長壁(おさかべ)
「いや……無理だよ、無理無理!」
釦は頭を振って誠の言葉を拒絶した。ファンタジー小説を読むのは好きな彼女だが、だからといって魔法使いになりたいと願っていたのがはるか昔。今は現実と空想の境目がはっきりとつけられるようになった、ごくごく一般的な高校生の少女だ。どうして魔法を操れると思うのだろう。
「習えば大丈夫だよ」
「だって、それでも及川君はできなかったんでしょう? 私なんて頭も悪いし、魔法をまだ信じきれてないし、なおさら難しいと思う」
「それじゃあ、俺と一緒に妖怪を殺すか?」
殺す。
少し突き放したような言い方に、そして非日常的なその単語に、釦の心臓がドクンと跳ねた。彼は今、倒すでもなく退治でもなく「殺す」と言った。真剣な表情からは、冗談も誇張も読み取ることはできない。
「そ、れは」
「俺は、長谷川にはそんなことしてほしくない。来たばかりで混乱しているのなら、なおさらだよ」
お願いだから、と付け加えられては、釦も頷くしかない。
「できるところまで、やってみる」
そう言うと、誠はふっと表情を崩して釦の肩に触れた。
「ありがとう。――でも、無理はしないでくれ」
自分から求めておいて心配そうな顔をするなんて、卑怯だわ、と釦は思う。怒ることもできないじゃない、と。
ただ、やっぱり誠は笑っていた方がいい。彼の顔立ちは、白人のナディアと並んでいても、美しさのベクトルが違うからか何ら見劣りしない。しかし少しでもその笑顔が陰ると、急に周囲の温度が下がった気がしてしまうのだ。球体関節人形を見ているような、どこか落ち着かない気分になる。
そうやって気を取られていたせいで、このときの彼女は垣間見えた真実に全く気付いていなかった。
「俺と一緒に妖怪を殺すか?」
つまり、誠がこの世界に来てからずっと妖怪を殺してきたということ。彼はとっくに、何かの死を日常として受け入れていたということに。
§
とりあえずは釦の今後が決まったということで、彼女を宛がわれた部屋へ送り届けることになった。日はまだ落ちていないし、できればもう少し傍にいて精神的な負担を緩和させたかったが、釦の表情から疲れが見え隠れし始めたので断念した。まあ、一人で考えをまとめる時間もあった方がいいだろうな。誠はそう思って彼女の部屋の扉を開ける。
「すごい、きれいな部屋だね。素敵」
先ほどより少しだけ明るくなった釦の表情に、彼はそっと安堵の息を漏らした。あらかじめナディアに手紙で乞うていた通り、室内はちょっとした装飾品が置かれている。ドレッサーと、絵画と、机と、ソファ。あの短時間で用意したことを考えると上出来だろう。必要なものがあればこれから増やしていけばいい。
これで居場所が確保できればいい、と誠は思う。ちなみに誠自身の部屋は無機質なもので、どことなく地下牢のような圧迫感を感じる。その部屋を宛がったのはナディア側の人間ではなかったから、つまりは、そういうことなのだろう。
反吐が出る。
誠が意識を戻すと、部屋の説明をしていたはずのナディアがクローゼットを開きながら問うていた。
「着替えは、こちらにあります。一度着てみてはいかがでしょうか」
「うん、そうします」
「手伝いましょうか?」
「いいえ……恐らく一人でできるかと」
その会話の意図を理解し、誠は再び扉を開ける。
「じゃあ、俺たちは廊下で待ってるよ。難しそうだったらナディア神官を呼べばいい」
「ありがとう、及川君」
そうしてナディアと二人、石造りの廊下で待つことになる。少しの間を置いた後、おもむろにローブをまとった少女が声をかけてきた。
「……珍しいことだと思います」
「何が?」
「あなたが、彼女に優しくするのは、予想外の出来事でした」
やはり日本語で話すのは不便があるようで、どうしても遠回しな言い方になる。誠はその様子を無表情に横目で見て、
『言いにくいならこちらの言葉にしたらどうだ? 長谷川――釦がいるときだけ日本語にすればいい』
と声をかけた。彼女もそちらの方が話が早いと判断したらしく、即座に英語に切り替えて話し出す。
『ありがとう。では、いつも通りに。
それで、どうして彼女を助けようとするの?』
『同じ世界の、しかも知り合いだったんだ。助けるのが当然だろう』
『でも、あなたがこの世界に来た時の扱いとはかなり違うでしょう。ボタンは恵まれすぎている気がしてならないのだけれど』
『じゃあ、彼女に俺と同じ経験をさせろと? 本気で言っているのか』
あの執事といい、ナディアといい。そんなにも釦を苦しめたいのか。自然、誠の眉間に皺が寄った。
『いいえ、そうじゃない。ただ、彼女にとってのベストを選びすぎている気がして』
『どういうことだ』
すると、ナディアは言いにくそうに言葉を紡いだ。
『……彼女の傍に私を置いておけば、おいそれとは他の者が口を出すことはないでしょう。例えば王の側の――あなたたちを快く思っていない人間が近づきにくくなる。それだけで彼女の心理的負担はぐっと減るわ』
『そうだな』
『それに、彼女を妖怪退治に連れて行く気なんてないんでしょう?』
『魔法を習得できたら連れて行くつもりだよ。今はまだリスクが高い』
『彼女に素質があるかどうかも分からないのに? もしあったとしても、ある程度の時間は必要だわ。彼女がこの世界に慣れるくらいの時間が』
つまりは、すべてお見通しってことか。誠は心の中でそう呟く。
『俺は、何の準備もなくいきなり戦地に放り出されたようなものだ。彼女に同じ経験はさせたくない。それに、長谷川がこの世界にきてまだ1日も経っていないのに、明日から妖怪退治に行きましょう、と言うことが本当に正しいことだと思うのか? 魔法を習得しつつ、ゆっくりとこの世界と向き合って、それから現実を見てもいいんじゃないのか?』
『慣らす必要があるってこと?』
誠はその問いかけに対しコクリと頷く。彼女に一気に情報を与えるのは良くないと、そう判断したのは恐らく間違いではないだろう。それに、
『長谷川は魔法を使えるようになると思う』
『どうしてそう思うの?』
どうして、なんて。詳しく答えるのもばかばかしい。誠はただポツリと言い放った。
『俺は長谷川釦をずっと見てきたから』