逢魔時(おうまがとき)
本文が短かったため、逢魔時(本話の前半部分)と以津真天(本話の後半部分)を結合しました。内容には変わりありませんが、話数が変化しています。申し訳ありません。※題名は内容に即した方を引き継いでいます。
読むんじゃなかった。それが『旅人の物語』という小説を読んだ長谷川釦の感想だった。読むんじゃなかった。
インターネットでの評判が良かったから是非、と、蝉が全力で存在を主張するような時期に図書館に来たが、これでは時間の無駄遣いだ。かろうじて高校生のお小遣いを無駄にすることはなかったけれど、それでも釦の憤りは収まらない。なんでこの小説がいい評価なのよ、と心の中で悪態をついた。
文章は下手、日本語も所々間違っているし、導入もぎこちない。何よりこの作品はアンハッピーエンドだった。いや、実際には彼女はあと2ページほど読み残しているので、もしかしたらもしかすると大どんでん返しがあってハッピーエンドになるのかもしれないが、それでも釦は不愉快だった。現実の世界がこれほど不幸せに満ちているのだから、物語くらいは最後には幸せになるべきだ、というのが釦の持論だった。
最初の時におかしいと思ったんだよね、なんだか訳わかんない詩が冒頭に乗せられていて、おもいっきり不幸臭漂わせてたし。しかも途中途中作中歌として引用されてたし。
そう思いながら彼女は読みかけの本を机の上に置き、少しの間逡巡した後バッグの中にしまいこんだ。図書館に置いて帰ろうとも思ったのだが、今は夏休み中だ。家でふて腐れながら残りの数ページを読むのも面白いかもしれない。
釦は他にも何か借りていこうとバッグを肩にかけ、そっと席を立つ。すると、隣に座っていた老人がさりげなく椅子を引いてくれた。図書館にはこんな優しさと、それを包み込むような静謐な空気が同居している。だからこそ、釦は家にいるより図書館に通うのが好きだった。
こんな風にして、小さいころから友達も作らずに図書館に足繁く通う娘を、両親は早々に「社会不適合者」として扱った。彼らの考えていたごく一般的な子供像は、休み時間には友達と追いかけっこをし、放課後は友達の家でゲームあるいは学校で遊ぶ、というものであり、釦のような人間は必要としていなかった。いや、予想していなかったという方が正しい。それを逸脱してしまった釦は、両親からの冷たい視線に言い訳するでもなく、自分も彼らを「異世界の住人」として扱うことで心の平和を作り上げた。「何を考えているかよくわからないモノ」というのが、ここ数年のお互いの認識だ。もし釦がいなくなっても、彼らは何の損失も感じないだろう。
釦はたまには小説以外のものも読んでみようかしら、と人気のない場所「民俗・民話」というコーナーへ足を向けた。民俗って確かあれだよね、お墓とか、昔話とか、妖怪とか。そんなことを思いながら、古ぼけた一つの冊子を手に取る。明らかに大手の出版社が作ったものではなく、ともすると学校で配られるパンフレットのような、そんな安っぽさが伝わってくる本だった。表紙には墨字で右上に大きく「百」。百ってなんだ、百って。真ん中は何の絵も文も描かれておらず、左下に小さく大屋八郎と名前が乗せられていた。作者名だろうか。そんなことを思いながらも、ゆっくりとページをめくった、直後。
まばゆい光が釦を包み、一瞬のうちに彼女の姿は消えてしまった。
この超常現象に気付いた人間は、誰一人としていない。
釦が光にくらんだ目を慣れさせるとそこは、だたっぴろい草むらの中だった。遠くには水車小屋が見える。
「……え?」
上を見上げると、太陽は身を焦がすようなぎらぎらとした輝きではなく、まるで春のようなしおらしさで空に浮かんでいる。ピチチチ、と鳥の鳴き声。
おかしい。おかしい。おかしい。釦の脳内ではその言葉がぐるぐると巡回する。先ほどまでクーラーが控えめにかかった図書館にいたはずなのに、どうみても室内ではない上、肌にあたる日差しは夏のものですらない。というよりも、ここが日本のようには見えない。一瞬光に目がくらんだだけで立っている場所が変わるなどありえない、ということは、つまり。
「そっか、夢だ」
そう言った瞬間心地よい風が吹き抜け、足元の草が彼女の足を撫ぜた。
本音を言ってしまえば、古びた本が突如光り輝くことすらあり得ないことであり、それは釦もしっかりわかっていることだ。けれど、本が突如光り輝いて見知らぬ地に飛ばされたということよりも、自分でも気づかぬうちに眠ってしまっていてすべてが夢だという方が、まだ彼女にとって許容できることだった。例え足首にあたる草にくすぐったさを感じていても、例え肩にかけたバッグの重さを認識していても。
「――おい!」
どこからか男の人の声が聞こえる。きっと図書館で誰かが私を起こそうとしているんだな、と希望を抱いて目を瞑ってみるが、一向に目覚める気配はない。声はどんどん大きくなっているというのに。そして、かすかに聞こえていた足音が釦のすぐ近くで止まった。
何か言われるのかな。これは夢だ、とか? お前を殺す、とかだったらどうしよう。
そんな妄想をよそに、聞こえてきたのは驚きの混ざった涼やかな男の声だった。
「……長谷川?」
「え?」
「なんで……ここに」
釦がゆっくりと目を開けると、そこには。中学の時の同級生、及川誠が立っていた。
有名な外国の児童小説で、衣装ダンスから異世界に行く話があるし、数年前のアニメ映画でもトンネルをぬけて神々のいる異世界に行く話がある。自分がどこかに行く以外にも、家の地下に小人が住んでいる話があったり、急に魔法学校から手紙が来て日常ががらりと変わってしまったりと、本の中では割と身近に異世界と言うものが存在する。けど。
「夕襲の、国?」
「そう。ここの国の名前」
呆然と立ち尽くす釦の手を取って、誠は「まずは城に行こう」と言ってくれた。城というのも随分なじみのない言葉だが、ここが日本でないのならおそらくキャッスルに連れて行かれるのだろう。夢だったら随分と凝った夢だこと。
「言っておくけど、夢じゃないよ。長谷川は――俺たちは、いわゆる異世界トリップをしたんだ」
「……あ、……やっぱり、現実、なんだ」
御者のいない、つまりは馬が台車に繋がれているだけの簡素な荷馬車がどこからともなくやってくる。それに乗せられて、ガタゴトと草原を走るなかで、誠がゆっくりとこの世界のことについて話してくれた。
「さっきも言ったように、ここは夕襲の国。見た目は近世ヨーロッパに一番近いかな」
「うん、及川君の服装を見てそう思ったよ」
日本のセーラー服を着ている釦に対して、イギリスの紳士が羽織っていそうなモーニングコートを着ている誠の組み合わせはなんだかとても滑稽だ。シャーロックホームズと話しているみたいで。
「あんまり驚かないんだな」
驚く、というより、事態が脳内でうまく処理しきれずにパニックを抑えるだけで精いっぱいだ。自然と表情はなくなってしまう。しかし釦がそれを伝えてもどうにもならないので
「ん。今は、ね」
とだけ答えておいた。
「ここでも魔法とか、妖精とかいう概念はあるんだ。近世のヨーロッパでそれらが存在していたように。ただ、この国では本物の魔法使いがいて、俺たちの物理法則では考えられないようなことができる。例えば、この馬」
そう言って荷台を大人しく引いている馬を指差す。
「この馬には魔法がかけられていて、俺が場所を言えば自動的にそこまで連れて行ってくれるようにできてる」
「なるほど」
「でも、日本の妖怪のようなものは存在しなかった」
それはそうだろう、と釦は思った。バンジーならともかく、こんな田園風景にろくろ首なんかが出てくるところなんて想像ができない。が、
「しなかった?」
「そう。今は、存在する。こいつらを狩るのが、俺たちの役目だ」