“諦観”を宿した者
その夜、彼は市場の裏路地にいた。
空き箱の隅に体を縮め、膝を抱えていたとき、
背後から、かすれた声が届いた。
酒と埃の匂いがした。
「……寒いのか。いや、名がないなら、寒さも“実感”じゃねえな。」
振り返ると、そこには腰を曲げた老人がいた。
長い髭に、剥げかけた革靴。
手には黒ずんだ“名札”を握っていた。
「お前、言葉はあるか?」
少年は首を横に振った。
「じゃあ、お前は“何にもなれない”な。」
老人は少しだけ笑って言った。
「この街には、名がなけりゃ存在できねぇ。
だが俺の名も、もう終わりさ。
記録しようって者もいない、残響も残らん。
……だから、お前にやる。」
少年は、言葉が出なかった。
ただ、老人の目を見ていた。
その瞳は、どこか――「すでに誰かを見失った者」のようだった。
「“アエル=ディ”……それが、わしの名だった。
もはや、誰にも呼ばれない名だ。
けれど、お前が持つなら――」
少年は、差し出された札を受け取った。
不思議なことに、触れた瞬間――
“音”が生まれた。
それは、胸の奥で聞いた声と違う。
はじめて“外の世界”から生まれた、自分の名の響きだった。
意味はまだ分からない。
価値も分からない。
けれどそれは、少年が初めて得た“音”だった。
「その名は、かつて“諦観”を宿した者の名だ。……空虚を歩くには、ちょうどいい。」
そういって老人は、路地裏奥深くに沈んでいった。
この名が、後の物語でどのような意味を持つか。
その音が、誰の記憶と重なるのか。
それは、少年自身が確かめることになるのだろう。
夜が明けるころ、彼は名を持っていた。
「アエル=ディ」彼の、始まりの名前。