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IR情報で読み解くダンジョン経済学  作者: カトーユキヒロ
第1章:ハズレアビリティとゴミ素材で妹の日常を守り抜く

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第13話:ダミー法人と、白衣の共犯者

「はい、これ。公的機関のお墨付きよ」


 数日後の夜。第二工場の事務所で、凪は一枚の仰々しい書類を陽太のデスクに滑らせた。書類のタイトルは水質基準適合証明書。発行元は、特区行政庁が管轄する公衆衛生局だ。


「……随分と早かったな。もう法人の登記と検査が終わったのか」


「ええ。設立したペーパーカンパニーの名前は“NPO法人 セトウチ・アクア・リリーフ”。代表理事には、私が見つけてきた身寄りのないフリーランスの人間を月額5万円で名義貸しさせてるわ。書類上、私たちとは一切無関係の慈善団体よ」


 凪は得意げに腕を組み、フッと笑った。


「傑作だったわよ、衛生局の検査官の顔。持ち込んだ水を分析にかけた瞬間、機械の故障を疑って三回も再起動してたわ。不純物も魔素も完全にゼロパーセントだって、最後は拝むように書類にハンコを押してくれたわ」


「これで、この水はダンジョンの未加工素材でも怪しい薬品でもなく、国が認めた最高品質の飲料水になったわけか」


「その通り。これで大手を振って病院に搬入できるわ。……準備はいいわね、社長?」


「ああ。今日からセトウチ・アクア・リリーフからの支援物資として、特区総合病院に週に100リットルの純水を無償で配送する。運送には、当然外部の業者を使う」


 陽太の視線の先には、裏在庫の泥スライムの核を使って自ら精製し、医療用の無菌タンクに詰められた眩いほどの純水があった。


 ほんのり温かい無菌タンクの表面に触れ、陽太は額の汗を拭いながら小さく息を吐いた。


「水筒サイズの精製じゃ気づかなかったが、一気に100リットルも連続で水を通すと、スライムの核からかなりの熱が出るな。途中で何度か水流を止めて休ませてやらないと、熱で核が崩れそうだった」


「あら、そうなの? 魔素や不純物を分解する時の化学反応みたいなものかしら」


「ああ。水を止めてる間、核が微かに脈動して熱を逃がしてるのが分かった。フィルターとして使っているが、やっぱり元は生き物なんだな」


「火傷するほどの高温にはならないのよね。なら、どうでもいいわ」


 凪は気にも留めない様子で肩をすくめた。


(病院用は別にいいが、プラント規模で生産するとなれば、この排熱は大きな問題だろう。……まあ、この問題を解決するのは東朋に任せよう)


「それよりも病院の反応が気になるわ。早く来週にならないかしら」


 凪のその言葉に、陽太はわずかに目を細めた。

 

「……凪。お父さんには言ってあるのか?」


「いいえ。……何か問題でも?」


「いや。お前が自分の父親を巻き込もうとしているのが意外でな」

 

 凪は少しだけ視線を外した。

 

「……小春ちゃんを診てくれている恩人よ。守りたいのは本当だわ。それに、父は誰よりもあの病棟の子供たちのことを考えている。必要なら、頭だって下げる人よ」

 

 それ以上は言わなかった。陽太もそれ以上は聞かなかった。


 ◇ ◇ ◇


 数日後。尾道特区総合病院、小児病棟。


 小春の主治医でもある小児科部長の瀬戸は、医局のパイプ椅子に深く腰掛け、限界を迎えた両目を指で強く揉みほぐしていた。連日の当直で、白衣はヨレヨレになり、無精髭が顎を覆っている。だが、彼を最も疲弊させているのは肉体的な疲労ではなく、何も救えないという諦念だった。


 気候変動と魔素の蔓延による環境激変以降、魔素に耐性を持たない子供たちの魔素不適応症は激増の一途を辿っている。


 魔素不適応症は花粉症のように、免疫が魔素に過剰反応することで引き起こされる病気だ。一定の基準を超えて魔素に晒されると発症し、更に閾値を超えると急激に悪化する。特効薬はない。唯一の治療法は、不純物を含まない純水を体内に取り込み、血中の魔素濃度を希釈することだけだ。しかし、この総合病院に回ってくる配給水は、薬品の臭いがキツい粗悪な濾過水ばかりだった。


「水さえ……綺麗な水さえあれば……ッ」


 昨晩も、呼吸器をつけたまま苦しむ子供の手を握ることしかできなかった。己の無力さに、瀬戸がギリッと奥歯を噛み締めた、その時だった。


「瀬戸先生! 来てください、すぐに!」


 血相を変えた看護師が、医局に飛び込んできた。


「どうした! また急変か!?」


「いえ、逆です! 重症だった大輝(だいき)くんのチアノーゼが消えました! それだけじゃありません、他の不適応症の子たちも、顔色が劇的に……っ!」


「なんだと!?」


 瀬戸は椅子を蹴り飛ばすように立ち上がり、病室へと走った。そして、信じられない光景を目にした。


 ベッドの上で常に息を荒げていた子供たちが、穏やかな寝息を立てている。痛みを訴えていた子供が、起き上がって絵本を読んでいる。劇的な、あまりにも劇的な回復だった。


「一体何があった……? 投薬のスケジュールは変えていないはずだぞ」


「お、お水です! 今朝、新規のNPOから大量の飲料水が寄付されて……それを飲ませた子たちが、次々と……!」


 看護師が震える手で差し出したのは、NPO法人 セトウチ・アクア・リリーフというステッカーが貼られた無菌タンクと、それに添えられた公衆衛生局発行の水質基準適合証明書だった。


 瀬戸は書類をひったくり、その数値に目を剥いた。


「魔素含有率……0.00%!? 馬鹿な、特区の深層でしか採れない特級品の魔晶石でも0.1%より下がらないんだぞ! これを寄付しただと……!?」


 瀬戸はすぐさまタンクの蛇口を捻り、紙コップに注いだ水を口に含んだ。


 ──本物だ。


 喉を通り抜け身体に染み渡る感覚。雑味だらけの配給水に慣らされた舌が、純粋な無味に驚き、歓喜しているのが分かった。


「……奇跡だ。どこの誰かは知らないが、この水があれば……この病棟の子供たちを全員救える!」


 瀬戸の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。諦念で塗りつぶされ、死を待つのみであった小児病棟に、一筋の、だが強烈な希望の光が差し込んだ瞬間だった。


 ◇ ◇ ◇


 それから一週間後。陽太は、いつもより顔色の良くなった小春を連れ、定期的な検診のために尾道特区総合病院を訪れていた。


 一通りの検査を終えて、診察室に入ると主治医の瀬戸が笑顔で迎えてくれた。


「すごいぞ小春ちゃん。肺の魔素の影が、劇的に薄くなってる。息苦しさも全然ないだろう?」


「はい! お兄ちゃんのご飯とお水のおかげです!」


 診察室で、瀬戸は小春の頭を優しく撫でた。子供に向けるその笑顔だけは、無精髭のむさ苦しさを微塵も感じさせない、本物のお医者さんの顔だった。


「小春ちゃんの経過は極めて順調だ。定期的な純水の摂取はこれからも必要だろうが、寛解もそう遠くないだろう。小学校にも通えるよ」


 寛解。その言葉が、陽太の胸の奥で静かに反響した。


「本当ですか! ありがとうございます、先生。先生のおかげです」


「いやいや。小春ちゃんと陽太君が頑張ったからだよ。……小春ちゃんは看護師のお姉さんとプレイルームで待っててくれるかい? 少しお兄ちゃんとお話があるんだ」


 瀬戸は看護師に小春をプレイルームへ連れて行くよう指示し、二人を見送ると、ガチャリ、と診察室の鍵を内側から閉めた。途端に、部屋の空気が張り詰める。


「時間を取らせてすまないね。これを見てくれないか?」


 瀬戸はダンボールの中から、一つの無菌タンクを取り出した。あのセトウチ・アクア・リリーフのステッカーが貼られている無菌タンクである。


「陽太君。……単刀直入に聞く。この水を送ってきているのは、君だね?」


 陽太の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。ダミー法人を立て、配送ルートも完璧に偽装したはずだ。


「……何の話ですか、先生。俺はただの学生で、今は休学して探索者を──」


「誤魔化さなくていい。NPOの登記や流通経路を調べたわけじゃない。私にしか分からない医学的な痕跡(カルテ)からの推測だ」


 瀬戸は、小春の分厚いカルテを机に置いた。


「この奇跡のような水が病院に届き始めたのは一週間前だ。だが……君の妹である小春ちゃんだけは、それよりもさらに数週間前から症状が改善し、血中の魔素濃度が劇的に低下し始めていた」


「……!」


 陽太は沈黙した。


 凪が構築した社会的な偽装は完璧だった。だが、瀬戸は妹を一番近くで診ていた主治医だったが故に、そのタイムラグというたった一つの矛盾に気づいてしまったのだ。


「……もし、そうだと答えたら?」


 言い逃れはできないと悟った陽太の声色が、静かに変わった。瀬戸は唾を飲んだ。娘から「探索者になった」と聞かされていた青年の、その目の奥に宿る光は、到底探索者のものではない。


 だが、瀬戸は怯まなかった。彼はゆっくりと立ち上がり、そして──陽太に向かって、深々と頭を下げた。


「頼む。……この水を、絶やさないでくれ」


「……先生?」


「これがギルドの法に触れる裏ビジネスの産物でも、危険な魔物素材から精製されたものでも構わない。私は医者だ。目の前の子供たちが救えるなら、何だってする!」


 頭を下げる瀬戸の白衣はヨレヨレで、肩は震えていた。だが、その声には、子供たちの命を背負い続けてきた男の執念が籠もっていた。


「……顔を上げてください、先生」


 陽太の静かな声に、瀬戸が顔を上げる。


「俺も腹を割って話します。この水は合法です。俺たちの会社ウォーター・ベインで作り、セトウチ・アクア・リリーフを通じてこの病院に提供しています。水を絶やすつもりはありません。ただし……この善意の裏には、俺たちの意図が仕込まれています」


「意図……?」


「俺たちはギルドから目を付けられています。いずれ再び妨害を仕掛けてくるでしょう。その時に――」


「分かった」


 瀬戸が、陽太の言葉を静かに引き取った。

 

「ギルドのせいでこの水が供給されなくなれば、私が先頭に立って抗議する。そういうことだろう?」


「……ええ。悪い言い方をすれば、子供たちを人質にするつもりでした」


 瀬戸はしばらく黙って陽太を見つめていた。そして、やおら口を開いた。


「……娘が、世話になっているようだね」

 

 陽太の目が、わずかに揺れた。

 

「……ご存知でしたか」


「あの子が自分から会社の話をするなんて珍しくてね。察しはついていたよ。……あの子は、昔から頭の切れる人間にしか心を開かない。陽太君、君は本物だ」

 

 瀬戸は深く息を吐き、不敵に笑った。

 

「すでにこの病棟は君たちの水なしでは一日だって維持できない。喜んでその役を引き受けよう。……その程度の泥、医者として、そして父親として、喜んで被ってやる」


それは、凪が構築した防衛戦略の最後の一手。善良な総合病院と子供たちを特区の行政に突きつける人質にするという悪魔の契約だ。だが、瀬戸は微塵も躊躇しなかった。

 

交渉成立(イッツ・ア・ディール)ですね。……これからも小春を、子供たちをよろしくお願いします、先生」


「ああ。君たちの会社は、私が全力で守り抜こう」

 

「ありがとうございます、先生」

 

 陽太はゆっくりと頭を下げた。診察室の外では、小春の楽しそうな笑い声がこだました。

今後も頑張りますので、感想・評価・お気に入り等よろしくお願いいたします。

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