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ダメ男に捕まりまくって婚約破棄はもう3回目ですが、最後は幸せにならせていただきます!




湖の国、王都の中心街。

人気過ぎて招待客しか入れないジュエリーショップは今日も賑わっていた。


「流石シャロン!この店って招待されるのも大変なのに」

「ゲイルが来てみたいって言ってたから頑張ったよ」

「え~、嬉しいなあ!シャロン、やっさし~!」

「ふふ、ゲイルが喜んでくれてよかった」

「あ、なあなあシャロン、これ買って~!」

「え?どれどれ?」


沢山のピアスを耳に開け、幾つもの腕輪やネックレスをしたお洒落な婚約者・ゲイルに無邪気に腕に巻き疲れて目じりを下げたのは、日光浴をする羊のように淡いミルク色の髪の可愛らしい令嬢、シャロン・ラスヘルムだった。


「俺、これずっと欲しくってさ。俺が着けたらかっこよくない?シャロンもそう思うよね?」

「うん、そうだね、ゲイルに似合いそ……」

「あ、店員さーん。これ着けてみてもいいですか~?」


シャロンが意見を言い終わる前に、ゲイルはシャロンに巻き付けていた腕をパッと放し、そばを通りかかった店員に声をかけていた。


今回ゲイルが目を輝かせてほしいと言ったのは、隣の山岳国で活動している先進気鋭のデザイナーが作ったの銀の腕輪だった。

異国情緒の漂う植物を象った意匠で、少し古風な雰囲気がありつつも新鮮さがあり、流行のドレスや洋服にも良く似合いそうだ。


腕輪を腕にはめてみたゲイルはうっとりと溜息をついた。


「これ、めっちゃ良くない?」

「すごくかっこ良いよ。ゲイル、似合うねえ」

「だよねだよね!ねえこれ買って、シャロン~」

「うーん、いくらくらいかなあ……」


このジュエリーショップは店主のセンスにセレクトによって集められたアクセサリーを取り扱っていて、値段はべらぼうなものからお手頃なものまで様々だ。


シャロンはゲイルの選んだ腕輪がお手頃価格でありますようにと内心ドキドキ祈りながら、上品な微笑みを顔に張り付けて店員に聞いてみた。


「4,000万ロメでございます」

「えっ」


シャロンは生まれた時から貴族をやって身に着けた優雅な微笑を保ったまま、固まった。

予算の10倍くらい高い。


裕福なラスヘルム侯爵家の一人娘で、背格好の似ている第一王女の侍女兼影武者として働いて破格の給料をもらっているとは言っても、腕輪一つに4,000万ロメは流石にポンポン出せる金額ではない。

しかも先週はゲイルにおねだりされた500万ロメの革靴を買っているし、先々週はゲイルがどうしても欲しいと言った2,000万ロメの外套を買っている。


「ゲ、ゲイル、他のも見てみようよ」

「え?俺はこれがいいって言ってんだけど」

「でも他にもいいものがあるかもしれないよ」

「だから、俺はこれが欲しいの。で、他にもいいのがあったらそれも買ってくれればいいじゃん」

「で、でもね、今月はちょっと買いすぎかも……」

「は?シャロン滅茶苦茶稼いでるじゃん。なんで?俺の事もう嫌いになった?」

「そ、そういう事じゃなくてね……!」


眉にしわを寄せたゲイルはシャロンよりもはるかに背が高く、見下ろされると威圧感がある。

しかし女王の身代わりとして悪漢に捕まったり、刺されて生死の淵を彷徨ったり、毎回の毒見で当たった毒に苦しんだり、文字通り身を削って働くシャロンが今更自分より大きな男性に凄まれたくらいで怯むことは無かったが、婚約者を喜ばせてあげられないことは大いに彼女の心をしょんぼりとさせた。


「ゲイルの事は好きだよ、でもちょっと高すぎるかなって……」

「シャロンさあ、言葉で好きとか言うけど、俺いつも行動で示してって言ってるよね?俺の事好きならどんだけ高くても買えるよね?」

「じゃ、じゃあ来月にしよう?来月なら大丈夫。この前殿下を守った時の手当が入るから!」

「シャロンさあ、先月もそうやって言ってたよ?……俺は、婚約破棄を二回もされてる、体中傷跡ばっかの傷物女と婚約してやったんだよ?それなのに腕輪の一つさえも我慢させるとか有りえなくない?」

「あ……」


何も言えなくなってしまったシャロンは俯きたかった。

しかしここは宝石店の店内だ。

段々語気が荒くなってきているゲイルの前で、シャロンがさも被害者のように俯いてしまえば、きっとゲイルが他の客から完全に白い目で見られる。


「ごめんね、でも来月はきっとプレゼントしてあげるから。お店に取り置きしておいてもらおう。私、殿下のお力もあって店主さんとお知り合いになったから、ちょっとの融通なら聞いてもらえると思うの」


シャロンは何事も無いと示すように、笑顔をゲイルに向けた。

しかし何が気に障ったのか、ゲイルは持っていた腕輪を乱暴に店員に返して、シャロンに一歩大きく踏み込んできた。


「シャロン、俺を繋ぎとめときたい癖にそんな余裕あると思ってるの?自分が女として終わってること分かってないの?前の婚約者は暴力男と浮気男だっけ?他の男のお下がりってだけでもうヤバいのに、我慢してちょっと触ろうと思っても古傷がボコボコしてて萎えまくり!しかも実家は代々王家の影武者やってるラスヘルム侯爵家だろ?!」


目の前で大きくため息を吐くゲイルに、シャロンは小さな声で謝るしかなかった。


確かにシャロンは過去に二回婚約を破棄されていて、今回のゲイルとの婚約が三回目だ。

そして受け継がれる王族の影武者という過酷な仕事の都合で、そのドレスの下の体は戦士顔負けに傷跡だらけだ。

ゲイルには事前に伝えてあるが、『そんな体なら結婚してからも興奮できないだろうから、その時は俺、浮気するから』と言われてしまったことだってある。

そして生命力が異常に強い血筋のラスヘルム侯爵家は、王家の影武者を忠実にこなし、瀕死の状態からも回復することが多いので、陰でゾンビ一族なんて呼ばれて気持ち悪がられていることも知っている。


「ごめんね……」


確実な負い目のあるシャロンは、なるべく他のところで婚約者のゲイルを幸せにしてあげたいと思っているのに、また今日も失敗してしまった。

折角の休日で、ゲイルに喜んでほしくて宝石店にも来たのに、結局機嫌を損ねてしまった。

こんなシャロンと婚約してくれたのに、だから全力でゲイルを幸せにしようと思っているのに、上手くいかない事ばっかりだ。


シャロンはザワザワし出した店内に配慮するように、何となく壁際に移動した。

しかし空気を読まないゲイルは、シャロンが自分から逃げたのだと勘違いし、益々苛立ちを募らせて叫んだ。


「そうやって都合悪くなると俺から逃げるんだ?てか、買ってくれないなら婚約破棄しよっか!シャロンのいいとこなんて、金があるところくらいしかな」

「店で騒ぐな。迷惑だ」


恐れていた「婚約破棄」というワードを聞いたシャロンは声を上げそうになったが、全部言い終わる前にゲイルが壁際に吹き飛んだ。


吹き飛んだゲイルがぶつかった壁付近にいたご婦人が「きゃあ!」と声を上げた。


「おい、お前もお前だ。こんなゴミカス男とはさっさと別れろ」


一瞬の出来事で、何が起こったか分からなかった。

いや。

シャロンはその目で一部始終を見ていたから、目の前にいる銀の髪のすらりとした男性が、その長い足でゲイルを壁際まで吹き飛ばしたという事実は分かる。

だが、それが突然のこと過ぎて理解がついて行かなかった。


しかしシャロンが唖然としているその間に、壁に叩き付けられたゲイルは辛そうにゴホゴホと咽せ、腹を押さえながらのっそりと立ち上がった。


「げほ、ごほっ……なんだ、お前……いきなりっ……!おい店員、暴力は犯罪だ、警吏だ、警吏を呼べっ!今すぐ!」


傍にいた店員の胸ぐらを掴んで、ゲイルはそう訴えた。

そして次に、突然現れた銀髪の男に怒りのままに向かって行った。

拳を握って、大きく振りかぶる。

興奮しているゲイルは見ず知らずの男性に殴りかかるつもりのようだった。


確かに先に手を出したのは銀髪の男性だし、正当防衛になるのかもしれない。

でもゲイルの将来に傷がつくかもしれないし、人を殴らせてはいけない。


「だ、だめ!」


シャロンは思わず、振りかぶったゲイルと冷静に佇む銀髪の男性の間に、身を投げるように割って入った。


「シャロン、お前の分際で邪魔すんな!」


しかし激情したゲイルは逆に、ターゲットをシャロンに変えて拳を振り上げてきた。


ゲイルに殴られる。


……でも、シャロンは大丈夫。

一番最初の婚約者は暴力を振るう酷い男性だったが、王女の影武者として訓練を受けてきたシャロンは我慢が出来た。

だから、ゲイルの一発くらい全然大丈夫。

最初の男性が婚約者だった時はいつも心が疲れていたけど、今も少しそれを思い出してしまったけれど、きっと大丈夫。きっと、まだ我慢できる。大丈夫。


ここでシャロンが我慢すれば、これからだって婚約者同士でいられる。

ゲイルの機嫌が良くなるようにシャロンがもっと気を付けていればいい話なのだから、これからはきっともっとうまくできる。

きっと、これから改善していける。

きっと、婚約だけじゃなくて結婚したらゲイルは変わってくれる。

シャロンがもっと気を付けてもっと頑張れば、ゲイルも癇癪を起すことを押さえてくれるだろうし、シャロンを大事にして、幸せだって言ってくれる。

今この瞬間だって、もしかしたら飛び出して来たシャロンに拳を当てないようにと思い直して、冷静に戻ってくれるかもしれない。


……なんて。


ちょっとポジティブに考えてみたシャロンだが、ゲイルは振り上げたこぶしを収める気は無いようだった。

それどころか、無様に蹴られたストレスをシャロンで発散しようとしているようにも見える。


「今回も、やっぱり大事にしてもらえなかったかあ……」


もうとっくの昔に分かってはいたけど、言葉にするとさすがにちょっと泣きそうだった。

でもそれを認めたことで、少しだけ踏ん切りがついた。

殴られて婚約破棄されて、それでゲイルとはお終いにしよう。




しかし、ゲイルの拳はいつまでたってもシャロンに当たることは無かった。


シャロンの肩を片手でグイッと後ろに引いてゲイルの拳を避け、もう片手でゲイルよりもさらに早く振りかぶった銀髪の男性がゲイルの頬をぶん殴り、ゲイルを床に叩き付けていたのだ。


銀髪の男性は人目や法律や警吏なんかを微塵も気にすることなく、ゲイルを殴った手首を気だるげにくるりと回していた。

そしてシャロンと目が合うと、鋭い目で見返してきた。


「あ、あの、ごめんなさい、婚約者……いえ、連れがご迷惑を」

「別に」


見知らぬ客を容赦なく殴るくらいの奔放さはあるのに、銀髪の男性は喋ると見た目通りとてもクールで、とても素っ気なかった。


「あの、迷惑料とか、私に請求してください」

「は?何言ってるんだ。むしろ請求されるのは俺の方だろう」

「あっ、それもそうでしょうか?」

「請求でも何でもしろ。俺がこのゴミカスを殴ったのは事実だ」


そう言い残した銀髪の男性は店の奥に用事があるのか、さっさと立ち去ってしまった。



店内に残されたシャロンは足元に目をやった。

ゲイルは失神して床に伸びったままで、店内は騒然としている。


しばらくどうしたものかと立っていたが、慌てて店の奥から出て来た店主に話しかけられて平謝りし、請求は全てこちらに、とシャロンは家名とサインを書いた紙を手渡した。


「いえ、貴女に請求はしませんから大丈夫ですよ。むしろ貴女は被害者です」

「そんな、お店に迷惑かけてしまいましたし、私にも責任が」

「いいんですよ、補填は一番暴れた奴がするって言ってるんですから」


……一番暴れた奴?

あの銀髪の男性の事だろうか。

そういえばどこの誰だかわからなかったが、名前くらい聞いておくべきだっただろうか。

いや、まあいいか。彼もこんな修羅場女とはもう会いたくないだろうし。


シャロンは最後の最後まで店主に謝っていたが、店主は「全然大丈夫」と首を振ってくれる良い人だった。

そればかりか、来店記念のアクセサリーまでシャロンに持たせてくれて、「また来てください、でも今度はお一人で」とまで言ってくれた。





……


「そういえばシャロン、貴女また婚約破棄したのよね」

「そうなんです……」

「貴女、ほんとうにダメ男を捕まえるのが上手ねえ」

「うう、返す言葉も無いです……」


フワフワの髪を後ろでキュッとまとめた侍女姿のシャロンは、王宮の中庭で一人お茶を楽しむ王女・エルリーゼの護衛兼侍女を務めていた。

比較的安全な王宮の中なので、エルリーゼは気心知れたシャロンと二人きりでゆったりお茶を楽しむ時間を良く希望する。

そんな時は、こうして女子同士のプライベートな会話をすることも少なくない。


「私もゲイルに言い分を聞いたのだけど、ちょっとイライラしちゃったから、彼はそれとなく西観測所に左遷してあげたわ」

「え、西観測所って、ものすごく厳しい鬼士官がいると噂の……」

「そうよ。彼はその士官直属の部下にしてやったわ。私も、彼はちょっと根性を叩き直した方がいいと思ったの」


ぶるっ。

西観測所は厳しい規則と鬼のように恐ろしい士官が有名な国の施設で、数々の辛い訓練を耐え抜いてきたシャロンでも絶対に職場にしたくないような場所だった。

無慈悲にもそこに送られてしまったゲイルは今頃どうなっているのだろう。あまり考えたくはない。


「でも、何でかしらね。貴女はとても可愛らしい上にいつも幸せそうにニコニコして、面倒見も良くて、通っていた王都の学園も次席で卒業と誰から見ても才色兼備。私が男だったら速攻結婚して離さないのに」

「だって私、ゾンビ一族って呼ばれてるラスヘルムの娘ですし」

「針が指に刺さっただけで入院するか弱い令嬢なんかより、ゾンビ一族の方がかっこいいじゃない」

「そんなことはないんです。私、体中傷だらけですし、3回も婚約破棄された傷物ですし」

「その若さで婚約破棄3回は確かにこの国の新記録かもしれないけど、少なくともその傷は私を守って付けた傷でしょう。それは負い目ではなく誇りだわ」

「でも女として終わってるって……うう」

「あらあら泣かないで。確かにセクシーではないかもしれないわね?女の子として終わってるかもしれないわね?でも傷が在っても好きって言ってくれるような男性はいる……いるといいわね」


エルリーゼはサバサバと何でも言ってしまうタイプなので、傷心のシャロンに対しても本心をオブラートに包み切れていないようだった。


「やっぱり殿下も、こんな私なんて結婚できないと思いますか……?」

「そうねえ、シャロンは男運がとことん悪いから、何とも……ごほん。そういえばこの間、お隣の山岳国の第二王子がお忍びで我が国に来ていたらしいわ」


良い香りのお茶を一口優雅にすすって、エルリーゼは露骨に話を変えた。

多分これが、エルリーゼの正直な答えなのだろう。

とほほと心の中で涙を流しながら、シャロンはエルリーゼの新たな話題に耳を傾けた。


「寒くて険しい山岳地帯の狼の血を引いた王子だけあって、肌が白くて鋭い感じの私好みのイケメンらしいのよ。彼は私の婿候補の一人なのだけど、まだ会ったことが無いのが口惜しいわ」

「はあ……」

「ただその王子、優秀でもあまり愛想は良くないらしいし、仕事をさっさと終わらせたら従者も付けずに山に籠って創作活動してたりとか、一人旅に出たりとかしているらしいのよ。まさに一匹狼ってやつね」

「私は不細工でも一匹狼でもいいから、人並みに優しい人が良いです……」

「達観しちゃってるわねえ。まあ私もそんな貴女の話を聞いているから、顔がどれだけ好みでも私の事を大事にしてくれない人は止めた方がいい、って早い段階で悟ることができたのだけどね」

「お役に立てたようで何よりです……」

「本当に元気がないわね。じゃあほら、マドレーヌでも食べて。シャロンこれ好きでしょう。貴女の為にわざわざ城下町で買ってこさせたのよ」


エルリーゼは溜息をつくシャロンの口に、高級クリーム入りのマドレーヌを二つ同時に突っ込んできた。


もぐもぐ……。

あれ、おいしい。このマドレーヌってこんなにおいしかったんだ。

実はこの高級マドレーヌは、シャロンの好物ではなくて、元婚約者のゲイルが好きでよく買わされていたものだった。

ゲイルに買っていた時はゲイルがマドレーヌを分けてくれることは殆ど無く、稀に一つ貰ったとしても高級な割に味がしなかった。


あの時はこんな自分にも婚約者がいて、幸せにしてあげたいと思える誰かがいることが既に幸せなことだと思っていた。

相手がいるから幸せは二倍で、悲しみは半分だと無条件に思い込んでいた。

思い込もうとしていた。

でもあれは、やっぱり本当の幸せでは無かったのだ。


シャロンは、毎日ニコニコして過ごしていたいと思っている。

誰かと笑って、誰かと仲良くして生きていたい。

婚約者がいてくれて、あわよくば結婚出来れば最高だけど、きっと婚約者が全てじゃない。

マドレーヌが美味しいって感動できないなら、婚約者なんかいなくてもいいのだと今改めて気が付いた。


だからもう忘れよう。

折角婚約破棄したのだから結婚とか婚約者とか、しばらく忘れて過ごそう。

女の子として優しい人と結婚して愛されることは、シャロンの幼いころからのたった一つの夢だけど、それで笑っていられなくなるのなら、叶わないでもいいじゃないか。


踏ん切りついて婚約破棄はしたものの、少し引きずっていたシャロンは今度こそ前を向こうと思った。


「殿下、ありがとうございます」

「あら、なあに?改まって」

「マドレーヌ、美味しいです」

「そう。良かった、貴女はニコニコ笑ってる顔が一番可愛いわ」




……




殿下は無事だろうか。

ちゃんと逃げることは出来ただろうか。

追手はきちんとこちらを追ってきているだろうか。


脇腹を押さえたシャロンは、暗く険しい山道を全力で走り抜けながら、それだけを考えていた。



シャロンの国の王族は代々、流した涙を宝石に変えることができるという力を持って生まれてくる。

特にシャロンが仕える王女エルリーゼは、一粒に何リットルもの液体を貯めておける特殊なアクアジウムという宝石を生み出すので、王宮内の権力争い以外のところでも、様々な手の者に襲われることが多かった。


今日だってそうだ。

エルリーゼは大河の国の婿候補と顔合わせをした帰り道、峠付近で狙われた。

婿候補と会うのだからと妥協せずに仰々しい馬車と大人数の護衛で大河の国に行ってきたのだから、目立って狙われてしまうのも当然だと言える。


だがこんな時こそ、シャロンの出番だった。

王女に扮したシャロンはエルリーゼを逃がし、わざと敵の前に躍り出て、囮の兵に守られながら逃げる。

出来るだけ多くの敵の注意を引きつつ時間を稼ぐ。

そして最後は死んだと見せかけるなり、姿をくらますなりして自分もうまく逃げおおせる。


何度も何度も経験して、最近は結構上手にできるようになってきた気もしていたが、この日は少しだけドジを踏んでしまった。

相手の中にかなり夜目が利く弓遣いがいたようで、逃げる途中で脇腹を射抜かれてしまったのだ。

そして矢じりには、特殊な虫の分泌液が塗られているようで、対となる虫を持った弓遣いはシャロンを確実に追跡していた。


これがエルリーゼに当たらなくてよかったと思いつつも、シャロンは数人の囮の兵士たちと共に森に逃げ込んだ。


「王女はこっちだ!」


矢を逆手にとって、上手く引き付けることができた。

では厄介そうな飛び道具を持った敵達は、シャロンが確実に足止めをさせてもらおう。

王女が逃げる為の時間稼ぎをするのがシャロンの役割だ。


シャロンは痛むわき腹を片手で押さえ、微かに茂みを揺らして水音のする方へ走った。


「あそこだ!殺すなよ、生かして捕まえろ!」


後ろで声がする。

弓が引き絞られる音がして、ひゅんひゅんと風を切った矢の音がした。

それらは幸運にもシャロンには当たらなかった。


シャロンは痛む脇腹を大げさに押さえた姿を敵に見せつけながら、敵から距離を取る。

あまり体力がない本物の王女の振りをして、休みながら走る。

追い付けそうで追い付けない絶妙な距離を意識して逃げる。

時折降ってくる矢を不格好に避けながら、シャロンは囮の兵士たちと目配せをした。

ある者は死んだように見せかけ、ある者は偽の王女を守る為に囮になったように見せかけ、バラバラに散らばった。


かなりの時間は稼いだ。

きっとエルリーゼはもう安全地点まで避難できているだろう。

ならばそろそろ仕上げだ。



シャロンは肩で息をして見せながら、お目当ての崖際に到着した。

追い詰められてしまった風を装って、焦ってみせる。

案の定、敵は王女を追い詰めたとニヤニヤ笑いだった。


しかし、敵の一人がいきなりチッと舌打ちをした。


「こいつ、王女じゃねえ。影武者だ。王女の瞳は確か清流の如く澄んだ色だったはずだ。だがこいつのは深海の如く深い藍色だ」


この男がシャロンの脇腹に矢を当てた夜目の利く男か。

しっかりと王女とシャロンの特徴を言い当てた男を前に、シャロンは思わずフードの裾を引っ張っていた。


だが、今更シャロンが偽物だと気が付いたところでもう遅い。

この勝負は、目的通り時間を稼いだシャロン達の勝ちだ。

だが敵もそれを分かって苛々としたのか、追い詰めたシャロンに冷酷な視線を向けた。


「王女じゃねえなら殺せ」


弓矢の男が矢をつがえ、そして間髪入れずに引いた。


シャロンは逃げの常とう手段として、いつも川に流されて死んだように見せかけたり、崖から飛び降りて死んだように見せかけたりする。

今回もそのつもりだった。


……そのつもり、だったのだけれど。


折角崖までたどり着いてあとは無事に落ちればよかっただけだったのに、落ちる瞬間、シャロンのふともも部分に矢が刺さった。

落ちていく視界の端で、あの手練れの弓遣いがにやりと笑った。

なるほど、これはただの矢ではない。

毒に耐性のある筈のシャロンの意識を朦朧とさせるような、即効性の何かが塗ってある。


……これはちょっとまずいかも。

川に落ちても、泳げなければ死んでしまう。


そう思いながら崖の下の川に落ちて激流に揉まれるように流されたところで、シャロンの意識は途絶えた。







……



流石に死んだかと思っていたのに、シャロンは目を開けることが出来て、息もしていた。

だけど目の前に広がるのは得体の知れない洞窟のような天井で、変な形の鉄の器具や見慣れない植物の鉢植えなんかが幾つも吊り下げられていた。


ここはどこなのだろう。

洞窟のようにも見えるが、今シャロンが寝転がっているベッドは物凄く高級な寝心地でまるで雲のようだ。

でも隣の空間からは着色用具のような匂いがするし、鉄が擦れ合っているような音も聞こえる。

シャロンは、自分が今どのような状況なのか皆目見当がつかなかった。


「目覚めたのか。生命力強いなお前」


橙色の穏やかな明りが漏れる方向から声がした。


「……?」


少し痛む首を回して見れば、片手に薬草と、もう片手にタオルを持っている、いつかの銀髪の男性が立っていた。


「お前はあれか?影武者のお仕事ってやつをしてたのか?若い令嬢が矢を二本も身体に刺したまま、この氷水で水遊びする訳ないもんな」

「え?貴方はあの時の……?」

「あのゴミカスとは別れたか?」


男性は相変わらず冷ややかで鋭い視線の持ち主だったが、シャロンの事を覚えていたらしい。

まあ、あれだけ盛大に店内で修羅場を披露してしまったインパクト強すぎ女は、忘れたくてもなかなか忘れられないか。


「……もしかして、助けてくれたんですか?」

「薬塗って寝かせただけだ」


シャロンはモゾモゾと動いて、怪我の様子を確認した。

矢じりは綺麗に抜き取られ、薬を塗って丁寧に止血されている。

こんなに丁寧な処置をされていたら、もしかしたら傷跡も残らないかもしれない。

男性は薬を塗って寝かせただけだというが、その言葉の数十倍の処置をしてくれたようだ。

多分処置の過程で、シャロンの太ももと傷だらけの腹は男性も見ただろう。

見苦しいものを見せてしまって申し訳なかったなあと思いつつ、シャロンは少し体を起こした。


「おい、まだ寝てろ」

「でも」

「俺のことを警戒するのは分かるが、怪我人は寝てろ。氷霊の神に誓って変なことはしない」

「や、えっと、そういう心配をしている訳ではなくて……」

「なら寝ていろ。お前を見つけた時、普通ならとっくに死んでる状態だったんだぞ」


起き上がろうとしたシャロンは大股でやって来た男性にグイッとベッドに押し返され、とどめと言わんばかりにフワフワのブランケットまでかけられてしまった。


「腹は」

「あ、傷ですか?おかげさまで痛みも……」

「違う。怪我じゃなく空腹かと聞いたんだ」

「あ、確かに……空腹です」

「分かった。待ってろ」


男性はくるりと踵を返し、キッチンに行ってしまった。


この場所を見渡せば、なんだか洞窟を改造した秘密基地のような場所だった。

左を見れば、広い作業台、換気扇や色々な型の鉄や実験用具、何やらびっしり書き込まれた羊皮紙や高く積まれた資料集、と何やら職人の作業場という雰囲気の空間が広がっている。

そして右を見れば、自然の洞窟の壁に似つかわしくない高級そうなソファやテーブル、大きな暖炉のある場所があって、それから洞窟の入り口に工事して付けたような頑丈な玄関扉、床は一面に長い毛の絨毯が敷いてあった。


良く分からない。

この男性は誰で、この場所はどういう場所なんだろうか。


器用に赤い果物を剥いてくれた男性は戻って来て、皿に入ったそれを起き上がったシャロンに手渡してくれた。


「ありがとうございます。あの、私、シャロンって言います。シャロン・ラスヘルムです。貴方の名前聞いていいですか?」

「ガーランド」

「ガーランドさんですね、ありがとうございます。それからガーランドさん、この場所は貴方の住処なんですか?」

「俺のアトリエだ」

「アトリエ?」

「そうだ。金属でオブジェなんかを作ってる。最近はアクセサリーも。家の奴らが良い顔をしないからここで作業してる」

「へえ……」


シャロンは膝の上に置いた果物に一口齧り付き、死にかけた体に沁みる甘さに感動しながら、ガーランドの作業場を眺めた。

そしてハッと気が付く。


「もしかしてあの腕輪、ガーランドさんの作品でしたか?!」

「どの腕輪だ」

「ゲイルが……私の元婚約者が欲しいって言ってた、かっこいいけどべらぼうに高価な腕輪です!」


ベッド脇に座っていたガーランドはすっと立ち上がり、作業場の引き出しをガサゴソとやって、取り出したものをポンとシャロンに投げて寄越した。

シャロンの両掌に収まったのは、あの日見たものにそっくりなセンスの良い腕輪だった。


「こういうやつか?」

「はい!これです!これにそっくりなやつでした!凄いですねえ……これを作っちゃってるんですもんね!ガーランドさんは手先が器用なんですね、センスもいいし」

「……別に」


ガーランドはふいっとそっぽを向いてしばらく戻ってこなかったが、どうやらキッチンへ行って水を用意してくれていたようだった。

冷たい硝子のコップを2つ手に持って帰ってきたガーランドは、1つをシャロンの開いた果物皿と交換してくれた。


「飲め」

「ありがとうございます、なんだか本当にすみません」

「別に」


ひんやりと喉を伝っていく水をごくごくと飲み干すと、ガーランドは「美味そうに飲むな」と呟いた。

ちょっと豪快すぎたかもしれないとシャロンは反省したが、ガーランドは普通に水のお替りを持って来てくれた。


シャロンはそれを飲んで一息つくと、急に生きている実感に襲われた。

そして安堵から来る眠気にも襲われた。

シャロンは、ガーランドに勧められるままもうひと眠りすることにした。






「ガーランドさん、そういえばこの場所ってどこにあるんですか?あ、私は何処まで流れついちゃったのかなって」

「心配するな。ここは山岳国のはずれだ。お前の湖の国は隣だから直ぐ帰れる」

「山岳国ですか。じゃあ外は寒いんですか?」

「今日は雪だぞ」

「そうなんですか。私雪って見たことなくて。ちょっと見てもいいですか?」


次の日、少し体が軽くなったシャロンが立ち上がろうとすると、首を振ったガーランドに押しとどめられた。


「傷が開いたらどうする。大人しくしてろ。雪なら今とってきてやる」

「でも私、もう動けますよ」


果物や水を持ってきてもらうならまだしも、娯楽の為に見たいなんて我儘を言って、雪まで取ってこさせるのは流石に図々しいと思ったシャロンは、笑顔で怪我の痛みを隠しながらよいしょと足を動かした。

だがそれを見ていたガーランドは、眉をしかめていた。


「……お前、最初に会った時も思ったがへらへら笑って無理する癖があるな。そんなだから、ああいうゴミカス男にも捕まるんだろう」

「え」

「どうせ嫌なことも笑って受け入れてやってきたんだろ」


確かに、ゲイルという婚約者がいて自分は幸せなのだと思い込むために、シャロンは笑顔を心掛けてきた。

そしてゲイルにもシャロンと一緒で少しでも幸せだと思ってもらえたらいいなと思って、シャロンは何があっても嫌な顔をしないと決めていた。

あの時は、たとえ嫌なことでも嫌とは言わず、多少無理をしてでも成し遂げてあげるのが愛だと思っていた。


そのことを見透かしてきたガーランドは、他人に興味無さそうな冷ややかな態度の割に、その鋭い瞳で色々なことを的確に読み取っているらしい。

その指摘は的確過ぎて、シャロンの治りかけていたハートにグサグサと刺さったのだった。


「しかもその無駄に怪我ばかりする仕事は何だ。家の都合なのか何なのか知らんが、そんなに律儀に全うする価値のあるものでもないだろ。しかもそうやって文字通り命削って稼いだ金であんなゴミカス男に貢いで、信じられん」

「だって、喜んでもらいたかったんです」

「殊勝な心掛けだが、それはあの男をつけ上がらせただけだったな」

「うう。……まあ何となくわかってはいたんです。でも、おねだりされると買ってあげたくなっちゃうと言うか」

「ふん。お前もお前で駄目な男に惹かれるという訳か。難儀だな」


ガーランドは呆れたような視線を残して、扉を開けて外に出て行った。


やっぱり元婚約者の三人は全員碌でもない男だったし、ガーランドの言うように、シャロンは駄目な男に惹かれてしまう星の元に生まれてしまった女なのだ。

うう、なんと恐ろしい。

やっぱり結婚とか婚約は暫く考えないことにしよう。

頭から抹消して記憶からも削除しよう。



ブルブルと頭を振って気持ちを切り替えた時、ガーランドが両手に真っ白な雪を掬って帰ってきた。


「ほら」

「これが雪ですか!真っ白で綺麗ですねえ。でもこうして光を当てて見ると白銀なんですね。ガーランドさんの髪の色と一緒ですね」


雪とガーランドの髪の色を見比べると、ガーランドは少し困ったような顔をしてそっぽを向いた。

ガーランドはゲイルとは違って理不尽なところで腹を立てたりしない常識人の雰囲気があるので、シャロンはそっぽを向かれても特に心配することなく、続けてガーランドに話しかけた。


「たしか雪で雪だるまってものを作れるんですよね。私、山岳国の文化は色々調べたんですよ。だから一度それを作って見たいと思ってて」

「山岳国の文化に興味があるなんて変わってるな」

「そんなことはないですよ。山岳国って湖の国とは全然違う人種の人が住んでるし、自然が美しいし、宗教や文化が独特だし、興味を持ってる人は湖の国にも沢山います。……雪だるま、こんな感じですかね」

「顔をにぎりめし型にする気か。まあ悪くはないが、作るなら丸にしろ。半分貸せ。胴体は作ってやる」


ぎゅっぎゅと雪を固めて作った即席の雪だるまは、いびつな三角の顔と綺麗な丸の胴体を持って爆誕した。


「案外かわいいですねえ、雪だるま」

「いや、顔が三角なのはやはり違和感があるな」

「そうですか?ふふふ、愛嬌があって可愛いと思いますけど」


殆ど見ず知らずの人と、温かい部屋でゆきだるまを作るのはどんな不思議な状況なのだと思いつつ、でも案外、窮屈でも不快でもなかった。


それから雪だるまを作り終えてシャロンが横になっても、ガーランドはベッドからほど近いところで本を読んだり、シャロンが何かを言えばすぐに聞こえるような位置で作業をしているようだった。


「ガーランドさん」

「なんだ。傷が痛むか」

「あ、違います。なんだか、看病してもらうってこんな風なのかあ、と感動しただけで」

「は?何を訳の分からんことを」


シャロンが思ったままを伝えると、ガーランドは意味が分からないという顔を作ってさっさと作業に戻ろうと背を向けてしまった。

折角の会話がもう終わってしまうのかと慌てたシャロンは、急いで話の補足をした。


「というのも、私の家って結構特殊で、小さい時から怪我とかしても、一人で寝て一人で唾つけて治せってスタンスで。怪我が痛くて死にそうでも、熱が出て心細い時も、誰にも言えなかったりして。だからこうやって怪我した時に、誰かが面倒を見てくれるのは殆ど初めてで。だからこれは初体験ってやつです」

「……お前、苦労しすぎだろ」

「あの、苦労したって思って欲しかった訳じゃなくてですね、ただガーランドさんに感謝を伝えたかっただけというか」

「感謝?大したことはしていない」

「いえいえ、私にとっては、とても大したことでしたよ。見ず知らずの死体同然の私の怪我の手当てをしてくれたばかりか、温かい部屋で食べ物を分けてくれて、自分のベッドまで貸してくれて」


ラスヘルム家は家業柄生傷が絶えないのでいちいち看病なんてしていられない、というか看病なんてしなくても勝手に回復するから放っておけ、というのが日常なのだが、ガーランドはそんなシャロンの生い立ちに同情してしまったのか、ハアと溜息をついた。


「もういっそのことお前は死んだということにして、国に帰らず別のところで旅でもしたらどうだ」

「でも私がいないと、いざという時王女殿下を守れる人がいないですし。それに私、なんだかんだあの国が好きですし」


こうして誰かに看病してもらう事に感動してしまったシャロンだが、両親は基本的にとても優しいし、兄弟が互いに命を狙い合っているなんて事も無く、一部の特殊な事情を除けばシャロンは湖の国で十分に良い暮らしをしている。

仕事を放棄して国を出るという選択肢は、考えたことさえ無かった。


「だから私、あと一週間ほどで完治すると思うので、そうしたら湖の国に帰りますね」

「……分かった」


小さく頷いたガーランドは、シャロンにくるりと背を向けた。

そしておもむろにキッチンへ行って、温かいシチューを大皿にたっぷり入れて戻ってきてくれた。

シャロンは美味しそうな湯気の立つそれを有難くいただきながら、きちんとされた手当のおかげで治りが格段に速い怪我の様子を見ながら、ここでお世話になるのは一週間もかからず、実際はあと数日かもなと考えていた。




シャロンはそれから脅威のスピードでどんどん回復し、すぐにガーランドのアトリエ内を歩き回れるようになった。

その際には創作作業をするガーランドを眺めたり、ガーランドが何処かへ行って留守にしている時は掃除をしてみたり、少し外に出て雪だるまを作ってみたり、ソファに転がって山岳国の本を読んだりしていた。

そして傷が完全に塞がった日、些細でも感謝の気持ちを表せたらいいなと思い、シャロンはキッチンを借りてラスヘルム家に代々伝わる秘伝料理を作って振舞うことにした。


「食材は用意したが、何を作るつもりなんだ」

「ふふふ、出来てからのお楽しみです」

「ふうん。毒は入れるなよ」

「そんなもの入れるわけないじゃないですか!」


頬を膨らませたシャロンが怒ると、何が可笑しかったのかガーランドはハハハと笑った。


全く。いくらラスヘルム家の秘伝料理だからと言って、日常的に料理に毒がはいっているわけでは無いというのに。


シャロンはブツブツ言いながら、数時間かけて料理を完成させた。

元々器用なシャロンは料理も人並みにできる。

元婚約者のゲイルは『手料理は気持ちが悪いので食べたくない』派だったので最近のシャロンに作る機会はなかったが、久しぶりとはいえ今回は腕によりをかけたので、きっとおいしい筈だ。


「ささ、召し上がれ!」

「美味そうだな」


大きなテーブルの上には、グラタンに似た4層構造のパイや、再生力を高めると伝わる秘伝のスープ、祝いの席で食べる大切り肉の簡易バージョンや、砂糖を焦がしてコーティングしたラスヘルム家特製の巨大ケーキなんかがデデーンと載っている。


ガーランドは小さくいただきますと呟くと、これも美味いあれも美味いとパクパクと食べ始めた。


細身の体でクールな顔をしているのに、ひょいひょい食べていくガーランドを見ているのは気持ちがいい。

喜んでもらえたようで良かった。頑張って作って良かった、とシャロンは微笑んだ。



「……あ」

しかしふと何かに気が付いたシャロンは、ぱっと自分の手元を見た。

手の中には、シャロンが秘伝料理の中で一番好きな、特製の血固めパテが収まっている。

これは今回、材料が少なくてほんの少量しか作れなかった。

なのにそれを、知らず知らずのうちにひとり占めしていたことに気が付いたのだ。


もう半分以上シャロンに食べられて、残りはわずかだ。

でも、この美味しいパテは是非ガーランドにも味わってもらいたい。

果たして食べかけを渡してもいいのか迷ったが、シャロンはとりあえずガーランドに聞いてみることにした。


「ガーランドさん、これ食べかけで申し訳ないのですけど、食べます?実はこれ、私が秘伝料理の中で一番好きなものでして」

「は?」


しかし、ガーランドの反応は予想外のものだった。

からんと銀の食器を落とし、目を真ん丸にしてパテを差し出したシャロンを見つめている。


驚きすぎな気もするが、もしかして食べかけを渡すなんて下品だと思われただろうか。

ガーランドならそういうことは気にしないかもと思ったが、やっぱり流石に失礼だっただろうか。


「ちょっと……待て」


ガーランドは暫く唖然としていたが、絞り出すような声を出した。


「いきなり何を言い出すかと思えば、お前、本気か」

「はい?」

「お前、山岳国の文化は勉強したと言っていたよな」

「そうですけど?」

「それ……本気で俺が食べてもいいのか」

「もちろん、どうぞどうぞ」


今のガーランドはまるで、人生の岐路にでもいるような真剣な顔をしている。

シャロンが好物だと言ったから本当に食べてもいいか確認してくれているのだろうけど、それにしたって大袈裟すぎる。

どうぞどうぞとパテを差し出してグイグイとガーランドの手に握らせると、ガーランドはごくりとつばを飲んだようだった。


「本当に、食べていいんだな」

「そう言ってるじゃないですか。遠慮しないでどうぞどうぞ」


身振り手振りで早く食べてと伝えるが、ガーランドは微動だにせず、じっとシャロンを見つめてきた。


「……俺は、女なんて興味はなかったし、女の扱いも上手くない。気の利いたことも言えない。それでもいいのか」

「はい?なんでいきなりそんな話なのか分からないですけど、貴方はかっこいいから絶対モテるでしょうし、とても優しいと思いますよ」

「世辞はいらん」

「お世辞じゃないですけど」

「……分かった。それからここは山頂の国だけあって年中冬で寒いぞ。それもお前は大丈夫か」

「寒さですか?それも何でいきなりその話か分かりませんけど、私、暑いのも寒いのも訓練してますから大丈夫ですよ」

「そうか。じゃあ俺は狼の血が混じってるから、満月の夜には狼になる。それも大丈夫か?」

「え?そうだったんですか?もふもふですか?」

「まあ、もふもふだ」

「そうなんですか!私も、もふもふは好きですよ」

「そうか……ならいい。じゃあ、お前がそれでもいいと言うなら俺も肚をくくってやる」

「肚を?」


パテを食べるのにいきなり肚をくくるだなんて、随分と大袈裟な。

なんだかよく分からないままだったが、シャロンはコクリと頷いた。


「大切にしてやる」



……パテを?


良く分からないまま、パテはガーランドに飲み込まれて一瞬で消えていった。




なんだか不思議なことはあったものの、無事に楽しく食事を終え、後片付けをしたシャロンはお礼を言って湖の国に帰る為に出て行こうとした。

しかし後ろから声をかけられた。


「どこへ行く?」

「どこって、湖の国ですよ。帰るって言ってあったじゃないですか」

「いや、流石にその予定は変更しろ。このタイミングで帰らなくてもいいだろ」


ガーランドに腕を掴まれて、シャロンは何故かソファまで連れ戻されてしまった。

どうしたのだろう。

ガーランドは今まで「怪我人は動くな」「食いたければ食え」「帰りたければ帰れ」みたいなスタンスだったはずだが、なんだか雰囲気が少し違う。


「ここにいろ」


ガーランドの隣にポンと座らされて、分厚い本を渡された。

ガーランドはもしかして、シャロンの傷がまだ治り切っていないと思っているのだろうか。

ちゃんと完治をしたとは伝えたが、傷跡を見せなかったシャロンがまだ強がっていると思っているのかもしれない。


どうしようかなと思いつつ、そういえばまだ消化していない有給があったと思い出し、エルリーゼなら事後申請でも受理してくれるかな~と楽観的に考えたシャロンは、あと数日くらいならここにいてもいいかと思ったのだった。




「ついている」

「ひゃ!」


次の日も、やはりなんだかガーランドの様子はいつもと違っていた。

ソファに座るシャロンが口元に付けていた焼き菓子の欠片を指で拭って、それを舐めていた。

なんだかガーランドがおかしい。

普段通りのクールな表情だが、目が合うと少しだけ笑ってくれるのもやっぱりおかしい。


「そんなに夢中になるほど美味かったか。俺の分も食べたければ食べろ」

「あ、いいんですか……?」

「ああ。俺にはお前のを半分分けてくれればいい」


シャロンが美味しい山岳国の焼き菓子を半分に割ると、ガーランドはシャロンの手を引き寄せてそのままぱくりと食べてしまった。

ガーランドが近くて、ドキッとする。

でもなんだか、おかしい。


「どうした。何か考え事をしているのか」

「え?えっと」

「お前はやはり直ぐに一人で溜め込もうとするな。話してみろ」


そしてこんなことを言ってフワフワと頬を撫でてくるのも、なんだかおかしい。

シャロンはなんだか妙に頬が熱くなってしまって、それを隠すように俯いた。


「心配事か」

「えっと、心配事というか、なんというか」

「分かった。言いたくなったら言え。力になってやる」


現在進行形の考え事と言えば『ガーランドがおかしい』ということだが、本人に言葉で上手く説明できる気はしない。

シャロンが神妙な顔して自分のつま先を見つめていると、ガーランドに頭をぽんぽんと撫でられた。


……やっぱり優しい。というか、異常に優しい。

違和感があるにもかかわらず胸がドキドキと痛むので、シャロンはぎゅっと目を瞑った。


そして気を紛らわせるように、傍にあった山岳国に生息する珍しい動植物についての本を引き寄せた。

内容は結構難しい。


シャロンはウトウト眠くなるまで、その本のページをパラパラとめくっていた。





「眠いのか」


氷域に生息する植物のページあたりでゆらゆらと舟をこいでいたシャロンの視界に、いきなりガーランドが映った。


「ひゃあ」

「そう驚くな」

「と言われましても、驚きましたよ。まあ、驚いても眠気はとんでいかなかったんですけど」


温かい部屋のフワフワのソファで難しい本を読んでいいると、どうしてもうつらうつららしてしまう。シャロンがふわわと欠伸をかみ殺すと、ガーランドも、開いていたこれまた難解そうな本をパタンと閉じた。


「俺にもたれていいぞ」

「え?」

「眠いんだろう」

「そうですけど、大丈夫です。私はベッドに移動しますよ」

「いや、ここにいろ」

「……ええ?」


確かに人にもたれることが出来たりすれば最高の昼寝にはなるとは思うけれど、何故か話は飛躍していて、気づけばシャロンはガーランドの膝の上に乗っていた。

しかもガーランドの片腕がにゅっと伸びてきて、お腹のところをぎゅっと捕まえられた。


うつらうつらしていたが、眠気が爆発四散したように吹き飛んだ。

他国の精鋭暗殺部隊に追い詰められた時の数十倍の速さで、心臓が鳴っている。


ど、どういうこと?どういうこと?

これはどういう状況なの?

逃げ出すことも出来ず考えをまとめることが出来ず、シャロンはひたすらダラダラと汗をかいていた。



「もたれていいぞ」


ギュッと抱きしめられた背中側から、低くて掠れた声がした。


「えっ?!でも」

「それとも狭いと寝られないか?」

「せ、狭さですか?別に全然、何とも狭くないですよ!私は何処でも寝られます」

「そうか、なら良かった」

「が、ガーランドさんこそ、私の髪もさもさですけど、邪魔じゃないですかっ?」

「邪魔じゃない」


ふわふわと髪を手で遊ばれて、丁寧に手櫛で梳かれているような感覚があった。


「羊のようだな」

「そ、そうですか?」

「いいにおいがする」

「か、髪はガーランドさんの高価そうな石鹸を拝借していますからでっ」

「それじゃない」

「え、あの」

「春の日のようなにおいだ」


シャロンは首元にガーランドの綺麗な顔の気配を感じて、まるで凍死したように動けなくなった。

驚きのあまり目を見開いていると、うしろからガーランドの顔が近づいてきた。


雪のように滑らかな肌だ。

銀の髪がサラサラだ。

まつ毛が長くて、切れ長の目がかっこいい。


でもシャロンが唖然として見惚れていたら、ガーランドの形のいい唇が動いた。


「いいか?」

「えっ」


……ど、どうしよう。

ちょっと意味が分からない。でも、何となく意味が分かる。

でも、それはおかしいのではないだろうか。だっていきなり。なんでいきなり。



「だ、だめです!!!」


寸でのところで、シャロンは近付いてきたガーランドの顔面を両手で押さえ、バッと立ち上がった。


ハアハアと肩で息をしたシャロンの頭の中では、走馬灯のように今までの婚約者とのシーンが蘇っていた。


暴力を振り、その後は決まって人が変わったように甘い声で囁いてきた最初の婚約者。

他に好きな人がいるのかと尋ねるたびに、手を繋いだり指を絡めたりして話をはぐらかしてきた二番目の婚約者。

そしてキスしてあげるからあれを買え、愛してあげるからそれを買えと口だけで言い続けた三番目の婚約者、ゲイル。


だから多分、ガーランドもキスしてやるから見返りに何かをくれと言ってくるに違いない。

もしくは、キスしてやったんだから対価をくれと後から請求してくるかもしれない。

そんなふうにガーランドに甘い餌を目の前に吊るされて強請られたら、きっとシャロンは拒めない。

たとえ4,000万ロメのべらぼうな価格の腕輪でも、欲しいと言われれば借金してでも願いを叶えてあげてしまう自信がある。


ガーランドが少しおかしくなったのは、突然の出来事だった。

理由もなく突然シャロンに優しくして、まるで恋人のような、まるでガーランドもシャロンの事が好きなのだと勘違いしてしまうような素振りをしだすなんて、絶対に怪しい。

きっかけもないのに優しくしてくる男なんて、ほぼ100%の確率でクロだ。


それになによりシャロンは、ダメ男ばかり好きになる女なのだ。

ダメ男ホイホイと言っても過言では無い。

だからシャロンが今までの婚約者の誰よりも素敵だと思ったガーランドが、ダメ男でない筈がない。


危うく、騙されるところだった。



「私、もうダメ男には騙されちゃいけないって決めたんです!すみません今までお世話になりましたありがとうございました!」


シャロンはガーランドの外套を引っ掴み、ガーランドの一番高級な毛皮のブーツを両足に履き、更には分厚く編まれたマフラーと皮の手袋までちゃっかり奪って勢いよくアトリエを飛び出した。


「お、おい!」


うしろでガーランドが焦った声が聞こえたが、シャロンは振り返らず、全てを振り切るように脱兎のごとく駆けだした。





……



「シャロン、私はとても心配したのよ。貴女一体どこにいたの?」

「……またダメ男に惚れるところでした……」

「なに?聞こえないわ」

「何でもないです……」


帰ってきた湖の国の王宮、王女エルリーゼの書斎で、出勤したシャロンは説教をされていた。

捜索隊を出しただとか寂しかっただとか外交が出来なかっただとか、こうしてかれこれ三時間くらい怒られ続けている。


「ちょっと遊んでるくらいは大目に見てあげるから、次からは連絡くらいは寄越しなさい。いい?!」

「はい、ごめんなさい……」


エルリーゼは乱暴にシャロンの入れたお茶を飲み、カンと力強くソーサーに戻してふうーと長い溜息をついた。


「お説教はこれでお終いにしてあげるわ。それで、帰ってきた貴女がゲイルと婚約を破棄した時より更にやつれているのは何故なのかしら?」

「……」

「教えなさいな」

「もう封印されし記憶ですので……」


「中二病発症してないで教えなさい!」と立ち上がったエルリーゼがシャロンに詰め寄る前に、コンコンと扉が叩かれた。


「なあに?今とりこみ中よ」

「御来客です」


扉の向こうの衛兵が、エルリーゼに返事をした。


「この時間に来客の予定はなかった筈だけど」

「いえ、シャロン・ラスヘルム殿にお客様です」

「私、ですか?」

「はい、山岳国のガーランド・ウィンターハイル第二王子殿下がいらっしゃってます」


「「はい?!」」


シャロンとエルリーゼは同時に顔を見合わせた。

シャロンはガーランドが来ているということもさることながら、ガーランドが王子と呼ばれたことにも驚いたし、エルリーゼは何度会いに行っても会えなかった婿候補のガーランドがシャロンに会いに来ていることに驚いたようだった。


「ど、どういうことなのシャロン」

「わ、私にもさっぱり……」

「さっぱりって!何も心当たりがないのに突然王子が来るはずがないでしょう!何かあったの?!」

「何かというか、なんというか……」


エルリーゼにガクガクと揺すぶられながら、シャロンは何とか衛兵に言って、ガーランドに帰ってもらうように指示を出した。



「さあ説明して頂戴、シャロン。王子と何かあったの?そして何故彼を帰らせたの?」


ガチャリと部屋に鍵をかけて、シャロンを絶対に逃がさない構えを見せたエルリーゼはくるりと振り向いた。


「教えなさい」


王女の威厳半分、そして野次馬根性半分がエルリーゼの瞳の中に見え隠れしている。

こうなってしまえば、エルリーゼは寝床の中にまで潜り込んで来て話を聞き出そうとすることだって厭わない。

シャロンは諦めて、ぽつりぽつりと一部始終を話しだした。



「それで、貴女は王子がダメ男だと思ったのね」

「……はい」


最後まで包み隠さず話し切って、王女が発したのは一言だった。


「この件は、貴女に全面的に非があるわ」

「……それは、私が天性のダメ男ホイホイだからですか?」

「違うわ。ねえシャロン、貴女は前に山岳国の文化を調べてたでしょう?でもその割に重要なところは知らなかったの?」

「何の話ですか?」

「山岳国のプロポーズの仕方よ。手作りしたものを半分自分で食べて、もう半分を意中の相手に渡すのがあの国の伝統的なプロポーズよ」

「えっ」

「そして相手が食べかけを食べてくれたのなら、プロポーズを承諾してくれたという事なのよ」


シャロンの顔は見る見るうちに真っ赤に染まっていった。

そういえば、そういえなくても、鮮明に覚えている。

作ったパテを半分シャロンが食べて、それを美味しいからとガーランドにグイグイ押し付けたことを。

でもガーランドは色々よく分からないことを言った後、そのパテを食べてくれた。


「と、と、ということは私、知らないうちにガーランドさんとけ、結婚してたんですか?!」

「少なくとも、ガーランド王子殿下は貴女と思い合っているのだと解釈していると思うわよ。貴女は色々拒んで突然逃げて来たみたいだから、多分今、王子殿下は相当混乱していらっしゃるでしょうねえ」

「ど、どうしよう……」


今度は、シャロンの背中に冷汗が伝った。

自分でグイグイプロポーズをしたくせに突然逃げ出して、しかも折角訪ねてきたところを追い返すなんて、今までのシャロンの元婚約者たちに引けを取らないほどの酷い事をガーランドにしてしまった。


思い返せば、ガーランドと出会ったのは宝石店でシャロンの代わりにゲイルを殴ってくれた時だった。

それから偶然にも死にかけだったシャロンの看病をしてくれて、果物を剥いたり雪だるまを作ってくれたり本を貸してくれたりしてくれた。

挙句、自覚無しにしてしまったシャロンのプロポーズに対してもきちんと返事をしてくれて、「大切にする」とまで言ってくれた。

でもその間、ガーランドがシャロンに何かを強請った事なんて何一つなかった。

対価なんて求めずに、ただ優しくしてくれた。

それにキスされそうになった時だって、今までの婚約者たちのニヤニヤ笑いとは違って、ガーランドはとても真剣なまなざしを向けてくれていた。


そしてなにより、ガーランドが突然態度を変えたのには、ちゃんと理由があった。

シャロンがプロポーズしてしまったから、彼はそれに応えようとしてくれていただけなのだ。


ダメ男ばかりに惚れてきたシャロンが好きになった人だけど、ガーランドだけはダメ男なんかではなかった。



「追いかけなさい、シャロン。王子殿下が帰されてまだそんなに時間は経っていないわ。貴女なら追いつける筈よ」


エルリーゼが部屋の鍵を解き、扉を大きく開け放った。

シャロンは返事もせず、ただマントだけを引っ掴んで全速力で外へ出た。

王宮の馬小屋まで走り、時々世話になっている足の丈夫な黒い馬に飛び乗って、世話係達が慌てふためいているのも無視して駆け出した。






「ガーランドさーーん!!!!」


ガーランドは従者2人だけを従えて山岳国ならではの足の速い馬に乗っていたので、追い付くのに予想の倍の時間がかかってしまった。

でも、国境を出る前に姿を見つけることができた。


ガーランドの名前を呼ぶと、バッと振り返った彼は、迷わずに駆けてきてくれた。


馬から転がるように降り、シャロンは自分の足でガーランドの元に走った。

シャロンを見て同じように馬から降りたガーランドも駆けてきてはくれたが、その表情には悲しいような複雑な感情を滲ませていた。


「最初は雪山の中を迷っているのではないかと思って、探した」

「……す、すみませんでした」

「無事なら、よかった」


ガーランドは中々目を合わせてくれようとしないので、シャロンはガーランドが怒っているのだろうと不安になった。

無理もない。

あんな酷い事をしてしまったのだから、殴られることも覚悟しておこう。


しかしガーランドはシャロンの予想外の事を聞いてきた。


「怒っているか」

「え?」

「先日は俺のところから逃げ出したし、さっき訪ねた時も追い返しただろう」

「あ、それは……」

「すまなかった。いきなりあんなことをして、嫌な思いをさせた」

「え、え?」

「愚かにも舞い上がっていたのか、止められなかった。次からはもっと自重する」


ガーランドは心底申し訳なさそうだったが、そんなもの謝るには値しない。

真に謝らなければいけないのは、シャロンの方だ。


「私も、謝らなければいけない事があります」

「なんだ」

「私、山岳国のプロポーズの仕方知らなかったんです」

「……は?だがお前は山岳国の文化に興味があって、調べたこともあると」

「プロポーズの事は知らなかったんです」


ガーランドはゆっくりと反芻するように自分の立たされた状況を理解して、息を吐いた。


「なるほど、そうか……。湖の国にはそのような文化は無いことは知っていたが、結婚自体がそもそもの間違いか。得心がいった」


今ので全部理解したという顔をして、ガーランドは静かに目を伏せた。

怒ることも殴ることも、ましてや慰謝料を請求してくるなんてことも無かった。


ガーランドはただ音を立てず、マントを翻してシャロンに背を向けた。


「あ!待ってください、なんで帰っちゃうんですか!」

「お前こそ何故引き留める」


ガーランドの長いマントをむんずと掴むと、苦しさが滲んだような冷たい瞳で見据えられた。

しかしシャロンは怯まずに頭を下げた。


「だからその、ガーランドさんの事を、いきなりキスして来ようとする事後請求型のダメ男だと思って逃げちゃったのは、そういう理由があったからなんです。でも、プロポーズを無かった事にするとだけは言わないでください!!」

「……どういう意味だ」

「プロポーズを受けてくれた事、撤回して欲しくないんです。わ、私、ガーランドさんの事とても好きなんですっ!!」


もうどうにでもなれとシャロンが叫ぶと、ガーランドの顔がボンッと真っ赤になった。


「こ、こんなところでそんな大声を出すな!」

「でも言わないと伝わらないかもしれないですし!私、プロポーズは何も知らないまましてしまいましたが、貴方と結婚できるのならしたいです!!」

「だから、声が大きい!」

「私の事、嫌いにならないで!」

「簡単に嫌いになれるような奴にあんなことはしない!」

「はう!!私、ガーランドさんの事誰よりも幸せにします!精一杯、私と結婚してよかったって思ってもらえるように頑張りますから!」

「わ、分かったから。帰ったら続きを聞いてやるから、ここでは静かにしろ」


ガーランドはシャロンの姿をマントで覆うように隠しつつ、ぎゅっと抱きしめた。

それはシャロンを黙らせる効果と、自らの赤くなった顔をシャロンにこれ以上見られないようにするという二重の効果があったのだった。









こうして、シャロンはどんな事があってもガーランドを誰よりも幸せにしようと頑張り、でも逆に誰よりも幸せにしてもらっているなあと感じる日々を過ごしていくことになったのでした。













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