生まれて初めて誕生日プレゼントをくれた君へ
母がカルト宗教を信じる家庭に生まれ虐待を受けながら育ったぼく。死ぬことばかり考えていた少年時代。高校生の時に出会った「彼女」とのやり取りから、生きる力を取り戻していく実話。
君に続くと思ったレールの上を、今でも歩いている。そこに君はいないのに。
君が僕を見ることはもう、ないのに。
生きているのかも、どこで何をしているのかも。
初めて人にもらった誕生日プレゼントは、19歳になった時、君にもらった黒いマフラーだった。もこもこして、それまで持っていたものよりずっと長くて、そんなに長いマフラーがあるなんて知らなかった。首にかけたら腰より下までだらんと下がってしまって、僕が長いマフラーの結び方がよくわからなくてまごまごしていたら、君が笑いながら巻いてくれた。ぼくは笑えていただろうか。本当にうれしかったけど、それを表情に出せていただろうか。初めて君にあげたプレゼントは、何だっただろう。
あれからもうこんなに経ったのに。ぼくはまだ問題を解決できていない。
幼い頃、家族でディズニーランドに何度か行ったことがあった。ディズニーランドが開業したのと同じ年に生まれて、家族でお弁当を持って何度か遊びに行った。あの頃はパスポートじゃなくて入場券と、金額の違うチケットが綴られた回数券があって、乗り物はそれで乗った。カリブの海賊は600円で、ビッグサンダーマウンテンは700円だったかな。ディズニーランドは好きだった。夢の国だとまでは思わなかったし、大人になった証拠みたいに誰かが言う、商業主義にまみれたカネの国だって思うような、すれた考えもその時は持っていなくて、とにかくカラフルな世界で乗り物に乗れるのは楽しかった。
虐待されている子供はディズニーランドに連れて行ってもらえないと思う大人はきっと多いだろう。家族でディズニーランドに行くし、公園で遊ぶこともあるし、夕飯を食べたあとに一緒にトランプで遊んだりもした。お母さんは時々別の人みたいになっちゃうけど、自分が虐待を受けているとその時は思っていなかった。もう少し正確に言えば、自分がされていることが虐待だとは認識していなかった。少し見ただけなら、幸せそうな家族だと思われていた。うらやましがられることすらあった。ディズニーランドに家族で毎年行くことは、幸せの家族の象徴だった。
ディズニーランドで楽しいことはいくつもあったけど、好きだった一番の理由は、”すごくやりたくない”ことを、そこにいる間はしなくて良いことだった。
幼い頃から、僕はやりたくないことを、母親にさせられていた。それはほとんど毎日で、つまり日常だった。母親には家族よりも、父親よりも、そして子どもよりも大事なものがあった。
神様だった。神様には悪魔という敵がいて、この世の中はぼくには見えないけど悪魔の影響を思いっきり受けていることになっていた。現在進行形で。悪魔に支配されたこの世の中はもうすぐ神様に滅ぼされることになっているから、悪魔の影響を受けないようにすることがすごく大事で、そればっかり考えてないといけない。油断していると、すぐ悪魔に心の中を乗っ取られてしまう。だから一緒に遊んだことのある近所のしんちゃんも、お菓子をくれたことがあるしんちゃんのお母さんも(あのお菓子は本当においしかった)、近所の優しそうなおばあさんも、これからいく学校の先生も、実は悪魔の影響で悪いことをしている人たちだった。みんなの背後には悪魔がいるから仲良くなるのはすごく危険で、でも同じ神様を信じている”仲間の”人たちはとても良い人たちで、その人たちとは遊んで良いことになっていた。神様のために祈り、ネクタイをつけて固い革靴を履いて布教活動をして、信者たちの集まりに行って何時間も正座して、毎日宗教の書籍で勉強させられる。
幼稚園には行っていなかった。幼稚園というところに同じ年代の子が何割くらいそこに行っていて、何をやっているのかは知らなかった。(小学校に入って、周りで幼稚園に行っていなかった子どもが自分だけだったと知った時は驚いた)この世は悪魔に支配されている仮の世界だから、祝うようなことは何もなくて、だから誕生日もクリスマスも、ひな祭りも、七五三も祝っちゃいけなかった。(なんで色んなお祝いをしているディズニーランドは行けたんだろう?)そういうお祝いをすることはすごく悪いことで、神様が見ていてあとで地獄に落とすんだって言われてた。地獄の絵はみんなで読む本の中でたくさん見たから最初は本当に怖かったし、嘘じゃないかなと思うようになっても、それでもまだまだ怖かった。校歌も歌っちゃいけなかったけど、本当に恥ずかしかった。
一番つらいのは、その教えを自分から受け入れたわけではないことだった。何をやっているのか、という質問よりもずっと怖ろしいのは(それも本当に嫌だったけれど)、”なぜ”それをやっているのか、という質問だった。絶対に説明ができないことだった。口に出したくもない。他の選択肢は全て取り上げられている。それでも、自分で選んでいるという形を取らされる。学校で会う子や先生がみんな悪魔に支配されているとは思えなかったけど、何より逆らったらたくさん尻を叩かれるし、ご飯を食べれない、と脅されていたし、実際に何度もそんな目にあっていた。考えないことが一番楽だった。考えて、疑問を持ってしまったら、家で叩かれるし、唯一仲良くできる組織の子どもたちとも遊べなくなってしまう。叩かれていることを誰かに言えば、きっとこの家族は壊れる。トランプもできなくなる。
こういう話をすると、たまたまあの教団の子どもたちがだまされやすいとか、もしくは抵抗する力がないのだとか思う人はきっといるだろうけど、そんなわけはない。誰だって同じ環境にいれば似たような状況になるはずだと、冷静に今考えても思う。確率論で考えたってわかる。簡単な計算の問題だ。誰だって、与えられた環境で精いっぱい生きるだけだ。そして実際にその仲間の子どもたちの中にも、たぶん、一度も違和感を持ったことのない子はいなかったんじゃないかと思う。違和感を持つタイミングとその時の環境の違い、その後の気持ちの整理(?)の違いはあったけれど。家族が壊れた後のことを想像し、しかもそれが自分のせいだとされ、実際にそれに対応するような準備ができている子どもがいるわけがない。
母の愛情とは何だろう。僕は父親になったことも、まして母親になったことも、幼い命を体に宿したこともなく、だからこそ母の気持ちが分からないのかもしれない。母はたぶん、とても優しい人だった。でも優しいのと、自分の子どもをどう扱えばいいのかわかることは、まったくの別物だったみたいだ。今思えば、すごく不器用で、愛そうとする前に、母親像に近づくために必死だった。
初めてカッターで自分の体を傷つけたのは、小学校2年生のときだった。物心がついてから、というのがしっくりくるけど、この世界は酸素が本来よりも1%だけ少ないみたいな、息苦しい感じがいつもしていた。きっと人は言うだろう。それは現実から逃げるためのただの甘えだと。実際にそうだったかもしれないけれど、自分が苦しいとそう感じていたのは、それも真実だ。真実は一つじゃない。生きるということは選択肢の一つで、そうでない選択肢を選ばないことの結果だった。その選択肢がいつも頭の上に突き付けられているような気がしていた。どちらを選ぶのもたいへんだ。
宗教活動に参加するのは小学校5年生くらいでやめたけど、それは母親との断絶を意味していた。「あなたは私の子どもじゃない」「お母さんを不幸にする」と何度も言われ、悪魔に支配された人(と思っている)を見る目で僕を睨んだ。母は僕が宗教から離れることで神様に滅ぼされると信じていたから、「一緒に死のう」と無理心中未遂までした。何とか生き延びたのは、死ぬ理由がそれでは嫌だったから、としか言えない。
僕は君に会うまで、ずっと死へのカウントダウンを続けていた。生きることは苦痛だと思っていた。でも早く死ぬのも怖い。大人になったら自分の人生を決めていいと言われていた。
21世紀は2001年から始まった。2000年からじゃない。(1世紀は西暦1年から始まってるからそうなんだけど、この手の問題は分かりづらい)。とにかくまともに数え始めてからでさえそんなに経っているわけだ。21世紀を迎えることがあるなんて信じられない、世界は間もなく滅びるんだからと、幼い頃母も周りの(その教団の)大人も言っていたけれど、今は何て言っているんだろうか。それはどうでもいいけど、たしかに世紀を跨ぐというのは、千の位の数字が変わるというのは、それが人間が適当に決めた尺度だとしても、特別な気がした。
2000年。世紀末。高校3年生になった年。君に出会った年。
ぼくはずっと下を向いて生きていた。本当にずっと下を向いていたわけじゃないけど、でも人の顔をまともに見ていなかったのはたしかだ。目をそらしていると思われないように。変だと思われないように。
高校一年生の時に父を亡くしたことのショックなのか、そうでないのか見分けがつかないくらいぼくは子どもの頃から病んでいた。もとから寝つきは良くなかったけど、高校生のときにはもうほとんど眠れなくなっていた。睡眠薬と抗うつ薬。眠るために飲む薬と、元気になるために飲む(と思っていた)薬。学校ではもう眠くて、怒られる先生なら教科書に隠れて寝て、怒られない先生ならもう机に突っ伏して寝ていた。典型的な無気力な学生だった。
同じクラスになるまで君のことは知らなかった。一番前の列の、窓側から二番目。君はそこに座っていた。ぼくは後ろから二番目の右から三番目。その配置はきっと正しかった。君は前の方でぼくは後ろの方だ。クラスの中で、君は際立って輝いて見えた。誰かの後ろに隠れることもなく、背筋を伸ばし凛として黒板を見つめる眼差しが、背中を丸めて無気力に生きていたぼくにとっては羨ましく、強く、美しかった。話したこともない君のことを、その横顔を、ぼくはいつも目で追うようになっていた。それは出会ったとは言わないのかもしれない。君はぼくにとって、あまりに遠い存在だったから。ただ1年間(卒業まで生きていればの話だけど)同じクラスにいるだけの、遠い遠い憧れの人だった。君はとても強くて、この世界の端っこにしがみついているような弱い人間とは決して交わることのない世界に属しているように思えた。その頃のぼくは、自分だけがこんなに不幸なのだと、他の同年代の友人はこれほどの苦しみを抱えていないと本気で思っていたから。あまりに自己中心的で身勝手な考えに自らのすべてを任せることで、悲劇のストーリーの主役にでもなろうとしていたから。
君がとある難関大学を目指していることは誰かから聞いて知った。家の近くの本屋で参考書コーナーに行ったのはその頃だった。それまで参考書を買ったこともなかった。大学ランキングを見て、一番上に載っているその大学に行けば君と話せるかもしれない。その大学名が書かれた赤い背表紙の過去問集を買った。(それを下心と言わずに他に何というのだろう)
2000年10月、最初の奇跡が起こったあの日。私大模試の会場に着いたぼくは、自分の前の席に置かれた受験票に同じ高校名が書かれているのに気付いた。
真っ白なコートを着た君が教室の前の扉から現れたその瞬間、黒板に書かれた席表を少し見て、それから、席を探しながらゆっくりとぼくのほうに近づいてきたときには、心臓が本当に止まりそうだった。それは、その後ぼくに起こったいくつかの奇跡の最初のものだった。君と言葉を交わしたのは、たぶんあのときが初めてで、あまりに緊張してほとんどしゃべれなかったのだけど(この頃のぼくは、人とまともに話すことも困難だった)君が1年生のときから目指していたという大学名を君の口から聞いた。遠慮がちに第二志望欄に書いていたその大学の名を、君の後ろで黙って第一志望欄に書き直している内気な少年がいたことに、君は気づいていただろうか。
それから大学受験までは本当に充実した日々で、試験に落ちるかもしれないと考えたことは一度もなかった。(無気力な時間には、受かるかどうかどころか受験生であることも忘れていた)君のためなら何でもできるんじゃないかと思った。自分がとても大きなことにチャレンジしているようで、誇らしくもあった。君とは相変わらず話すことができなかったけれど、一度だけ廊下ですれ違ったときに少し話したのを覚えている。たぶん勉強の話をしたのだと思う。それ以外に話題なんてなかったのだから。でも、君の前にいられるのは10秒が限界だった。ぼくは、ほとんどしゃべることもできない女の子のために急に勉強を頑張り出した、表も根も暗い陰気な青年だった。抗うつ薬を飲みながら目をあけているのが精いっぱいの、弱い人間だった。君の人生とぼくの人生は絶対に交わることはないとわかっていた。ただ受験までの数か月を、君への想いに興奮しながら過ごすことができれば幸せだったのだ。目立たないように、君と同じ大学を目指すことだけを喜びにして、それが終わればまた自分のいるべき世界に戻ればいいと思っていたのだった。20歳までは、まだあと2年。
合格発表は大学まで見に行った。掲示板に自分の受験番号を見つけたとき、ぼくは世界中の誰よりも不幸だとでもいうような顔をしていたと思う。歓喜の中で胴上げをしている受験生たちの横で、ぼくは急に現実に引き戻されていたのだ。合格者の胴上げをしていたアメフト部かラグビー部の学生が次を探そうとして来たけど、ぼくの表情を見て気まずそうに引き返していった。大学に合格したところで、生きる気力もない、君に振り向いてもらえることもない、ただの陰気な青年に変わりはなかった。夢の時間は終わり、自分のいるべき場所に戻らなければならないと思った。大学に入りたいという気持ちは強くなかった。ただ、君と同じ先を見つめる時間が過ごせればよかったのだ。それが永遠に続けばいいとさえ、思っていた。大学に合格したことも卒業式の日まで誰にも言っていなかった。ぼくにはどうでもいいことだった。君と仲良くなりたい下心から一心不乱に勉強したものの、大学に受かったって、この陰気な青年は君に話しかけることもできないのだった。
卒業式が終わり、適当にクラスメイトとしゃべり、先生の話を聞いて、そして二度と通ることはない、でも特別な思い入れがあるわけでもない校門をくぐり、その先に待つ自分のいるべき世界に戻るはずだった。そこが昔から自分の居場所だった。何も変わらなかった。暗闇の中をまた一人で歩き出せばよかった。人生のカウントダウンをまた続きから始めればよかった。それでも、君に出会えて少しでも夢を見れたことを本当に感謝していた。
あのとき、昇降口のところに君がいなかったら。二つ目の奇跡がなかったら。その問いかけをいったい何度繰り返したことだろう。もし、君に出会えなかったら。
卒業式が終わって下駄箱で靴を履き替え、帰ろうとしていたぼくは、傘立てのところに君がいるのに気付いた。でもぼくになんか用事はないと思ったのだ。軽くあいさつをして、通り過ぎようと思ったのだ。君とぼくの人生は、少しも、重ならない。絶対に。
「大学受かったんだってね、おめでとう」たしか君は、そう言った。君が話しかけているのが誰なのか、一瞬わからなかった。いや、分かってはいたけれど、信じられなかった。
ぼくはその言葉を夢見て、何か月も必死になっていたのに違いないのだった。君と話したい、それだけを思っていたに違いないのだった。自分から話しかけることはできなかった。殻を破って自分から変わろうとすることができなかった。それなのに、君はあの綺麗な笑顔で、他の誰でもないぼくに話しかけてくれたのだった。
一言も思い浮かばなかった。君と目を合わせることだけでもそれは大変な試練で、平静を装おうとすることに、生きていくのに必要な全てのエネルギーを使い果たしてしまいそうだった。たぶん、君が第一志望に落ちて、他の大学を受かったという話を聞くので精いっぱいだった。君とまともに話すまでに、あと百回チャンスがあったとしても、ものにできそうにはないと思った。ぼくは自分の欠陥を恨んだ。それでも、自転車で校門を抜けて家に帰る途中、今までに味わったことのないような清々しい気分を感じていた。
あの日君が昇降口にいなかったら、声をかけてくれなかったら、ぼくはこの世にはいない。決して重なることのない人生をあともう少しだけ生きて、誰にも自分のノルマを悟られないように少しひょうきんに生きて、それを果たしたのだろうと思う。君や他の人をひたすら傷つけるほど生に執着したのは、もっと後のことだった。受験が終わったとき、ぼくは残りのノルマをもう一度、しっかりと胸に刻もうとしていたのだ。でも君の言葉は、ぼくに希望を与えてくれた。君が話しかけてくれたことを思い出すだけで、ぼくは楽しい気持ちになるのだった。
大学というまるで知らない世界で、自分がそこにいることはとても不自然なことだった。まわりの世界がせわしく移り変わる中で、自分だけが取り残されているようだった。周りの学生はぼくなんかよりずっと勉強していて頭がよかったし、受験の時に勉強していたという世界史や日本史の話になると、全然分からなかった。君のことを考えながら必死に詰め込んだ知識は、受験が終わった途端にどこかにとんでいってしまったのだ。自分がなぜここにいるのかも理解できずに、要領よくやることもできず、授業に出るのがただつらかった。一限の授業に出るために満員電車に乗ることができずに、何度も電車を見送って、あきらめて帰ったこともあった。電車の中で頭が真っ白になって倒れたこともあった。うつ状態はさらに悪くなっていった。
唯一の支えは、君が昇降口で話しかけてくれたことだった。それを思い出すことだった。本当にそれだけが、一日を生きる支えだった。ぼくには、今生きている理由が必要だった。自分という存在は必要なのか、生きている意味などないのではないか、自問しながら生きていたのだ。でも少し前向きな時間には、君のためにできることがないか、そんなことを考えるようになった。君にとって少しでも必要な存在になりたいと、そう考えるようになったのだった。でもぼくは、あまりにもこの世界に不必要な人間だった。わずかに残っていた生きる意欲が、変わらなければいけないと何度もぼくに訴えるのだった。前向きにならなければいけない。君に顔を合わせられるだけの、人並みのまっとうな 人間にならなければいけない。
使わなくなった参考書を君にあげるという、あまりにわざとらしい口実を何日も考えてやっと思いついて、君が喜んでくれたらどんなにうれしいだろうと心を躍らせながら、ぼくは君に電話をかけることにした。ぶるぶる震える手で受話器を握りしめていたとき、ぼくの顔は文字通りに真っ青だった。君に話す言葉を考えて受話器を手にするたびに、頭が真っ白になってしまうのだった。君の携帯番号も聞かずに昇降口をあとにしてしまっていたぼくは、卒業アルバムに載っていた君の家に電話をかけた。番号を途中まで押しては消してを繰り返し、君の家族が出た時に君につないでもらうために言う言葉を、念仏のようにつぶやいて練習していた。こんな変なやつは他にいないだろうなと、考えながら。
こんな変なやつからの電話を受け取って、君は少し驚いて、快く話を聞いてくれたのだった。それから最後に、お礼をしたいと言ってくれた。そして、携帯番号も教えてくれたのだった。君にもらった携帯番号は、ぼくの宝物になった。君のいる世界に近づく切符をもらったかのようだった。初めて電話をかけたのは、1週間くらい後だった。
相変わらず君と何を話せばいいのか思いつかなかったのに、何度も他愛もない話で、君に電話をかけたり、メールをしたりした。君はいつも迷惑がらずに電話に出てくれた。君の負担にならないようにと、いつも軽い感じで電話している風を装っていた。本当は、頭の中はそれだけだったのに。それでもその時は、それ以上のことは望んでいなかった。君と話す時間がそのあと何週間もぼくを元気づけてくれるのだった。君と話せるだけで本当に幸せだったのだ。
病院に入院することになったのは、大学に入った年の6月初旬だった。君から元気をもらっていたのとは全く別のところで、ぼくの一部は小学校5年のときに始めた死へのカウントダウンをまだ続けていた。腕にはいくつもの傷があって、もう限界だった。この頃にははっきりと、自分の中にある二つの人格を感じるようになっていた。社交的に振る舞う人格と、もう一つは、人を憎むことしか知らない人格だ。幼いころには、外側と内側、と呼んでいたものだった。憎しみだけでできたもうひとつの人格は、自分の存在すら憎んでいた。死にたいという気持ちは、生きることへのあきらめではなく、自分の存在がどうしようもなく憎くて消してしまいたくなることから生まれていた。自らに対する殺意と呼んだほうがいいかもしれない。自分への憎しみのやり場に窮したぼくは、何度も頭が痛くなるくらい髪の毛をかきむしったり、刃を自分の肌に当てたり、意味不明なことを叫んだりして、人間であることをやめそうになっていたのだ。外側の人格が、この恐ろしい内面を必死に隠していたのだけど、それでももうどうにもできなくなっていた。ぼくは、死刑を宣告された死刑囚だった。死ぬべき人間だった。この頃、宇宙のどこかの星にひとりでいて、そこから遥か彼方の青い地球を眺める夢をよく見ていた。このときに本当に死んでしまえばよかったと、そのあとも思うことがある。このあとぼくは、甘えから君をたくさん傷つけたし、他のひともたくさん傷つけたのだ。
あの病院の建物の中で、ぼくは普通に見えたと思う。そのくらい色々な人たちがいて、でもぼくはその中にいた。昼は病院の待合室でひびの入った白壁を何時間も見つめていた。やせ細った若い女性が、異常なテンションでぼくに抱きついてきたりもした。夜は与えられた睡眠薬を飲み、心地よさと吐き気がミックスしたような気分で眠りについた。そうでなければ、同じ天井の模様を何時間も見つめていなければならなかった。自分を見つめ直して前向きに生きるための集団セラピーを毎週受けた。ぼくと同じような幼少時代の経験、内面をもった人もいた。仲良くなった人もいた。彼は、病室の扉の所をいつもうろついて、ぼくが気づくまで30分もそうしてからやっと話しかけてくるのだった。あるときは2時間もそうしていたと、あとで教えてくれた。彼と一度、電車に乗ってカラオケに行ったことがあって記憶に残っている。外出許可をもらい、病院の門を出たとき、どうしようもない不安に襲われたことも。夏の太陽がまぶしくて、立っているのがやっとなほど息が苦しくなった。中学のときから、現実を見つめるのが怖くなるたびに過呼吸症候群の発作を起こしていた。ようやく門を出て、バスに乗り、ぼくらは小さな駅から電車に乗った。電車の中は少し混んでいた。友人と笑い合ったり、仕事の話をしたりしている正常な人間がたくさんいて、ぼくは彼らと明らかに違うのだと感じた。急にまた息苦しくなり、もうこの世界には戻れないのだろうと思った。
そんな生活の中で、心は君に助けを求めていた。正常な世界とぼくをつないでいたのは、君だけだった。君の言葉を思い出すときだけでも幸せな気持ちになることが、ぼくの中に正常な人間が持っているものと同じものがまだあることの証明だった。
ぼくは君に電話で嘘をついていた。君には、大学に行って授業に出ているようなことを言っていた。それどころか、人生に目的を持った立派な人間であるかのようにさえ、自分を飾って話したかもしれない。君に本当のことを言うべきだったと思う。そうすれば、君がこんな異常な人間とそれ以上接することはなかったのだから。本当のぼくは、生きようとすることさえ困難で、毎日にしがみついているだけの、空気みたいな弱い人間だった。君に顔を合わせられるようなまっとうな人間にならなくてはいけないという気持ちだけが、ぼくの今日と明日をつないでいた。いつしか明日があさってになり、一週間後になり、そして一年後の未来を考えるようになっていった。君と付き合っている自分さえ想像するようになった。先生や看護師さんはよく、人生という列車を途中下車しただけなのだとぼくに言ってくれていた。気持ちが落ち着いてからまた乗ればいいんだよと。ぼくは病院から出て、途中でやめてしまっていた車の教習所に通いたいと医師に話した。医師は驚き、でも安堵した表情で、退院までのスケジュールを考えてくれた。ぼくを前向きにさせていたのは、君を助手席に乗せて走りたいという夢だった。希望はどんどん膨らんでいった。今まで望まなかったことも、望むようになっていた。
お台場に観覧車ができたのは1999年。あの頃、デートスポットと言えば、お台場だった。グーグルはその頃なかったと思うけど、雑誌を開けば、というか開かなくても表紙にお台場のことが書いてあった。デートしたこともない、ろくに遊んだこともない、そんなぼくでも知っているのがお台場だった。
君と一緒に「お台場」に行って一緒に観覧車に乗れたら、どんなに幸せだろう、と時々思った。それは初めての明るい希望だった。自分が生きていなきゃできないことで、実現するまで前を向いてなくちゃできないことだった。それまでの間だけでも生きていたい。
ぼくは君に嘘をつき続けていた。授業はもちろん前期の試験はひとつも受けなかったから、試験の話は全てでっちあげだった。君の前ではいつも見栄をはっていた。君に自分の負の面を見せたくなかったのだ。でもそれは、ぼくの一部であるどころか、ほとんどを構成しているものだった。病院にまた戻るかもしれないという恐怖はいつも現実で、心のほとんどを占めていた。もちろん、うつ状態は治っていなかった。それでも、君という希望があったのだ。君のことを考えることで、少しずつ自分から前に進もうと考えるようになっていた。夏休みには車の免許を取り、秋から大学にも行くようになった。前進。
君に必要とされたい、という思いは強くなる一方だった。何度目かに君と話したとき、何か君のためにできることはないかと、聞いたことがあるのだ。それまでのぼくは、人の役に立てることなどないと思っていた。ぼくは、少なくとも自分にとっては、生きている価値の全くない人間だった。人間は誰かの役に立つことができることを、そして誰かを必要としながら生きていることを、今は知っているけれど。あの頃はそうではなかった。自分はひとりで生きているのだと思っていた。そうするしかないのだと思っていた。そして、自分を必要としてくれる人などいないと思っていた。
そんなぼくに君は、10分だけでいいから話し相手になってほしい、と言ってくれたのだ。君はいつだって優しかった。暗闇の中を一人でさまよって、光がどこにも見えずに苦しんでいたぼくの前の世界を、君がどんどん切り開いてくれるようだった。君はいつも、たったひとつの言葉で、誰にも照らすことのできない光を照らしてくれるのだった。ぼくは君に甘えるばかりで、自分では何もしようとしなかった。君が切り開いてくれた場所に、自分から足を踏み入れることもしなかった。
10分のはずだった会話はそれだけでは終わりなかった。話題がなくなってもそれでもまだ話していたくて、耳が痛いと君と笑い合ったことを覚えている。今までそんなに長い時間、人と話したことはなかった。他愛もない話でも、ずっと話していたかった。君の声を聞いていたかった。そして君を苦しめるものを知ったとき、君を守りたいと思いた。
その後のことを、はっきりとは思い出すことができないのは、いつもこうやって都合よく、自分の悪いところは隠してきたから。
ぼくはいつだって、自分のことしか考えていなかった。君に甘えるばかりで、自分から周りの世界に働きかけようとはしなかった。自分から変わろうともしなかった。君のためにできることを本当に考えられたのは、あの時だけだったかもしれない。君と話した10分間は君よりもぼくにとって必要な時間だった。唯一人間でいられる時間だった。その時間を少しでも長くすることだけを考えて、自分のことだけを考えて身勝手に君を傷つけたのだ。ぼくは、君にとって必要な存在にはなれなかった。すべてを疑って、君が照らしてくれた光にさえ何度も手をかざしたのだった。君との時間を巻き戻したいと願った一方で、ぼくは分かっていたのだ。巻き戻したところで、きっとぼくはまた同じことを君にするのだろうと。君と同じ世界にいたことなんてないのかもしれない。君のいる世界に近づこうとしてもがき、ただ君を傷つけることしかできなかった。自分の醜さを覆い隠しているつもりで無様に曝け出して、自分のためだけにそうすることしかできなかった。
君には嘘しか言わなかった。死にたいと思うことを君のせいにしようとさえしたのだ。君のためにできることを一生懸命に考えていたつもりが、いつの間にか、すべてが自分のため、生きるためになっていた。なりふり構わずに君を傷つけた。君の優しさに怯えて、それをただ疑うことしかできなかった。君と付き合ってからのことを思い出すとき、それはいつかの断片で、ぼくは必死に首を振るのだ。夢の中でそれが脳裏を横切る時に、飛び起きてしまうのだ。思い出すのも嫌なことを、ぼくは君の前でしてきたのだ。自分の身勝手で君や君の家族、まわりに迷惑をかけたことを本当に申し訳ないと思っている。
あれから全てが、自分の中で変わらずにいた。相変わらずぼくは身勝手に生きてきた。君へと続いていると思ったレールにもう君はいないのに、この道の先がいつかまた君とつながるんじゃないかって、そんなことさえ思いながら生きてきた。今日そう思うことがいつも、明日を生きる希望だった。人ごみの中に君の姿を探し、君の声に振り向き、君に話す言葉を見つけてはそれを口に出そうとした。君を忘れることはできなかった。君のことを考えなかった日は、一日もなかった。教室の一番前に座る君を、誰にも気づかれないようにそっと見ていたこと。体育祭のサッカーでゴールを決めた時、オフサイドだったけど、君が見ているんじゃないかってその姿を探したこと。原付に二人乗りをして、ぼくの後ろで君が楽しいと言ったときのこと。ぼくが君にふられた(一度告白したのだ)次の日に、君がミスタードーナツで勉強しながらぼくのことを考えてくれていたこと。ルックというチョコレートが食べたいと君が言ったのに、そのチョコレートが分からなくて、とりあえず君が好きなものリストに書き加えたこと。大学受験の日の昼に、メールをくれたこと。初めて悩みを打ち明けてくれたときのこと。大学の窓から見えたその年最初の雪を、真っ先に君にメールで知らせたときのこと。
一人のときは何でもなかったことが、君といるとそれぞれが大切な意味を持つようになったのだ。初めて人からもらった誕生日祝いは、君からもらった黒いマフラーだった。君が去ったとき、ぼくは君を恨んでしまった。希望を知らなければよかったと思った。 君のために生きようとしたことを、後悔しそうにさえなったのだ。そしてそんな自分が許せなくなった。君があれほどたくさんの素晴らしいことを教えてくれたのに、ぼくはちっとも変われていなかったのだから。何でも人のせいにして、一人で生きているのを気取って、君を信じることもできなかった。最後の時ですら、ぼくは君にひどい言葉を投げつけたのだ。君に許してもらえるとは思っていない。君を傷つけた自分を、ぼくは一生許すことはないだろう。ぼくが書いた手紙は、自分のために書いているのだ。この気持ちを伝えるまでは、君を傷つけたことを毎日後悔するだけの人生を歩んでいかなくてはならないから。でもそれしか許されないのなら、君が手紙を読む必要はないのだ。ただの気違いだと思ってもう気にも留めていないのなら、それが一番いいことなのだ。だから手紙は共通の友人に預けて、渡すかどうかは彼に任せた。これは自分の身勝手と自己満足のためでしかないからだ。君がこんな手紙を読みたいわけがない。
あれから、ぼくは少しも成長しなかった。立派になんかなれなかった。人並みの、まっとうな人間にもなれなかった。今でも欠陥を持った、言い訳ばかりの自分勝手な人間のまま。まともだと思われるために数えきれないほどの演技をしてきたのに、中身はちっとも変わっていない。病院の白壁をただ見つめていたあの頃と。今でも、この世界から消えるべき人間だと考えてしまうことがある。
唯一の希望は、君にもう一度だけ会いたいということだった。やり直したいとかではなく、少しでも立派になって、君にそのことを報告したいということだった。就職した後に、勝手に君に手紙を送ってしまったのはそのためだった。君の気持ちも考えずに、本当に申し訳なかったと思う。あれほど君を傷つけたときから何も変わっていないのに、君の前に現れる資格なんてないのに、あんな手紙を送ったことを本当に恥ずかしく思った。君の人生にぼくが関わることは決してないと分かっているのだから。君にとって必要な存在になれることは絶対にないと。それでも、どうしても君に伝えたいことがあって、あの手紙を書いた。
君に感謝の気持ちを伝えることすらできなかったぼくは、ただそうしたいと思い続けたことで、少しずつ前に進むことができた。一年生で留年が決まっていた大学は何とか五年目に卒業して、就職することもできた。ここまで年を重ねることもできた。すべては、君と出会ったからなのだ。模試の日、君の席がぼくの前だったこと。卒業式の日に昇降口に君がいたこと。こんなぼくに声をかけてくれるほど、君が優しかったこと。奇跡だったのはぼくにとってだけだったのかもしれない。ぼく以外のひとたちにとっては良いことではなかったかもしれない。ただ今、こうして生きていることをその偶然と君に感謝せずにはいられないのだ。君を好きになったから、前向きになれた。君と話したいと思ったから、君と同じ目標に近づきたいと思ったから、一歩ずつ前に進むことができた。君とデートしたくて君の隣に見合う人間になろうとした。君を傷つけて一生後悔するようなことをたくさんした。だから、また君に胸を張れるようなまっとうな人間になりたいと思った。それだけでここまで生きてきたのだ。周りの人をほんの少しだけ大切にできるようにもなった。ぼくが少しでも誰かの役に立てると思わせてくれたのは、君だった。ひとりで生きているつもりだったぼくに、誰かに必要とされることの喜びを教えてくれたのは、君だった。冷たいぼくの手を握ったとき、心が温かいからだと言ってくれたことを、一生忘れることはないだろう。ぼくは心の温かい人間ではなかった。君を慰めることも、元気づけることも、君のためには何一つできなかった。でもそういう人間になりたいとあのとき心から願いた。自分の力で少しだけ前に進もうと思ったのだ。生きることに息苦しさを感じていたのが自分だけではなかったと、自分が言い訳ばかりの人間だったのだと気づくことができたのだ。少しでも人の役に立つことができると、そう信じて生きていくことができるのだ。
これまでずっと後悔してきた。君に最後にありがとうと言えていたのなら、これほど後悔することはなかったかもしれないけれど。でも君に感謝の気持ちを伝えることができなかった。
これまでずっと、君を思い出すことと、君を忘れようとすることで頭はいっぱいだった。伝えられなかった言葉をここに書き記すことができた。だから、もう十分だ。君に甘えてどんどん貪欲になって、望みばかりを増やしてしまったのだ。大切な友人として君のためにできることを考えていられたらどんなによかっただろうと、今でも思う。そうできなかったことを、君にひどいことばかりしたことを、まわりに迷惑ばかりかけたことを、本当に申し訳ないと思う。
あの時、ぼくを生きさせてくれた人に。ありがとう。