ぬっぺっぽう
§
「……上手く行きすぎ、かな」
細やかな装飾に縁どられた鏡の前で、釦はひとりごちる。
用意された着替えは、シンプルなすみれ色の服だった。ごてごてしているわけでも、レースがふんだんにあしらわれているわけでもない。ワンピースのような気軽さを持つそれは、しかし軽くつかむと水の様にさらさらと流れ落ちる。まるで布の河のような可憐さで、高級な繊維でできていることが容易に想像できた。なんて着心地がいいのだろう。
それと同時に、若干の不安が釦を取り巻いた。普通、見ず知らずの人間にここまでするのだろうか、と。
確かに、釦は無理矢理異世界に連れてこられた身だ。最低限の衣食住は提供してもらわなくては困る。けれど一方で、彼女が今まで読んできた小説ではそれすらなされていない場合の方が圧倒的に多く、どこかでそれらの待遇を諦めていた部分があった。いわゆる、前知識というやつだ。
実際の釦には、豪勢な部屋と高価な衣服が与えられ、食事の保証もついている(らしい)。この世界の基本事項を教えてくれるのは、日本語が話せる王家に名を連ねる神官で、しかも魔法もレクチャーしてくれるという。快適すぎて、もはや何の不満も起こらない。その上、先に召喚されていた中学の優しい同級生が、細やかな気遣いを見せてくれる。
考えすぎだとは釦も思う。けれど、やっぱり何かが出来すぎているのではないだろうか。
だとしたら、裏には何があるというのだろう。
扉を開けると、誠とナディアが英語で何か話し合っていた。釦がそこにいること気付くとすぐに会話をやめ、ナディアは平然と「着ることができましたか?」と聞いてくる。なんだか自分がのけ者にされた気がして、正直愉快ではない。
けれど、考えてみれば釦が召喚されるまでは、二人とも英語で会話をしていたのだろう。ナディアは言うまでもなく英語の方が話しやすいだろうし、誠も一通りの会話はできるのだ。わざわざ二人きりの時に日本語で話をする必要などない。理性ではそう判断できる。
それでも、釦の心の深いところで疎外感は拭えずにいた。だから
「はい。見ていただけますか?」
ほんの少し嫌味を込めてそう釦が問うと、誠が微笑みながら「じゃあ、入ってもいいか」と優しく聞き返した。その様子から釦の心の中が見透かされていることを悟り、彼女の頬にサッと赤みが差す。幼稚だわ、私。
扉を大きく開き、彼らを招き入れる。すると誠は嬉しそうに口を開いた。
「よく似合ってる。着づらかったりしなかったか?」
「大丈夫。普通のワンピースと似た造りだったから」
「よかった。長谷川の肌の色によく映えてるよ。
ナディア神官はどう思う」
「とてもお似合いです」
可愛いや美しいとは違い、「似合う」なんて心がこもっていなくても平気で言える言葉だ。着る人を選ぶ服だとも思えない。それでも、お世辞だとわかっていても嬉しかった釦は、二人に感謝の意を伝える。
「ありがとう」
釦には世界がひっくり返ったとしても勝てない、美しく有能な姉がいた。彼女が着ればボロ布だってドレスに見えるというほど、完璧な姉が。この服だって、きっとあの人が着れば完璧に映えていただろうに、それだけが残念だ。
「本当に、素敵な服だよね」
別に何かの意味を含ませようと思ったわけではなかった。けれど、気遣いが濃やかな誠には何か感じるものがあったらしい。
「長谷川が着ているからね」
そう言って誠が髪に触れ、するりと手櫛で梳いた。
「――っ」
驚いたのは釦だけではない。ナディアも青空色の目を見開いて、まじまじと二人を見つめている。先ほどより赤くなった頬を感づかせまいと釦は下を向くが、彼は平然と「他の服も着てみたいか?」と聞いてきた。
「いい、大丈夫!」
釦が後ずさると、「そうか、もし何か欲しいものがあったら遠慮するなよ」と穏やかに言われる。その様子からは照れも、かといって冗談も感じ取れず、彼女は大いに戸惑った。
中学の時の彼は、こんな風に他人にべたべたと触れる人間ではなかった。外国のような空気に感化されて、スキンシップが激しくなったのか。
どうしたっていうのよ。
しかし心乱されている釦とは対照的に、誠はいたって真摯な態度で話を切り出した。
「今日は疲れてるだろうし、もう休んだ方がいい。明日からナディア神官と一緒に行動してみよう」
「え、もう?」
外を見ると、やっと日が傾き始めたというくらいだ。寝るにはかなり早い時間の様に思える。
「自分で考えてるよりも、ずっと疲れてると思うよ。俺もそうだった」
「でも、眠くもないし……」
「気付いてないかもしれないけど、さっきから瞬きばかりしてる」
釦としては急にそんな話を持ち出されても、不可解で仕方がない。大体、
「今は何時なの?」
そう釦が問うた瞬間、今までの穏やかさが嘘のように、空気がピンと張りつめた。
「え?」
明らかな空気の違いに、釦は何かまずいことを言ったのかと動揺する。一拍して、ナディアが緊張した面持ちで言葉を紡いだ。
「この国で『時計』を使っていいのは王だけです。国民は勿論、王子や私も、今の時刻を知らないのです」
釦はとっさにポケットに入れていた携帯電話を触った。無機質な冷たさ。
「仮にボタンが時計を持っているのだとしたら、必ず、誰にも見られないように保管しておいてください。壊してしまうのが一番ですが」
「もし、時計を持っているのがばれたら」
なんとなく想像はつくけれど。
「反逆者として捕えられ――事と次第によっては、死罪です」
心臓がガクンと下に落ちたような気がした。おなかの辺りがドクドクと言っている。現代のあらゆる優秀な機能が付いたこの薄い機械は、この世界では王の支配を超える。もしかして、それ以外の持ち物も――。嫌な想像が自然となされてしまう。
その様子を知ってか知らずか、なおもナディアはつらつらと述べ挙げた。
「また、それに準じるものが見つかっても同様です。王だけが許されたものを異世界の普通の人間が持っている、というのが問題なのです。この世界が劣っているという考えもできてしまいますから。それに牢は」
何、何なの。なんで急に。何か悪いことを言ったの? 釦の頭にはぐるぐると「なぜ」という単語だけが回りだす。なんでそんなに危険なの。受け入れてくれたんじゃなかったの。うまく行きすぎているくらいでしょう。王様って何。反逆者って。なんで、死ぬって、なんで、何、なんで――
「やめろ」
涼やかな声が割って入った。見上げると誠の顔がすぐそばにあり、その顔は今まで見たこともないくらいに冷たい表情をしている。
「長谷川は来たばかりだ。一気に言っても混乱するだけだろう」
「言わないと問題に巻き込まれかねません」
「だったら俺から話す。しゃしゃり出るな」
「……申しわけ、ありません」
「出て行ってくれ。彼女と二人で話をするから」