虫の話
【閲覧注意】少々グロテスクな描写が含まれています。ご注意ください。
インターホンを鳴らすと、はい、とすぐに返事が返ってきた。僕が加奈子はいますか、と用件を伝えると、ええいるわよ、ちょっと待ってね、という声の後、扉が開いて加奈子の母が顔を出した。
「こんにちは、透くん」
「こんにちは」
挨拶を交わすと、中へ招かれて玄関の扉をくぐる。家の中は蛍光灯の灯りがついておらず、夕焼けの光が差し込んで廊下は赤黒く染まっていた。
「わざわざ来てくれたの?ありがとうね」
「いえ、これくらいなら。それより加奈子、何かあったんですか?」
それがねえ、と加奈子の母が首を傾げる。
「どうしても学校に行きたがらなくて、もう一週間ずっと部屋に引きこもってるのよ。部屋に入ろうとすると怒るし、ほんとどうしちゃったのかしらあの子」
僕はそうなんですか、と返事をしながら階上を見上げた。東に面した窓からは光が入らず、階段の奥へ行くほど闇が深くなっている。階下から見えるのは突当たりの曲がり角までであった。
「すいません、加奈子の部屋までプリント持っていっていいですか?」
「ええ、それはいいのだけれど…」
いてもたってもいられなくなった僕は、加奈子に何か言われたらごめんなさいね、という加奈子の母の声を背に、二階へと向かった。
ゆっくりと階段を上り切ると、ドアの前へ立つ。僕は小さく深呼吸をしてから、扉をノックした。コン、コン、と薄暗い廊下に音が響く。返事は無い。
「加奈子、俺だけど」
「……透?」
少しの間の後、返事が返ってくる。
「うん。入っていい?」
再び少しの間の後、いいよ、という返事。ドアを開けて中へ入る。
部屋の中は薄暗かった。この家には電灯が無いのだろうか。勉強机やベッドは整然としており、ベッドに至っては布団の乱れすら感じられなかった。
「これ、一週間分のプリント」
「…机の上に置いといて」
加奈子は開いた物置きの前に座ったまま、僕に背を向けて言う。暗くてよく見えないが、何かの容器を抱きかかえているように見えた。加奈子の母が言っていた通り、どうにも様子が変だ。
僕がなにも言えないでいると、
「ねえ、こっち来て」
と笑いながら加奈子が言った。考えすぎだろうか?僕は、はいはい分かりましたよ、と悪態をつきながら加奈子の傍へ行き、座る。加奈子は相変わらず僕に背を向けていた。
「あのさあ、何かあったの?一週間も学校来ないとかさあ、皆心配してたよ」
僕の問いに加奈子はふふふ、と笑う。
「なあ聞いてるのかよ…」
「ねえ、ロイコクロリディウムって知ってる?」
ロイ、なんだって?
突然の問いに素っ頓狂な声を上げる僕。
「ロイコクロリディウム」
加奈子は一音ずつ、もったいぶるように繰り返した。
「カタツムリに宿る寄生虫なの。鳥の糞に紛れて体内に入って、カタツムリの脳を操っちゃうんだって。それでね、脳を操られたカタツムリはね、自分から鳥の餌になっちゃうんだって。」
僕は、加奈子がこれほど楽しげに話すのを聞いたことが無かった。まるで無邪気な幼稚園児のようにはしゃいでいる。
「ロイコクロリディウムはね、カタツムリの触角に住むの。触角が七色に光って凄く綺麗なんだあ」
加奈子はたまらない、といった様子で体を揺らした。手に持った容器がたぷん、たぷんと音を立てる。なにが入っているのか暗くてよく見えない。
ははは、振り返ったらのっぺらぼうだったりして。心の中で茶化すように呟いて、容器を覗きこむ。
薄く緑色に染まった水の中で、何かが浮かんでいた。膝立ちになって手を膝に置き、ぐっと前のめりになる。糸、だろうか。いや、それにしては太すぎる。それに何か動いているような、いや、泳いでいるように…………!!!
僕は後ろに大きく倒れ込んだ。加奈子はあれからずっと体を揺らしている。たぷん、たぷんと容器が音を立てる。
「あ、あの、俺もう帰る。またな」
僕が立ちあがろうとすると、
「もう、帰っちゃうの?」
と加奈子が言った。僕があっけにとられていると、加奈子が首をこちらにぐるりと向けた。いつも通りの加奈子の顔だ。のっぺらぼうじゃない。
少し息を付いていると、加奈子は容器を丁寧に脇に置き、四つん這いになってこちらの方へ向かってきた。毛穴の一つまで見えそうな程顔が近付く。加奈子の瞳が艶やかに揺れていた。
「ねえ、もう帰っちゃうの?」
「あ、あう、あ…」
僕はどぎまぎと相手の顔を見つめる事しか出来ない。
「ねえ、もう帰るの?ねえ、帰るの?もう、ねえ」
「か、加奈子…?大丈夫か…?」
やはり加奈子の様子がおかしい。一旦落ち着かせようと肩を掴もうとした時、気付いた。
瞳が揺れているんじゃない。後ろから何かが押しているんだ。
次第に動きは激しくなり、加奈子の眼球は凸凹と波打つように震える。
そして黒目に一つ、ぽつりと白い点が浮き出た。ぐっと点は広がり、やがて中身が押し出されるようにバタバタとうねりながら飛び出す。
「ひっ…!」
必死で立とうとするが、腰が震えて上手く立つことが出来ない。
2センチほど飛び出した糸は目から零れ落ち、ぐねぐねとフローリングの上を這った。
「かえるっもうっかえるっ孵るっ孵るっ孵るっ孵る」
目から、耳から、口から、ありとあらゆる穴から虫が這い出す。ぼとぼとと俺の服に着地し、染みを作り出した。
「うっ、あああああああああああああああああああ!!!!」
僕は「そいつ」を突き飛ばすと、滅茶苦茶に虫を払いのけて、震える足で部屋を走り出た。転がるように階段を降り、靴を履く。
「あら、もう帰るの?」
扉の取ってに手を伸ばしたまま振り返ると、加奈子の母が首を傾げたままこちらを見ていた。
「あ、は、はい、その、加奈子によろしく言っておいて下さい」
加奈子のことを言う気にはならなかった。一刻も早くここから抜けだしたかったし、凄く、凄く嫌な予感がしたからだ。
「そうなの、もう帰るの」
はい、と急いで返事をしてドアを開く。
「帰るのねえ、もう帰るの、そうなの、かえるのねえ、もうかえるの」
俺はがむしゃらに玄関を飛び出し、一度も振り返らず家へ帰った。
自宅のドアをくぐり、急いで施錠する。ただ事でない様子を見て訝しがる母の声を無視して自分の部屋に入り、布団にくるまる。暫くの間ただ恐怖に怯えて布団で震えていた。
ようやく震えが収まり、一息つく。心が落ち着くと、あの時の記憶が蘇ってきた。うううう、と唸ってかぶりを振るが、どうしても頭から離れてくれない。
ねえ、ロイコクロリディウムって知ってる?……カタツムリに宿る寄生虫なの。…脳を操られたカタツムリはね、自分から鳥の餌になっちゃうんだって。……
「ロイコクロリディウム」
無意識に僕の口から出た声は、これ以上無いくらいに弾んでいた。