蜃気楼(しんきろう)
誠が門番の兵士に何事かを伝えると、兵士はこくりと頷いて扉を開けてくれた。何となく予想していた通り、目鼻立ちのはっきりした白人の男性だった。
「さっきの手紙で話が回っているんだ」
それはそれは。こんなにもスムーズに話が進んでいいのかと言うほど、すべてが問題なく行われている。普通なら何者か、くらいは問われてもよさそうなものなのに。
『マコト様、こちらです』
城内に入るとすぐに、執事と思わしき黒服の白人男性が誠の名を呼んだ。釦の英語能力は同学年――高校二年生の平均理解値を下回っている。これは謙遜でも何でもなく純然たる事実だ。難しいと評判の大手予備校の模試とはいえ、偏差値が30代というのは如何なものかと先日担任から苦言を呈されたばかりである。
つまり何が言いたいかというと、いくら知っている言語だとしても即座に相手の言っていることが分かるわけではないということだ。城に入って誰に会うのかすらまだ教えてもらっていないが、恐らく誠を頼ることになる。そう思って釦は「通訳お願いします」と言う。すると
「勿論、必要ならするけど。大抵の場合は心配ないよ」
「?」
「ま、とりあえず彼について行こう」
広くて長い、その上少し寒々しい廊下を歩きながら、誠が口を開いた。
「そういえば、まだ言ってなかったな。俺はこの城の一室を借りて、そこで生活をしてる。この世界に俺たちを呼び出したのは王家だから、基本的な世話はしてくれるらしい。恐らく長谷川もそうなると思うよ」
まあ、当然と言えば当然のことだよね、と釦は思った。勝手に呼び出して「助けろ」と言ってきたにもかかわらず衣食住はご自由に、なんてなったら冗談じゃない。
「わかった」
「もし不便があったら俺に言ってくれれば、大抵のことはなんとかできると思う」
そう簡単に請け合えるのもまたすごい話である。一体誠は、この世界でどんな立ち位置なのだろうか。いまいち見当がつかない。
「及川君はこの国の王様の命令で働いてるの?」
釦がそう尋ねると、誠の眉間にほんの一瞬皺が寄った。が、すぐに見覚えのある柔和な笑みを浮かべて、
「一応そういうことになるかな。でも、主として関わりがあるのは神官のほうだ」
「神官と王様は別のものなの?」
「いや、同じ王家だよ。それについても追々、ね」
少し複雑そうな状況を悟った釦が口をつぐむと、道案内をしていた男性が突如話し出した。しかし、先述の通り釦は英語がほとんどわからない。代わりに誠が相手をする。お互いに無表情でやり取りされるそれは、釦の疎外感をほんの少しだけ強めることになった。
けれど。後々、釦は英語能力が低かった自分を幸運だと思うことになる。
『あなたはなんですか。随分と寒々しい身なりですね。乞食か娼婦のようだ』
『彼女に話しかけても言葉は通じない。俺と同じ異世界の人間だ』
『異世界異世界とあなたはそれしか言えないのですか。その単語さえ出せばすべてが解決されるとでも? 城は国民の税金から運営しているんです。身元もわからない餓鬼を育てる場所ではないんですよ』
『うるさい。ナディア神官には話を通してある。お前もそれは分かっているだろう』
『だからと言って、それだけでその娘の身の潔白が証明できたと? もし嘘をついていたら、あなたはどう責任を取るのですか』
『向こうの世界で、俺たちは知り合いだった。彼女がこの国の人間である可能性は万に一つもない』
『どうだか。ひと月ほど牢に繋いで尋問をかければ、こちらも安心できるのですがね』
『……』
『まあ、あんな小娘では一週間で気が狂ってしまうでしょうけれど』
『やめろ』
『おや、嫌なことを思い出させてしまいましたか。失敬失敬』
『黙れ。もし彼女に俺と……俺と同じようなことをしたら、その時はお前の体を粉々に吹き飛ばす』
彼らの話が聞き取れなかったことを、幸せだったと感じるようになる。
執事のような男性に案内された場所は、教室ほどの広さのごく簡素な部屋だった。そこにはすでに女性がおり、身に着けている白いローブから、これが先ほど誠の言っていた神官だろうと予想する。どうやらそれは当たっていたようで、
「こんにちは、ボタン。私は神官のナディア。ナディア・モンカペッツィオと申します。よろしくお願いします」
と自己紹介された。
へー、名前に対して随分イタリア的な名前なんだね、って、そんなことよりも。
「日本語……?」
「はい。私は神官として、古代の石碑や文献を読めるようになることが義務付けられています。その中に、大屋八郎が書いた文章がありました。そのため、私はあなたの言う日本語を少し使うことができます。またマコトにも言葉を教えてもらいました。まだまだ片言ですが」
「いや……すごいよ! 及川君が言ってたのはこのことだったんだね」
少しロボット的な科白回しだが、彼女が穏やかに微笑みながら話してくること、そして何より日本語を話しているということが、釦に親近感を持たせた。
「そう。ナディア神官はある程度の日本語を聞き取ることもできるから、長谷川は彼女と一緒に過ごした方がいいと思って。この世界のことも教えてもらえるし」
「もちろん、部屋は別に用意しますが、それ以外の場所ではできる限りご一緒していた方がいいと思います」
確かに、英語に疎い釦がこの世界の人と接触を図るのは至難の業というものだろう。
「でも、及川君は一緒にいないの? それに、妖怪退治をしないと元の世界には戻れないんでしょう? のんびりとこの城でくつろいでるわけにはいかないよね」
「ああ、そのことだけど」
そう言って誠は一度言葉を切り、少し眉根に皺をよせながら口を開いた。
「俺は今、この国の魔法を使ったりして妖怪退治をしている。でも、自分では使えないから、あらかじめ使えそうな魔法をかけてからあいつらの発生場所に向かってる」
なるほど。つまりはあの荷馬車の魔法も及川君がかけたものではないってことね、と、釦は一人納得してから先を促す。
「魔法って私たちには使えないものなの?」
「いや、ただ単に俺との相性が悪かっただけだ。こっちに来てからずっと勉強してるけど、全く実になる気配がない。だからこそ長谷川に頼みたいんだ」
「何を?」
「ナディア神官はかなり上位の魔法使いでもある。
彼女から魔法を習って、俺のサポートについてほしいんだ。きっと長谷川にならできると思うから」
ずいぶんと遅くなりました。
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もうあんなことはするまい。