Diary2 笑顔
誰かの気配がする。
誰かが、私の顔を覗き込んでいる気がする。
私は目を見開いた。
すかさず私の目に飛び込んできたのは、何の特徴もない少年の困惑したような顔であった。
「あっ」
少年は私の突然の起床に驚いたのか、顔を真っ赤にして背けた。
突然の出来事に私も困惑する。
一体、何が起きたの?一体、どんな状況なの?
「正田君!どうしたの~?」
そこに1人の少女がパタパタとこちらに駆けてきた。
満面の笑みを浮かべた少女だ。
私には何が起こっているのかさっぱりわからなかったが、彼らにとってみれば、いつもの帰り道である公園に、私が倒れていたのでびっくりして駆けつけたというところだろうか。
駆け寄ってきた少女は濡れタオルを手にしていた。
そして、起き上がった私を見て目を見開いた。
しかし、すぐに笑顔に戻り、
「あ、起きたんだね~!よかったあ!生き倒れかと思ったんだよ~」
「あ……」
私は思わず息を漏らした。
頭がボーっとする。
頭が痛い。
思わず手を頭に伸ばした。
暑い。暑い。ふと意識を失いかける。
「あ、大丈夫?」
少女が私の元に駆け寄った。
「……」
気持ち悪い。吐き気がする。
どうやら、強い日差しを直に受けてしまったらしい。
眠る前には木陰で気持ちよかったが、いつの間にか太陽光が木々の隙間から忍び込んでいた。
最悪だ。失敗した。
「どうしよう、正田君」
「そうだね。とりあえず警察に連絡した方がいいんじゃないかな?」
「ええ~?逮捕しちゃダメだよお~」
「違うよ……。身元が確認できるまで預かってもらうってことだよ」
身元、という言葉を聞いて私は思わず少年に飛び掛った。両親にはバレてはならない!
「ダメ。それだけは」
「!」
少年に飛びついたかと思ったら、私は少年に抱きつくような格好になってしまった。
少年は頬を赤らめていた。
視線の行方が不安定だった。
少女も仰天していた。
私もハッと気づいて、すかさず少年の胸から離れた。
「ご、ごめん……。彼女がいるのに」
「う、うん。彼女じゃないけどね」
少年は遠慮がちに言った。
傍らの少女は、終始どこか羨ましそうな表情をしていた。
何故か私の体も熱くなってきた。
火照ってきた。
熱い。頭がクラクラする。
「ともかく、警察だけは……」
ドカッ!物凄い音とともに私は意識を失った。
体が熱くなりすぎたようだ。
2人が慌て出したようだ。騒がしかった。何を言っているのかはわからなかったけれど。
再び、遠のく意識。
……涼しい。何だろう。この涼しさは。
私は重たい目蓋をこじ開けた。
揺らぐ視界。
まだ、頭がクラクラしている。
ん?ここはどこ?
目の前には蒼白い天井。
見たことのない天井にちょっと困惑する。
私はガバッと体を起こした。
と、額に乗っけてあったらしい、冷たいタオルがバランスを崩して布団の上に転がった。
ここはどこだろう?
綺麗に整理整頓された、おそらく男性の部屋だろう。
私はクラクラする頭を押さえて部屋中を見渡す。
無味簡素な部屋。
壁に立て掛けられた青い時計。押入れ。背後には小さなテレビ。
左手の窓には、男物の洗濯物らしい紫色のシャツやワイシャツが風に揺れている。
私のギターケースもまた、手前のタンスに立てかけるようにして置いてあった。
やっぱり、あの少年の部屋なのだろうか。
六畳一間くらいのその部屋の外から少女の元気な声が聞こえてくる。
あ、もしかして。
どうやら、彼等が倒れてしまった私をここまで運んでくれたようだ。
申し訳ないことをしたな、という気持ちと感謝の気持ちでいっぱいだった。
不意に部屋の扉が強引に開け放たれた。
「あ、起きてる!もう大丈夫?」
先程の少女が満面の笑みを浮かべて、茶色のお盆を手にして現れた。
その後ろを先程の少年が続いて入ってきた。
お盆の上に載っているのは、おかゆだろうか。
香りの良い湯気が私の鼻を突く。
少女の快活な声がまだ頭にギンギンと響くが、だいぶ体力も回復したみたいだ。
「うん」
私の声を聞けて2人は安心したようだ。
顔を見合わせると、にこやかに微笑んだ。
少女はお盆を枕元にそっと置いた。
少年が口を開く。
「それはよかった。あ、おかゆ作ったんだけど食べれるかい?」
少年がスプーンでおかゆを丁寧にかき混ぜながら、尋ねた。
「大丈夫」
「大丈夫?じゃあ、はい」
何と、少年が自らスプーンでおかゆをすくい上げて私の口元に運んできた。
私は突然の展開に困惑する。
頬が熱くなるのを感じる。
鼓動がドクドクと響く。
「本当に大丈夫?顔、赤いよ」
少年が心配そうに尋ねる。
あらんことを指摘され、私は首を大きく横に振った。
は、恥ずかしい。
頬がさらに熱くなるのを感じる。
「面白い人だね、君。はい」
私は仕方なく唇を開いた。
温かくて柔らかいご飯が次々に喉の奥へと運ばれていく。
温かい。
何故だろう。
目頭が不意に熱くなる。
私の両親は勉強、勉強と毎日うるさくて、熱が出ても無理矢理学校に行かされていた。
ある日、あまりにも無理をさせすぎたために、私は肺炎にかかってしまった。
その入院先でもお見舞いに来る両親が持ってくるのは、冬期講習のパンフレットやら問題集やら成績表だった。
体に負荷がかかった。
まともに治療をしてくれることなんてなかった。
私には逃げ場がないんだ、と感じた。
この両親の束縛からは、永遠に逃れられないんだ、と。
しかし、今のこの状況が私を温かく包み込んでくれていた。
生まれて初めて、心の温まる看病をしてもらった。
嬉しい。心が満たされていくのを感じた。
気がつくと、私は瞳に涙を浮かべていた。
「ど、どうしたの~?」
少女が叫んだ。
おっと、不覚。
人にこんな恥ずかしい場面を見られるなんて。
でも抑えようとすればするほど、涙が溢れ出してきてとうとう頬を伝って流れ出した。
頬を伝った涙は、布団の中へと降り注いだ。
どうして?どうして?
今までは苦しくて、悲しくて泣いていたのに。
今は嬉しいのに、涙が止まらないのはどうして?
少年も困惑していた。
「え?え?ごめん。これ、おいしくなかったかな?」
私はまた懸命に首を横に振る。
溢れる涙を抑えきれない。
こんなにうれしいのは生まれて初めてかもしれない。
こんなに人に優しくされたのは。
嬉しい。温かい。
嬉しくても、涙が流れるんだ。
「ど、どうしよう?藤崎」
すっかり困惑し切った表情の少年が少女を振り返る。
と、今度は少女が私に近づいてきた。
そして、少女は後ろから私を優しく抱きしめてくれた。
「もう大丈夫だよ。私たちが守ってあげるから」
少女は耳元で優しく語り掛けてくれた。
騒がしいだけの少女かと思ったら、別人のように優しかった。
優しい心の持ち主だった。
余計に涙が溢れ出してきた。
もう、どうすればよいのかわからなかった。
心から、ありがとう。心から。
一体、どれだけの時間が掛かったのだろうか。
私はようやく泣き止むことができた。
その間も、少女は優しく私を抱きしめて、優しく語りかけてくれた。
少年もホッとした表情を取り戻して、その様子を見つめていた。
「優しさに、飢えていたんだね」
少年は誰ともなしにつぶいた。
「もう大丈夫?」
少女がまた耳元で優しくつぶやいた。
私はゆっくりと首肯する。
少女はゆっくりと私から離れた。
ぬくもりが遠ざかる。
しかし、少女の顔にはいつもの温かい笑顔が戻っていた。
「君、どこから来たの? 見かけない制服だけど」
少年も柔らかく尋ねた。
「新宿」
「東京か。ま、ゆっくり休んでいってよ。駅まで僕らが送」
「帰りたくない」
私は思わず語気を強めて言った。
「え?」
「ぜったいに帰りたくないの」
しばらく部屋に険悪な沈黙が生まれた。
空気が凍りつく。
と、少年が遠慮がちに口を開いた。
「でも、明日も学校あるんじゃ」
「ぜったいに行きたくない」
再び、沈黙の嵐。
生気を失った空間。
私は顔を布団に埋めた。
「つまらない」
「つまらないって」
再び、少年は困惑したようだ。
無理もない。
変な少女が勝手に倒れていて、助けてあげたと思ったら、帰るのを嫌がっているのだから。
「じゃあ、どうする気なの?」
少年がついに核心とも言うべき質問をした。
「どう?」
私は返答に詰まった。
そうだ。彼の言う通りだ。
家に戻らなければ、一体これから先、私はどうするのだろう?
またあてもなく旅に出なければならないのだ。
自分が安心して暮らせる場所へ。
でも、そんな場所がすぐに見つかるはずもない。
また、探すのにもお金がかかる。
一介の女子高生の所持金なんてそんなに頼りにならない。どうする?
鼓動がトクトクと鳴り響く。
襲い掛かってくるような不安感。
「まあ、ともかく今日は正田君の部屋で休んで!これからのことはまた落ち着いたら一緒に考えよう~」
今まで私の話をまじめな表情で聞き入っていた少女が、突然口を開いた。
顔を少女に向ける。
少女は相変わらず、あの印象的な笑顔だった。
「え? 僕の部屋で決定なの?」
「それしかないよ~。今はゆっくり頭を冷やさないと!」
「う、まあそうだね、藤崎。じゃあ、今日は僕の部屋、まあこの部屋なんだけどゆっくり休んでいきなよ」
少年と少女は優しく微笑むと、扉に手をかけて部屋を出ようとした。
「ありがとう」
彼らが行く前に言わなければならなかったこと。
面と向かって言うのは恥ずかしかったけれど、何とか言えた。
何も返答がなく不安になったので、おそるおそる顔を上げてみた。
そこには、最初に見た少年と少女の優しい笑顔があった。