入院退院
「大した怪我じゃありませんよ」
医師は俺ににこやかにそう告げた。
そんなに人の怪我が嬉しいのか。そう問いかけたくなる程の笑顔だった。
「しばらく入院が必要ですね。一番いい部屋を用意しますから」
医師はやはりにこやかに続ける。診察室で俺に必要以上の笑みを送ってきた。
俺はその様子に少々気分を害した。何故なら俺の怪我にこの病院は多少なりとも責任があるはずだからだ。
「大した怪我じゃないんでしょ?」
俺は足につけられた大げさギブスを見ながら訊いた。俺は骨を折るような怪我を負い、病院に担ぎ込まれたのだ。
何と言うか怪我をした目の前の病院に。
「ええ。そうですよ」
「じゃあ、帰りますよ」
「えっ?」
「えって? 帰っちゃダメですか?」
俺は心底驚いた顔をした医師に問い返してやる。
「何故です? 一番いい部屋ですよ。しばらくのんびりできるんですよ」
「のんびりしていられる身分じゃないんですよ」
正直に言おう。俺は無職だった。職業安定所で仕事が見つからずに、帰ろうとしたところだったのだ。
だからお金に困っている。寝ている場合ではないのだ。
「またまた」
「は?」
「入院費はお約束の通り、治療費も含めて全額病院で持ちますよ。何と言ってもうちの不手際でもありますから」
そうなのだ。俺はここを退院する患者を助ける為に怪我を負ったのだ。
幾段かの階段状になっていたこの病院の入り口。たまたま通りかかった俺の上に、丁度退院してきた元入院患者が足を滑らせて転げ落ちてきたのだ。
たまたま? そもそも何の用事でこの病院の前に通りがかったのかよく思い出せない。
そしてこの医師は俺の治療が終わるや否や、お金の話をし出した。治療費は全部うちで持ちますからねと、それこそ儲け話でもするかのように満面の笑みで俺に告げたのだ。
「……」
俺が考えあぐねていると、医師がおかしな提案を持ち出してきた。
「分かりました。更にうちで一番美人の看護士を専属でつけましょう」
「はい?」
何を言い出すんだこの医師は? 一瞬喜んでしまったじゃないか。
「あなたも交渉上手ですね」
「何の話ですか?」
「またまた」
「話がよく見えないんですけど?」
「はい?」
医師が素っ頓狂な声で聞き返した。
「それに何ていうか。怪我の前の記憶が曖昧なんですよね」
「ええ!」
今度は心底驚いた顔で目を剥く。忙しい顔の持ち主だ。
「頭も打ったのか、痛いんですけど。こっちも調べてもらえます?」
「何ですって! すぐに!」
医師は慌てて席から立ち上がると、俺を検査室に引っ張っていった。
「一時的な記憶障害ですね」
医師は輪切りに写し出された俺の頭部の写真を見て口を開いた。
「それで記憶がないんですか?」
「そのようです……」
「大丈夫ですかね?」
「頭部の怪我は心配がありません」
「よかった」
「それがよくないのです」
「ええ?」
「覚えてらっしゃいませんか?」
医師は探るように俺の目を見つめた。
「何がです?」
「……私どもとあなたの間には、一つの約束がありました……」
「はい?」
「実は――」
医師は声をひそめて俺にその約束とやらを説明し始めた。
どうやら俺は心底お金に困っていたらしい。いや、確かにお金に困っていたのは覚えているし、今も現在進行形でお金に困っている。
問題はここからだ。俺は仕事が見つからずに外に出た職業安定所の前で、この病院のスタッフに声をかけられたのだ。
入院しませんか――と。
どうも入院患者を抱えると、医療保険の点数が稼げるらしい。そのお陰で俺を入院させてもお釣りの出るお金が、国から降りてくるらしい。お陰で病院は潤うという寸法だ。
何でそんな話に乗ったのだろう? 自分のことなのによく思い出せない。仕事が見つからずに、心寂しくて当座のお金が欲しくなったのだろうか?
今はだがもう思い出せない。医師は約束だからと俺に泣きついてきた。
俺は仕方なくこの病院に入院し、退院まで一番美人の看護士さんに業務上の笑顔を向けてもらって日々を過ごした。
そうそう。最初に俺に怪我を負わせた退院患者も勿論グルだ。
今は俺の足下でニヤニヤ笑っている。
そう、今度は俺が退院する時がきたのだ。そしてこいつが新しい入院患者になるのだ。
自然に転げ落ちて欲しいと医師には指示されていた。
男はやはり欲に塗れた厭らしい笑みを浮かべている。
俺もあんな顔で怪我をしたのだろうか?
俺は自分自身が気持ち悪くなり、体から力が抜けて自然と階段を転げ落ちていった。