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IR情報で読み解くダンジョン経済学  作者: カトーユキヒロ
第3章:見えざる手は、俺が作る

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第14話:静かな買い占め

 買い占めの報告から三日。取引は平常どおり続けさせながら、調査は事務所の奥で静かに進んでいた。表の顔は普段どおり。それが凪の立てた鉄則である。こちらが気づいたと悟られた瞬間、敵は名義を替えて潜り直す。


 五名義の買いはその後も続いていた。田中は毎夕のセリを見張り、札の入り方を手帳に書き留めた。相場師の助手が板についてきたわねと凪が笑った。


「社長。今日も同じっす。競り合いには一切乗らず、終わり際に一声だけ」


 田中が手帳を開いた。数字と時刻がびっしり並んでいる。


「気味が悪いんですよ。買ってる連中、誰も嬉しそうじゃねえんです。良い品を安く落としても、顔色ひとつ変えねえ。買い物ってのは、本当は楽しいもんでしょう」


 その一言に陽太は思わず田中を見た。現場に立つ者だけが気づく違和感だった。数字には出ない。だが確かに何かがおかしい。


「買い物じゃないからだ。あれは仕事だ。誰かに命じられて、決められた量を集めているだけだ」


「命じられて、って……誰にです」


「それを今から突き止める」


 事務所のホワイトボードが一枚の地図に変わっていった。


 中央に五つの社名。貿易商に雑貨商に運送業。そこから線が延び、登記と決算公告から拾った事実が付箋で貼られていく。相場師だった頃に毎晩やっていた作業だ。企業の化粧の下の素顔は開示書類の行間に必ず残る。


「まず設立。五社とも今年の一月から二月に集中してる。代理人は全部同じ行政書士事務所。定款の文面まで瓜二つよ」


 凪が登記簿の写しを叩いた。


「役員は互いに無関係。でも住所を辿ると三人が同じ賃貸物件の別室。残る二人は名義貸しの常連として業界で知られた人物だった」


「決算はどうだ」


「それが本命。五社とも売上はほぼゼロ。なのに資本金と借入だけが太い。仕入れた素材を売った形跡がないの。商売をする気のない商社よ」


 買うだけで売らない。利益を出す気のない買い手。相場の世界でその正体は一つしかない。誰かの代わりに黙って集める腕だ。


「相場師だった頃、こういう玉を見たことがある」


 陽太は付箋を一枚貼りながら言った。


「株の買い集めだ。本体が表に出ると値が跳ねるから、無関係の顔をした口座を何十も並べて少しずつ拾う。ばらばらに見えて、実は一つの手だ。……手口は同じだよ。株が素材に変わっただけだ」


「じゃあ、あなたには相手の考えが読めるのね」


「読める。だから、余計に嫌な予感がする」


「厄介なのはね。名義貸しも貸事務所も、それ自体は犯罪じゃないの。届出義務ぎりぎり下の取引額も合法。一つ一つは白。並べて初めて灰色。裁判で黒にするには指示系統の実体が要るわ」


「黒崎と同じ設計思想だな。一つも線を踏まずに全体で反則をやる」


「金の入口は」


「五社とも同じ。東洋振興投資という日本法人からの出資と貸付。今年設立の投資会社で、代表は元商社マン。表向きはどこも汚れてない」


 東洋振興投資。陽太はその名をボードの最上段に書いた。五本の線が一つの箱に束ねられた。


 ◇ ◇ ◇


 箱の中身を照らしたのは海の男たちだった。


「夜の荷の行き先が分かりましたぞ」


 大西が月次報告のついでのような顔で切り出した。


「広島港の貸し倉庫です。名義は例の運送業。面白いのはここからでしてな。倉庫の荷が月に二度、大陸航路の船に積み替えられておる。荷主の名義は毎回違うが、通関を任されとる業者が毎回同じでした」


「その通関業者ですがな、大陸との定期航路を専門にしとった老舗です。腕は確か。ただ不況で傾いたところを去年どこぞの資本に丸ごと買われとります。買い主の名義は──」


「東洋振興投資、ですか」


「ご名答。手足から胃袋まで一本で繋がっとるわけですな」


 大西は皺の深い顔をしかめた。


「社長。わしは三十年、瀬戸内で荷を運んできた。荷には必ず顔がある。誰がどこへ何のために運ぶか、船乗りは荷の匂いで分かるもんです。……あの倉庫の荷には、顔がない。名前も行き先も、全部が借り物だ。あんな荷を、わしは見たことがない」


「国外に出てるんですか」


「出ております。合法にね。買った素材をどう使おうと今の法律は何も言わん。未加工素材の納品義務は国内の話。それも探索者だけです。買い付けた後の輸出を縛る法はどこにもない」


 凪が唇を噛んだ。実証区域の設計にも届出義務はある。だが縛れるのは取引の入口までだ。出口は法の空白だった。


「札幌の獣皮の三倍より、よほど大きな裁定取引ね。国内の値段と世界の値段の差を丸ごと抜いてる」


「抜くだけならまだ商売だ。問題は買っている品目だよ。医療用の薬草と動力用の魔石。金にするなら他にいくらでも効率のいい品がある。この二つを選ぶ理由は一つしかない」


「……備蓄。誰かの国の」


 事務所が静まった。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、国際電話が鳴った。ハワードだった。


「ミナトさん。例の五名義、うちの調査部が少し調べました。頼まれてはいませんがね。良い市場が汚れるのは我々の損なので」


「それで」


「東洋振興投資の金は香港の投資会社を二つ経由しています。そこから先はうちの腕でも壁に当たった。民間の調査が国家の壁に当たる感触、お分かりになりますか」


「一つ伺っても。なぜここまでしてくれるんです」


「言ったでしょう。良い市場が汚れるのは我々の損だと。それにね、ミナトさん。名乗らない買い手に市場を荒らされた経験ならうちは世界中でしています。この手口には見覚えがあるのですよ。あなたも知っているでしょう?」


「なんとなく」


「賢明だ。あなたは若いが、市場というものが何でできているかを知っている。……ミナトさん。市場は信用でできています。誰が何を買ったか見える。だから安心して売れる。ところが、顔のない買い手が入ると、その信用が腐り始める」


 ハワードの声から笑いが消えていた。


「売り手は疑い始めます。この値は本物か。誰かに操られていないか。疑いが広がった市場は、必ず死ぬ。私は世界中でその死を見てきました」


「……忠告、ありがとうございます」


「忠告その二です。名乗らない買い手は、買えなくなると別の顔になる。お気をつけて。……この情報は貸しにしておきますよ」


 通話は笑い声で切れた。貸しという言葉だけが妙に本気だった。


 受話器を置いて、陽太はしばらく動かなかった。あの男は敵ではない。だが味方でもない。それでも、市場を守れという一点においてだけは、確かに同じ側に立っていた。


 ◇ ◇ ◇


 深夜。陽太は東洋振興投資の決算公告を何度も読み返した。


(売上なし。人件費最小。資本金は八億。使途は関係会社への投融資のみ。……教科書どおりの導管だ。金を通すためだけの管)


 管の入口は海の向こうの壁の中。出口は五つの偽名。流れているのは日本の薬と動力の素。


(設立から半年で資本金は八億。増資の引受先は香港の二社。役員報酬は最低限で事務所は一室。広告もなければ営業もない。……典型的すぎて逆に美しい。この会社は隠れる気がないんだ。見つかったら切り捨てる前提で作られた使い捨ての管だ)


 使い捨ての管を用意できるのは、管の向こうに本体がいる者だけだ。


(相場で言えば仕手戦の玉集めだ。だが仕手は最後に売って儲ける。こいつらは売らない。儲けが目的じゃないからだ)


 値段を払って値段以外のものを買っている。この国の急所を。


「陽太。まだ起きてたの」


 凪が湯呑みを二つ持って現れた。深夜の三時を回っている。


「管の太さから逆算していた」


「どういうこと」


「八億で買える量は知れている。だがこの管は、八億を通すために作るには立派すぎる。もっと太い金を通す前提の設計だ」


 陽太は決算公告の数字を指で叩いた。


「八億は着手金だ。本気の桁は、まだ後ろに控えている。……そして、これだけの仕掛けを組んでおいて、悠長に構える気がない。急いでいる」


「急いでいる?」


「相場師の勘だ。この玉集めには締め切りがある。誰かが、いつまでにこれだけ集めろと期限を切っている。……急ぐ者は必ずどこかで雑になる。そこが尻尾だ」


 凪は湯呑みを陽太の手元に置き、隣に腰を下ろした。


「怖いことを言うわね。まるで相手の呼吸まで聞こえているみたい」


「聞こえるさ。市場は嘘をつかない。焦った買い方は板に出る」


 陽太は目を上げた。


「凪。これは企業犯罪の絵じゃない。相手は企業の形をした国だ」


「ええ。そしてもう一つ嫌な符合があるの」


 凪が一枚の紙を差し出した。東洋振興投資の設立を代理した行政書士事務所の経歴だった。


「この事務所の代表、十年前まで永田町にいたわ。ある与党議員の公設秘書として」


「議員の名前は」


「城島。特措法を作った側の重鎮よ」


 陽太はペンを持つ手を止めた。


 その名は、栗山の帳簿にあった符牒を思い出させた。先生の取り分。査定場の古株だけが知る呼び名。ギルドが探索者から買い叩いた金の一部が、政治家の懐へ流れていた。


「……凪。金庫の中の紙を思い出せ。あの符牒の先が、この名前だとしたら」


「ギルドの中抜きと、外資の買い占め。二本の線が、同じ一人の政治家で交わるのね」


 二人はしばらく黙ってボードを見つめた。


 ボードの箱の上に新しい線が一本、日本の政治の中枢へ向かって延びた。歪んだ秤の下から掘り進めてきた坑道が、いつのまにか国家の地下まで届こうとしていた。


(俺は市場を作りたかっただけだ。だが、市場を守ろうとすれば、この国の一番深いところまで掘らなければならないらしい)


「鷹司さんに報告する。ここから先は国会の仕事だ」


 深夜の電話で報告を聞き終えた鷹司は長く唸った。


「経済安全保障。四年間この国が見ないふりをしてきた言葉だ。あるいは、どこかの誰かがそう仕向けたのかも知れませんが」


 受話器の向こうで、椅子の軋む音がした。


「湊さん。一つだけ確認させてください。この線を引けば、俺は城島先生と正面からやり合うことになる。あの人は与党の重鎮であり、12.11の英雄だ。俺の政治生命は、たぶん飛ぶ」


「……」


「安心してください。断る気はありません。ただ、あなたに知っておいてほしかった。俺はこれから、全てを賭けます。だからあなたも、覚悟してください」


「望むところです」


「……いいでしょう。国会で正面から聞きます。例によって公開の土俵で」

読んでいただきありがとうございます。

今後も頑張りますので、感想、評価、お気に入りなどよろしくお願いします。

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