名を持たぬ声
歩き出してから、どれだけの時が経ったのか、少年にはわからなかった。
太陽は昇り、沈み、また昇るが、その光にも音がなく、時の手触りさえ希薄だった。
それでも、少年の胸の奥では、確かに“何か”が芽吹いていた。
名も知らぬ猫の柔らかな温もり。石に刻まれた祈りの跡。漂う“ゆらぎ”──残響因子。
それらが、ひとつ、またひとつと、彼の空っぽの器を満たしてゆく。
やがて、彼は“声”に出会った。
それは風の中に混ざるようにして流れ込んできた。
ひとつの言葉だった。
「……ヒトは、なぜ死ぬのだと思う?」
少年は立ち止まり、振り返るが、誰もいない。
だが確かに、今のは“言葉”だった。
意味を持ち、音を持ち、心を震わせた。
少年の視界に、ふたたびゆらぎが現れる。
けれど今度は、それが人の形を成していた。
かつて生きていた誰かの“残響”――
それは、白い衣をまとった、少女の姿をしていた。
少女は微笑み、消えかける輪郭でこう言った。
「あなたが、何者かを知るためには、誰かを知る必要がある。
そして、知ったとき、あなたは変わるでしょう。」
彼女の足元には、色あせた書物が残されていた。
ページには、幾つかの“名”が刻まれていた。
読み方もわからぬその記号を、少年はただ、胸に刻み込んだ。
「……ぼくは、“誰か”にならなければならない。」
初めて、自らの中に芽生えた意思だった。
猫が小さく鳴いた。
音が、世界にひとしずく戻った。
少年は書物を抱き、再び歩き出す。
今度は、“名”を探すために。