Case12-2.『白い煙がみせた夢』
右の二の腕に痛みが走る。ルカから放たれた弾丸はエミリオの腕を掠めていた。
大きな音と傷の痛み。それらを認識した瞬間、エミリオの頭を満たしていた情動が霧散する。
「…………あ」
我に返ったエミリオが小さく声を漏らす。
自身の意志や理性から逸脱した行いは彼自身すら動揺し得るものであった。そして同時に、今自身に起きた現象こそが人に戻る事は出来ないという現実をエミリオへ悟らせる。
エミリオは傷を負った右腕を見つめる。
既に傷口の修復が済んでいて痛みはない。
だが、彼の気を引いたのは傷の有無ではなかった。
エミリオはルカを見つめると苦く笑う。
諦念とはまた別の感情。悲しみも優しさも同時に孕んだような目を細めた彼は右手を持ち上げる。
「っ、エミリオさん……!」
彼の行動の意図に気付いたルカが叫ぶも遅かった。
エミリオは指先に息を吹きかけ、全身を霧と化す。
廊下の窓が開けられる音があった。
そしてルカ、アルノルド、イザベラの視界を完全に覆っていた霧が完全に外へと逃れた時、その場にエミリオの姿はない。
ただ、開け放たれた窓から廊下へと雨風が入り込むばかりであった。
エミリオを逃したルカは乱暴に髪を搔き上げた。
焦りと苛立ちが募る中、何とか冷静になろうと深呼吸をした彼はアルノルドとイザベラへ向き直る。
「すみません、逃がしました」
「……いいえ。私達が躊躇ったせいでもあるから」
「ルカさんがおっしゃった事を信じ切れていればこうもならなかったでしょう」
ルカは医務室でエミリオの暴走について懸念を示し、問いただす為にアルノルドとイザベラを引き連れて本人の部屋まで訪れた。
彼がエミリオに残された時間が僅かである事を悟ったきっかけはいくつかあった。
まずはエミリオの味覚の喪失。これはカフェの店員のアヤが言及していた。館へ来て間もない頃、談話室やカフェで彼が飲んだコーヒーがブラックであった事に対し、アルノルドがコーヒーを淹れる際は当たり前のように砂糖とミルクが加えられていた。
アルノルドが以前から把握しているエミリオ好みのコーヒーを淹れたのは、彼の味覚の変化を知らなかったからだ。
そしてそれをエミリオが隠していたのはその真相がただの味覚の変化ではなく、人としての機能を失う事――異形へと変貌を遂げる前兆だと悟っていたからだ。
次に触覚。
最初に違和感を持ったのは小学校からの帰路での襲撃直後のエミリオの様子だった。襲撃後、すぐに撤退をせず立ち尽くしていた彼が右手に違和感を感じているようにルカは見えたのだ。
確信を持ったのは車で逃亡している最中、車内で彼が拳銃を落とした時。恐らく彼は手の感覚が随分薄れていたのだろうとルカは考えている。
ルカが注目したのは右手であったが、それ以外の箇所も同様の症状があらわれていた可能性も大いにある。
そして何よりも決定打となったのは、彼が能力の使用を渋ったという事だ。
組織の人間である以上、そして館の構成員全員に与えられている使命を鑑みれば、最も優先すべきはレーナの命。
彼女を守る為に最善を尽くすのは当たり前であり、それに反する行いを取れば組織からの信用を失い容易に排除される。自分が生きる為にも、あの場で取るべき選択はルカの提示した案に乗るか、それ以上の良案を掲げるかの二択しかなかった。
エミリオは頭がよく回る。よもやそれを理解していない訳でもなかっただろう。
それでも躊躇を見せたのは、それだけの理由が彼の中にあったからだ。
そしてそれが自身に迫るタイムリミットを自覚していたからであれば、辻褄が合う。
流浪者の特性上、少しでも延命を望むならば能力を使うのは避けたいと考えるという論理は当然の事であった。
「とにかく、エミリオさんを探さないと」
館にはレーナとシアがいる。有事に備えて三人のうち一人は少なくとも残る必要がある。
だが残りの二人で当てもなく探し回ったとして、エミリオを見つける事は困難だ。
(何かないか。エミリオさんが、行きそうな場所――)
ルカはエミリオと過ごした時間を次々と思い起こす。
頭の中に浮かぶ様々な可能性を一つひとつ潰していく過程で、ルカはふと一つの光景を思い出す。
「俺が行きます」
「……いいの? 私が行ってもいのよ」
「お怪我もされていますし、無茶をされない方がよろしいかと」
アルノルドもイザベラも恐らく察しがついている。
先程、エミリオに暴走の一端が見られた時は珍しく動揺を見せた二人だが、恐らく再びエミリオと対峙すれば冷静に対処するだろう。
この業界に於いての二人の経歴はルカよりもずっと長く、深いものであるのだから。
「いえ、俺が行きます」
だが、ルカは首を横に振った。
彼は拳銃をしまい、先程まで武器を握っていた手を静かに見つめる。
「何か考えがあっての事なのかしら。とても合理的には思えないけれど」
「でしょうね」
これは負傷者が進んで動く場面ではない。
イザベラの試すような視線がルカを貫いた。
彼は静かに目を伏せ、見つめていた手を握り締める。
そしていくつか考えを整理した後に、普段と変わらぬ仏頂面で呟いた。
「私情ですから」
二人の許可を得る前にルカは走り出す。
てっきり制止の声の一つや二つ飛ばされるかとルカは踏んでいたが、アルノルドとイザベラは何も言わなかった。
ルカはそのまま館を後にする。
「……私情、ですか」
「ずるいわ。そんな事を言われたら譲るしかないじゃない」
似つかわしくない言葉を吐いて去る背中を見送った二人は暫く立ち尽くす。
ルカを含め、この場に居た者達は少なからず動揺をしていた。
だからこそ気が付かなかった事がある。
「どういう事」
幼い声が、アルノルドとイザベラの背後から響いた。
二人は不意を衝かれ、驚きながら振り返る。
彼らの後方にはシアと、彼に抱き上げられたレーナがいた。
「レーナ様……」
「レーナ様、お話を」
「――シア!」
深い悲しみに顔を歪めるレーナへ対話を試みたのはアルノルドだ。
だが彼女はアルノルドの言葉を遮って叫ぶ。
その声を聞いたシアは人並外れた脚力でアルノルドとイザベラの横をすり抜け、館を出ていく。
「レーナ様! シアさん!」
アルノルドとイザベラが後を追って外へ飛び出すも、既に二人の姿は土砂降りの雨へ掻き消されていた。




