18話 魚当てゲーム
温泉旅館での、大きな楽しみ。それは温泉と食事の二大巨頭じゃないだろうか。まあ、その片方である温泉で、僕は3対1の混浴という辱めを味わったんだけど。
だからこそ、せめて食事くらいはしっかりと味わいたい。そんな気持ちだった。
「ここってお魚が有名なんだよね。はると君は、どんな料理が出てくると思う?」
無邪気そうな顔で、こよみは問いかけてくる。今だけは、猛獣の顔をしていない。単なる日常会話みたいだ。
「たぶん、刺身とかじゃないかな? どんな魚かは、分からないけど」
「ふふっ、確かにありそうだね。じゃあ、どんな魚が出てくるか、賭けでもしない?」
ニヤリと唇を歪ませながら、そんな提案をされた。なんてことだ。僕の安息は、数秒しかなかったのか?
いや、まだだ。賭けに勝ちさえすれば、これ以上苦しまなくて済むんだ。とにかく、良い案を出してみせる。そうすれば、僕は助かるんだ。
「はると、こよみちゃん。お金だけは、賭けちゃダメよ?」
「くくっ、そうだね。一品を相手に渡すくらいが、ちょうど良いんじゃないかい?」
母さんは真面目な顔で注意してきて、あかねさんは楽しそうに傍観者をしている。くそっ、これじゃ母さんたちを味方につけることはできないか。
ただ、せめて少しでも有利なルールにしないと。何を賭けるにしても、大事なことだ。
「それじゃあ、ルールを決めない? ちゃんとしておかないと、後で困るでしょ?」
「なら、はると君が勝ったら、あーんしてあげる。負けたら、ふゆこさんが認めるまで、可愛くおねだりだね」
なんてことだ。母さんとあかねさんの前で、可愛くおねだりだって? そんなの、全校生徒の集まる前で一発ギャグをするよりむごいじゃないか。
こよみのやつ、恐ろしすぎるだろ。もはや、並大抵のホラー映画を超えている。
というか、あーんだって見られたくないぞ。どの道負けてもあーんされることを思えば、勝つ意味はあるが。
「あらあら。成長記録として、残せそうね」
母さん……! どうしても僕を苦しめたいみたいだな。真面目な顔で、なんてことを言うんだ。
いや、非日常だから残す価値があるというのは、ちょっとだけ分かるけど。たぶん、母さんにとっては大事な思い出になるんだろうけど。
でも、勘弁してくれ。せめて、もっとカッコいい姿にしてくれよ。
「ふゆこちゃん。はると君だって、良い所を撮ってもらいたいだろうさ」
あかねさんは、やれやれという顔をしながら助けてくれた。本当にありがとう。今回ばかりは、感謝してもしきれない。
まあ、カッコつけたがりだと思われるかもしれないが。それくらいは、安いものだ。
とにかく、これで最低限の命綱は手に入れた。後は、勝ち目のあるルールにしないと。
こよみは料理している都合上、魚には詳しいはず。無制限に挙げられるのなら、間違いなく僕が負ける。
よし、決めた。これでいこう。
「3匹ずつ、提案しない? 多く当たった方の勝ちってことで」
「じゃあ、はると君の先行でいいよ? 3尾言ってくれたら、それとは違うものを出すから」
こよみのやつ、余裕そうな顔しやがって。僕を舐め腐ってやがる。いくらなんでも、刺身にする魚くらい分かるんだぞ。
そんなに負けたいというのなら、望み通りにしてやる!
「サーモン、マグロ、ニジマスでどうかな?」
こよみをじっと見ると、頬を釣り上げていた。まるで、勝利は決まっているかのように。もしかして、僕は何かミスをしてしまったのか?
いや、刺身としては定番なはずだ。ちゃんと、ど真ん中とちょっと外したやつを挙げたはず。
なのに、どうしてこんなに不安なんだ。こよみが余裕そうな顔をしているのが、どうしても気にかかってしまう。
そしてこよみは、満面の笑みで口を開いた。
「じゃあ私は、ブリ、タイ、カツオでいくよ。結果が、楽しみだね?」
「そうだね。僕は負けないよ」
そんな僕たちを、母さんはニコニコしながら見守っていた。何がそんなに嬉しいんだろうか。まあ、楽しそうで何よりだけど。まさか、僕をバカにして笑っているはずがないのだし。
あかねさんは、優しい顔で僕のことを見つめていた。なんだか、むずかゆさがあった。
それからしばらくして、料理が運ばれてきた。確かに刺身があった。女将さんに、軽く説明を受ける。
見て分かるのは、マグロとタイだけ。つまり、残りがどうかが勝負を分ける。ひとつでもこよみの挙げた魚があれば、僕の負け。しっかりと集中して、女将さんの話を聞いていく。
「こちら、急速冷凍して保存された寒ブリでございます」
その言葉を聞いて、僕は目の前が真っ暗になったような気がした。おねだり確定。恥ずかしい目に合う未来が、目の前にある。
うなだれそうになるのを我慢しながら、残りの説明も聞いていく。そうしたら、カツオもメニューに入っていた。
つまり、完敗。どうしてだ。ちゃんと、良いものを選んだはずなのに。こんなところでも、こよみマジックが出てくるのか? なんてことだ。
女将さんが去っていくと、こよみは目を輝かせて僕を見てくる。何も言われないけど、僕のやるべきことは決まっている。
くそっ。せめて、母さんがすぐに可愛いと認めてくれることを祈るだけだ。
「こよみさん、お魚をあーんしてください……」
僕の言葉を受けて、こよみは笑顔で母さんをチラリと見る。僕は震えそうになりながら、母さんが口を開くのを待つ。その数秒が、まるで数分かのように思えた。
長い長い一瞬の後、母さんの声が届く。
「可愛くおねだりって言うのなら、少しは演出が欲しい気もするわ」
神様、仏様。いや、もう邪神でもなんでも良い。誰か、僕を助けてください。母さんやあかねさん、そしてこよみの前で、もっと恥ずかしいおねだりをしないといけないんです。
どうか、どうか救いの手を。一生の信仰を捧げますから。
「くくっ。ふゆこちゃん、アイドル並みの可愛さは求めちゃダメだよ? せいぜい、子犬くらいってもんさ」
あかねさんは、これは僕をかばってくれているのか? それとも、追撃を加えてきたのか? ちょっと笑っているから、どうにも判別できない。
だが、ハードルを下げてくれたことには感謝しないと。母さんのことだから、本当にアイドル並みの可愛さを求めていた可能性もある。ひとまず、何十回もおねだりすることは避けられそうだ。
よし、次に渾身の気持ちを込めよう。ちょっと姿勢を低くして、上目づかいで。声もちょっとだけ高く。
「こ、こよみさんにあーんしてほしいワン……」
数秒、沈黙が走る。その時間が、とても痛かった。母さんは、僕の目を見ながら微笑んだ。
「ふふっ、可愛かったわ。あかねさんからの意見を取り入れたのも、素晴らしいわね」
ひとまず、助かった。解説なんてことをされていることも、何度も繰り返すことを思えば大したことじゃない。
母さんの気分次第では、NGラッシュだってあり得たんだ。ありがとう、母さん。そしてあかねさん。
「じゃあ、食べさせてあげるね。はい、あーん」
「あーん。このブリ、とっても美味しいね」
「そうね。寒ブリだけあるわ。急速冷凍しているらしいけれど、しっかりと脂が乗っているわね」
実際、口に入ったブリはとろけるような感覚があった。高い刺身って、こういうことなんだなって感じの。
旅行先の料理としては、最高なんじゃないだろうか。普段食べられないものとして、かなり良い。
「くくっ、はると君にとっては、とびっきりに美味しいんじゃないのかい?」
「はい。でも……。こういう事を言ったら旅館に失礼なのかもしれないけれど、僕はこよみさんの料理の方が好きだなって」
「はると君……。そっか……」
ブリを食べていたこよみは、口元を緩めていた。なんとなく、嬉しそうに見えた。
「くくっ、こよみったら、はると君の胃袋を完全につかんじゃったみたいだね」
「うん。まさか、はると君がそこまで私の料理が好きだったなんてねー」
これ以上ないってくらいの笑顔で、僕のことを見ている。余計なことを言ってしまっただろうか。からかう材料を与えたといえば、そうかもしれない。
ただ、こよみの言葉は僕の予想とは違っていたんだ。
「ありがとう、はると君。旅行から帰ったら、また美味しい料理を作ってあげるね」
そう言いながら、そっと微笑んでいた。僕は、ちょっと見とれそうになってしまった。しばらくこよみの笑顔を見て、軽く目を逸らしてしまう。
母さんとあかねさんは、とても微笑ましそうに僕を見ていた。
「じゃあ、後は寝るだけね。四人で布団を並べて、一緒に寝ましょう」
穏やかな顔で語られる言葉で、僕は次の試練を確信したんだ。
「ふふっ、そうだね。楽しみだね、はると君?」
こよみも、さっきとは打って変わってニヤニヤしている。
くっ、誰と隣で寝ることになったとしても、大変なことになってしまう。僕は、ちゃんと眠ることができるのだろうか。




