげながら床の上でのたうちまわっていた。
「お前ら勘違いしてないか。俺がこうして大人しくしていたのは、今の生活を気に入っているから。その程度の理由だよ。別にいいんだぜ、暴力を使っても」
――今日が魔王の復活祭だ、と男は禍々しい表情を浮かべて言った。
「手始めにここにいる奴全員、皆殺しだ」
傍聴席から悲鳴が上がる。席を立ち、我先にと法廷から逃げようとしていた。法廷は混沌とし始め、怒轟や絶叫が共鳴し、騒然とする。
人々はたった一言で恐怖に落ち、理性を失った。逃げようとしないのは僕と検事と、腰を抜かした裁判長だけだった。
傍聴席の人間がパニックを起こして逃げ惑う中、僕はなぜか魅入られていた。
腕にこびりついた血を服の布で拭い取ると、魔王はやがて僕を見る。次の獲物を発見したかのような、ひどく愉快そうな表情を浮かべていた。
「死体は、どうしたんだ?」
僕は一体どうしてしまったのだろう?目の前にいるのは人の命をゴミ程度にしか思わない最低最悪の魔王で、今にも僕を殺そうとしている奴だというのに。
体は緊張でひきつっているのに、心はやけに静かだった。
僕はただ、純粋な好奇心から質問していた。
「死体?ああ、残りの体の方か。右腕は残しておいても構わなかったが、体の方は残すわけにはいかなかったからな。あれが現場にあると、俺の考えたトリックがバレちまう。だから、ちゃんと隠滅したよ」
「どうやって?」
「食った」
耳を疑った。
「食った。食った食った食った食った食った食った。魔力がたっぷりこもった大事な体だからな。肉の一片も残さず、美味しくいただいたよ。ごちそうさまでした」
――だから、探しても無駄だよ、弁護士くん、と魔王は口角をあげながら言った。
「お前も美味そうだな。魔王の頭脳を負かしたんだ。さぞかし美味しい脳みそをしてるかもしれない。とても興味がある。どんな味をしてるんだろうな?」
魔王は冷淡な瞳を浮かべて僕を射すくめる。それだけで筋肉が緊張し、動けなくなった。
――早く逃げないと。
だが、イスから腰を離すことができない。
「嘘だよ」
魔王が一歩、僕に近づいた。
「人間はまずい。高尚な魔族とは違う、下劣な生き物だ。お前らみたいな薄汚い生物、死んでもごめんだよ。だからお前は、ただ意味もなく死んでしまえ」
魔王の二歩目は、ほとんど見えなかった。あまりにも早い俊敏な動きに目が追いつかず、気づいたときには僕の目の前に魔王が立っていた。
魔王が口を開いた。すると、その口より声は発せられず、代わりにどろりと赤い液体が流れ始めた。
「死なせないよ」
僕の目の前にいたのは魔王だけではなかった。
小柄だったから視界に入らなかったが、確かにクラウディアは僕の目の前にいた。
クラウディアの頭は魔王の胸のあたりにある。彼女は聖剣を構え、まっすぐにその胸を刺し貫いていた。
そしてクラウディアもまた、魔王の鋭く尖った右手に胸を刺し抜かれていた。
魔王は自身の爪の自由に変形させることができるのかもしれない。その爪先はやけに鋭利で、女の子の細い体程度ならば簡単に貫通できそうだった。
クラウディアは剣を抜く。すると魔王の体内から強烈な血しぶき上がり、クラウディアの上半身を真っ赤に染めた。やがて魔王は倒れ落ちると、クラウディアの胸に刺さっていた右腕も一緒に抜け落ちた。
クラウディアも魔王同様、風穴の空いた胸から血を吹いた。
一体これは、誰の血だろう?
気がつけば法廷の床には大量の血溜りができていて、僕は呆然とそれを見ていた。
やがて意識がハッキリとし始めると、イスから倒れ落ちるようにしてクラウディアに近づいた。
「おい、しっかりしろよ」
鮮血で染まった表情は苦痛に満ちていた。
「弁護士さん、痛いよ」
「ああ、すぐ医者呼んでやる。それまで我慢しろ」
「痛い、痛い、痛い、なんでこんなことになっちゃったんですか?」
「知らねえよ。お前が馬鹿みたいに突っ込むからだろ。なんで助けようとしたんだ。僕のこと嫌いだったんだろ?放っておけよ」
「嫌いです。助けなければよかったです。こんなに痛い目にあうなんて……思いませんでした」
――でも、クラウディアは弱々しい口調で言った。
「……よかった。無事で」
クラウディアはそのまま瞳を閉じ、やがて何も言わなくなった。
法廷は今も悲鳴や怒轟が鳴り響いている。聴衆は狂乱し、錯綜している。だが、急になにもかもどうでもよくなってしまった。
ただ、彼女を、クラウディアを助けたい、それだけだった。
僕はクラウディアの小さな体を抱きしめて、必死に助けを求めた。だが、群衆の狂騒の前に言葉は誰にも届かず、虚しく響くだけだった。