芭蕉精(ばしょうのせい)
ナディアが出て行くと、誠は釦の背中をそっと押してベッドへと促した。しかし釦は頑として動こうとしない。急に浮かび上がってきたこの世界の薄暗い部分に、どうしたって恐怖を感じてしまう。
「何? 死罪ってどういうこと? 殺されるの?」
「いいから、とりあえず休もう」
「なんで? あっちが私たちを無理矢理呼び出したんでしょう!なんで……」
釦がなおも言い募ろうとすると、誠は急に彼女の手首を掴んだ。
「疲れてるから余計に混乱するんだ、まずはベッドに入って。それからじゃないと話さないよ」
少し固い彼の声に、釦の肩が跳ねた。恐る恐る顔色を窺って見ると、先ほどよりは和らいだ――けれどやはりひんやりとした無表情に見つめ返される。
怖い。
感情が一切表に出ていない完璧な無表情を、黒真珠のような瞳を見て、釦はそう判断した。この顔を見たくない。怖い。
その感情が伝わったのだろうか、誠はニコリと微笑んで「ベッドに、行こう」と追い打ちをかけてきた。見事な飴と鞭の手法に引っかかった釦は、恐る恐る寝台のふちに腰掛ける。
誠は満足そうに頷いてから、口を開いた。
「さっきナディア神官が言ったことは本当だ――俺たちが王を超えるものを持っていたら、この世界の人間から顰蹙を買う。ただ」
「ただ?」
「時計、っていうのは確かに盲点だったかもしれないけど、それ以外はいたって普通だよ。携帯とか、ゲーム機とか、電子辞書とか。見てわかる通り、この国では精密機器の類はあんまり発展していない。そういうのを見せちゃいけないみたいだ」
まあ、一番いいのは向こうの持ち物は持ち歩かないってことだけど、と彼は続けた。確かにそうだ。
「異世界の方が文明の発達が上回ってる、なんてなったら怖いのかな?」
「怖いだろうな。もし逆の立場だったらどうだ? 魔法の使えるこの世界の人間が、学校に突如として現れたら」
「……嫌だ、ね」
王の態度は異常なわけではない。釦がそう理性的に判断すると、ようやく先ほどの衝撃が和らいだ。
そこでふと、疑問を覚える。
「及川君は……そういうの、見られたことは……あるの?」
釦が彼を見上げながらそう問うと、一瞬目をそらされる。が、すぐに
「……ナディア神官に見つかったけど、彼女は理解してくれたから、大事にはならなかったよ。長谷川も彼女と一緒に行動するから、心配いらないと思う」
と何の不自然さもかもし出さずに言葉を紡ぐ。
「そっか、よかった。それはそうと、及川君」
「何?」
「この世界の人って、なんでこんなに丁寧にもてなしてくれるの。本とかじゃあ、割と手ひどく扱われてる印象だったんだけど」
流石に無一文で放り出されたくはないけど、と続ける釦の頭に、誠はそっと手を置いた。
「本の読みすぎだよ、長谷川。世の中はそんなに厳しくはない。俺だって……丁重にもてなされたんだから、世界は考えているよりも、ずっと優しいんだ」
「でも、」
これはやりすぎじゃないか、という続きは、誠の言葉が消し去った。
「言っただろう。俺は、お前が悲しい思いをしないように全力を尽くす、って」
そして、強く強く釦を抱きしめる。見た目からは想像できないほどの力強さを持つ腕に、意識せずに釦は寄りかかっていた。
「心配しないで。何があっても、必ず俺が守るから」
彼はこんな人間だっただろうか。先ほどと同じような感想が頭をよぎる。釦の記憶にいる中学生の誠と、現実のしっかりとした彼が乖離していて、若干の違和感を覚えてしまう。しかし、それ以上に思うのは、この世界で誰よりも信じられるのは誠だという安心感。
「あ、りがと」
きっと彼がどんなことも解決してくれる。世界は愛に包まれていて、釦は自分世界の力を誇示さえしなければ、誰からも疎まれることはない。誠がすべてのことから守ってくれるのだろう。だって、彼がそう言ったから。
「疲れただろう、もう眠った方がいい」
おもむろに両腕の拘束から解き放たれ、釦はもぞもぞとベッドにもぐりこんだ。それを優しげに見つめながら、誠は今後の予定を告げる。
「明日から、ナディア神官と魔法の訓練をして。どのぐらいできるかわからないけど、たぶん俺よりも長谷川の方が素質があると思う」
「うん……わかった、やってみる」
「それじゃ、おやすみ」
そう言って部屋から出て行こうとする彼に、釦は「待って」と声をかけた。
「どうした?」
「ごめん、足元にある私のバッグ、取ってくれないかな」
入り口付近に置きっぱなしにしていたそれを指差すと、誠は再びベッドの傍までやってきて「はい」と手渡してくれる。こんな風に彼を使っていることが、中学の同級生に知れたりなんかしたら大変だろうな、と釦は考えながらも礼を言った。
「本、読みたくって」
「図書館の?」
「そう。こんなことになるなら、自分のお気に入りの本を持ってきたかったんだけど」
「ファンタジーが好きだったよね」
「うん、高校に入ってからいろいろ読むようにはなったけどね。結局この本もファンタジーだ」
そう言いながら『旅人の物語』を取り出す。ずっしりとした感触に、何となく落ち着きを感じる。
最後まで読んでないけど、また初めから読み直そうかな。
そんなことを思いながら本を開くと、途端に睡魔が襲ってくる。誠の言う通り、どうやら相当に疲れているらしい。
「どんな本?」
「うーん、最後まで読んでないから何とも言えないけど、男の子と女の子が旅して、そこで起こる冒険……かな」
「作者は誰?」
「『夏階和央』って人。初めて読んだ」
あくびをかみ殺しながら雑談をする。
こうしていると、何となく中学時代を思い出す。それほど関わりがなかったけれど、時々図書室で話したっけ。
そんな釦の様子に気が付いたのか、誠は再び出口へと足を向ける。
「眠いのにごめん。じゃあ――おやすみ」
彼が扉を閉めると、緊張の糸が解けたのかすぐに釦も眠りへと誘われていく。けれど、完全な眠りに落ちる直前、あの本の詩が脳裏をよぎった。
少年は旅に出てしまう
過去を悔いてこの地を去る
少女はそれを待つばかり
いつ戻るともしれぬ 夢の跡地
いくら泣いてすがっても
悲しみも見せずさよなら と
背中を向けて歩き出す少年を
許してほしいとは 言えない
前へ 前へ
小さくなりゆくその背に 少女は
かける言葉も見つからなかった
少年は旅に出てしまう
過去を悔いてこの地を去る
少女はそれを待つばかり
いつ戻るともしれぬ 夢の跡地
一生会えないかもしれない と
微かに思ってしまう少女を
許してほしいとは 言えない
私は絶対に彼と離れない。その決意を最後に、彼女の意識は途絶えた。
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