16話 移動時間も勝負の時
今日は待ちに待ったのかは分からないが、温泉旅行だ。三連休ということもあり、二泊三日の予定。
窓から高速道路が流れていくのを眺めながら、僕はあかねさんの運転する車を楽しんでいた。
母さんも父さんもあまり帰ってこないこともあって、車に乗る機会が少ない。せっかくだから、存分に味わっていこうと思う。
そんな事を考えていると、頬に冷たいものが当たった。
「ひゃっ! あ、こよみさん……?」
なんて情けない声を出してしまったんだ。これじゃあ、ビビった子犬と一緒じゃないか。
こよみは、僕に冷えた飲み物を当ててきたらしい。
唇を釣り上げていて、それはそれは楽しそうだ。まったく、今日も変わらないんだな。せっかくの温泉旅行だけど、僕の受難は続きそうだ。
「はると君ってば、可愛い声出しちゃってー。音声作品を出したら、人気が出たりして?」
こよみは、あまりにも恐ろしいことを言ってくる。もはや恐怖の大王だろ。僕の音声作品に需要なんて無いはずだけど、一生残るデジタルタトゥーになってしまう。
冷たいものを当てられた悲鳴がネットに残るなんて、悪夢なんてものじゃない。夢魔も逃げ出すレベルだろ。
まあ、そもそも録音されていないから、実行も何もあったものじゃないんだけど。
こよみだって、実際にやるような人じゃない。とはいえ、頬の冷たさ以外で寒気が走ってしまった。ちょっと、震えちゃったよ。
「はるとの成長記録として残しておくのなら、悪くないわね。ちょっと、聞いてみたいわ」
「ふゆこちゃん、あんたやるわね……。こよみを超えてるんじゃないかい?」
母さんは相変わらずとんでもないことを言うし、あかねさんはどこに感心しているんだよ。
やっぱり、僕の味方はどこにもいない。ただ、3対1で囲まれているだけ。なんてことだ。何も悪いことなんてしていないのに。どうしてここまで追い詰められるんだよ。
まあ、母さんとはたまにしか会えないから、ちょっと気持ちが分かってしまう。僕の成長を、実際に感じてみたいんだろう。
いや、別の手段の方が絶対にいいけど。というか、アルバムで十分だろ! なんだよ、音声作品って!
「ふふっ、ふゆこさんも賛成してくれているよー? はると君の可愛い声、アルバムと一緒に残しちゃおっか?」
「声変わりする前も録音できていれば、もっと良かったわね……」
「あはは、大人気だねえ。はると君の声なら、私も分かるけどね」
なんてことだ。僕の声を録音したいやつが多すぎるだろ。ひとまず、ネットにアップロードされることは無さそうだけど。それだけは安心だ。
いや、なんでそんな最悪の事態じゃないことで安心しないといけないんだ。バッドエンドとメリーバッドエンドでどっちがマシかの話をしているんじゃないんだぞ。普通はどっちも嫌だよ。
くそっ、なんとか反撃しようにも、どうすれば良いのか思いつかない。いや、いっそこよみを巻き込んでしまえ。そうすれば、少しはダメージが与えられるはず!
「それなら、こよみさんの声も録音しないとね。あかねさんも、嬉しいんじゃないですか?」
「あはは、そうだね。ふたりの成長記録は、これから先も使うかもしれないからね」
「はると君ってば、ナマイキだよ。お母さんを味方にしようなんて」
ちょっと頬を膨らませている。悪くない。悪くないぞ! これなら、反撃できている! 僕ほどダメージは受けていないみたいだけど、構うものか。
とにかく、僕だけが攻撃され続ける状況は避けないと。サンドバッグになんて、なってたまるか。
「母さんだって、僕だけじゃなくて良いんでしょ?」
「そうね……。こよみちゃんも、大事な家族だもの。撮るのなら、一緒によね」
よし、よし! あかねさんも母さんも味方に引き込めたぞ!
これなら、一方的に叩きのめされるだけじゃない。それどころか、今回は勝てるかもしれないぞ!
ふふふ。第三者が常に味方じゃないことを見落としたようだな、こよみ。今日こそ、僕の力を見せてやる!
「だって、こよみさん。やっぱり、こよみさんの声も必要みたいだよ」
「むー、はると君ってば、やっぱりナマイキ……。お母さんたちの力を借りているだけなのに……」
こよみは唇を尖らせている。珍しい表情をしている。今の顔こそ、アルバムに残してもらえば良いんじゃないか? これから先も残る、大事な思い出になるだろうさ。
これが勝利の美酒ってやつか。思っていたより、ずっと味わい深いぞ。もっともっと、楽しみたい。
僕だって、されるがままじゃない。今日こそ僕は、猛獣使いになってみせるぞ!
「こよみさんの可愛い声、いっぱい聞いてみたいよ。きっと、どんな声優よりもすごいんだろうね」
その瞬間、こよみはニンマリと笑った。明らかに、反撃を思いついた顔だ。
僕は、調子に乗ってしまったのか? うっかり点を取って、攻めすぎて防御がおろそかになったのか?
こよみは、さぞ楽しいんだろうという顔をしている。口元を抑えて、笑いをこらえているようにすら見えた。
「ふふっ、そんなに私のことが好きなんだ? はると君ってば、仕方ないなー」
あざわらうように、食いちぎるほどの勢いで噛みつかれた。こよみマジックが、的確に放たれている。
くそっ。せっかく優位だったのだから、もっと慎重になっていれば。まだ、優勢を保つことはできたかもしれないのに。
僕は自分が情けない。こよみの強さは、誰よりも知っていたはずなのに。どうして油断なんてしてしまったんだ。馬鹿野郎。
「あらあら。はるとの結婚相手は、もう決まりかしら」
「なんなら、あたしはずっと昔から決めていたんだけどね。そうだね、こよみ?」
「そ、それは……。まあ……」
こよみは顔を赤くして、モジモジしている。やはり、母さんたちがどちらにつくかが勝負を分けるみたいだ。
だが、きっと僕も顔が赤い。結婚相手って、そんなの。ウエディングドレスを着て微笑むこよみを、つい想像してしまった。間違いなく、誰よりも綺麗な花嫁になるんだろう。
いや、気が早いどころの話じゃない。僕たちは、まだ高校生だぞ。というか、そもそも恋人でもないのだし。
僕は全力で首を振って、浮かんだ映像を振り払っていく。
ちょっとだけ、沈黙が走った。お互いの目を見れないような。
たぶん、顔を赤くしていることを指摘すれば、少しは優位に立てるんだと思う。
だけど、僕だって大ダメージを受けるだろう。というか、どんな空気になるか想像できない。うっかり気まずくなってしまったら、おしまいだ。
これから二泊三日ずっと一緒なのに、どんな気持ちで一緒にいれば良いというのか。
だから、とりあえず話を変えないと。ここは紳士協定を結ぶべきだ。さもないと、お互いにとって致命的な一撃になってしまう。
「そ、それより、温泉宿ってどんなところなんだろうね。料理とか、おいしいのかな?」
「た、たぶん? お母さんたちが選んだみたいだし、よく分からないけど……」
とりあえず、こよみも乗ってくれたみたいだ。助かった。
母さんってば、平気で爆弾を投げてくる。たぶん天然だと思う。だけど、計算だったら怖すぎる。こよみ以上の猛獣になってしまう。あるいは、圧倒的な猛獣使いか。
まあ、ないか。そんな強者、居るわけがない。こよみですら、天下無双だというのに。その上ってなんだよ。英雄を通り越して、もはや災害だろ。
「一応、4人部屋で予約してあるわ。家族風呂もあるのよ。あと、魚介がおいしいと聞いているわね」
「近くには、釣り体験もあるらしいね。ふたりでなら、楽しいんじゃないかい」
なるほど。釣りでこよみと勝負するのも、悪くない。お互い未経験だし、それに運の要素も強い。十分に、勝ち目があるはず。
なんか、話を聞いたら楽しみになってきたな。せっかくだし、ゆっくり満喫しよう。
「そうなんだ。じゃあ、楽しい時間が過ごせそうだね」
「あー、家族風呂が楽しみなのかなー? はると君、やっぱり悪い子なんだねー?」
こよみは激しくニヤニヤしている。くっ、油断した。具体的に釣りって言っておけば、避けられたはずなのに。
前からネタにされていたんだから、予想できたはずだろ。完全に、ペースを乱しちゃったな。
「あらあら、そんなに楽しみなのね。なら、今日は早めにお風呂に入りましょう」
「くくっ、そうだね。せっかくの家族風呂なんだ。楽しもうじゃないか」
母さんやあかねさんまで追撃してきた。まずい。完全に、墓穴を掘ってしまった。
どうやって、家族風呂から逃げようか。僕の頭には、それしか無かったんだ。




