第七十一話
作者 梨野可鈴
井本は、スタートラインの前に立った。
「頑張れ~」
部長のアリスが手を振った。響と弓は、それぞれ電話で、別の場所でスタンバイしている他のメンバーに連絡を取る。
「そろそろ始まるようだ」
『はい、分かりました。ウォームアップは大丈夫です』
平盆高校の走順は、1区が井本、2区がイエモン、3区がパンダ、4区が響、5区がアリスとなっている。
イエモンとパンダは既にそれぞれのスタート位置にスタンバイしており、響やアリスも、時間を見計らって移動することになっている。
弓とブックマークは、選手の補佐として、交代で給水ポイントなどを回ることになっている。
また、朝から別行動のエミリー、でんじろう、エンジョイも、途中から応援を引き連れて合流する手筈だった。
「さてと……あれが相手校ね」
響は、同じくスタートラインに並ぶ他校の生徒を見た。
まず、五芒星高校の先陣を切るのは、ガタイのいい男子生徒。厳しい訓練を受けているだけあり、筋肉は大きく盛り上がり、肩幅などはアリス達の倍はありそうだ。彼はひたすら、「勝利あるのみ……」と呟いている。
次に、聖プリシラ学園の女生徒。ふわふわとした縦ロールが風になびいている。まるで深窓の令嬢のようだが、フリルのついたふんわりとした短パンからのぞく足は、よく鍛えられた陸上選手のそれだった。
そして、最後に――
「ははは、お待たせしたね!」
やたらと長い前髪をかきあげ、爽やかなスマイルと輝く歯を見せながら、颯爽と登場したイケメン。彼こそ、最後の出場校――光源氏高校の、流星輝だった。
くるくるっと華麗なターンを決め、ギャラリーにウィンクを投げると、女生徒の黄色い悲鳴が上がる。
「わあ、すごい、あの人、足が速い! 滑るみたいに移動するよ!」
「いやいや違うから。てか、何で陸上大会にローラースケート履いてるのよ!?」
響が突っ込む。すかさず、弓がスマホで検索した。
「光源氏高校は、芸能タレントを育成する専門の高校だそうだ。彼は、ローラースケートのパフォーマンスを売りにするアイドルグループ、『キラキラ☆スター』のメンバーらしい」
「……。」
やたらギャラリーが多いと思ったら、それか。響はこめかみを押さえた。
「イケメンなら、うちのひょっとこも負けてないよね」
「確かに富良野は美形だけども」
そんなやり取りをしている間に、流星が靴を履き替えるよう注意され――いよいよ選手が位置につく。
乾いた空砲の音が鳴り響き、選手達は一斉に飛び出した。
盛り上がる会場に背を向けて歩き出す本田翼に、声をかけるものがいた。
「おや? ご執心の忽那アリスの様子を見にいかなくていいのかなぁ?」
「……。」
振り返る翼に、黒瓜はニタニタと笑ってみせた。
「別に。見たところ、どうせ、貴方の率いる五芒星高校には勝てないでしょうし」
「彼女が駅伝で僕達と対戦するなんて知らなかったよぉ。僕がアリスを呪ったら、スポーツマンシップに反するところだったじゃないかぁ」
呪い。その言葉を聞き、翼の肌が一瞬粟立つが、すぐに取り繕い、冷たく言い放つ。
「自分のチームメイトにかけてる呪いはアンフェアじゃないの?」
「呪いと言ってほしいねぇ、毒と薬が紙一重のように、良い術も悪い術も表裏一体さぁ」
心理学をスポーツ科学に適用しただけなら、反則とはならない。まあ、駅伝の結末など、翼にはどうでもいいことだ。彼女はそこから立ち去ろうとした。
「ああ、ちょっと待ってほしい。気になることがあってね」
「……何?」
「君の『本田翼』って名前、もしくは『忽那アリス』って、本名かい?」
予想外のことを聞かれ、翼は虚を突かれた。
「本名よ。アリスもそうだと思うけど」
「いやあねえ、今回の呪いの件、どうにもうまくいかなくてねえ」
うまくいかない? 富良野や弓の活躍で、黒瓜は呪いを解くことになった。そのことかと問えば、黒瓜は首を横に振る。
「いや、最初の呪いのことさあ。アリスは何度か『足を折る』呪いが成就しそうになるが、そのたびに助かっている――これが、そもそもおかしいのさあ。かけたはずの呪いが完成してないんだねん」
「……それと私達の名前が何か関係があるわけ?」
黒瓜は、懐から、一枚の写真を出した。呪いのために黒瓜に渡していた、アリスの写真だ。写真の裏には、五芒星の紋様と共に、赤黒い血文字で『忽那アリス』と『本田翼』の名前が書かれていた。
「名前は本体を縛るのさぁ。とある獣の血で、名前を書いたことにより、『本田翼』と『忽那アリス』は縛られ、念によって繋がった、はずなんだけどねぇ……どうも名による呪縛が、中途半端にしか効いていないみたいなんだよねえ」
「名前……?」
そこまで聞き、翼の脳裏に閃くものがあった。
「……ふうん、でも、もう呪いは解いたんでしょう。なら、どうだっていいじゃない」
「それがねえ。ちゃんとかからなかった呪いを解くのは難しいんだねえ」
手元に届いてもいない商品を、送り返すようなものだ、と黒瓜は言う。
「呪いを解こうと、一応の努力はしたけどねえ。僕がアリスに近付けばどうなるかは、僕にも分からない。だから、何があったとしても、僕の責任じゃないんだって知っておいて欲しいんだよん」
「…………。」
黒瓜は、そろそろ準備運動をしなくてはと言いながらその場を去った。エースである彼が走るのは、アリスと同じ、最終区の5区だ。
残された翼は、いつの間にか、音もなく後ろに立っていた富良野に命じた。
「――急いで、『本田翼』君を、連れて来なさい。アリスが走る前に、必ず」
翼も、アリスも偽名を名乗っていない。黒瓜は預かり知らぬことであろうが――名前という呪縛により、呪いに介入してしまったのは、恐らく、もう一人の『本田翼』だ。
平盆高校男子ソフト部エースであり、アリスの彼氏。彼は偶然、翼と同姓同名であっただけではない。彼と翼とアリスの間には、確かに念が存在しており、翼がアリスを恨むきっかけとなったのだから、呪いに介入できるのは必然ともいえる。
恐らく、翼がアリスに呪いを送ると同時に、彼の想いもまた、アリスに繋がってしまっているのだ。それがアリスを守り、一方で、呪いを複雑なものにしてしまった。彼――本田君がアリスを想う気持ちは、翼の逆恨みなどより、ずっと強いのだから。
「承知した。……しかし、翼殿も、アリス殿を認めたのか?」
あれほど嫌っていたアリスを、自分のしたことの後始末とはいえ、助けようとする翼に、富良野は尋ねた。
その問いに、翼はまさか、と言った。
「私は私よ。アリスやあの陸上部のメンバーとは違うわ」
それは、合宿中、汗だくになって頑張る彼らを見ていて、翼が感じたことだ。
アリスがどこまでも真っ直ぐなように、翼は、どこまでも女優であり続ける。演技という名のドレスと仮面を身に付け、常に虚構の光を浴びて微笑むのだ。たとえ虚実で塗り固めた美しさだとしても、それこそが、翼らしさなのだから。
翼は、翼らしくしか生きられない。
――だからこそ、アリスに対するしがらみを断ち切らなければ、翼は翼でなくなってしまう。
「私は、私らしくあるだけよ」
「……ようやく、ヒロインである翼に戻ったか」
富良野は頷くと、素早く駆け出した。そして翼は、5区のスタート地点――アリスはそこに行ったはずだ――に向かった。
1区から2区のバトン受け渡し地点。爆走する井本に、イエモンは手を伸ばす。
「うおおおっ、受けとれえっ!」
「はいっ!」
力強く渡されたタスキを、イエモンはしっかり握って走り出す。全力を出し尽くした井本は、その場に倒れ込んだ。
「お疲れ様」
ブックマークは、井本に水のペットボトルを渡しながら、手元のタブレットを操作し、井本のタイムを入力した。タブレットには、今まで集めた選手のデータが入っている。
「今のところ、順位は3位。1位が五芒星高校、2位が聖プリシラ。多分、2区でイエモンが聖プリシラを抜くだろうけど、まだ1位との差は縮まらない」
「やはり五芒星は強いな。あいつはゴリラか?」
話す二人の後ろで、ギャラリーに手を振ったり、投げキッスをしたりと、数々のファンサービス――もとい無駄な動きで時間をロスした、光源氏高校の流星が、4着で2区に到着し、赤毛のビジュアル系男子生徒にタスキを渡した。
「俺様に任せな、『キラキラ☆スター』のメインボーカル、歌田綺羅雄が美声で駅伝を制してやるぜ!」
光源氏高校の生徒のパフォーマンスをさっくり無視し、井本とブックマークは、応援に向かった。




