1 前編
絶対音感持ちの家族の話が元になっておりますが、作者に音楽の特別な知識はございません。
ゆるっとお楽しみいただけましたら幸いです。
ガンと鳴り響くピアノの不協和音に、まだ若い新人のミュージカル女優は、ビクッと肩を震わせる。
「……お前はさっきから、何を唱えているんだ。黒魔術の呪文か? それとも死人に捧げる祈りか?」
「いえ……あっ、あの」
「陰気な顔で口も喉も開かず、ぼそぼそぼそぼそ…………発声練習を舐めてるのか? 何万人から選ばれた自分には、こんなくだらない基礎は必要ない。とっとと歌わせろって?」
「……いえ」
「美人だの、歌がちょっと上手いだの、チヤホヤされてこの世界に入ったかもしれないが……お前の顔も歌も舞台に立てば十人並み。いや、それ以下だ。自信満々のその小手先のテクニックを捨てない限り、女優としては生き残れない」
「…………」
「どうやらお前は、プロとしてレッスンを受けに来る領域に達していなかったようだ。心を入れ替えて、オーディションからやり直せ」
楽譜と荷物を掴み、部屋を飛び出す女優。それと入れ替わるようにして、一人の男性が部屋に入って来た。
ピアノの蓋を閉め、無表情で楽譜を整える同僚へ近付き、苦笑しながら言う。
「クロード……泣かしちゃ駄目じゃないか。今月、これで何度目だ?」
「根性がないヤツばかりだ。あんなんじゃこの道で食べていけない」
「気持ちも分かるけどさ。女性に対する言い方ってものがあるだろ? 性格だって千差万別なんだし」
「プロとしての矜持に、性別も性格も関係ない。要は甘えだ。甘いヤツをふるいにかけ、早い段階で排除してやっているんだ。彼女の劇団に感謝されたっていい」
男性はやれやれと首を振り、部屋を出て行こうとするクロードへ向かい、辛辣な言葉を投げた。
「また女性に嫌われるぞ? もうすぐ三十路なのに」
長い足が、ドアの手前でピタリと止まる。
「あーあ、折角の美形が勿体ない。僕の顔と交換してくれたら、幾らだって優しく微笑むのに。さっきの娘も可愛かったな……」
まだブツブツと聞こえるが、後ろ手でそっとドアを閉め、クロードは部屋を後にした。
一時間も早くレッスンが終わってしまった為、まだ外は明るかった。
デートの約束をする恋人も、家で待つ妻子がいるでもない。同僚に投げられた言葉のせいで、ぽっかり空いたこの時間に、もやもやとスッキリしない感情が立ち込めてしまった。
いつもなら馬車でとっとと帰宅するが、今日は歩いて帰りたい気分だ。
夕暮れの一歩手前の日差しは柔らかく、風は心地好い。すうと深呼吸し、全身で受け止めながら、石畳に足を繰り出した。
クロード・キャンベル。
裕福な伯爵家の三男で、生まれながらに絶対音感を持つなど、音楽の才に恵まれていた。音楽家の祖父の下、様々な楽器や声楽を学び、現在は一流の音楽講師として名を馳せていた。
……と同時に、彼のレッスンは厳しく、冷たく、容赦ない。究極のドS講師としても、この界隈では有名だった。
だが、見事それを乗り越えた者の多くが、一流の歌手や舞台俳優として成功しているのだから、ふるいにかけるという彼の言葉には一理あるのかもしれない。
また、彼の無駄に整いすぎた容姿が、血の通わぬ人間離れした印象を、周囲に与えていた。
サファイア色の切れ長の瞳は、冷たい海を。銀色に輝く繊細な髪や睫毛は、澄んだ氷を思わせる。女性も羨むきめ細やかな肌に、精巧な彫像のように均整の取れた顔の造形。おまけに彼は非常に長身であった為、高い位置からこの顔で見下ろされれば、更に威圧感が増すらしかった。
夕飯のパンを買い、ゆったりとアパートへ帰宅した時には、もう陽は沈みかけていた。
ポストを覗き、取り出した手紙の差出人が母であることを確認すると、途端に眉根を寄せた。
月に一度届くこの手紙の内容は、いつもほとんど同じ。
独り身の身体や生活面を案じる文面から始まり……次第に、結婚の催促へと移っていく。
兄二人は結婚していて、孫も居るんだから充分だろうと思うが……そういう問題ではないらしい。
性格が災いして、いつか孤独死するのでは? と、可愛い末っ子の行く末を案じる親心だと理解している故に、あまり無下にも出来なかった。
彼とて、別に色恋に興味がない訳ではない。それなりに好意を抱いて、付き合った女性も今までに何人か居た。ただ、女性が喜ぶ気の利いた会話というものが苦手な上に、仕事程ではなくても率直な物言いをする。その為、長くは続かないのだ。
他人に気を遣って疲弊するくらいなら、一生独りの方が気楽かもしれない。最近では、そう開き直っている自分も居た。
部屋に入り、玄関脇の棚に無造作に手紙を置こうとするも、いつもとは違う封筒の厚みに気付く。
気になり封を開けてみると、そこには便箋の他に、何処かの地図や、日程やらが記された紙が同封されていた。
……これは何だ?
便箋を開き、これらの同封物に関係があると思われる文を見つけ、素早く目を通す。
『……友人が暮らす片田舎に、引退された宰相殿が余生を過ごす為越して来る。その歓迎会で、令嬢達がコーラスを贈ることになった為、指導する音楽講師を探している。ボランティアだが、貴方の性格を知らない若い未婚の令嬢達と知り合えるチャンス。一週間の期間限定。行ってみないか?』
要約すると、こういうことだった。
無償なのが気に入らなければ、小遣いをやってもいいとまで書かれている。他にも、田舎の令嬢は素直で愛らしいだの、これが20代最後のチャンスかもしれないだの……とにかく必死だ。
同封物に記載されている日程が、カレンダーの空白とピッタリ重なることに気付き、彼は驚く。
丁度この一週間は、勤め先の音楽教室の建物が改修工事に入る為、仕事は休みの予定だったのだ。
まるで示し合わせたような……見えない何かに、行って来いと背中を押されているようで。
……喉がカラカラしてきた。
とりあえず水を飲み干し、空のグラスを置けば、爪がぶつかり、キンと良い音を奏でる。
♭シ……
クロードは机に向かうと、すぐにペンを執った。
◇
田舎とは聞いていたが……本当に、見渡す限り緑だな。
ほぼ山や森で、その中に民家がぽつぽつ建っているという表現が相応しいかもしれない。
舗装されていない道も多く、ぜいぜい息を切らしながら、母の友人と共に令嬢達が待つ神殿へと向かう。
こじんまりとした神殿からは、女性の歌声が流れて来る。楽譜を手に並んでいた若い令嬢達は、現れたクロードに顔を赤らめそわそわするも、すぐに落ち着き、丁寧に挨拶を交わした。
……確かに、都会の女性とは少し違うのかもしれない。態度だけでなく髪型や服装も、むやみに飾ろうとしない、自然体な印象を受けていた。
オルガンを弾きながら、早速コーラスのレッスンを開始する。
今回はどんなに歌が酷くても、優しい音楽講師を演じようと心に決めてきた。……が、素人のくせに案外歌はまともだった為、それほどストレスを感じることがなくホッとした。令嬢の一人から、この辺りでは幼少期からソルフェージュのレッスンを受けている家庭が多いと聞き、納得する。
問題点を幾つか楽譜に記し、具体的に指導をしようとした時……
扉が開き、一人の女性が入って来た。
「遅くなり申し訳ありません」
鈴が鳴るような愛らしい声に、鼓膜がざわめく。
走ってきたのか、はあはあと華奢な肩を上下させながら、胸を押さえる姿に目が釘付けになった。
「アイリーン嬢、大丈夫ですか?」
「はい、道に迷ってしまいまして……申し訳ありませんでした」
「いいえ。慣れない土地なのですから仕方ありませんわ。ご一緒すれば良かったですね。こちらこそ気が利かず申し訳ありません。さ、お水をどうぞ」
“一目惚れ”
とは、こういう感情を表すのだろうか……
水を受け取り、白い喉をコクコク鳴らす彼女を見て思う。
大きなアメジスト色の瞳が印象的な、愛らしい整った顔。ぷくりと浮かぶ汗さえも、真珠のように輝いている。形の良い丸いおでこを縁取る金髪は、頭の真ん中から綺麗に左右に流れ、腰の辺りでくるんと内向きにカールしていた。
可憐で……清楚で……例えるなら……妖精?
高鳴る鼓動が奏でる重低音の向こうで、彼女の挨拶が微かに響いた。
「アイリーン・ステラと申します。先日祖母の屋敷に越してきたばかりですが、急遽今回のコーラスに参加させていただくことになりました。皆様と歌うことは初めてで、ご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが、どうぞよろしくお願い致します」
アイリーン……アイリちゃん……
名前まで愛らしいではないか。
鍵盤に手を置いたまま、ぼんやりと彼女を見つめるクロードに、一人の令嬢が静かに問い掛けた。
「あの……どこから歌いましょうか?」
サッと講師の仮面を被りアイリーンに尋ねれば、楽譜は既に手元にある為、一人で練習をしてきたとのこと。あの鈴のような声は、歌うとどんなメロディを奏でるのか……期待を込めて、ソプラノパートの最前列に立たせてみた。
♪♪♪~
たかが伴奏なのに、コンクール並みに力を入れてしまう。
さあ、聴かせてくれ! 妖精の歌声を!
『♪ ぼかぁにそよ~ぐびどりのかぜよ』
僅か数小節でピタリと手が止まる。
令嬢達もあんぐりと口を開けたまま止まっている。
皆チラリと一点に視線を送るも、すぐに目を逸らした。
……何かの聴き間違いか?
ふっ……どうやら、俺の耳も老いてきたようだ。
クロードは咳払いをし、冷静に言った。
「すまない……手が汗で滑ってしまった。もう一度最初から歌おう」
♪♪♪~
『♪ ぼかぁにそよ~ぐびどりの……』
何とか一番を通し、震える手を鍵盤から下ろした。
端から見ても分かる程にクロードの肌は総毛立ち、全身全霊で拒絶反応を示していた。
これは……酷すぎる。
汚い、醜い、いびつ……そのくせ声量だけは人一倍ある。研究を重ねれば、歌を兵器に出来る日もそう遠くないのでは?
そう、その兵器の持ち主は、あの愛らしいアイリーン嬢だ。
吐き気を堪え、クロードは何とか声を絞り出す。
「……やはりアイリーン嬢は、まだ合わせることに慣れてなさそうだ。今日は見学をしていなさい」
にこにこしながら、「はい」と鈴のような声で返したアイリーンは、楽譜を抱いて大人しく隅の椅子に腰掛けた。
何とか初日のレッスンを無事に(?)終えると、クロードは、帰ろうとするアイリーンの背に呼び掛けた。
「アイリーン嬢、もし時間があれば個人レッスンをしても良いが……どうする?」
正直恐ろしかった。とてつもなく恐ろしかった。
一番を通しただけであの有り様だったのに、個人レッスンなんて……!
だが、同時に興味もあった。話す時のあの鈴が、何故歌うと殺戮兵器に変わるのかと。音楽講師になって以来、最大の衝撃と謎だった。
顔を輝かせながら礼を言い、にこにこ楽譜を開く彼女。
そうだ、これは妖精と近付くチャンスではないか。
一週間で兵器を鈴に変えながら、距離を縮めていく…………よし、やってやろう。
無謀だと知りつつも、クロードは決意を固めた。
とにかく、女性には優しく……優しくだ。
口角を上げ、微笑みとやらを作ってみる。
「まずは発声練習からしてみよう。私の後に続けて」
♪~
『♪ あー』
『♪ ぶぁ~』
「……もう一度」
♪~
『♪ あー』
『♪ ぶぁ~』
……何故こうなる?
あまりの酷さに、どこをどう治せばいいのか正直分からない。
とりあえず、声の出し方や姿勢等、基本中の基本から説明し、再び鍵盤を鳴らす。
♪~
『♪ あーあーあーあーあー』
『♪ ぶぁ~ぶぁ~ぶぁ~ぶぁ~ぶぁ~』
……無理だ。
母上、期待に応えられなくてすまないが、これは無理だ。
どんなに愛らしかろうが、妖精だろうが……これだけは……
震える手で、クロードはバンと鍵盤を叩いた。
オルガンの不協和音が、神殿の高い天井に反響する。吸い込まれ、余韻が消えゆくと同時に、低い声を放った。
「お前……その耳は飾りか?」
質問の意図が分からないアイリーンは、耳たぶを触りながら愛らしく小首を傾げる。
「耳が聴こえてんのかって訊いてるんだよ。その殺戮兵器みたいな汚い爆音を聴いて平然としているなんて……鼓膜か脳みそか、どっちかがイカれてるんじゃないのか」
表情も仕草もそのまま、ピタリと制止する彼女に、クロードは続ける。
「今まで周りに何も言われなかったのか? ……ああ、言われなかったからこうしてコーラスに参加しようなんて、血迷った行動に出たんだろうな。お前が歌ったら、元宰相の心臓が止まる。殺人犯になるのが嫌なら止めておけ」
しばしの沈黙の後、アイリーンはやっと首を垂直に戻し、おずおずと口を開いた。
「あの……私、音痴ってことですか?」
「……音痴?」
クロードの美しい額にピキピキと青筋が立つ。
オルガンの椅子を倒しながら、勢いよく立ち上がると、彼女へとゆっくり歩を進める。
「音痴なんて生易しいもんじゃない。殺戮兵器だと言っただろうが」
「兵器……」
「ああ、そうだ。少なくともお前の歌声は、俺を殺せる。見ろ! この手の震えを! 見ろ! この鳥肌を!」
クロードの腕を見たアメジスト色の瞳が、大きく見開かれる。やがて、ホロッと涙が零れた。
あ…………
やってしまった……後悔先に立たず。
この話が広まれば、もう此処では教えられないだろう。彼女と結ばれるという淡い期待も、他の令嬢達との可能性も消えてしまった。
クロードは鳥肌の治まってきた腕をスッと下ろし、ため息を吐く。
『もう帰れ』そう言おうとした時、アイリーンの鈴の音がコロコロと響いた。
「嬉しい……嬉しいです! 正直に言ってくださって! 私、小さい頃からあんまり歌わせてもらえなくて……喉が弱いから控えなさいって。でも、我慢出来なくて外で口ずさむと、よく変な顔で見られたんです。もしかしたら、喉が弱いせいであんまり上手くないのかなって思ってたんですけど……歌うなって、そもそもそういうことだったんですね! ああ、スッキリ!」
思いがけない言葉に、クロードの目は点になる。
アイリーンはそんな彼の手を両手でがしっと掴み、満面の笑みを浮かべて言った。
「ねえ! さっきの! もう一度言ってくださらない? あの……お前の歌声は音痴じゃなくて、殺戮兵器だって!」
「……音痴じゃなくて、殺戮兵器だ」
「もう! 違うわ。さっきみたいに、心を込めてちゃんと言ってください。はい、もう一度」
「……お前の歌声は音痴じゃない、殺戮兵器だ!」
「きゃあ~それそれ♡」
鼻息荒く、真っ赤な顔で身悶えるアイリーン。
可憐で清楚な妖精のイメージが、ガラガラと崩れていく。
もしかしたら、とんでもないヤツと関わってしまったのではないだろうか……
結局勢いに押され、この田舎に滞在する一週間、毎日個人レッスンをする約束をしてしまった。
……生きて帰ることは、もう出来ないかもしれない。