都市国家エン=トゥル
祝福地を離れ、少年が最初に辿り着いたのは、
灰色の石が積み上げられた、都市国家エン=トゥルだった。
そこは、奇妙な街だった。
街の門は開かれていた。
だが、誰も彼に「ようこそ」とは言わなかった。
城壁の外から眺めると、そこは繁栄しているように見えた。
高く積まれた石の家々、煙を上げる窯、通りを行き交う多くの人。
けれど、門をくぐった瞬間、少年はその“沈黙”を感じ取った。
人々は目を逸らし、足を速め、彼の存在を“見なかったこと”にした。
壁にはこう書かれている。
「名を持たぬ者に、社会の席はない」
「名を買いし者のみ、人と認められる」
それは差別ではなく、制度だった。
名を手に入れなければ、彼はここで“人”として扱われない。
広場には、「名屋」と呼ばれる市場があった。
市場では野菜や布と同じように、「名前」が売られていた。
紙札に書かれた“名”たちが並ぶ。
そこには、誰かが亡くなった後に空席になった名。
かつて罪を犯した者が捨てた名。
古代語から再構成された意味不明の名さえあった。
そして、その価格も違った。
「高貴な名」は金貨数十枚。
「軽んじられた名」は銅貨で買えた。
「名とは、“響き”そのもの。
お前の声がどれほどの価値を持つかは、名が決めるんだよ」
少年は名を買う金を持っていなかった。
言葉を交わす術も、自己を語る力もなかった。
名を持たない者。
声を持たない者。
記憶を持たない者。
その全てが彼に重なった。
彼は広場を彷徨い、
誰にも話しかけられず、
名札のない自分を見つめるしかなかった。