6
翌日の朝。
教室に入った瞬間、俺は後悔した。
前の席に座る田中さんと、目が合ってしまったのだ。
「…………」
「…………」
一瞬の沈黙。
田中さんは、明らかに「あ…(購買の人だ)」という顔をして、すっと視線を逸らした。
(うわああああああああああ)
心の中で絶叫する。
完全にトラウマ化している。
昨日の「パン買うの?」事件が、俺と田中さんの間に巨大な壁を作ってしまった。
いや、壁というより、万里の長城レベル。
「おはよ、購買の変な人」
爽やかな声が横から聞こえた。
和歌奈が、満面の笑みで挨拶してくる。
「いやー、昨日は名場面だったね。『パン買うの?』って」
「思い出させるなよ…」
「田中さん、猿飛君のこと完全に変な人認定してたよ?」
「知ってるよ…今さっき直で確認したところ」
「あはは、自業自得だね」
「お前は鬼か!!」
和歌奈は楽しそうに笑ってから、俺の机に手をついて覗き込んできた。
「で、今日の昼休み。屋上ね」
「……屋上?」
「そ。会話の練習するから」
「マジでやんの……?」
「当たり前でしょ。昨日は実践で失敗したんだから、今日は基礎練習。レベル上げの時間よ。」
「基礎練習って……」
「ロールプレイング。私がクラスの女子役やるから、話しかける練習」
「いや、お前相手だと意味なくね?もう慣れてきてるし……」
「ふーん?」
和歌奈は、ニヤリと笑う。
「じゃあ試してみよっか。今から私のこと『知らない人』だと思って話しかけてみて」
「は?」
「ほら、早く」
「無茶言うな!」
「できないってことは、まだ慣れてないってことでしょ?はい論破」
「ぐ……」
言い返せない。
和歌奈は満足そうに頷いて、自分の席に戻っていった。
「じゃ、昼休みね。逃げないでよ?」
「…………はい」
そして、昼休み。
チャイムが鳴ると同時に、和歌奈が俺の席までやってきた。
「行くよ」
「あ、ああ……」
俺は立ち上がり、和歌奈の後を追う。
教室を出て、階段を上る。
(屋上か……)
普段、屋上なんて来ない。
というか、屋上に行く理由がない。
ドアを開けると、春の風が吹き抜けた。
屋上には、数人の生徒がいた。
昼寝している先輩が一人、スマホをいじっている生徒が二人。
それだけだ。
「ここなら人目も少ないし、練習にぴったりでしょ?」
「まあ……そうだな」
「じゃ、あっちの方行こう」
和歌奈は、フェンスの近くへと歩いていく。
俺もその後を追った。
「さて」
和歌奈は振り返り、俺を見つめる。
「じゃあ早速、練習開始ね」
「練習って……何すんだよ」
「だから、会話の練習。私がクラスの女子役やるから、話しかけてみて」
「いや、だからお前相手だと……」
「言い訳しない。ほら、早く」
和歌奈は、急に表情を変えた。
いつもの意地悪そうな笑みが消え、他人行儀な、よそよそしい雰囲気になる。
「あら、どちら様ですか?」
「うおっ!?」
口調も、態度も、まるで別人だ。
「私、あなたのこと知らないんですけど?」
「ちょ、待て……急に雰囲気変わりすぎだろ……」
「ほら、話しかけてみて? 私、誰かわからないから」
「え、えっと……」
「はい、ダメ」
「まだ何も言ってねぇ!!」
「『えっと』が出た時点でダメ。やり直し」
「厳しいな!!」
和歌奈は、容赦なくダメ出しをしてくる。
俺は深呼吸をして、もう一度口を開いた。
「あの……」
「はい、ダメ。『あの』もダメ」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!!」
「普通に話しかければいいの。『おはよう』とか『こんにちは』とか」
「そんな急に言えるか!!」
「言えないから練習してるんでしょ?」
正論すぎて何も言い返せない。
俺はもう一度、深呼吸をする。
「……こんにちは」
「はい、50点」
「厳しい!!」
「だって声が小さいし、目が泳いでたもん」
「そりゃ緊張するだろ……」
「緊張してたら相手も緊張するよ? もっとリラックスして」
「無理言うな……」
何度やっても、和歌奈のダメ出しは続く。
目線が泳いでる。
声が小さい。
表情が死んでる。
話題がつまらない。
「もう無理……俺、向いてないんだって……」
俺は、フェンスにもたれて座り込んだ。
「はいはい、休憩」
和歌奈も隣に座る。
しばらく、二人で空を見上げていた。
雲が流れていく。
風が心地いい。
「ねぇ、猿飛君って昔から友達いなかったの?」
和歌奈が、ふいに聞いてきた。
「……まあ、中学くらいから」
「なんで?」
「なんでって……話すの苦手だし、面倒くさいし」
「面倒くさい?」
「人間関係って、気を遣うじゃん。嫌われないようにとか、空気読むとか…。苦手なんだよな」
「ああ、それが面倒だったんだ」
「うん……だから、いっそ最初から関わらない方が楽だって思った」
和歌奈は、少し考えるような顔をしてから言った。
「でも、それって寂しくない?」
「……別に。一人でも平気だし」
「嘘つき」
「え?」
「だって、『彼女欲しい』って言ってたじゃん」
「う……」
「一人が平気なら、彼女なんて欲しがらないでしょ?」
「それは……まあ……」
否定できない。
和歌奈は、パンの袋を開きながら続けた。
「私も昔、友達少なかったよ」
「……は? 嘘だろ?」
「本当。小学生の頃とか、完全にぼっちだった」
「お前が?」
「うん。なんか、周りと話が合わなくてさ」
和歌奈は、少し懐かしそうに笑う。
「みんなが盛り上がってる話題に興味持てなかったり、逆に私が好きなことは誰も興味なかったり」
「それで……どうしたんだ?」
「中学で変わろうと思った。このままじゃつまんないなって。だから、自分から話しかけるようにした」
「…………」
「別にすぐうまくいったわけじゃないよ?最初は失敗ばっかだった。空回りしたり、引かれたり」
「でも、今は……」
「うん。続けてたら慣れた。人と話すのも、そんなに怖くなくなった」
和歌奈は、俺の方を向いて言った。
「だから、猿飛君も大丈夫だよ」
「……俺には無理だ」
「だから練習してんでしょ?」
「でも……」
「でも禁止」
和歌奈は立ち上がり、俺の前に立った。
「よし、もう一回やろう」
「マジか……」
「今度は、普通に私に話しかけて。あなたのクラスメイトの和歌奈として」
「普通にって……」
「うん。友達みたいに、気楽に」
「友達……」
その言葉に、少しだけ引っかかるものがあった。
(友達……か)
俺と和歌奈は、友達なのか?
よくわからない。
でも、確かなことが一つだけある。
和歌奈と話すのは、他の誰と話すよりも楽だ。
「……なぁ、和歌奈」
「ん?」
「お前、なんで俺なんかと……」
言いかけて、やめた。
なんて聞けばいいのかわからない。
「何?」
「…いや、何でもない」
「気になるじゃん。言ってよ」
「……お前と話してると、なんか……楽なんだよな」
「…へぇ?」
「他の奴らとは、何話していいかわかんないけど、お前は……なんか、変に気を遣わなくていいっていうか」
和歌奈は、少し驚いたような顔をしてから、ニコッと笑った。
「それ、会話できてるってことじゃん」
「え?」
「今の、完全に普通の会話だったよ?目も見て、ちゃんと自分の気持ち言えてた」
「あ……」
言われて、気づいた。
確かに、今の俺は和歌奈の目を見て話していた。
言葉に詰まることもなく、自然に話せていた。
「ほら、できるじゃん」
「でも、これお前だから……」
「最初はそれでいいの」
和歌奈は、優しい声で続けた。
「私と話せるようになったら、次は他の子とも話せるようになる。一歩ずつでいいんだよ」
「……そんなもんかな」
「そんなもんよ」
昼休み終了のチャイムが鳴る。
「じゃ、戻ろっか」
和歌奈が立ち上がりかけたとき、振り返った。
「あ、そうだ」
「ん?」
「猿飛君と話すの、私も楽しいよ」
「え……」
「じゃ、行こ」
サラッと言って、和歌奈は先に歩き出す。
俺は、その背中を見つめながら立ち上がった。
(楽しい……か)
和歌奈も、俺と話すのが楽しい。
そう言ってくれた。
なぜか、胸が温かくなった。
教室に戻ると、午後の授業が始まった。
でも、全然集中できない。
さっきの和歌奈の言葉が、頭の中でリピートされる。
『猿飛君と話すの、私も楽しいよ』
(……なんで、あんなこと言うんだよ)
窓の外を見る。
視界の端に、和歌奈の横顔が映る。
真面目に授業を受けている様子。
(あいつ、本当に何考えてんだ……)
でも、不思議と嫌な気はしなかった。
(また、明日も……)
そう思ってる自分に気づいて、少し驚いた。
いつの間にか、学校に来ることが苦痛じゃなくなっている。
和歌奈と話すのが、楽しみになっている。
(……変だな)
前は、ゲームだけが楽しみだった。
学校なんて、ただ時間を潰す場所でしかなかった。
でも今は――
放課後、和歌奈がまた俺の席までやってきた。
「今日はここまで。お疲れ様」
「お、おう……」
「明日も練習するから。覚悟しといてね?」
「また屋上?」
「うーん、どうしようかな。飽きないように、場所変えるかも」
「お前、本当に容赦ないな……」
和歌奈は、いつもの意地悪な笑みを浮かべる。
「じゃ、また明日」
「……ああ」
和歌奈が帰っていく。
黒髪が揺れる。
その後ろ姿を、俺はずっと見つめていた。
家に帰って、今日の出来事を思い返す。
屋上での練習。
和歌奈の過去。
「楽しい」と言ってくれたこと。
(……俺、変わってきてるのかな)
鏡を見る。
そこに映っているのは、相変わらず冴えない男子高校生。
でも、少しだけ――
ほんの少しだけ、表情が柔らかくなっている気がした。
「…………」
小さく笑った。
自分でも驚くくらい、自然な笑顔だった。




