Case12-1.『白い煙がみせた夢』
カップから漂う芳しい香りと湯気。
その白い煙の先で咲く笑顔と鈴の音のような声が、とても心地よかったのだ。
館に備えられた医務室の中をアルノルドが行き来する。彼が医療器具や薬品をしまっていると、三度の控えめなノックと共にイザベラが入室する。
彼女は医務室のベッドへ視線を向けた。
ベッドにはルカが静かに横たわっている。
「どうですか?」
「幸い、命に別状はありません。やがて目を覚ますでしょう」
「そうですか。……あら、噂をすれば」
声を潜めた会話の最中、ルカの長い睫毛が静かに震えたのをイザベラは見る。
やがて伏せられていた瞼がゆっくりと持ち上がり、ルカはゆっくりと瞬きを繰り返した。
意識が覚醒するにつれて天井をぼんやりと見つめていた視線が右へ左へと彷徨い、ベッド脇まで歩み寄ったイザベラを捉える。
「おはようございます、ルカさん」
「……逃げ切れたみたいでよかったです」
自身やイザベラが館にいるという現状から逃走の成功を確信したルカは深く息を吐く。
ゆっくりと体を起こし、己の腹部を確認すれば丁寧な処置を施され、包帯が巻かれて事が確認できる。
「あまり無茶をしないで頂戴ね。貴方は人間なのだから、特に」
「必要がなければしません」
「せめて善処する、くらい濁す努力はして頂戴」
頭が痛いと額に手を当てるイザベラを横目にルカはベッドから下りる。
ふと耳に入った音が気になり、視線を窓へ向ける。
外は大粒の雨が降り注いでいた。
風もそこそこに吹いており、無数の雫が窓を叩き付けている。
「どのくらい寝てました」
「精々四、五時間くらいよ」
「そうですか。……俺が寝ていた間、何も問題は起きていませんか」
「特には……」
ルカの問いにイザベラが首を横に振る。だがルカの険しい表情に気付いた彼女はすぐに言葉を呑み込んだ。
「……何かあるのね、気掛かりな事が」
イザベラの言葉に返事はない。しかし否定がない事こそが肯定である事をアルノルドもイザベラも悟っていた。
しばらく沈黙を貫いた後、ルカが重々しく口を開く。
「アルノルドさん、イザベラさん。一緒に来ていただけませんか」
土砂降りの外を暫しぼんやりと眺め、時間を潰す。
物思いに耽っていた為に時間の流れは定かではないが、その姿勢を取ってから相当な時間が過ぎていた。
やがて長く深い溜息が零された後、重い腰が上げられる。
クローゼットに掛かっていたパーカーを取り、素早く羽織る。
そして部屋を出ようとした時、扉を叩く音が部屋へ響いた。
僅かに表情が強張り、身構える。しかしすぐにいつもと変わらない笑みを携え、扉へと向かった。
「はぁい」
のんびりとした返事と共に廊下へ出る。
扉の先には三つの人影がある。
「エミリオさん」
聞き覚えのある声に、部屋の主――エミリオは目を瞬かせる。
「ルカくん! 気が付いたんだ、よかった」
心から安堵し、声を掛けるもルカは反応を示さない。
ただ、重い空気がその場を包んでいた。
「……どうかした?」
嫌な予感がエミリオの脳裏へ過る。だが、彼はそれに気が付かないふりをした。
抑揚のない声が相手から発せられる。
「俺から言わないといけませんか」
その問いに対する適切な答えがエミリオには思いつかない。
だがそれ故に口を閉ざしてしまった事こそがルカへ何かを確信させる一押しとなった。
「俺達に隠している事はありませんか」
ルカが求める答えをエミリオは悟っていた。
だが、それに答える事が出来ない理由が彼にはあった。
「何のとこ? ごめん、言ってる事がちょっとよく――」
「…………そうですか」
金属質な音が鳴る。
耳に馴染むその音は拳銃を構える時の音によく似ていた。
「俺がここに派遣された理由は知ってるはずだ」
普段より低められたルカの声が廊下に響く。
「あんたなら、俺の言いたい事が分かるでしょう」
(……潮時だなぁ)
暴走の可能性を見出した流浪者の排除。それこそがルカに与えられた使命だ。
優先的に警戒すべき対象は驚異的な力を持ったシアではあるものの、彼の排除の対象にエミリオが含まれているのは事実。
そしてその彼が有無を言わさず拳銃を構えたという事は、エミリオが処分するに値する存在だと判断したからに他ならない。
(まだ、死ねない。ボクにはまだやらなきゃならない事がある)
二度目の死の拒絶。生への渇望。
自らの望みを貫きたいという一つの強い意志。
ルカから銃口を向けられ、死の淵に立たされている事を自覚した瞬間。エミリオの中にあった感情の全てが黒く淀んだ何かへと豹変した。
(そうだ、邪魔をするくらいなら、いっそ――)
『先に仕掛けたのは向こうだ』
『何もしていない自分を殺そうとする相手が悪い』
『殺そうとする相手を殺すのは仕方のない事だ』
残虐性を秘めた心がエミリオを突き動かす。
彼は隠し持っていた拳銃を即座に取り出す。
――刹那。
乾いた音が廊下へ響き渡る。




