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IR情報で読み解くダンジョン経済学  作者: カトーユキヒロ
第3章:見えざる手は、俺が作る

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ショートストーリー10.11

水の音



 蛇口をひねると水の音がする。


 朝の台所でその音を聞くたび、小春は少しだけ嬉しくなる。井戸の水を汲んでいた頃の名残なのか、ひねれば水が出るというだけで一日の始まりが明るくなるのだった。


 湯気の立つ味噌汁と焼き魚を食卓に並べる。ご飯をよそったところで寝室の扉が開いた。


「悪い。寝過ごした」


「おはよう、お兄ちゃん。今日も委員会?」


「ああ。昼からは東京の役所とオンライン打ち合わせもある」


 兄はネクタイを締めながら席に着き、手を合わせて食べ始めた。点けっぱなしのテレビが朝の競りの値を読み上げている。瀬戸内素材取引所という名前は、いつのまにか天気予報と同じ顔で毎朝の食卓に流れてくるようになった。


 その取引所を作ったのが、目の前で味噌汁を飲んでいる兄なのだという。学校の友達に言われて初めて実感が湧くことも多い。家の中の兄は寝癖をつけたまま魚の骨と格闘している、ただのお兄ちゃんだからだ。


「お味噌汁、おかわりは」


「もらう。……うまいな。腕を上げた」


「毎日作ってれば勝手に上がるよ。あ、そうだ。今度の日曜は凪お姉ちゃんが来るから、材料の買い出し付き合ってね」


「……予定を確認する」


「だめ。空けるの」


 兄は観念したように頷いた。世間では取引所を作った男と呼ばれていても、この家では妹と法務顧問には勝てないのである。


 兄が家を空ける日が増えてから、台所は小春の持ち場になった。心配した兄は家政婦を頼むと言ったが、小春が断った。守られてばかりは、もう卒業したかった。


「小春。今日は検診の日だろう」


「うん。学校の帰りに寄ってくる」


「瀬戸先生によろしくな。……送ってやれなくてすまん」


「もう一人で行けるよ。子供じゃないんだから」


 むっとして見せると兄は苦笑した。玄関で革靴を履く兄の鞄の内側に、小さなお守りが覗いている。東京へ発つ夜に忍ばせたものを、兄は今も入れたままにしていた。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい。気をつけてね」


 扉が閉まる。小春は食卓に戻り、自分の分の純水を湯呑みに注いだ。


 澄んだ水が朝の光を透かして揺れた。


 ◇ ◇ ◇


 昼休み。渡り廊下の隅に、小さな女の子がしゃがみ込んでいた。


 隣の組の下級生である。顔色が青白く、息が浅い。見覚えのある苦しさの形だった。


「大丈夫?」


 声をかけると女の子はびくりと肩を揺らした。


「……ちょっと、休んでるだけ」


「息、苦しいんでしょ。無理に喋らなくていいよ」


 小春は隣にしゃがみ、鞄から透明なボトルを取り出した。


「これ飲んで。純水だよ。ゆっくりね」


 女の子はためらってから、両手でボトルを受け取り一口飲んだ。細い喉が動く。それから二口、三口。浅かった息が少しずつ深くなっていく。


「……ほんとだ。楽になってきた」


「でしょう。わたしも同じ病気だったの。魔素不適応症」


「……だった?」


「うん。今はもう良くなったよ。毎日学校に来られるし、体育も見学しなくていいの。だからあなたも、ちゃんと良くなる」


 女の子の目が大きく見開かれた。治った人を初めて見た、という顔だった。


「わたし、ずっと隠してたの。病気のこと。弱いって思われるのが嫌で」


「わたしも前は隠してた」


 小春は少し笑った。


「でもね。隠すのをやめたら楽になったよ。恥ずかしいことじゃないんだもん。先生にも言っておくと、しんどい時に保健室へ行きやすくなるし」


「……そっか。言っていいんだ」


 女の子は俯いてボトルを見つめ、それからおずおずと尋ねた。


「お姉ちゃんも、この水をずっと飲んでたの?」


「うん。だいたい一年前から。うちのお兄ちゃんが毎日持たせてくれたの。雨の日も、お仕事で疲れてる日も、一日も忘れずに」


「……いいお兄ちゃんだね」


「うん。自慢のお兄ちゃん」


 女の子は少しだけ羨ましそうに笑い、それから顔を上げた。


「ねえ。なんでお水で楽になるの?」


「それはね。純水が身体の中の魔素を薄めて──」


 言いかけて、小春は言葉に詰まった。


 薄めて、それからどうなるのだろう。薄まった魔素はどこへ行くのか。どうして免疫は魔素にだけあんなに暴れるのか。毎日飲んできた水のことを、自分は何も知らない。


「……ええと。とにかく効くの。わたしが証拠だから」


「ふうん。お水って、すごいんだね」


 女の子は笑った。頬に少しだけ血の気が戻っていた。


 午後の授業のあいだ、小春の頭の隅には答えられなかった問いが引っかかったままだった。


 ◇ ◇ ◇


 放課後。尾道特区総合病院の診察室で、瀬戸先生はいつもの調子で笑った。


「うん。今月も申し分なし。血中の魔素濃度は安定してる。寛解してからずいぶん経つが、数字はずっと綺麗なもんだ」


「ありがとうございます」


「純水は続けて飲むこと。あとはよく寝てよく食べる。特別なことは何もない。それがいちばんの薬だよ」


 カルテを閉じかけた先生に、小春は思い切って尋ねた。


「先生。純水って、どうして効くんですか」


「ん?」


「身体の魔素を薄めるんだよって、今日、下級生の子に説明しようとしたんです。でも薄めた先が分からなくて。薄まった魔素はどこへ行くんですか。どうして免疫は魔素にだけあんなに暴れるんですか」


 瀬戸先生は目を丸くし、それから机に肘をついて唸った。


「……いい質問だ。長く医者をやっているが、患者さんにその類の質問をされたのは初めてだよ」


「変なこと聞きました?」


「逆だよ。いちばん大事なことだ。……そして参ったな。正直に言おう。はっきりとは分かっていない」


「先生でも?」


「先生でも、だ。魔素というものが世に現れてから、まだ五年と経っていない。人間の学問はそんなに足の速いものじゃないんだ。目の前の子を助ける治し方が先で、仕組みの解き明かしは後回し。医者の世界は昔からそうやって走ってきた」


 先生は椅子の背にもたれ、少しだけ声を柔らかくした。


「純水が効くことは、何千、何万人の身体がもう証明してる。君の身体もその一つだ。だが、なぜ効くのかの奥の奥は、まだ誰も見ていない。魔素と水の学問は、言ってみれば白い地図なんだよ。ほとんどの場所に、まだ誰の足跡もない」


「……白い地図」


「ああ。恥ずかしい話、研究する人間も足りていない。みんな目の前の患者と暮らしで手一杯だからな。あの水に救われた子がこの病棟にも何十人もいるのに、あの水の正体を調べている学者は数えるほどしかいない」


「これから埋めるんですか。その地図」


「そうなるだろうね。君が大人になる頃には、少しは埋まっているかもしれん」


「それは、誰が埋めるんですか」


 瀬戸先生は笑った。


「さあ。まだ誰でもない誰かだよ」


 診察室を出て会計を待つあいだも、帰りの坂道を下りるあいだも、小春の胸はやけに騒がしかった。


 白い地図。誰の足跡もない場所。


 その言葉が、耳の奥で何度も鳴っていた。


 ◇ ◇ ◇


 夜。兄が帰宅したのは九時を回った頃だった。


「ただいま。……悪い、遅くなった」


「おかえり。ご飯、温めるね」


 温め直した夕食を食べる兄の向かいに座り、小春は湯呑みの純水を飲みながら学校の話をした。渡り廊下の女の子のこと。水を分けてあげたこと。隠さなくていいんだよと言えたこと。


「そうか。……偉かったな」


「別に偉くないよ。わたしも同じだったから、苦しさの形が分かっただけ」


 兄は箸を止め、少しのあいだ小春を見た。それから何も言わずにまた食べ始めた。何か言いかけて、やめた横顔だった。


「検診はどうだった」


「満点。瀬戸先生が、数字がずっと綺麗だって」


「そうか」


 短い返事の奥で、兄の肩から力が抜けたのが分かった。どれだけ忙しい日でも、兄は検診の結果だけは必ず聞く。


「ねえ、お兄ちゃん」


「ん」


「東京に行く前の約束、覚えてる?」


「約束?」


「指切りしたでしょ。わたしに何かしたいことができたとき、ちゃんとその道が開いてる世界にするって」


 兄の箸がまた止まった。


「……ああ。覚えてる。忘れるわけがない」


「あのね」


 小春は湯呑みの水を見つめた。澄んだ水の底で台所の灯りが揺れている。


「したいこと、見つかったかもしれない」


「──何だ」


「まだ内緒。ちゃんと決めたら、いちばんに言うから」


 兄は虚を突かれた顔をして、それからゆっくりと笑った。記者会見や委員会で見せる顔ではない。家の中だけの、少し不器用なお兄ちゃんの顔だった。


「そうか。……なら、道の方は任せておけ」


「うん。任せた」


 約束の続きが結ばれた気がして、小春は湯呑みの水を飲み干した。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、小春は長い時間をかけて風呂に入った。


 湯船に肩まで沈み、いつもの鼻歌をうたう。母が教えてくれた歌だ。歌詞はもうところどころ曖昧だけれど、湯気の中でうたうと母の声を思い出せる気がする。


 両手で湯を掬った。


 指の間からこぼれる水が、灯りを受けてきらきらと光る。


 純水がわたしを生かしてくれた。


 魔素不適応症で苦しんでいた頃、兄が毎週買ってきてくれた一本の水。毎朝欠かさず持たせてくれるボトルの水。身体の奥に沈んでいた重たい鉛を、少しずつ溶かして流してくれた水。


 なのに、わたしはこの水のことを何も知らない。


 どうして効くのか。薄まった魔素はどこへ行くのか。あの子に聞かれて答えられなかった問いの先は、白い地図のどこにもまだ書かれていない。


 ──知りたい。


 湯気の中で、その言葉がはっきりと形になった。


 誰かが埋めてくれるのを待つのではなく、自分の足であの地図を歩いてみたい。助けてもらった水のことを、今度は自分が解き明かす側に回りたい。この水に救われる子は、これからも生まれてくるのだから。


 今日の渡り廊下の子の顔を思い出す。治った人を初めて見たと言わんばかりの、あの見開かれた目。あの子に「とにかく効くの」としか言えなかった自分を、いつか追い越したい。どうして効くのかを、ちゃんと自分の言葉で説明できる人になりたい。


 湯の中で、小春はそっと自分の小指を立てた。


 東京へ発つ夜に兄と結んだ、小さな指切りの形。


 まだ誰でもない誰か。


 その誰かに、わたしがなる。


 決めたら、いちばんに言う約束だ。もう少しだけ、ちゃんと考えて。それから兄に伝えよう。あの夜の指切りの、続きの言葉で。


 湯気の向こうで水面が静かに揺れて、風呂場に小さな水の音が響いた。




参与の椅子


 広島本部の廊下で、黒崎はまた同じ視線を受けた。


 すれ違いざまに会釈をした若い職員が、数歩先で連れと小声を交わす。振り返らずとも内容の見当はつく。あの人はまだいるのか。東京の参与殿は、この広島で何をしているのか。


 答えられる者はこの建物のどこにもいない。黒崎自身を含めて。


 執務室として宛がわれた部屋の扉には、差し込み式の紙の札が掛かっている。中央本部参与・黒崎。彫られた木の札ではない。数ヶ月で引き揚げる人間のための、仮の札である。


 東京からこの街へ送り込まれたのは、ほんの数ヶ月前のことだ。


 任務は一つだけだった。尾道で生まれた自由市場の構想が広島都市圏の会議に上がる。あれを会議で潰すこと。与えられた権限もその一つのためだけにあった。中央の名を背負って委員を訪ね、金融と輸送の糸を引き、必要なら週刊誌も使う。広島本部の日常の業務には、最初から指一本触れていない。この広島本部の人間にとって黒崎は、ある日東京から現れて会議室と料亭のあいだだけを動き回る、得体の知れない客だった。


 そして任務は終わった。


 賛成八、反対七。自由市場の構想は会議を通り、素材取引所は開場し、連日盛況の報が新聞に載っている。


 本来なら仮の札はとうに外され、黒崎は東京の自分の机に戻っているはずだった。だが東京は引き揚げを命じない。残れとだけ言う。


 得体の知れない客は任務を失い、ただの得体の知れない置物になった。


 黒崎は椅子に腰を下ろし、誰も来ない扉をしばらく眺めた。


 時計の針の音がやけに大きい。東京の執務室では聞いたことのない音だった。静けさとは音がないことではなく、居場所のない人間の周りに溜まるものなのだと、この街に来て初めて知った。


 ◇ ◇ ◇


 午前中、黒崎の机の上を通る書類は一枚もない。


 決裁の権限がないのだから当然である。回覧すら回ってこない。そもそも宛先の名簿に黒崎の名がないのだ。この本部の帳面のどこにも、黒崎の居場所は書かれていない。


 昼前に一度だけ来客があった。更迭された幹部たちの後任として据えられた男である。着任の挨拶に来たという。型どおりの名刺交換と型どおりの世間話。男は終始、黒崎と目を合わせなかった。


「その、参与におかれましては……今後も当本部に、ご滞在の予定で」


「東京の指示があるまでは」


「と申しますと、ご用向きは」


「私にも分かりかねます」


 男の顔が困惑に固まった。冗談と受け取るべきか判断がつかないのだろう。冗談ではないのだから、無理もない。


「……何かございましたら、お声がけください」


「そうさせてもらいます」


 男は二度と来ないだろう。黒崎には分かっていた。


 男の立場で考えれば当然の話だ。前任の幹部たちは裏台帳の責めを負って消えた。その粛清を主導したのは専務理事の鬼頭であり、その右腕と目されている黒崎が、説明のつかない紙の札を下げて館内に残っている。触らぬ神に祟りなし。近寄らないのが賢明というものだ。


 嫌われることには慣れていた。長い勤めの中で、恐れられることも憎まれることも仕事の道具のうちだった。


 だが今のこれは、どちらでもない。


 恐れられてもいない。憎まれてもいない。ただ、説明のつかないものとして扱われている。


 道具を取り上げられた職人が最後に気づくのは、失ったのが道具ではなく、腕の使い道だという事実だった。


 ◇ ◇ ◇


 午後。黒崎は新聞の束を机に広げた。


 経済面の隅に尾道の記事がある。瀬戸内素材取引所、薬草の上場品目を拡大。探索者の登録は増え続け、他の特区からの視察が絶えないという。


 切り抜きの綴りは三冊目になっていた。誰に命じられたわけでもない。ただ毎日、読まずにいられなかった。


 自分が止めるために送り込まれた市場である。


 委員を鞭と飴で縛り、週刊誌で若造の過去を暴き、それでも止められなかった市場だ。


 記事の数字を目で追いながら、黒崎は認めざるを得なかった。よくできている。入口は開かれ、記録は残り、値には理由が付く。恐怖の入り込む隙間を、あの若造は設計の段階で塞いでいた。


 敗因ならとうに数え尽くした。


 恐怖は人を縛る。即効で、確実に。だが縛られた人間は、縛めが解けた瞬間に必ず反対側へ走る。会議の採決がそれを教えた。賛成八、反対七。寝返った票は、どれも黒崎が恐怖で押さえたはずの票だった。恐怖を取り除いた者が、恐怖で縛った者に勝ったのである。


 商人の代表の顔を思い出す。仕入れの融資と輸送の便で締め上げれば、あの男は動けないはずだった。学者の委員長も同じだ。研究の予算と身内の職を握れば黙るはずだった。事実、あの日まで黙っていた。


 黒崎の設計は間違っていなかった。恐怖は最後の瞬間まで効いていた。


 だからこそ分かる。あの若造がやったのは説得ではない。委員一人一人の背中から、黒崎が載せた重石を順番に降ろしていったのだ。重石の在り処を正確に見抜いた上で。人を縛る設計をしてきた人間にしか、あの手口の不気味さは分からない。


 週刊誌も同じだった。埃だと踏んで放った過去を、若造は会見で誇りに変えてみせた。隠させれば埃になり、晒す胆力があれば誇りになる。人の誇りという勘定科目が、黒崎の帳簿には最後まで載っていなかった。


 ならばなぜ、まだ切り抜きを続けているのか。


 敗因の研究か。命じられた仕事の支度か。それとも、ただ見ていたいだけなのか。


 黒崎は三冊目の綴りを閉じた。


 人の心を読んで設計を組んできた男が、自分の手の内だけは読めなくなっていた。


 ◇ ◇ ◇


 夕方近く、電話が鳴った。


 東京からだった。受話器の向こうの声は、いつもと変わらず柔らかい。


「黒崎さん。お変わりありませんか」


「……専務理事。ご無沙汰しております」


「尾道はどうですか」


「盛況です。上場品目も参加者も増え続けております。詳細は先日の報告書に」


「読みました。良い報告書です。数字だけでなく、人の顔が書いてある」


「恐れ入ります」


「競り台の様子は、ご自分の目でも見ておいでですか」


「……いえ。報道と提出書類を通してのみです」


「一度ご覧なさい。書類は嘘をつきませんが、書類に載らないものは山ほどあります。あなたはそれを読める方だ」


 短い沈黙があった。急かすでも試すでもない、ただ穏やかなだけの間だった。この老人の沈黙ほど読めないものを、黒崎は他に知らない。


「専務理事。恐れながら伺います。私に広島へ残るようにと仰った、次の仕事とは」


「今なさっていることですよ」


「……見て、報せる。これだけがですか」


「ええ。よく見て、よく報せてください。見たいものではなく、あるものを見られる人は案外少ないのです。あなたはそれができる。……それでは、また」


 通話は切れた。用件らしい用件は、最後まで何もなかった。


 受話器を置いた手を、黒崎はしばらく見下ろした。


 本当は、もう一つ聞きたいことがあった。切り捨てたあの老政治家が今どうしているのか。だが言葉は喉の途中で消えた。聞いてどうする。答えは想像がつく。あの穏やかな声はきっとこう言うだけだ。「さて、存じませんな」と。切った枝の行方を、庭師は覚えていない。


 脳裏に、あの日の廊下が蘇る。全面協力を表明した会見の後だった。四年間ギルドを支えた後ろ盾を切り捨てて、我々に痛みはないのですかと自分は問うた。


 腐った枝は切る。木は残る。それだけのことです。


 老人は手帳を閉じてそう答えた。声を荒げるでもなく、悼むでもなく、庭の手入れの段取りでも語るように。


 言葉を失った理由が、今なら分かる。


 あれは切り捨てられた男一人の話ではなかった。この組織にいる全員の話だった。枝はいつでも切られる。どの枝を切るかを決める鋏の音は、切られる瞬間まで聞こえない。


 そして自分は今、幹から一番遠い場所で切り抜きを作っている。


 ◇ ◇ ◇


 夜。本部を出ると、広島の街に灯りが並んでいた。


 数ヶ月前に来たばかりの街である。旨い店も知らなければ、道の名も覚えていない。任務のために歩いたのは会議場と役所と料亭のあいだだけで、この街の暮らしの側を黒崎はまだ何も知らなかった。


 電停に人の列ができている。誰も列を乱さない。恐怖で並んでいるのではない。明日も電車が来ると知っているから並んでいるのだ。長く恐怖を道具にしてきた人間には分かる。信用というのは恐怖よりも遥かに、金と時間のかかる装置なのである。壊すのは一晩で足りるが、組むのには年単位の歳月がかかる。この街は四年かけてそれを組み直した。黒崎の与り知らない場所で、黒崎の与り知らない人々の手で。


 角の屋台から煙と笑い声が流れてきた。仕事帰りの男たちが肉の串を齧りながら、今日の競りの話をしている。尾道の、という言葉が聞こえて足が止まった。勤め先の納めた素材に良い値がついたらしい。実入りが増えるかもしれないと、男たちは声を上げて笑っている。


 黒崎は歩を再開した。


 止めるはずだった市場の話が、止めるはずだった街の夜に、笑い声と一緒に流れている。これほど分かりやすい敗戦の景色もない。


 よく見て、よく報せろと老人は言った。見たいものではなく、あるものを。


 ならば認めよう。あるものは、こうだ。


 任務は終わった。終わった人間が、終わらせ損ねた市場を毎日眺めている。そして眺めるたびに、認めたくない実感がひとつ増えていく。あの綴りをめくる時間だけ、時計の音が聞こえなくなるのだ。


 枝は切られる前に、自分が枝だと気づけるのだろうか。


 それとも気づいた時にはもう、鋏の音の側にいるのだろうか。


 ──痛みはないのですか。


 あの日の自分の問いが、知らない街の夜に落ちて消えた。


 答えはまだ、どこからも返ってこない。

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