5
朝。
目覚ましの音で目を覚ました俺は、昨日の和歌奈の言葉を思い出して頭を抱えた。
『明日、クラスの女子に自分から話しかけてみて』
無理だ。絶対無理。物理的に無理。
だって俺、猿飛仁だぞ?
高校二年間、クラスの女子と自分から会話したことなんて一度もない。
というか、話しかけられたことすらほぼない。
存在が空気。いや、空気以下だ。
空気はまだ必要とされるが、俺は誰にも必要とされていない。
(でも……やらないと、和歌奈との練習が終わる……)
それだけは嫌だった。
理由はわからないが、とにかく嫌だった。
「……行くか」
重い体を起こして、制服に着替える。
鏡を見ると、そこには死んだ魚の目をした男が映っていた。
(誰だこいつ……あ、俺か)
自分で自分にツッコむ余裕すらない。
学校に着くと、教室はいつも通りのざわめきに包まれていた。
友達同士で笑い合う声。昨日のテレビの話。部活の話。恋バナ。
全てが、俺には関係のない世界。
席につくと、スマホを取り出してゲームを起動しようとした。
――が、手が止まる。
(今日は……ゲームやってる場合じゃない)
誰に話しかけるか。
どうやって話しかけるか。
何を話せばいいのか。
考えなければならないことが山積みだ。
「おはよ、猿飛君」
いきなり声をかけられて、心臓が止まるかと思った。
「うおっ!?」
振り返ると、和歌奈が机に手をついて覗き込んでいた。
「ビビりすぎでしょ」
「お前が急に話しかけてくるからだろ……」
「これくらい普通だよ? で、どう?」
「どうって……」
「誰に話しかけるか、決めた?」
「い、いや……まだ……」
「ふーん」
和歌奈はニヤリと笑う。
「頑張ってね? ちゃんと見てるから」
「見るなよ! プレッシャーなんだよ!」
「見ないわけないでしょ。確認しないと意味ないし」
「鬼か……」
「褒め言葉として受け取っとく」
そう言って、和歌奈は自分の席に戻っていった。
俺は深いため息をついて、教室を見回した。
(誰に話しかける……?)
まず、選択肢を考える。
隣の席の女子――名前、知らない。
前の席の女子――田中……なんとかさん。下の名前は知らない。
後ろの席の女子――そもそも顔もよく見たことない。
(詰んでる)
名前すら知らない相手に、どうやって話しかけろというのか。
しかも、急に話しかけたら確実に怪しまれる。
(「あの……」「誰?」みたいな展開になるのが目に見えてる……)
想像しただけで胃が痛い。
一時間目の授業が始まり、終わり、休み時間になる。
周りの生徒たちは、友達と楽しそうに話している。
俺は、机に突っ伏していた。
(話しかけるタイミングが……わからない……)
いや、タイミング以前の問題だ。
話題が思いつかない。
天気の話? 「今日はいい天気ですね」
いや、教室の中から天気の話とか不自然すぎる。
授業の話? 「今日の数学難しかったですね」
いや、俺も理解してないのにそんなこと言えるか。
趣味の話? 「何か趣味とかあります?」
いや、いきなりそれは距離感おかしいだろ。
(無理だ……何も思いつかない……)
休み時間が終わる。
結局、何もできなかった。
二時間目も、三時間目も、同じ。
頭の中で話しかけるシミュレーションをするが、全て失敗する未来しか見えない。
そして、昼休み。
「よし、とりあえずパン買いに行くか……」
いつものルーティン。
購買でパンを買って、教室で一人で食べる。
今日もそうしよう――と思ったが、待てよ。
(購買で、誰かとすれ違ったら……それがチャンスかもしれない)
そうだ。
わざわざ教室で話しかけるより、購買とか廊下とか、“偶然”を装える場所の方がいい。
俺は少しだけ希望を持って、購買へと向かった。
購買は、昼休みということもあって混雑していた。
パンを選びながら、周りを見渡す。
男子が多い。
女子もいるが、友達同士で固まっている。
(話しかけられる雰囲気じゃない……)
パンを手に取り、レジへ向かう。
と、そのとき。
「あ……」
前から、見覚えのある女子が歩いてきた。
クラスメイトだ。
前の席に座ってる子――確か、田中さん。
目が合う。
チャンスだ。今しかない。
俺は、勇気を振り絞った。
「あ、あの……」
「?」
田中さんが立ち止まる。
心臓がうるさい。
手が震える。
でも、ここで逃げたら一生後悔する。
「た、田中さん……」
「うん?」
彼女は少し警戒したような表情で俺を見ている。
(そうだよな……急に話しかけられたら怖いよな……)
頭が真っ白になる。
何を話すんだっけ?
挨拶? 天気? 授業?
いや、とにかく何か言わないと――
「……パン、買うの?」
言った瞬間、自分でも「しまった」と思った。
田中さんは、少し困惑したような顔で答える。
「……うん」
そりゃそうだ。
ここ、購買だもん。
パン買いに来てるに決まってるだろ。
沈黙。
気まずい。
めちゃくちゃ気まずい。
「じゃ、また……」
田中さんは、早々に立ち去っていった。
俺は、その場で固まった。
「…………やっちまった」
購買のおばちゃんに「お会計いいかい?」と声をかけられ、ようやく我に返る。
「あ、は、はい……」
パンを買って、俺は逃げるように購買を後にした。
教室に戻ると、机に突っ伏した。
(終わった……完全に終わった……)
初めての実践は、大失敗。
いや、失敗どころか、事故レベル。
全治2年と言ったところか。
(『パン買うの?』って……購買で……)
自分で自分が恥ずかしい。
穴があったら入りたい。
いや、穴がなくても地面に埋まりたい。
「猿飛、パン買えた?」
隣の席の男子が、軽く話しかけてきた。
「……まあな」
「よかったな。今日混んでたし」
「……結構混んでたから行くなら早めにな」
「おうよ!」
普通の会話だ。
男子とはこうやって普通に話せるのに、なぜ女子だと無理なんだ。
(俺、どうかしてる……)
パンを齧りながら、ずっと落ち込んでいた。
そして、放課後。
案の定、和歌奈がやってきた。
「よっ、お疲れ様」
「…………」
「どうしたの? 元気ないね」
「…………」
「もしかして、何かあった?」
その笑顔が、やけにまぶしい。
というか、絶対知ってる顔だ。
「……見てたんだろ」
「何を?」
「購買での……俺の……」
「ああ!」
和歌奈は、満面の笑みで頷いた。
今まで見た中で、一番の笑顔だ。
「見てた見てた! あれはすごかったね!」
「うるせぇ…」
「『パン買うの?』って、購買で。名言だよ、あれ」
「やめろ!! 思い出させるな!!」
「ていうか、田中さん完全に困惑してたよね?『え、この人何言ってんの?』みたいな顔してた」
「もうやめてくれ……ほんとに死にたい……」
机に顔を伏せる。
和歌奈の笑い声が、やけに遠くに聞こえる。
「で? これで満足?」
「…………何が」
「アンタの初めての『女子に話しかける』チャレンジ」
「満足なわけないだろ……大失敗だ……」
「うん、大失敗だね」
「即答すんな!」
和歌奈は、俺の机に手をついて覗き込んでくる。
「じゃ、帰りながら反省会しよっか」
「反省会……」
「当たり前でしょ。失敗したら原因を分析しないと、次も同じ失敗するよ?」
「次なんてないよ……もう無理……」
「はいはい、逃げない逃げない。ほら行くよ」
和歌奈は俺の腕を引っ張って、半ば強引に立たせる。
「うぐ……」
「ほら、早く」
いつもの帰り道。
和歌奈は、楽しそうに話し始めた。
「じゃ、まず最初の問題点」
「…………」
「場所が悪い」
「場所?」
「そ。購買って、みんな急いでパン買いたいわけじゃん? そんな場所で話しかけても、相手は『早く済ませたい』モードだから会話にならないの」
「あ……」
「次に、話題選びが最悪」
「うぐ……」
「『パン買うの?』って、見ればわかることを聞いてどうすんの。しかも購買で。それ、『空は青いですね』って言ってるようなもんだよ?」
「わかってる……わかってるよ……」
「あと、表情」
「表情?」
「うん。アンタ、緊張しすぎて完全に怪しい人の顔してた」
「そ、そんなに……?」
「うん。目が泳ぎまくりで、声も震えてて。正直、職質されても文句言えないレベル」
「ひどい……」
和歌奈は、笑いながら続ける。
「でもまあ、初めてにしては頑張ったんじゃない?」
「……は?」
「だって、ちゃんと声かけたじゃん」
「でも……失敗したし……」
「失敗したけど、『やった』ことは事実でしょ?」
和歌奈は、少しだけ真面目な顔になる。
「アンタ、昨日まで『絶対無理』って言ってたのに、今日はちゃんと自分から話しかけたんだよ?」
「それは……まあ……」
「それって、すごいことだと思うけど」
「…………」
「失敗しても、やらないよりは百倍マシ。てか、初めてなんだから失敗して当たり前」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
「じゃあ……これで……合格?」
「うん、合格」
「マジで?」
「マジで。だから練習は続行ね」
「お、おう……」
ホッとして、思わず力が抜ける。
(よかった……終わらなくて……)
和歌奈は、俺の肩を軽く叩いた。
「まあ、次はもうちょっとマシな話題考えようね?」
「う、うん……」
「ていうか、『パン買うの?』はマジで笑ったわ。今年のベスト迷言に認定してあげる」
「認定すんな!!」
「あ、あとさ」
「まだ何かあんのかよ……」
「田中さん、明日から猿飛君のこと『購買の変な人』って認識すると思う」
「最悪じゃねぇか!!」
「大丈夫大丈夫。そのうち慣れるって」
「慣れる問題じゃねぇよ!」
和歌奈はケラケラ笑いながら、先に歩いていく。
俺は、その後ろ姿を見ながら思った。
(こいつ……本当に鬼だな……)
でも、不思議と嫌じゃない。
むしろ、この時間が楽しい。
そんな自分に、少しだけ驚いていた。
「じゃ、また明日ね」
和歌奈が手を振って、別れ道で立ち止まる。
「……ああ」
「次は、もうちょっとマシな会話しようね?」
「努力する……」
「期待してるよ、猿飛君」
そう言って、和歌奈は去っていった。
黒髪が夕日に揺れて、少しだけ綺麗だった。
一人になった帰り道。
俺は、今日の出来事を振り返る。
大失敗だった。
恥ずかしかった。
二度とやりたくない。
でも――
(やらないよりは、マシなのか)
和歌奈の言葉が、頭の中でリピートされる。
失敗しても、やったことは事実。
それって、もしかして――
(俺、ちょっとだけ……前に進んでる?)
そう思うと、少しだけ胸が温かくなった。
家に帰って、スマホを開く。
ゲームのアイコンが並んでいるが、今日はあまりやる気が起きない。
代わりに、今日の出来事を思い返す。
和歌奈の笑顔。
からかわれたこと。
でも、認められたこと。
(……なんか、変だな)
前は、ゲームだけが楽しみだった。
でも今は、学校に行くのが――
いや、和歌奈に会うのが、少しだけ楽しみになっている。




