失はれた三日間
七月二十四日
車が人にぶつかった。
その現場を、まるで映画のワンシーンのようにぼんやりとしか見ることが出来ない。だって、そうだろ? 今さっき、待ち合わせ場所にやっとついて、手を振ってその名前を呼ぼうとしたら、そいつの所に車が突っ込んだ。
冗談にしか思えないよな? 僕は、そんな悲劇が似合うような特別な人間じゃないんだ。毎日、普通に生きて、笑って、喧嘩する。そんな何処にでもいる、普通の男なのに。どうして、そんなものを知らなくていけない?
やっと、見つけた自分より大切な人間が、目の前で命を失おうとしているなんて、どうして認めることが出来るんだ?
これから始まる幸せが、突然消えたのだ。
掴もうとした瞬間に、消滅したのだ。
笑うしかない、思いっきり笑ってやろう。
あははは、あははは、あははは。
――何見てるんだよ、あんたたち。僕が、そんなに面白いか? 大好きだった人間を、目の前で失った自分がそんなに面白いか?
殴った。目の前の、何処にでもいるようなちゃらちゃらした馬鹿みたいな男を殴った。そいつは、血走った目で僕を睨みつけて、殴りかかってくる。
痛くねえよ。痛いわけないだろ。アイツのほうが、もっと痛かったに決まってるんだ。
もっと、殴れよ。アイツと同じくらいの痛みを僕にくれよ。なぁ、誰でもいいからさ。
――頼むよ。誰か、僕を殺してくれよ。
七月二十一日
世界は夏だった。
空から、真っ赤に輝く太陽が、焼けつくような熱を放ち、これほどまでかというくらいに存在感を示している。もう少し、月のように質素な佇まいをしてくれないだろうか。そうすれば、もう少し涼しなるだろうに。
僕は、今日約二年ぶりにこの町に降り立った。人のいない駅前に、田んぼが続く道。
見慣れたその光景は、今では少し懐かしい。
懐かしいといえば
「シロちゃん身長伸びた? 」
横を歩く一人の女。黒髪を腰まで伸ばし、目鼻の整った顔。白いワンピースに、麦藁帽子。そんな着飾らない格好だというのに、彼女が着ると不思議だ。まるで、ウエディングドレスを身にまとった新婦のように、幸せで綺麗な雰囲気になるのだ。
笑顔で、楽しそうに歩く。
龍耶蒼衣。
幼稚園から高校までずっと一緒に居たおそらくは、一番の親友でもある少女。
僕らは、二年振りの再会を果たした。
「どうかな。身長なんて、ここ最近計ってないし」
「絶対に、伸びたよ! 」
自分の背と、僕の背を見比べながらアオはそんな風に言う。少しだけムキになっているようだけど、どうしてだろう。身長が伸びてると、何かまずいのだろうか。
「ま、でも高いほうが格好いいしね」
今度はうんうんと頷く。彼女の中で、問題は解決したらしいが、何か腑に落ちない。
「だけど、元気そうで良かった。」
「まあ、うん。元気にしてたよ」
「ご飯とか、ちゃんと食べてる? レトルトばっかりじゃない? 」
「いや、やっぱコンビニ食とかが結構多いかな」
苦笑いをしつつそう言った。
一人暮らしでの自炊というのは、どうやっても適当になる。作るのも、片付けるのも自分。正直な話、満腹になったあとの片付けは苦痛以外の何ものでもない。
それに、カップ麺やレトルト食品はかなり値段も下がってきているので、どうやってもそっちに頼りがちになってしまう。
「駄目だよ! 栄養のバランスを考えないと体壊しちゃうよ」
「……これからは、気をつけます」
しっかりものアオに、何処か抜けている僕。
いつも二人で居たために、中学時代には馬鹿夫婦なんてあだ名をつけられた。もちろん、僕は尻に敷かれる旦那の役だ。
「あ、とんぼ」
アオが指差す方向を見ると、赤い色をしたトンボが群れをなして飛んでいる。
不意に、その中の一匹がふらふらと近づいてきて、アオの肩に止まる。
「あ、止ま……」
「しっ。静かに」
右手の人差し指を自分の口にあて、左手をそうっとトンボに近づける。人間に慣れているからだろう。トンボは逃げない。
後ろから――そっと羽を掴んだ。
「おお! 」
心底驚いた風に、手を叩くアオ。
「まだ、腕は鈍っていないな」
笑いながらトンボを掴んでいた手を離す。何事も無かったような、ゆったりとした動作で、トンボは再び群れへと加わっていった。
「変わらないね。シロちゃんは」
「うん? 」
「昔もトンボ取りが流行っていたころ、捕まえても直ぐに逃がしてたよね」
「そんなこともあったっけかな」
トンボ取り。野球。サッカー。山の探検。秘密基地。
ドラマと同じくらいの周期で、子供の遊びは変わっていく。それぞれの遊びがどんなものだったかなんて、いちいち覚えていやしない。
「何にでも優しいもんね。動物にも、お年寄りにも、子供にも。…………女の子にも」
「……ちょっと待て。何で最後のとこだけ、ヤケに間が」
にやりと。ヤケに悪戯っぽい顔で、確かに笑いやがった。
ぞくりと、背筋に悪感が走る。
やばい。二年振りだというのに良く分かる。こういう顔をしているときのアオは何か変な事を考えているときだ。
「まりちゃん、ゆりちゃん。それに、ほのかちゃん? 」
思い出しながら、並べられていく女の子の名前。その名前が、一つずつ言われていくにつれて、心臓が鳴るスピードが速くなっている。うん、間違いない。彼女の、放つ言葉が僕の命を削っていく。
「それに、みきちゃんにゆりちゃんに」
「いや、まじで」
アオの肩をがっと掴む。
「ごめん。もう『優しくしたから付き合ってると勝手に勘違いして、○角関係に加わっていった人間』の名前なんて連呼しないよ」
がくりと膝から落ちる。完敗だ。再起不能だ。
――なぜに、二年ぶりにあった友人に、トラウマを掘り返されなくてはいけない。
「……何か怒ってる? 」
「あはは、二年間も連絡の一つもよこさなかった事に凄い、滅茶苦茶、これでもかってくらいに腹をたてているだけだよ。別に怒ってないよ」
――いや、それ世間一般では、怒っているというのだが。
「……あのな。僕だって、理由が無くて二年間も帰って来なかったわけじゃないぞ」
そう。理由も無く、二年間も故郷の土を踏まなかったわけではない。
それには、それなりの理由があるわけで。
…………あれ? 理由ってなんだっけ。
「まぁ、別にいいんだけど。シロちゃんだって、あっちの生活がいろいろ大変だったわけなんだろうし。こんな田舎町でほそぼそと生きている女の子のこと放ったらかしにするのも仕方ないよね」
何か妙に言葉に棘があるし。
「でも……シロちゃん」
両手で、肩をつかまれて、自分の方に向かせる。彼女の大きな二つの目で、見られた。大変恥ずかしい話なのだが、正直キスでもされるかと思った。
「……好きな女の子は一人に絞っておいたほうがいいよ? 」
ぷっと、吹き出してそんなことを言う。口を開いたまま半ば意識を失いつつ、そこに立ち尽くす。二年ぶりの再会を果たした幼馴染の怒りはかなり強烈なものらしい。
「でね、白も子供の頃は凄い可愛かったのよ」
「ああ、それは良く分かります。でも、今のシロちゃんだって凄い格好いいですよ? 」
「おお! これだけ愛されて白も幸せだな」
「はいはい。そこで、恥ずかしい議論をしない、お二人さん」
出来上がった唐揚げと、焼いたさつま揚げを載せた皿をテーブルの上に置く。我が母、静江は焼酎をぐびぐびと飲んでいる。アオも、そんな母に勧められて酒を飲んでいる。顔が、すこしだけ赤い。
「待ってました。白の、さつま揚げ焼きって絶品なのよね」
「そんなの、ただフライパンで軽く焼いただけだろ」
――が、母はそんなこと気にする様子も無く、さつま揚げを口に入れては酒を飲んでいく。さっきも、結構の量の食べ物を腹にいれたはずなのに、どうやらまだまだ入るらしい。この人の胃袋も、アルコールの限界量も、息子である僕でさえハッキリ言って計り知れない。
「母さんのペースで飲むなよ? すぐにつぶれるぞ」
「うん。…………この二年間、嫌というほど、味わった」
どよーんとした声で笑いながら空き缶を倒す。
……な、何か嫌な思い出があるんだろうか。気になるが、聞かないことにしておく。
「やっぱり、酒と言ったら焼酎なのよ〜。チュウハイしか飲めない何て言う若造は甘い! 甘すぎる!! 」
子供みたいに騒いでいる母を見て、内心溜息をつく。
数時間前の話だ。
アオと共に、家に帰宅してみれば、一升瓶をもった母親が「白ぅ。つまみつくって〜。アオちゃんは一緒に飲もう〜」などと、拒否権の無い命令を下した。ちなみに、そのとき母親が持っていた瓶は一本目ではなく、四本目だったことがのちに判明する。
で、こんな事になってしまったわけなのだが。
普段は、近所でも、明るく綺麗なおばさん(本人はお姉さんのつもり)として評判らしい。
だが、酒が入ると一瞬でただの酔っ払いだ。しかも、飲む酒の量が半端じゃない。父親が、死んでからその量は、さらに増えて最近では肝臓のほうが大丈夫なのかと、息子の心配の種になっている。
「……あう〜、柿ピーが無い」
そんな息子の心配をよそに空っぽの袋を、寂しそうに見つめる母。
「白、蒼衣ちゃん。買ってきて」
「はぁ? こんな時間にやってる店なんて無いぞ」
「探せばあるかもしれないでしょぉ。いいから、行ってきてよぉ」
甘えた声を出しながら、その場で地団駄を踏む。ただでさえ、ぼろい床が底が抜けそうなくらいに振動する。
「わかった、わかった。買ってくるから、静かにしな」
そう言って、母をなだめ。仕方が無く、財布を手にとった。
「じゃあ、行くけどさ。アオはどうする」
「そうだね、私も行こうかな」
そうやって、僕らは外へ出た。
昼間と同じ道を歩く。
結構な間隔を置いて街灯が設置されているから、どうしても暗い場所と明るい場所にわかれてしまう夜の道。
聞こえるのは、蝉の声。鈴虫。そんな、夏の音たちだけだ。
車やバイクの音なんかは聞こえない。
明かりが、僕らの影を伸ばす。伸びた影は、僕らなんかよりもずっと大きくて。小さい頃、二人で影ふみをしたことを何となく思い出した。
「……ここは、いつでも静かだな。何も聞こえないや」
頭の後ろに手を組みながら、言った。空には月が浮かんでいる。
――今日は、満月だった。
「そうだね。この町はきっと何も変わってないから」
アオは手を後ろに回して、楽しそうに笑っている。
「ねえ、シロちゃん。懐かしいって思うのって、一体どんな気持ち? 」
「どんな気持ちって言われてもなぁ」
「私は、ここから外に出たこと無いからよく分からないんだ」
「お前も、僕と同じ大学受ければ良かったのに。そうすれば、しょっちゅう会えただろ」
やや間を置いて
「――だね、そう出来ればよかったのに」
そう、しみじみと言った。そのときどうしてだろう。まるで、人間が長い年月を、噛み締めて吐き出す言葉のような、終幕染みた声に聞こえた。なぜ、そんな感慨を抱くのか?
自分でも良く分からない。
「ま、僕と同じ大学なんてレベルが高くて無理か」
何となくあははは、と冗談を織り交ぜて笑いとばす。それでも、何かが心の奥で引っかかってる気がした。
「ねえ、今から凄い恥ずかしいこと言うから、聞き流してね? 」
「……聞き流していいことなら、言う必要有るのか? 」
「シロちゃん、デリカシー無さすぎ〜」
数少ない、電灯の下。僕らは、立ち止まった。切れかけてる電球が、ぴかぴかと点滅する。
明るくなると、世界の中心にいるような。
暗くなると、世界が終ってしまったような。
それが繰り返されることで、まるで不明確な世界にいるようだった。
「私は、二年間、シロちゃんに会えなくて本当に寂しかった。なんていうか、胸の奥が痛くなるようなそんな気分になるんだ。シロちゃんのことを考えると」
その言葉の一字一句。不意に、懐かしい感情を思い出した。
高校時代、それは突然やってきた。アオを好きになってしまったのだのだ。
別に、何か特別なことがあったわけではない。
いつも通りに鞄を両手で持ち、先を歩く僕の背を「待ってよ、シロちゃん」と言いながら、とことこと走って追いかけてくる。そんないつも通りの姿に目を奪われた。呼吸が苦しくなって、胸が締め付けられるように痛くて。
――アオが好きだ。
あまりに呆気なく自分の中に芽生えたその感情を素直に認めた。
だけど、大変なのはその気持ちに気が付いた後だった。何度その言葉を、言おうと思っただろう。
でも、それを口にしてしまうということは、今までの僕らの関係を変えてしまうことだ。その先に、待っているのは、幸福な始まりか二人の関係の終わりか。
それは、誰にも分からない。
正直、滅茶苦茶悩んだ。放課後に軽く言おうか。それとも、屋上にでも呼び出して言おうか。ラブレターなんて何枚書いたか分からない。未だに携帯には保護状態で残っているメールが無数にある。
結局、諦めた。確率が微妙な恋人同士の幸せより、確実な友人同士の幸せを選んだんだ。
「何か、話してよ、シロちゃん。黙ってると……困る」
「えっと、そ、その話ってさ……」
瞬間、彼女の右手が上空に上がって。
バン。
そのまま、強烈な打撃が頭を直撃する。
「シロちゃんのスケベ! 聞き流せって言ったじゃない」
「何か話せって言ったじゃないか! 」
「え、えっとそれは例えば今の内閣がどうかとか。企業の買収がどうとか……そういう話だよ」
しどろもどろになっている。さっきの、あの話の内容は何だったのだろう。
「…………」
無言の視線を送ってみた。
「な、なに。シロちゃん」
「……いや、相変わらずアオは可愛いなって」
昼間のお返しにそんな言葉を言ってやった。予想通りアオは顔を真っ赤にさせて俯く。「ば、ばかぁ。何言ってるんですか? 」
照れると敬語になるくせはまだ直っていない。それを確認して、彼女の横を歩く。
正直なところ、今彼女のことが好きなのか良く分からない。別に、他に付き合っている人間がいるとかそういうわけではない。二人で過ごしてきた長い時間のことを思うと今でも胸が苦しくなる。
だけど、どうしてだろう。素直にそれを認めれない自分がいた。
中学の時に、僕の父親は死んだ。いわゆる末期がんだった。
余命は長くないって宣告されて、ちょうど宣告されたのと同じくらいに簡単に逝ってしまった。
葬式が一段落をして、親戚も一通り帰った夜。母と一緒にお酒を飲むことになった。いつものような豪快な飲み方ではなくて、ちびちとした寂しい飲み方だった。その中で母ポツリとこんな言葉を言った。
「なんでだろうねぇ。人間誰かと一緒に生きていれば、必ずどちらかが先に死ぬ。結局、最後には悲しみが待ってる。誰とも、仲良くならずにずっと一緒にいれば、別れることも無いだから、一人で生きているほうがずっと幸せなはずなのにね。……それなのにどうして、誰かと一緒にいたいと思うのだろう」
そんな言葉を呟く母の姿は、この日、恐ろしいくらいに小さく見えた。
――どうしてだろう。今、あの日の言葉を鮮明に思い出している。
七月二十二日
夏場の川に、八百屋で買ってきた大きなスイカをひたす。冷蔵庫で、冷やすのもいいが、川の方が、やはり美味しい。
「スイカはやっぱり塩! 」
岸の方で、アオがそんな風に文句を言った。
ちなみに、僕は冷たい水の中に足を入れている。
「だってさ、塩つけると甘くなるとかいうけど、それどうよ? 甘くするためなら砂糖をつければいいじゃん」
「分かってないよ、シロちゃん。普段使うとしょっぱい物が、スイカにかけると甘くなってしまう。そういう感動を味わいたいじゃない」
「いや別に、スイカで感動したくないな……」
「ぶー、お店に来るお客さんもスイカは塩だって言ってるよ? 」
アオが、働いているのは母の経営している美容室だ。
アシスタントを雇うほど、繁盛していない母の店。休日でもほとんど客が入らなかったりする。正直、まともな給料が払われてるか心配だ。下手すると、昼飯にスイカをだしてそれが給料なんてあの人なら言いかねない。
「ちゃんと、給料貰ってるよな? スイカじゃないよな? 」
「……? 当たり前だよ。変なシロちゃん」
さらに不思議なことだが、アオは僕の母親のことを尊敬していた。アオの言葉で言うなら、『自然体で強い人』なそうだ。
あのだらだら母親が人から尊敬されるとは、正直信じられない。酒癖が悪くて、休みの日は一日中、下着姿でいるような人であるというのに。
「さて、スイカはこのままここに置いておくとして、だ。アオどっか行きたいところある? 」
「う〜ん、どうしよう」
アオは腕を組んで考え込み始めた。そんな様子をだまって見ていたのだが、ある妙案が頭の中に浮かんできた。すぐさまそれを実行に移す。
手から水をすくい上げそのまま彼女が居る方向へ。
パシャ。
「きゃ……シロちゃん! 」
ちょっとした冗談のつもりだったのに、アオは頬を膨らませて怒った。
「あはは、ゴメンゴメン。真剣に悩んでいるアオを見たら、水をかけたくなった」
「もう……こっちは岸なのに。卑怯だよ」
「だから、ごめんって」
「まあいいですけど。シロちゃんの悪戯は昔からだし」
僕は、川の中から出て彼女の傍へ腰をおろす。さらにしばらくの間、アオは思案していた。無論、悪戯はしなかった。
「考えてみたんだけど、海に行かない? 」
五分くらい経って、アオはポツリとそう提案してきた。
「海か……いいな」
正直、東京に行ってからしばらくの間、海などに行ったことはなかった。夏になれば、バイトばかりしていたし、とてもそんな余裕は無かった。
うん、なかなか良いアイディアでは無いだろうか。
「……鼻の下伸びてる。何か変なこと考えてない? 」
「そんなことは無い! 」
「その強烈なまでの否定……怪しい。けど、いっか」
アオは立ち上がる。それにつられて僕も立ち上がる。
「善は急げ! シロちゃん」
そう言ったかと思うと、アオは僕の腕に自分の腕を絡めて走り始めた。走るたびに、あんまし大きくない小振りな胸に腕が当たる。
恥ずかしい。
というか、腕を絡めるなんて初めてだからその事実が恥ずかしい。
けど、嫌じゃなかった。好きな女の子とそうやって走れるのはたまらなく幸せだったから。
常夏の海。打ち寄せる波。火傷をしそうなくらい熱い砂浜。恋人たちは、笑いながら水を掛け合う。
「そんなのが、僕の基本的な海のイメージであったわけだが」
だが、アオに連れられてやってきたのは……生臭い漁場だった。空には、カラスやかもめが糞を落とすタイミングを狙うかのごとく飛翔している。地面は、真っ白で糞だらけ。
「海といったら、魚。魚といったら漁場だよ? 」
意気揚々と答えるアオ。ああ、思い出したよ。これと、同じ。全く同じことを、高校時代にもやったよ。……人間って、何で同じ間違いを繰り返すんだろう。
ベチャ。
目の前に落下する糞。冷や汗が背中にこぼれる。
「でさ、何しにここへ? 」
「無論、魚を見るためだよ」
「いや、それなら水族館とかさ」
「水族館の魚は食べられないでしょ。魚を見て、気に入ったのがあったら少し食べさせてもらう。それが、楽しいし、なおかつ美味しい」
いや、いろんな学校を見て回ってもそんなことに燃えるのは、お前だけだぞ? そんな言葉は、胸のうちにしまっておいた。
「さあ、行こう。魚が私たちを待っている」
アオは僕の腕を取り、半ば引きずるように魚の元へと駆けていく。
その中で確かに思った。
次デートするときには、絶対に僕が場所を決めようと。
「大量だったね、シロちゃん」
手に袋一杯の魚を持って、アオは満足そうに呟く。僕は、そんな様子を半ば呆れ顔に見つめ、冷やしていたスイカを引き上げる。
時間はもう夕方。
「何か、怒ってる? 」
アオが、僕の直ぐ傍まで来て心配そうに見つめる。
「ん? そんなことは無いよ」
ただ、もう少し普通のデートがしたいなぁと思っただけだ。だから、別に怒っているわけではない。新婚に間違われて、美味しい魚を貰ったのは中々良い思い出になったわけだし。
そもそも、アオと一緒に居れればさえ、何処だって楽しいのだ。
「……なぁ、アオ。いつかは別れが待っているのに人間はどうして誰かと一緒に居ようとするんだと思う? 」
――僕はどうしてこんな質問をしている?
遠い昔に、母が呟いていた言葉。
その答えも出せずにいまだこの胸に残っている疑問。
「それは、難しい質問だね」
夕焼けの中、アオは髪をかき上げる。辺りは真っ赤だ。それは、ただ綺麗と思えた。その光景も。何気ないアオの仕草も。
「……う〜ん、そういうこと上手く言えないんだけど。私は、始まりが凄い楽しいから、あとに来る別れとか考えられないんじゃないかなと思う。だって、これからもっと楽しいことは続いていく。幸せなことはどんどん増えていく。そう思えるからその人の傍に居たいと思うんでしょ?人って」
――本当に、そうだろうか?
僕らは、始まるときに終わりのことを考えないだろうか? 例えば、恋愛を始めるとき別れるときのことを考えないだろうか? いつになるか分からない未来に不安を覚えないだろうか?
「でも、本当のところ、完璧な答えは無いよね。無いから、探そうとして悩んだりしながら、沢山苦しんでいくわけだし」
そうだ。完璧な答えがあるのなら、世界に沢山の悲しいことがあるわけ無いんだ。
「だけど、そんな難しいことを考えるようになったんだ。良い子、良い子」
頭を撫でられる。
「うん、えへへ…………って、僕は中学生のガキか! 」
手を払いのけると、
「うわ、ノリ突っ込み……そんなことを言うのはこの口か!? 」
アオの両手で、頬を横に引っ張られる。
「ふぁにふんだよ」
「あははははは」
思いっきり笑うアオ。
その隙をつく。後ろに、隠していた両手をそのまま彼女の頬に。
「ふあぁ、ひゃめてよふぃろちゃん」
そのままビローンと横に伸ばして、手を離す。
「痛いよぉ。シロちゃん」
「お互い様だ」
頬をさすりながら、涙目でアオは呟く。
「にしても、男の子だねぇ。力が違う……」
そのとき、一瞬強い風が吹いた。
アオの長い髪が乱れる。そして、それを直す一瞬の表情。
それに見とれた僕に向けられる儚くて、可愛らしい笑顔。
どきっとした。心臓が、血液を送り出す音を確かに聞いた気がした。
友人で居ることも出来なくなるくらいなら、恋人になんてならなくてもいい。
そんな懐かしい誓いが蘇る。
でも、本当にそれでいいのか?
それで、満足できるのか?
仲の良い友人。
その果てに、お互いが別々の恋愛をして結婚する。
そのとき、僕は幸せなのだろうか。
――本当に、幸せだと思えるだろうか?
「きゃっ! 」
理性よりも先に、感情で体が動く。僕の両手は、アオのことを思いっきり抱きしめた。
「し、シロちゃん……? 」
黒くて長くて綺麗な髪が顔に当たる。その中から、微かにだが潮の匂いがした。
あんなに、魚くさいなんて思っていた匂いも、アオの髪にあると、まるで一つの香水のように姿を変える。さっきまで居た海の潮騒が聞こえてくるそんな錯覚を覚えた。
抱きしめる腕から伝わる体温は、温かい。彼女の心臓が脈打つ音を確かに感じた。
アオは、ドキドキしてる。もちろん、僕もだ。
アオの唇をそっとなぞる。何センチも無い距離。
視線を逸らさずに、大きな目が僕を見つめる。
「う……ん……」
吐き出される声。微かだが、息が顔にかかる。
アオの頬は林檎のように真っ赤に染まっている。その顔が、声が、目が。彼女を構成する全てを、たまらなく愛しいと思う。
自然と、アオは目を閉じていた。
それのやりかたなんて知らない。やったことも無い。
ただ、ドラマやなんかの見よう見真似で、鼻がぶつからないように少し顔を傾けて、そっと唇を近づけていく。
そして、重ねた。
それは、僅かな沈黙。
今彼女の唇が重なっている。
それは、今まで感じたどんなものよりも軟らかくて、優しくて、温かかった。
その温もりから、彼女を感じるたびに、僕の心はまるで宝物を見つけた少年のように、高揚する。そう、僕にとって何にも変えられない宝物は彼女なのだ。
目を開ける。
その先にあるもの。
それは、涙。
高揚していた頭から一瞬で血の気が引く。
彼女の目から、沢山の涙が落ちていく。それが嬉しいからではないと、表情を見てすぐに分かった。
「あ……」
自分でも、気が付いていなかったのだろう。
アオはそっと――僕の身体を押した。
優しく穏やかな押し方ではあったけれど。
それは、完全な拒絶。
だけど、そんなことは別にどうでも良かった。
問題なのは、アオが泣いていることだ。
いつも、ほわほわして、強くて、優しい彼女が涙を流しているということ。
怒って、突き飛ばされるかもしれないと思った。
笑って、冗談で済ませるような気もした。
でも、泣くのだけは想像していなかった。
「ご、ごめん……」
アオは、涙を流しながらぽつりと言った。
「私は……もう」
その言葉の続きは聞き取れなかった。
ただ一つだけ分かるのは、この瞬間に今まで幼馴染として過ごしてきた関係は、完全に別のものに変わってしまうということだけだ。
それが、幸福なことなのか絶望な事なのか。
僕には、全く分からなかった。
七月二十三日
アオはどうして泣いたんだろう、頭を占める思いはそれだけだ。
「どうした、若人。死んだ魚みたいな顔して」
縁台で、ぼんやりと外を眺めてたら、鼻腔をくすぐる酒の匂いと共に、首に絡まるぬくもりがあった。母だった。
「熱いんだから抱きつくな、母さん」
急いでそれを引き剥がす。
「…………はは〜ん、さてはアオちゃんと何かあったね」
さすが母。鋭い指摘だった。
「べ、別にいいだろ」
「お? 図星だねぇ。そうよね、白がそういう顔するのって、アオちゃんが関係するときだけだもんねぇ。愛の力は、年を悩ませるか。かー、いいな。私にもそんな時期があったわ」
そう言って、隣に置いてある一升瓶からコップになみなみと酒を注いだ。そして、それを一気に飲み干す。
「はぁ……今でも、十分通用するんだろ? 」
三十代のくせして、白髪一つ無い短い黒髪。少々皺は出てきたが、それでもまだまだ若く見える。癪な話だが、未だに街角でOLに間違われるのも頷ける話だ。
とは言っても、生活態度は中年そのものなので、ナンパをされることはあっても、絶対再婚は難しいだろうなと思う。
「まあねぇ。ほら、持って生まれた美貌は、歳すらを超越するのよ」
「今年で、四十……」
言い切るよりも早く、拳骨が頭へ飛ぶ。
「まだ、三十八! 」
星が……。
強烈な打撃を頭へ喰らうと人間は本当に星を見る。今それが実証された。
「で、アオちゃんと何があったのさ? 」
「…………」
「まさか、押し倒してその場でやっちゃったとか……。駄目よ駄目! 最初が外なんてトラウマになりかねないわよ。それに、子供出来たら、あとあと大変よ? あ、でもアオちゃんなら良い母親になりそうだし。私も早く孫の顔が見れて幸せかも。あ、でもお金がきついわよねぇ。あの人の保険まだ少し残ってるけど。う〜ん」
「なんで、そこまで話が飛躍するんだよ」
「うん? いや、君たちのラブパワーにから考えるとそういう展開かなと。そろそろ、そういう事態になってもおかしくないと確信していますので」
「その根拠の無い自信は何さ? 」
「根拠ならあるわよ。中学校、中学校、高校ってずっと仲の良いまま一緒に居て、しかも、お互いに彼氏彼女を作らないんでしょ? それって、好きな相手がもう傍に居るからじゃないの? 長い時間を付き合ってきて、良い部分も嫌な部分も全部知った上で恋愛感情を抱けたら、あんた。その行き着く先は、結婚。それしか無いでしょ」
「アオが、僕に恋愛感情を持ってるなんてなんで分かるんだよ」
母一瞬、きょとんとした顔になって
「ぷ、あはははは」
思いっきり、大笑いした。
「な……」
「あのねぇ。アオちゃんは多分、白が彼女のことを思う以上に好きだとおもうよ。知らないだろうねぇ。アオちゃん、財布の中に白の写真いれてるんだよ」
「え……」
「しかも、あんたが町を出てってからはその写真に向かって毎日『シロちゃんは何を食べてるんだろう』とか『元気かなぁ』なんてずっと上の空でさ。お客さんの名前間違えたりとかね。恋する乙女を見ているの中々楽しかったけど」
くくくと含み笑いを漏らす母。
「何があったかは知らないけどさ。もし何かやっちまったならとっとと謝ればいいじゃん」
「そうは言ってもさ……」
「白。恋愛は惚れたもんが負けなんだ。お前が、アオちゃんことを好きになった時点でお前は負けてるのさ。彼女が好きなら、嫌だと思うことはやっちゃ駄目だ。で、女にとって一番嫌なのは、好きな男と仲違いすることなんだよ? 」
「……そういうものですか」
「答えは単純。それ故に行動に移すのが難しい」
「名言っすね」
「名言だろ? 」
泣いている女が居た。ソイツは、自分にとって一番大切な人間だ。なら、自分は何をやるべきか。そんなの決まってるだろ、紅月白? 頭で考えるまでも無い。
単純な答えだ。だから、行動に移すのが難しい。それは、必ず痛みを負ってしまうから。
何をアオが抱え込んでいるのか、良く分からない。そもそも、僕らの間には二年という時間の壁があるのだ。分からないのは当たり前だ。
だけど、本気でソイツが好きなら、力になってやらないといけない。
自分が傷ついても、死んでしまったとしてもアオを助けなくてはいけない。
それがきっと人を好きなるという気持ちの形だと思うから。
自転車で走る。
見慣れた光景をただ、早く、早く。
彼女の元に、辿りつく為に疾走する。
僕は、まだ大切なことの何も、言葉にしちゃいない。
「はぁ……はぁ……」
自転車から飛び降りる。
息が切れて、足はがくがくだ。
そこには誰も居ない。懐かしい風景は、まるで時を忘れたようにそこにあって、まるで三年前自分自身に誓いをしたあの日に戻ったみたいだ。
情けない。結局、その誓いすら守ることが出来なかった。勝手な感情で動いて、結果彼女を傷つけた。自分を犠牲にしてでも守りたいと思った女の子を自分の手で傷つけた。
「この場所は……変わってないね」
後ろで、好きな人の声がする。僕は、振り向いた。
「アオ。二分の遅刻だな」
「えー、絶対に、ぴったしだよ」
そう言って、アオは僕の横に腰を降ろす。
「『十五時半思い出の丘にて待つ』っていうメール。何か果たし状みたいだった」
くすくすと笑うアオ。
「綺麗な夕焼けだねぇ」
朱色の光が世界を包んでいる。緑だらけの丘も、ここから見渡すことの出来る町並みも。世界の全てが朱色に染まっている。
僕も、腰を降ろした。
お互いも会話が無いまま、沈黙が続いた。すぐ傍には、アオがいる。だけどその温もりはずっと遠くに感じられた。
「……私が知っているシロちゃんは二年前のシロちゃんなんだよね」
静かに、アオがそう呟く。
「私の知らない二年の間に、沢山いろんな経験をして、凄い格好良くなってた。最初にあの駅で会ったときに、何か高校生のときと違うなぁって思ってたんだ。うん、やっぱり凄い大人になってた」
「……別に何も変わってないよ」
「ううん、違うんだよ。そういうのは理屈じゃなくて。きっと、自分じゃ分からないんだね」
「……もし仮に、そんなに僕が変わったとして。アオはそんな僕が嫌いなのか? 」
それなら、仕方が無い。
アオの言う通り、もし好意を持っていてくれたのが高校時代の僕であるなら、その変化に失望して嫌いになるなんてことだってある。
でも、アオは首を振った。
「そんなわけ無いよ。……むしろ、凄いうれしいかな。こんなに男前さんになっちゃったんだから」
「じゃあ………」
「ねえ。シロちゃんは、いつの私が好きで抱きしめてくれたの? キスを………してくれたの? 」
それは、予想していなかった質問だった。まさか、自分がそんなことを尋ねられるとは夢にも思わなかった。
僕が知ってるのは高校生のアオだ。ほわほわして、ちょっと口うるさくて、可愛くて面白くて。
――そこで、僕は彼女の言おうとしていることの意味を知った。
彼女の二年間。それは、僕の中では空白になっている。その期間に何を思い、何を悩んでいたのか僕は知らない。彼女自身も変化したのだ。確かに、変わったのだ。
あの夜に、アオが好きだと自信を持って思えなかったのは、きっとそのせいだ。
僕はそれを認めることが出来なかった。
認めるのが怖かった。変化しない物は無い。懐かしい笑顔。だけど、一瞬。見たことも無い、寂しい表情を受かべる。僕の記憶の、アオはいつも笑っていて、傍にいると幸福な気持ちになれるそんな娘だった。
変わってしまったんだ。そんな事実を認めたくなかった。
だから、気持ちを伝えるよりも身体を求めた。繋ぎとめようと、あの日のアオを。
「私には、シロちゃんに絶対に隠し通さなきゃいけない秘密がある。それだけは、絶対に守り通さなくちゃいけない」
アオはその事実をただ無表情で、無機質な声で言った。
僕の気持ちなんて、とっくにアオに読まれていたのだ。
「……だから。シロちゃん私のことは忘れて。ね? シロちゃんなら、こんな嘘つきな女よりももっと良い人見つかるよ」
その瞬間、初めて彼女が自分から唇を重ねてくる。一瞬の温もり。
一陣の風が僕らの間に吹いた。草木が揺れる微かな音が世界に残響する。
夕焼けの朱の中、彼女は最も言われたくなかった言葉を呟いた。
「さようなら」
アオが立ち上がる。呆然とそんな姿を眺めることしか出来ない僕。
振り向くことなく、アオの背中が徐々に遠くなる。
別れを。今までの関係の全てに終止符をうった。
僕に言えない秘密があると言った。
それは、今までの僕らの関係に有り得ない物だった。きっと、親よりも友人よりもずっと近い場所にいた存在。彼女を恋人と位置づけなければ、なんと呼べばいいだろう。
そう、まるでもう一人の自分。紅月白と龍耶蒼衣、二つは一つの物だってずっと思い込んでいた。
でも、違かった。
蓋を開ければなんてことは無い。僕らはただの他人同士だった。血の関係も何も無い、ただの他人。
――だから、なんだっていうんだ。
だって、そんなこと、最初から。
「まって!! 」
僕は叫んだ。驚いて、アオが振り向く。その目には涙。無表情で、無機質でその言葉を言ったというのは完全なる勘違いだった。
そう、彼女はそういう奴だ。自分の幸せよりも、他人に気を使う。だから、アオの近くには誰もが近づいてくる。いろんなものが変わっていっても、きっとそんな彼女の本質だけは何も。
「……僕は、龍耶蒼衣が好きだ。秘密を持ってたって、何が変わったって構わない。僕は、いろんなお前をひっくるめて大好きなんだ! 」
ああ、この言葉を言うのに何年を要したんだろう。
分かってる、言葉は長さじゃなくて。それを言うための覚悟が必要なんだ。
アオの返答はどうなんだろう。聞くのが怖い。逃げたい。
もし、嫌いって言われたら僕はどうしたらいい。彼女を失うことは、自分自身が消えてしまうことよりも辛い。自分が死んで世界が救えるとしたら、迷わずその道を選ぼう。別に、自己犠牲をしたいわけじゃなくて。
ただ、彼女のために。彼女が生きる世界のために、僕は自分だって殺せるその自信があった。
「っ――!」
声にならない声と共に、彼女が走る。
そうして、彼女は僕の胸に飛び込み、嗚咽を、子供のようにわんわんと泣く。
「私も、好きなの。シロちゃんが……大好き」
その言葉が、声が、世界を明るく照らしていく。こんなに綺麗な光を僕は知らない。世界に溢れかえる悪意や悲しみすらも美しいものに見せるそんな。
抱きしめる。強く強く、骨が軋むくらいに。
「痛いよ……シロちゃん」
耳元でそんな言葉。
だから腕を緩めて、その唇を塞いでやる。何度も……何度も。
キスの合間に、互いの息がかかる。それがまた、心地よかった。
ずっと、探していた物を僕はようやく手にすることが出来た。
それから、僕らは当たり障りの無い会話をずっとした。幼稚園の大きな木に登って、僕が落ちてしまった話。最初のテストで、アオが二十点しか取れなかった話。廊下で転んで、気を失った話。夏場に我慢大会で肉まんを食べた話。その全ては、二人が今まで歩んできた軌跡だった。
それは、酷く懐かしく楽しい思い出。
けれど、思い出はこれで終わりじゃない。これから、長い時間僕らはいろんな時を共に過ごす。その道の途中には、沢山の幸福や悲しいことや辛いことが待ってるだろう。
でも、僕の右手にはアオの左手があるから、どんなことだって乗り越えていける。運命なんていう、目には見えないものだって乗り越えてみせる。
「ねえ、もし私たちが幼馴染じゃなかったら………どうなってたと思う? 」
満天の星空を見ながらアオは言った。そんな質問、する意味はない。
だって、回答は決まってるだろ?
「何も変わらないよ。僕はきっとアオを好きになってた」
その言葉には、きっと偽りは無い。そう信じられるから。だから、アオ………
ずっと、僕の傍で笑ってろよな?
「時間だ……」
アオがそう呟く。確かに、時計が無いから分からないけど、もう少しで日付が変わる。そんな時間帯だ。
「そうだな……そろそろ」
「ありがとう、シロちゃん。こんな私を好きだって言ってくれて」
その声は、優しくて、温かくて………そして悲しい。
「アオ? 」
アオは何も言わない。ただ、いつものあの笑顔で………泣いていた。
どうして。もう、僕らの間を隔てる物なんて何もないはずだろ? これから、全てが始まっていくんだろ?
「アオ! 」
僕は、その身体を抱きしめようとした。………けれど、両手は何もいない空を掴んだ。そこにいるのに、手を触れることが出来ない。
なんで、こんな結末なんだ。やっと、
「やっと見つけたのに」
僕の幸せ。なあ、置いてかないでくれよ。アオ。
そのうちさ、就職したら正式に結婚の申し込みをしてさ。指輪高いのは無理だけど、頑張って買うぞ。結婚式は、ハワイかな。あ、母さんには酒遠ざけないとな。子供は、三人くらい欲しいな。男の子とはキャッチボールしたい。女の子なら、アオに似て可愛いだろうな。
幸せな未来は直ぐそばにある。手を伸ばせば、ほら。
頭がぼんやりとする。
全てが酷く遠くに感じられる。
まるで、世界から自分だけ切り離されたような。
知らないはずなのに分かってる。これは、夢の終わりだ。幸福だった夢が終わり、辛い日々が待つ現実へ。
嫌だ、嫌だよ。帰りたくない。ずっと、ここにいたい。
その瞬間、世界は光に包まれた。記憶が、三日間の記憶が消えていく。
冬の雪のように、後には何も残さずに消えていく。
最後、僕が僕でいられた一瞬。名前も顔も忘れた人。それでも、ただ愛していたという思いが残る、そんな人の声が響いた。
「……大丈夫。きっとシロちゃんなら、分かってくれる。だって、私が好きになった人だから。……本気で愛した人だから」
七月二十四日
目を覚ます。見慣れたボロイ天井。夏だというのに、微妙に気温が低い。
僕は、半袖シャツの上にもう一枚着て、下に降りた。
「あら、もう起きたの? 」
台所では、母が料理の準備をしていた。
「母さんこそ、早いのな」
テーブルにつき、壊れかけのテレビに電源をいれる。朝のニュースが丁度よくやっていた。
「……何時からだっけ」
「えっと、九時半からみたいだね」
「九時半か」
時計を見ると、ちょうど八時になったところだ。
うん。これなら、ゆっくり朝飯を食べて、トイレに入っても間に合う。
「喪服は? 」
「学生服で、いいんじゃない? 」
笑いながら、からかう母親。だけど、ちゃんとそこには一式準備してあった。父親が着ていた服。子供の頃ぶかぶかだった服は――今では少し小さい。
「……アオちゃんが死んで三年か」
母さんは、ぼそりとそう呟いた。
「……ああ」
やや間をおいて、僕は頷く。
事故だった。本当に、どこの町でもあるようなそんな些細な事故。
リストラされたサラリーマンが、飲酒運転で駅前で待ち合わせをしていたアオに突っ込んだ。……そして、僕も、そこに居た。
その光景を、ただ呆然と見ていた。
葬式の日、事故の加害者は腕に包帯を巻いて何度も泣きながら謝罪の言葉を繰り返した。すみません、すみませんって。僕は、ソイツの折れてる手を掴んで懇親の力で握ってやった。ソイツは、痛みに顔を歪ませながら、抵抗をした。
それでも、握ってやった。
多分、母さんが横頬を叩いてくれなかったら、本気で彼を殺していたかもしれない。
あの日から、僕の時間は止まったままだ。
アオの三回忌は、しめやかに行われた。坊主の眠くなるような念仏を聞きながら、大きな欠伸をする。隣に居た、アオの親戚らしきおばさんに睨まれた。
帰り際、彼女の母親に
「どうしてでしょう。三年経ったはずなのに、蒼衣がつい昨日までそばに居た気がするんですよ」
ほわほわとしていて、感情表現が豊かで、いつでも傍に居た。
道端で、死んだことも忘れて、「おはよう〜」なんて声を掛けてきそうな。
彼女はそういう人間だった。
だから、僕や母や彼女のお母さんが抱いてるものは、きっとそのせいなんだと思う。
帰り道、空を見上げた。そこは、彼女の名前と同じく、青く透き通っていて。
今の僕に、限りなく遠い場所だった。
玄関には鍵がかかっていた。仕方なく、なぜかいつも開いている風呂場の窓から家に入る。傍目から見れば、泥棒に見えるかもしれないが、この辺の人はほとんど顔見知りだ。多分、大丈夫だろう。
居間に鞄を置き、喪服を脱ぐ。そして、そのまま大の字に倒れるように寝転がった。
天井には、小さく二つの絵が描かれている。一つは、親子の絵。そして、もう一つは好きだった人間の絵だ。
中学になって、背も大きくなり始めたころ、何となく椅子に登って悪戯心で描いてしまった。もちろん、母親に見つかった。
当然、怒られると思った。だけど、母親はなぜか笑って
「白も、椅子を使ってあそこまで手が届くようになったんだねぇ」
なんて言った。
そして、その二つの絵は今でもまるで時から忘れ去られたように、あるのだ。
そのどちらもが、二度と見ることが出来ない光景。
目を閉じる。アオはいつものようなあの口調で冗談や小言を言う。友達と一緒にいるときも、ふとその表情を覗かせる。彼女は、死んでなどいない。僕の傍にいるのだ。
それで、十分じゃないか。アオの肉体は死んでいるが、魂は僕の傍で確かに生きている。お金とか、社会的地位とか友人とか、恋人とか。どうでもいいんだ。
彼女が傍にさえ居れば幸せなんだ。
――本当に、そうだろうか?
嫌な声が聞こえた。ジーパンを履いて、外へ出る。
これ以上、家の中には居たくなかった。居れば、またあの声がする。あの声だけは、聞きたくない。
何で自分が死ななかった。
建物の中が炎に包まれ、火傷で赤くただれた彼女の死体が目の前にある。紅月白は、その中で、僕に向かってそんな事を言う。
何であの日、あそこを待ち合わせ場所にした。
地震で建物が全て壊れた町。石の下敷きになって頭や身体から大量の出血をして死んでいる彼女。紅月白は、僕に向かってそんなことを言った。
何でお前はアイツの傍に居たんだ。
全てが終わった世界。彼女という存在すらいない世界。紅月白は、僕に向かってそんなことを言った。
すべては夢の話。必ず不幸な事態に追い込まれて、彼女が死んで、そして自身の口から責められる。ほぼ毎日のように見る悪夢。
分かっている。分かっているんだ。それは、僕の心だと。
三年経った今もなお、罪悪感にさいなまれている僕の心なのだと。
そんな夢を見たときは、ただ全力で走るしかない。酸素を求めて、体中が悲鳴をあげても走る。アオが受けた痛みはこんなもんじゃない。アオが、奪われた幸せはこんなもんじゃない。
そうすることで、少しでも罪悪感を消そうとするのだ。
そして、僕は辿りついた。昔良く一緒に遊んだあの丘。
「はぁ……はぁ……」
身体が酸素を欲している。息を整える。
目を閉じて、その場に寝転がってみた。草の匂いがする。
高校の制服を着た彼女が傍にやってきた。
ああ、いつもの屋上だ。夏の暑いときの教室は、食欲わかないからな。いつもこうやって、少しでも風にあたりたいからこの場所に来るんだ。それに、ここじゃないとタバコを吸えないだろう?
僕は空を見る。そしていつも通りに言葉を交し合う。
「タバコは、身体に悪いよ? シロちゃん」
大丈夫だよ、アオ。これ三ミリグラムだから、軽いし。それに、タバコ吸う奴が必ず身体を壊すとは限らないだろう?
「でも、タバコは百害あって一利なしってテレビで言ってたよ」
ああ、アオはお子様だからこの素晴らしき味がわからないのか。
「そんなの分かりたくないです〜」
おいおい、悪かったよ。そのぶーたれた顔やめろって。折角の可愛い顔が台無しだぞ。
「か、可愛い顔って……そんなこと言うの反則ですよ」
反則なもんか、事実を有りのままに言っただけだ。
「うう………やっぱり、ずるい」
あははやっぱりアオは可愛いな。それに面白い。
「……それを、言ったらシロちゃんだって凄い格好いいよ」
ぐ、その手できたか。
「あはは、シロちゃん顔を真っ赤にして面白い〜」
ばか、からかうな!
ああ、そうだよなアオ。僕らはこうやって、同じ時間を生きていたんだよな。
そして、これからも、二人は……
「ねえ、この幻はいつまで続くんだろう」
「え? 」
瞬間、懐かしい声。そして、世界に吹く一陣の風。
どうしてだろう。その風を妙に懐かしく感じた。
起き上がって、周りを見渡す。けれど、そこには誰も居ない。ただの草むら。幽霊の彼女も高校生の彼女もいない。見慣れた光景だけがそこにはあった。
そうだよな、アイツがこんな所に出てくるはずは無いんだよな。
そのとき、草むらに置いていた手が、何かに触れた。硬いようですべすべした、そんな感触。
見るとそれは、ピンク色の小さな封筒だ。なぜか、全く汚れることも無くそこに置いてあった。
『シロちゃんへ』
聞きなれた、あの呼び方。見慣れた丸文字。どうして?なぜここに、彼女の手紙が。
それを、思考するよりも早く僕は封を切っていた。
中から出てきたのは、同じくピンク色の便箋。猫や犬の絵がプリントされていて、いかにも彼女が好きそうなものだった。
急いでそれに目を通した。
拝啓、シロちゃん。
如何お過ごしかな?
シロちゃんがこの手紙を読んでいるとき、私は多分死んじゃってると思う。
何で、死んでるって分かるかというと……
簡単に説明しちゃいます。
高校三年の夏に、私は事故にあいました。しかも、運悪く即死。あ、でも痛いの嫌だからどうなんでしょう。不幸中の幸い?……笑えないよね、さすがに。
高校三年生の三月二十一日。シロちゃんが東京行きの電車に乗った日。
私は空から、それを見てた。こういうのって幽霊って言うのかな。別に半透明ってわけじゃないよ。でも、なんていうか空の一部になってる感じ。
そんな風になってからも、シロちゃんのことを考えると、恥ずかしいんだけど、胸がきゅーっと痛むんだ。しかも、私が覗けるのってこの町の風景だけだからさ。シロちゃんが東京に行ったらもうキミを見ることも出来ない。そんなのは嫌だって思った。いつか戻ってくるかもしれないけど、その日が来る前に私はこの空からも、いなくなってしまうかもしれないから。
そしたら、いきなりそんな意識が消えて、気がついたら懐かしいベッドの上で寝てた。起きたらお母さんに「社会人にもなって寝坊なんて、恥ずかしいわよ」なんて、言われて。
びっくりした。
死んでしまった自分が、生き返ってて。しかも、知ってる人みんなの記憶から私の死んだ事故の事が消えていて。なぜか静江さんの美容室に就職したことになってるし。
正直、どうしてだろうって思いました。でも、それ以上に私は嬉しかった。だって、まだ人間として生きられるのなら、シロちゃんに再び会えると思ったから。
でも、時間が流れるにつれて、どんどん気がついていった。私は、本当は死んでいて、生きているように振舞えるのはこの町の中だけだって。それは、この町に関わりを持つ人にも影響するんだ。例えば電話。電話を使ってこの町に繋がった人は、その瞬間私の死んだ記憶が消える。電話を切れば、また思い出すけどね。それに、そんなふうに出来るのも、二年っていう制約。つまりは、ちょうど私の三回忌までしかいられない。
ずっと待ってたよ、シロちゃん。ずっと、ず〜っと、キミだけを待ってた。会って言いたいことが沢山あった。会ってやりたいことが沢山あった。
なのに、シロちゃんずっと帰ってこないんだもん。覚えてないと思うけど、だから少しだけ昔のこと言って意地悪しちゃったんだ。ゴメンね。
正直、今凄く凄く名残惜しいよ。
やっと、恋人になれたし、キスもいっぱいしたし。
でも、離れ離れになっちゃう。
こんなことを言ったら嘘に聞こえるかもしれないけど、私は後悔は無いよ。本当は死んでいた自分が、最後に大切な人に会えてそれでかけがえの無い思い出を手に入れることが出来た。それ以上に、幸せなことは多分無いと思う。宝物だね。
シロちゃんは、この三日間の事を知りたい?
だーめです。絶対に教えません。一から書くのは恥ずかしいし、それに……これ以上、私のことで不幸になってほしくない。
知らないとでも思った? 私が死んでからの、高校生活見てたよ。
駄目だよ。ちゃんと学校には行かないと。ゲームセンターで時間を潰すの禁止。川をボンヤリ見るのも禁止。
シロちゃん、もう全部忘れて?アオっていう女の子のこと全部。そうしてほしい。もう私は、この世界の何処にもいないんだよ。
……女の子にこんなこと言わせないで。
本当は忘れてなんか欲しくない。ずっと覚えておいて欲しい。ずっと、私のことだけ思ってて欲しい。他に好きな人を作って欲しく無い。
でも、それでも私はシロちゃんが大好きだから……大好きだから、忘れて欲しい。大好きな人が不幸になることは、自分が不幸になる以上に辛いんだ。その気持ち、きっとシロちゃんなら分かってくれるよね。だって私たちは、同じだから。
二人で、一つ。お互いの気持ちは一緒だったんだから。
最後、これで本当に最後だよ。
私の、気持ちを全部シロちゃんに伝えるから……
シロちゃん。私、龍耶蒼衣は貴方をこの世界のなにものよりも愛しています。
今までありがとう。
――さようなら。
最後の文章は、インクが滲んでいた。
この手紙に書いてある三日間、それは本当にあったのだろうか。今となっては、それを思い出す術は僕には無い。
――凄い残念だ、アオ。まるで、お菓子を出し惜しみされて、結局貰えなかった子供のような気分だ。
ずるいよなぁ。本当に。
勝手に死んで、勝手に生き返って、また勝手に消える。しかも、誰にもその間の記憶を残さないで、独り占めして。
三年間も、どれだけ人を振り回せば気がすむんだ。しかも、こんな手紙まで。
ああ、ちくしょう。どうしてお前はそうやって、いつもいつも、人のことばっかり考えるんだよ。
こんなもの貰ったら………嫌でも気が付いちまう。
三年間つき続けた嘘に。
世界には、沢山の悲しいことがあって。
テレビから流れる、他人の不幸話なんてまるで御伽噺のようで。
だって、僕の隣にはいつもキミが居たから。
その時間が、永遠に続くんだと思ってた。
なのに。
どうして、今キミは僕の傍に居ないんだろう。
どうして、あったはずの幸せは消えてしまったんだろう。
僕らはいつも、手を繋いでいた。僕の右手は彼女の左手。
知り合いのいない東京で過ごしても、いつも横にはアオが居た。
可愛い子に見とれていると、頬を膨らませて怒る。
学校でへこんで帰ってくると、子供をなだめる様に頭を撫でてからかう。
――それは、自分を守るために作り出したアオの偽者。
不意に、滲んでいたインクが沢山の水滴でさらに滲む。
雨ではない。涙を流しているんだ、僕が。
擦っても擦っても、止まることのない水。
どうしてだろう?
彼女が死んだときも、そのあとも、ずっと泣いたことが無かったのに。
あ、そうか。
死んでしまって消えかけていた彼女の手を、思い出という名の材料で繋ぎとめていた。
その事実を、知ってしまったから。
アオは確かに死んでいて、もう横にはいないということを。
その声を二度と聞くことが出来にないということを。
三年経って、ようやくアオが何処にもいないと認めたんだ。
丘の上には大きな一本の木がある。
いつか、この木をどちらが先に上るかなんてことで言い争いになった。結局勝ったのは、もちろん泣き出しそうになったアオで。
「昔からだけど、お前には本当に勝てないよな」
その言葉に返答を返してくれる者は、誰も居ない。
ただ、僕の声だけが世界に響いていく。だからこれは、ただの独り言。
「勉強はいっつも勝ってたよな。そのたびに、うわー、シロちゃんまた百点凄いね〜、なんて本気で褒めてたよな」
手紙を、丁寧に封筒に戻す。
「恋愛に免疫が無いのはどうだろう。いや、僕も人のことは言えないけどさ。でも、映画見に行った時に、ラブシーンで顔を真っ赤にしてそわそわするのはどうかと。気が付いてなかったと思うけど、あれかなり隣の人に変な目で見られてたんだよ? 」
手で、小さな穴を掘っていく。
「母さんの美容院に就職するたってな。お前、手先不器用だろう。いつだったっけか、家庭科の授業でエプロン作るはずが、なぜかお前だけハンカチになってたりしてたしな」
小さな穴の中に、彼女の手紙を入れる。
あの日。彼女の葬式の日。僕は天国に向かう彼女に別れの言葉の一つも言ってやれなかった。彼女の体が、あの可愛らしい顔が消えていく。それだけは、見たくなかったから。だから、この場所でただ膝を抱えていた。
でも、今度は僕の手で、キミを送り出そう。
一度死んで、生き返って、また死んだ、龍耶蒼衣の葬式。
参加者は一人。彼女の手紙に火をつける。
ピンク色の封筒に、黒い焦げ目が付いて、徐々に全体に火がまわっていく。
空へ向かって、煙が昇びていく。
その煙を見ながら、考える。あの日の、母の言葉を。
僕らは、始まりを迎えるとき、終わりを越えることが出来るって何処かでそう信じているんじゃないだろうか。
絶対に不可能なことだけど、結果なんてものは関係なくて。
永遠を願う心は、叶うことが無いにしても。そう願ったこころは、きっとどんなものよりも美しい光を放つ。
その光が美しいほど、沢山の幸福を受け取り、最後に沢山の幸福を失う。
でも、それでも。沢山の幸福を失った心の中に、今でも残っていないだろうか?
大切な人の一挙一動。
偉そうに自慢をする顔。
可愛いというと、恥ずかしそうにする顔。
悪戯を仕掛けるときの楽しそうな顔。
――ほら。心の中にこんなに大切な人間は居る。
大切な人は、いつまでもウジウジ落ち込んでいる人間に何て言うだろう。
つまりは、そういうことだ。
残された人間にすれば理不尽だ。
でも、恋愛は惚れたもの負け。
そいつが好きで好きでしょうがなくなった時点で、負けていたんだ。
だから、どんなに、痛くても悲しくても前を向かなくちゃいけない。
それに、彼女が傷つくくらいなら、自分が傷つく方がいい。そう、思えたんだから。
アオが僕が落ち込んでいる姿を見て傷つくというのなら、僕は痛くても無理やり前を見てやる。それが、耐えられない程の痛みでも。
それでも僕は、彼女のために。
「チクショウ、理不尽だぁ! 」
笑いながら、そんなことを叫ぶ。
空を見上げる。綺麗な綺麗な色。彼女も、その色の一部になって今も見守っているのだろうか。でも今は、そこにはいけないから。
これからの人生。アイツが見つけられなかったいろんなものを、見つけ続けよう。
子供とキャッチボールとか、仕事帰りの一杯とか。そんな本当に些細な幸せの数々を。 そしていつの日か、僕が全てを終えたとき、沢山の土産話をしてやろう。
きっと、あの笑顔で笑って、泣いて、怒って、でもやっぱり笑って聞いてくれるに違いないから。
だから、そのときが来るまで、しばしの別れを……
「じゃあな、アオ………またな」
手紙は灰に。彼女は空に。そして、思いは胸に。
僕は、先の見えないゴールを今日、目指し始めた。