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作品を書き上げられない!  作者: みここ・こーぎー
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人殺しの初心者(ニュービー)

五万字も書いて何も書けていない

落ちが思い浮かばなかった

「時給一万円、ね」


 三十四にもなって社会というものをようやく理解してきた俺はさっさと仕事を辞めてニートになっていた。丁寧語とぺこぺこする技術で職場には溶け込んでいたが、それは意味のないことであることを理解してしまったのだ。高圧的だろうと威圧的だろうと、ノミのような心臓を持ったカスだろうと仕事ができるやつは仕事ができるし職場における社会的立場というのは確立される。


 俺が介護福祉士としてわずか三年でユニットのリーダーを任されそうになったとき、ようやくそれに気がついた。それはとてもすばらしいことであり、何よりしっかりとした責任とわずかな給料が上昇するという社会的地位の向上が目に見えた瞬間だ。


 俺は腰痛を理由にリーダーを断り、ついでに仕事も辞めた。


 人間は好きに生きていいのだ。

 そのことに気づいたときには三十四になっていたのだ。


 俺は肥満体をゆすりながらぼろぼろのフライヤーを手にしている。

 一時間ほど前にバス停で拾ったものだ。

 まず、非合法だろう。間違いない。こんな腐った時給を出す場所は他にない。

 だが、本当に時給一万円のことをやらされるのであれば、そう考えるとどうだろうか。

 やってみたくないだろうか。

 この時代、職歴に関わらず自給を一万円出せる連中だ。

 おそらくは誇大広告の類であろうが、話を聞くだけは聞いてみたい。


 俺は知っている片側一車線の道路を横道を入り、さらに中ほどへと進んでいく。

 住宅地もどきから離れていき、工場地帯のような場所に入り込む。工場地帯、というよりは昔は工場こうばが多かった場所だろうか。錆びたトタンが目立つようになり、どこも軒並み看板が外されている。どこの町ににもあるだろう、昔の名残だ。


 ふと、後方が気になった。

 誰かに頭を鷲掴みにされて無理やり捻られる。


 そこには少女がいた。


 言い方を変えよう。

 低学年の小学生くらいの女の子が立っていた。


 目が黒い。

 まぶたがない。

 黒い泥をを落としたような穴が開いている。近くに寄って確かめたくなったが、年齢問わず女に近づいて観察するのは現代の犯罪だ。やめておく。

 女の子はフリルのついたワンピースを着ており黒いセミロングの髪だ。

 目が黒い。まったく髪の色と違う黒さだ。新色のアイシャドウだろうか。

 俺がそう考えた瞬間に口が開いた。

 真っ黒だった。口の中もすべて黒い。まったく同じ大きさの三つの黒丸が女の子の小さな頭部にあるのは不快を超えて恐怖だ。

 幽霊だろうか。

 いや、確証がない。確証を取るために近づいた場合が問題だ。呪われれば俺ひとりの問題で済むが、実在の人物であれば警察行きだ。そして家族に迷惑がかかる。それはできれば避けたい。可能ならば、であるが。


 俺はじっと女の子を見ている。

 あまり見続けていても問題だが一分くらいは問題ないのではないだろうか。誰かに見つかっても「あのおじさん痴漢です!」というには少し無理がある。変態と事案になるのは間違いないが、注意くらいで済むだろう。そんな甘い考えでがんばる。実際、黒い顔面なのだから見ていても不思議ではない。


 その思考のために軽く俯いてしまった。

 俺は再度、女の子を観察するためにまた顔を上げる。


「いない……」


 そこには誰もいなかった。


 フライヤーに記載された雑な地図と白黒の写真から建物を見つける。

 死ぬほどわかりにくくて絶叫しそうになった。まず、道が間違っている。だが、地図の書き手の作法、というか描き方が判明したので虱潰しに探すつもりだった。運よく迷わず、無駄なウォーキングも省くことができた。ついでに言えば白黒の写真は実物と照らし合わせないとよくわからない。看板を剥がした痕跡が窓に見えて、普通のビルにしか見えない。だがこうやって比較すると同じものであることがわかる。


 俺の眼前に大きな工場があった。

 今は使われていませんと言わんばかりに錆と黒かびが目立つ。写真には写っていなかったが門がある。学校で使われていそうな飾りレンガを使った壁に大きな格子状のスライドがついていた。閉まっていたので勝手口を探す。なかったので門を開けようとしたが鍵が掛かっている。


「舐めてんのか」


 視界の端で何かが動いた。

 めんどうだったので視線だけ動かしたら工場の二階の窓ガラスに誰かがいた。確実に。どうやら気のせいではないらしい。俺はたまにありもしない黒い影が視界の端を過ぎることがある。おそらく視覚上どうしようもないものであると割り切っている。緑色ばかりを見て白色を見ると、残像で赤く見えると知ったときにこの手の目の錯視だか錯覚は諦めた。女がよくいう「黒い影が見える」というのはこれだろうとわかったので、いろいろわからんではない。別に霊感ではないのは間違いない。


 俺は後方を振り向いた。

 ぼろぼろのアパートのベランダがこちらを向いていた。基本的にカーテンがかかっている。見えない。辺りを見回しても特に何があるわけじゃない。


「……めんどうだな。次、また来るか」


 さすがに俺の社会性が門を無視して中に入ることを忌避する。

 場所はわかったから今度は平日にでもこよう。


 踵を返して歩き出した。

 今日だけで数キロとか歩いたので地味に疲れた。デブがやることじゃない。

 俺は途中で見つけた小さな公園で一休みすることにした。

 すぐ傍にあった自動販売機でゼロカロリーのコーラを買う。これは別に痩せるためや無駄な抵抗なのではなく、糖尿病を心配してのことだ。普段からこれくらい自制していなければ俺はとっくに体を壊している。そのため毎年二回ある健康診断では「痩せろ」以外言われたことがない。昔、壊した肝臓も今ではゆっくり回復してきているしコレステロールも中性脂肪も正常。強いて言えば血圧が高いのだが、それは脂肪によるものだ。体調的には問題ないので医者がビキビキと青筋を立てながら「痩せろ」だ。他のやつが五分で終わる問診が俺だけ三十分もあったのは嫌がらせだろう。


 ごくごくと中身を半分ほど飲む。

 すごしやすい陽気であるが、外に出ていれば汗がでる。俺ならばなおさらだ。また一口飲む。


 視線を公園に向けていると誰かがいた。

 黒い目の女の子だ。

 公園の片隅でじっと俺を見ている。


 ……どちらかといえば、俺のほうが出入り口に近い。

 俺が入ってきたことにより出られなくなったのだろうか。俺に近寄りたくなくて。

 誰もいないと思ったんだがな。


 俺が少し考えた瞬間に陰が差した。


「よろしいですか?」


 はきはきとした女性の声がかけられた。明らかに社会人といったしゃべり方だ。

 見るとボリュームのある広がりを持ったセミロングの黒髪が逆光で立っていた。顔が見えない。服装は赤いネクタイにスーツだ。下は男性用の黒いスラックス。

 俺は少し遅れたが、視線を外さないように距離を取りながら立ち上がる。

 おお、美人だ。

 逆光がなくなり女性の顔がはっきりと見えた。

 正確に言えば――どちらかといえば“かわいい”が正しいだろうか。しかしあまりに雰囲気が絶妙だ。年のころは十五かそこらみたいな顔立ちだ。大きくてくりくりした眼に柔和な口元。中心を通る低い小鼻は存在感を主張しすぎない。輪郭も柔らかさを残している。どちらかといえば中学生だ。

 だが雰囲気がまったく違う。

 その振る舞いは二十歳を軽く超えた仕草だ。ビジネススマイルと伸びた背筋、踵を合わせた立ち方はまず十五歳で身につくものではないだろう。アンバランスだ。だが一種の芸術のように外見と振る舞いのアンバランスさが調和している。すばらしいといえば、そう、素晴らしい。


 身長百七十センチの俺よりも、女性は背が低い。百六十か、それ以下だ。

 後ろ手を組んで、まるで執事のように俺を見ている。見つめている、などという小ざかしい言葉は感じさせない。明らかに値踏みされていた。


「もしかして、面接官の方ですか?」


 俺は女性の問いかけをシカトする。だが俺は「ああ」みたいな声と仕草を重ねて、できるだけそう思わせないようにした。


 残念ながら俺は女性に声をかけられるような容姿ではない。

 公園にいるシチュエーションは警察案件かもしれないが、今はここに子供はいないし明らかに“デブが公園で一休み”を演出しているのでそれもないだろう。

 思い出した

 いたわ、女の子。

 先ほど女の子のいた場所にちらりと視線を向けるが、いつのまにかいなくなっていた。

 出て行った形跡はない。ないので俺の勘違いだろうか。


 視線を戻す。

 女性は笑顔のまま黙っている。

 無言の返答はあまりに雄弁だ。俺の質問に間を置かず返答することも可能であったろうが、わざわざ無言を返している。


 沈黙が流れる。

 イニシアティブを握ろうとしたがどうにも握らせないようだ。

 嫌な予感がしたので俺は返答を行った。


「どうぞ、俺に何か御用ですか?」


「こんにちは。わたしは商工会のものですがこの辺りを不審者がうろついているという話を聞きまして、伺ったのですが」


「はぁ、商工会ですか。ずいぶんと対応が早いですね。まだこの辺りにに着いてから二十分も経っていないのですが」


 何で商工会が自治体みたいなことをしているのかは聞いてはいけないのだろう。そんな風が流れていた。


「二十分も経っているのですか」


 にこにこと笑っている。


「はは、でしたらそろそろお暇しますので」


「いえ、何もないのでしたら別に問題はありません。わたしもただ確認のためにやってきましたので」


 女性と俺の距離は二メートルほどだ。

 たとえば、俺が意図的な暴漢であるのなら、俺にとっては心もとない距離だ。伸ばせば手が届くが確実ではない。相手のほうが足が速く運動神経がよければまず逃げられるだろう。


 俺は少しだけ退く。

 もちろんだが、後方に公園の出入り口はない。よく見ればこの公園、そこそこ高い柵が設けられている。鉄製の柵で、子供のボール遊びくらいはそこそこ防げそうだ。


 女性が一歩、はっきりと踏み込んでくる。俺が退いた分だけ。


 暴漢は彼女かな。

 何か目的を持って行動しているようだ。俺に話しかけたのも、不審者うんぬんの話ではないだろう。女性の体格的に俺に対しての暴力行為は難しいと思うが、武器を持っているのなら話は別だ。


 普通、町でなんとなく出会ってしまった相手に危機感を覚えるのはどうかと思う。しかし女性の外見に沿わない雰囲気があまりに焦燥感を煽る。少しくらい過剰に防御をしてもいいほどだ。


 俺は携帯電話を取り出した。


「どうかしましたか」


 ぴくり、女性が反応した。


「いや、不審者扱いなのも納得がいかないのでね。警察でも呼んで、先に釈明でもしようかと」


「だいじょうぶですよ。あなたは不審者ではないようですので」


「いや、俺は年下好きでな。中学生でも胸が大きい娘なら無意識に目で追ってしまう。あなたの気持ちもわからんではない」


 女性がぴくりと反応する。俺は携帯電話を開くと軽く身を引きながら警察へ直通の番号を押し始めた。ただし、視線は逸らさない。できるだけ柔和な笑みで、俺も返す。


『こちら警察です。事件ですか、事故ですか?』


 俺の携帯電話から女性の声が聞こえてきた。手元を見ていないため心配だったが、どうやら杞憂だったようだ。


「実はですね――」


「わかりました。面接は合格です。わたしについてきてください」


 携帯電話を耳に当てた瞬間、女性からそんな言葉が出てきた。

 俺が“面接”という言葉を使ったから彼女は“合格”という言葉を使ったののだろう。あまり適当なことを言わなければよかった。彼女が時給一万円の職場の人間であるのもわからない。もしかしたら互いに勘違いで適当な話を振っているだけということもある。真実は今のところわからない。


 一番の問題なのは俺が無事に帰ることができるか、これに尽きる。

 しかし現代においてわざわざ無事に帰ることができない場所があるのか、ということもある。現代日本人の危機感の足りなさも指摘されるが、それはまあ、置いておこう。


「――すみません、姪っ子のいたずらでかけてしまいまして。申し訳ありません」


『ああ、わかりました。次からはご注意くださいね』


 電話向こうの女性が努めて優しい声で俺に警告する。俺は確かに通話を切るところを女性に見せると、出したときと同じベルトに挟んだホルダーに戻す。そして着ているシャツで隠した。


 俺と女性の視線はずっと合ったままだ。

 正直に言えば女性とあまり視線を合わせていたくないのだが、ことがことだ。なぜか妙な胸騒ぎもある。それに女性から視線を逸らした時、俺の場合は胸元や腰から尻のラインに目が行く性質を持っているのでこうやって視線を合わせていると気が楽だ。


「それで、求人誌に掲載されていた日当は本当なんですかね」


「もちろんです。時給一万円のビラは真実です。ぱっと見てあまり有能には見えないのですが、事務所でちゃんと面接をいたしましょう」


「はあ」


 ようやく俺好みの返答をしてくれた。

 あのフライヤーはどうやら悪戯ではないらしい。もちろん俺みたいな馬鹿を引っ掛けるための悪意である可能性もあるが、それはおいおい考える。


 俺が気の抜けた返事をすると、女性が道を開けた。

 そして右手で「先に行け」と合図する。


 俺は絶対に嫌だったので無言で立ち尽くしている。

 なんでそんな馬鹿なことをしているのかわからないが、強いて言うなら麻雀で危険牌を察知したときに似ている。結果的に当たり牌ではないが、絶対に捨てたくない感覚とでも言えばいいか。とにかく俺が先に進むのは遠慮したい。

 じっと女性を見る。

 状況は固定されているが人間の感情は流動的だ。それに反応するために、じっと見ていた。この状況は女性が好むものではなく、この一秒単位で苛立ちを募らせているとしても俺は動くことができなかった。仮にその苛立ちが真実であった場合は俺はこれを少しずつ何とかするのも社会人としての知恵だ。何とかする、というのは別に俺に好意を向けるという意味ではないが。


 結局、三十分が経過した。


 最終的には女性のほうが折れて足早に、先ほどのぼろい工場へと歩いていった。

 できれば女性の後ろをぴったりとくっついたままついていきたかったが、俺にそれだけの運動能力がないのと、絶対に「はあはあ」と息切れするのと、何より女性が絶対に両手を同時に見せてくれなかったので不用意に近づくのは止めておいた。


 女性は颯爽と門を飛び越えて、俺は無様に門を乗り越えて工場の中へと入っていった。












「わたしはネマと申します」


「ネマさんね。俺は金城きんじょうだ。こちらこそよろしく」


 俺の三メートル先を歩くネマ。怖いのでこれ以上は近寄らないことにする。頑なに両の手を見せなかったネマであったが、今はごく普通の西洋歩きだ。しっかりと確認できる。当たり前だが特に何も持っていない。俺よりも先にここに入ったので、破棄したのだろう。なんだったのか気になる。


「どちらでビラを受け取られましたか?」


「バス停のベンチに挟まっていた。ちょうどニートをやっていたんで気になった」


「主に、どの辺りがですか」


「時給一万円と職歴不問かな。この二つはなかなか切れないからな」


 俺はきょろきょろと工場の中を見ながら進む。

 学校の体育館か、それよりももう少し大きいか。ただしいろいろなものが積まれており正確にはわからない。ロッカーだかコンテナのようなものが多く、その傍にベンチや傘立てのようなものが置かれている。トレーニング器具もあるな。重さを変更できるダンベルやトレーニングベンチとバーベル。ルームランナーやエアロバイクもある。いくつかわからない器具もあるが、それに思いを馳せている暇はなさそうだ。


「珍しいですか」


「そういうのはきょろきょろしているやつに言ってくれ」


 ネマが俺のほうを振り向きすらせずに聞いてくる。俺もそれに対して正答を返す。鏡や鏡面として使えるガラスらしきものはなかったのでネマの当てずっぽうだろう。いかんな。本当にヤクザ屋さんなのだろうか。さすがにそれはまずいかな。心臓が強く鼓動し始める。


「そうですね」


 ネマの言葉からは俺のほしがっている情報は読み取れない。真偽の判別ができない。鏡でもあるんだろうか。


 工場の真ん中を通り抜けて通路に入る。


「たすけて、くれぇ……!!」


 通路の右側から潰れた蛙のような悲鳴が聞こえてきた。左を振り向いてから体の位置を変えて右を振り向いた。ぎょっとした。


「ああ、まだ存命でしたか」


 ネマが俺に近寄る。二メートルの距離を割ろうとしたので、ネマの足に合わせて俺も一歩だけ音を立てて探す。俺の足音と自分の足音が重なったことを感じてか、向こうも足を止める。


 ゆっくりと右側を確認した。


 スリムな金髪の男が首を吊っている最中だった。

 もう少し付け加えているなら、両手で自分の首下の丈夫そうな縄を掴んで喉を潰さないように抗っている。ジタバタともがきながら背中が壁を擦過してざりざりと音を立てていた。


「もう二十分ほどあのままもがいていますね。諦めれば楽になれるのに」


「簡単に諦められないだろうし、簡単に楽にもなれないだろう」


 俺はすぐに興味をなくして通路の先を向きなおした。

 ネマはずっとこちらを見ていたのか、俺と目が合う。


 怖いな、こいつ。

 なぜずっと見ているのだろうか。面接官や職場の上司でもここまで見てくることはない。


 この部屋は牢屋になっている。

 改築を行ったのだろう。前面部の壁はすべて取り除かれて格子が嵌っている状態だ。壁と格子の間のコンクリートの色が違うのですぐにわかる。しかし、いくら台風の多い地域とはいえ、工場もコンクリート製でできているんだな。考えてみればそうであるのが正しいとは思うのだが、あまり頭が回らなかった。


 俺は牢屋の出入り口に手をかける。ガシャン、と音が鳴った。開かない。当たり前か。


「どうされました?」


「演技は上手いが暴れすぎだ。固定具が少し見えた」


 ネマは笑顔を崩さない。俺も表情は崩れていないだろう。

 俺が口にした“固定具”とやらは別に見えていない。そもあるんだろうか。


「行きましょう」


「ああ」


 ネマが歩き出したので俺もそれに続く。三メートルを開けるためにしばらく待つのは忘れない。その隙に強制自殺者に投げキッスをしておいた。本当に殺害されそうになっているなら俺のこの行為は闇に隠蔽されるし、もしも嘘であるなら牽制くらいにはなる。牽制して何か得があるのかはわからないが、何が作用するのかも判然としない。「お前の演技を見破ったぜ」くらいにはなるだろう。


 ……本当に殺されようとしているやつだったら、なんというか、かわいそうなことをしたな。


「どうぞ、お入りください」


 丁字路正面の扉を開け、ネマがその傍に立っている。右手を出して部屋を差していた。入るつもりはないらしい。扉の奥を簡単に見るが特に変なものはなさそうだ。社長室に敷設されている応対室のような、そんなつくりだ。社長用のデスクはない。面接の続きだろうか。


 じっとネマの表情を伺う。笑顔のままだ。さらりと視線を肩、腕、胸、腰、膝、足と見たが、俺がおかしいと判断できる部分はない。仕方がないので入ることにする。


 室内に入る。ネマから無意味に殴られることはなかった。

 入って、一メートルも歩く前に扉が閉じられた。不安に駆られ、扉を見ると驚愕した。ドアノブがない。こちらかは開けられないようだ。


 ずいぶんと買われているのか。それとも生かして帰すつもりがないのか。


 人間ひとりを攫うや監禁するのはリスクが高い。そいつが職場にこなければいずれ発覚するだろうし、家人がいても発覚する。一人暮らしの無職でも大きくは変わらない。それが数ヶ月に伸びるだけだ。家賃とは偉大だろう。ここのロッカーだかコンテナ、トレーニング器具がしっかりと置かれている。ここは拠点だろう。手放すには惜しいのではないか。それともいくつもある拠点のひとつなのか。どちらにせよ何も知らない人間を監禁するだけのリスクを負うとは考えにくい。


 これはしくじったかな。先に「かいごふくししのしごとをしていました。よろしくおねがいします」と言っておけばよかった。もしかして何かと勘違いされているのかと思うと気が気でない。


 部屋の中は三人掛けソファがひとつ、ひとり掛けソファが二つ、黒いテーブルを挟んで鎮座している。それ以外はスチールラックに何かファイルが詰まっている。隅にテーブルがひとつある。これくらいだ。実に簡素な部屋だな、そんな印象しか浮かばない。


 三人掛けソファの足が床タイルとぴったりくっついているを確認した。四角い足のようだ。俺は三人掛けソファを少しだけ動かそうと、アームレストの後方を軽く摘んで動かそうとした。しかし動かない。つま先をソファの側面にかけて踏み込むように押す。しかし動かない。俺は三人掛けソファに座るのを諦めた。


 一応、窓があるので外を見る。工場の……なんと言えばいいのか、運動場みたいな場所がある。隣接する大きな出入り口がある工場部があるのでトラックでの荷積みや機械の動作確認でもやっていたのではないだろうかとアタリをつけてみる。今は広場だ。

 窓からの脱出はできないようだ。地元の古い家によく見られる格子が取り付けられている。台風対策だ。アルミなので絶対に破壊は無理とは言わないが、そんなことが素手で可能ならそもそも俺は介護福祉士などになっていない。

 隅のテーブルまでやってくる。食卓用のテーブルで利用するには椅子が必要なタイプだ。ほとんど木材だけで構成されており何か手を加える余地などない。テーブルを少しだけ引きずって窓に近づけるとテーブルに座って窓枠に体重を預けた。俺の百二十キロの重量を受けてもびくともしないテーブルに感謝しながら、ただ呆けるように窓の外を眺めてみた。


 次、この部屋の扉が開いたのはおおよそ二時間後のことだった。


 俺は入ってきた人物を確認するため、即座に振り向いた。









「見込みはありますね」


 ネマが入ってきた。がちゃりと扉を閉める。どうやら中から開ける方法があるらしい。


「先に言っておくと、俺はずぶの素人だからいきなり刃物で攻撃されても対処できない。できればドッキリみたいなことは止めてくれ。本当に死んでしまう」


「それだけ言えれば問題はありません」


 ネマは俺に封筒を渡してきた。右手で渡してきたので攻撃の意思はないと思いたい。俺はそれでも気をつけながら受け取る。いきなりぶん殴られてもパニックを起こさない程度の覚悟だが。


「十万円ほど入っています。当面の生活費おこづかいです。お酒や煙草はこれで買ってください。食事は三食出ます。今日からここに泊まってください。仲間を紹介します。ついてきてください」


 ネマはにこにこと笑いながら壁際のスチールラックをスライドさせた。腕力でどかしたのではなくレールがあるようだ。あまりに細く保護色めいていたので気がつかなかった。


 スチールラックの向こう側に大きな穴が開いている。こちらは無理やり開けただけで切り口がぼろぼろだ。

 ネマが穴をくぐったので俺も習ってくぐる。


「よろしく新入り。やるじゃないか」


 同じような間取りと家具の部屋に金髪の男がいた。ソファに浅く腰を落としてニヤニヤと笑っている。どこかで見た顔だ。誰だったか。


「マイケルです。あまりに酷いことをやりすぎたせいで本国ステイツにいられず、そればかりか名前も使えなくなった悪い男です。みんな親しみを込めてハンサム・マイケルと呼んでいます。にやけ面が鼻につきますが地顔です」


「ひどいな。こんなにも俺はハンサムガイなのに」


 にやけていた表情が笑い顔に変わった。

 ハンサム・マイケルは確かに色男だった。高い鼻に彫りの深い造詣と笑顔の細い唇に見透かすようなまなざし。口元の髭は何も剃られていないが、長さを合わせてカットされている。これがまた似合っていた。映画俳優のような清涼感がある。短く刈り込まれた金髪は前髪だけゆるく流れていて、もう最高だ。女ならまず放っておかないだろう甘いマスクだ。


「しかしあの自殺が見破られるとは思っていなかった。すまないがどこでわかったのか教えてもらえるか? 今後の参考にしたい」


 両手を広げて聞いてくる。

 ああ、思い出した。ここに来る途中の部屋で自殺をしていた男か。


「すまん。正直に言えばわからなかった。だが何も知らないやつをいきなり殺人現場に連れてくるのも変だろう。一応、南とはいえここは日本だからな。変なことをやってわざわざ自分の首を絞める必要もない。確かにインパクトはあったが状況がそれを否定していた。仮に本当に殺人現場に案内している危機感のない連中ならすでに捕まっているか、追われている。あと二十分とか」


「ああ~やっぱりそれか。ネマのあれは勘弁してほしかったよ」


 ぺしりと自分のおでこを打つと、マイケルはネマを指差す。


「あれは面接の一環です。極限状態で気づけるかどうか」


「気づいても気づかなくても、ただのいい間違えとしてか認識できない」


「しかしそれであなたは気づいたじゃないですか」


「最後の一押しといったところか」


 実際問題としてはほとんどわからなかった。ひとつひとつは違和感があるのでそれくらいは気づける。だがそれだけだ。そもそもここの仕事がどんなものなのかすらわからない。


「ところでここでは何をやるんだ」


「おおむね、何でも、ですね。諜報、工作、暗殺、粛清、報復などが主です。あなたは何ができますか?」


 おっと、これはグレーどころじゃない。だいぶヤバイ場所に就職してしまったようだ。今までの生活ともお別れかな。とりあえず親と友人たちからは緩やかにフェードアウトしておこう。

 だが一番の問題がある――


「何もできん」


 そう、何もできないのだ。今、ネマが言ったことが何ひとつできない。かけらもできない。内容の半分以上が殺傷に関わることだが、残念ながら刃物すら使いこなせない。


「刃物は?」


「強いていえばボーイスカウトの頃に鉈とナイフの使い方を教わってくらいだ。利き手からナイフを落としたらそっちがわの足をどけろ、くらいのな」


「銃は?」


「残念ながら触ったことすらない。興味があるくらいか」


「運動は?」


「見ての通りのガチのデブだ。まともに動くことすらできん」


「コンピュータは」


「エロ画像探して、ウィルスに感染して、笑いながら初期化する程度は」


「車の運転は?」


「ほぼ毎日使っていたが、ゴールドだ。車検が通らなかったので潰したが」


「一人暮らしの経験は?」


「三年くらいかな」


 ネマは俺に次々と質問していく。俺もそれに答える。俺の回答がなかなか恥ずかしいので顔から火が出そうだったが嘘を言ってまで雇われる気は皆無だ。普通の就職先はもとより、明らかに非合法犯罪組織に加担することになるのに嘘を言う必要性はない。仮に「暗殺」が可能です、とか言って一人でやらされたらたまったものではない。ネマたちだってそうだろう。失敗したらネマたちだって危ないのだ。俺がすんなりと返り討ちになれば「やだ、あの無能。ガードが固くなっちゃったじゃない」で済むが、ヤクザ屋や、それ以上の連中に捕らえられて拷問されればさすがに黙っている自信はない。というか、プロの技に抗うのは不可能だろう。


 ネマの連続でまくし立てられる質問にどんどんと答えていく。

 だいたいは否定で返す。でなければ子供みたいな返答だ。


 あらかた質問し終わったのか、ネマは「ふむ」といいながら眉根を寄せた。

 おっと、これは内定取り消しのコースかな。十万円も返さなくてはならないようだ。


「十年……いや、五年ですか。惜しいですね」


「そうだね。二十年前にこの世界に入っていたらよかっただろうね」


 ネマとマイケルがうんうんと頷いている。

 マジかよ。言外から俺に才能があるらしいことが読み取れる。十四年前にここにくるんだったとか思う。十四年前にはここが拠点ではなかったと思うし、こいつらもそもそもチームを組んでいたか怪しいが。


「どう言っていいのかわからんが、今のお話で、俺も知らない俺の才能を見抜いたのか」


「まあね。君って、君が思っているよりも優秀だよ。もちろんいきなりひとりで仕事をやれ、っていうのは不可能だけどさ」


「そうですね。普通の人よりは、少しだけ優れています。決断力だけですが」


「それは俺に一番足りないものだ。それがあるならこうやって今頃も就職活動なんかしていない」


 決断力は俺に足りないものだ。

 俺には、というか人類全般に足りないものだ。これが十分なやつは頭の悪いやつかキチガイか、それでなければ本当に優れている人物だけだ。

 今ですら俺は「社会良俗に反する場所に就職しようとしている。本当にいいのだろうか。今のままでは法治国家の害悪として成り下がり、最終的にはどこかで野垂れ死にすることになる」と頭の中でぐるぐるとうごめいている。


「あなたはわたしたちの仕事が非合法であると知っても、それに対して否定的な発言をしていません。そしてわたしの質疑応答もほとんどノータイムで返しています。あらかじめ答えが準備されていますね?」


「まあ」


 就職活動における必須能力であるがその辺りは黙っておこう。ここ一時間で適当に考えた程度だ。いちいち仕事内容にケチつけるのもどうかと思うし、就職面接くらいでぐだぐだ考えても特にいいことはないことを知っているだけだ。的を射ていない回答だろうが大きい声でハキハキと答えていれば全体の点数ではプラスだ。面接は、面接の質問テストだけの点数ではないからな。


 ついでにそろそろまともに飯を食っていくにはつらい年齢だし、馬鹿みたいに人件費を低してブラック企業の仲間入りを果たしていることに気づいていないブラック企業が多い世の中だ。そろそろ足を踏み外しても文句は言われまい。

 それに、ネマの業務内容は個人的には渡りに船だ。

 失敗したら死ねる可能性がある職場だ。これも地味にありがたい。経年におけるエゴの肥大化で自殺する覚悟がないのでちょうどいい。本当にちょうどいい話だ。


 当たり前だがもともと死にたくはないので、もしかしたら本能的ではなく、自意識的に全力が出せるかもしれない。これは嬉しいところだ。たとえば前職の介護における全力というのは「ノーミス」と「職員が足りなくてもなんとかする」という全力を出すために全力を出す行為ではなかったので普通にイライラしていた。人が足りないと主任に意見すると「うーん、人が来ないのよねー」と言っていたのであの職場はもうダメだ。俺が辞めたことでユニットの人数が六割になったので今頃は誰も休日なく働いていることだろう。あとひとり辞めてほしいところであるが、別のユニットの人員を八割にして平均化を行うだろうから俺のいたユニットがメゲることはない。全体的に死んでいくだけだ。職員の意思がな。


 介護をするよりは暗殺の手伝いをしているほうが経済活動として有効かもしれない。入居者ひとりで月額二十万いかないからな。


 気づくと誰もしゃべっていない。

 仕方ないので俺から話すことにした。


「何をしたらいい」


「当面は運転手でお願いします。同時にあなたには訓練をしていただきます」


「訓練?」


「はい。お嫌いですか?」


 思わず声が上ずった。ネマもそれに対してわざわざ言葉を追加してきた。


「いや、そうっじゃない……そうか、訓練か」


「申し訳ありませんが、あなたはそのままでは使い物にならないので少しだけ・・・・痩せてもらいます」


 軽く震えている。

 もちろん二人にはバレているだろう。


「どうした。いまさら銃を持つことに怖気づいたのかい?」


 マイケルの甘いマスクが悪魔のようにゆがむ。こいつ、ほんとに優秀なやつだな。感服するわ。


「今でしたら、口外しないという約束でお帰りいただいても結構です。もちろんお渡しした封筒は迷惑料として受け取っていただいてかまいません」


 俺はさらに震えた。

 震えが止まらない。

 ガクリと膝を落としてしまい、タイルに大きな音が鳴った。


 俺は落ち着くまで全身に力を入れて震えを止めようと試みる。しかし止まらない。

 数分経ってようやく俺は立ち上がることができた。

 目の前の二人は入ってきたときと変わらない顔で俺を見ている。


「どうなさいますか?」


 ネマが訊く。

 それに対して俺は膝を着く前から準備していた言葉を発した。


「是非、ここで働かせてもらいたい」


 俺は喜色満面で答えた。

 仕事において訓練までしてくれるとは思わなかった。

 いつもはそのまま仕事に投入され、実地訓練という名ばかりの仕事だ。

 俺は初めて本当の理想的な仕事にありつけたのかもしれない。


 俺の声は上ずったままだった。







 運動場で叩き伏せられている豚がいる。


 俺だ。


「早く立ち上がってください。豚でももう少し早く立ち上がれます」


「四脚動物と同じにしてほしくない……」


 二足歩行のデメリットが俺の足を引っ張っている。

 立ち上がるために太ももに力を入れ、足裏を地面に着き、さらに太ももに力を込めて足首と膝でバランスコントロールを行う。これが強烈な負担となり太ももに込めた力を無理やり奪っていき安定した出力を出せないためにがくがくと揺れていた。


 嬉しかった。

 全力で体を動かせることが、嬉しかった。

 目の前の女が俺を殴ってくる。俺はそれに対して全力で防御や反撃行動を行っていい。

 そしてまた投げられる。叩きのめされる。

 それが嬉しかった。


 勘違いしてほしくないが、俺はマゾヒストではない。痛いものは痛いから嫌であるし、侮蔑の言葉を投げつけられれば怒りもする。多くの人間がそうであるように、俺だって同じだ。


 俺はジャージに着替えていた。

 デブの俺が着られる服なんかあるのかと思ったが、これがまたあったのだ。

 ただし、俺なんか目じゃないくらいでかいジャージだ。俺の百センチを軽く二十くらいは超えているだろうウエストでもだだあまりしている。紐できつく縛り、裾はまくっている。着ているインナーも同じような大きいものだ。

 新品だった。

 埃をかぶっていた。

 俺はなぜこんなものがあるのかは聞かなかった。


「ぐひゅ――ッ」


 背中を地面に叩きつけられた。口から勝手な声が出る。肺の空気がなくなった。キラキラとした何かが視界の端をうろついていた。


「本当に豚は寝るのが好きで――」


 俺はネマの言葉が終わる前に立ち上がる。精神自体はまだまだやれるが、肉体のほうはそうもいかない。特に太ももが致命的だ。転がされて立ち上がるだけでスクワットと同じ効果が発揮されるデブとしてはかなりつらい。百回ほど地面に叩きつけられたがこうやってまだ動けるということは、ネマはだいぶ手加減しているのだろう。ちなみに格闘技経験はない。動画配信サイトで見ているだけで強くなった気がするタイプの人間であるため、まったく動くつもりがない。


 立ち上がると同時にネマに飛び掛る。

 すでに立位を維持するのが困難だ。勢いだけで無理やり立ち上がり、体全体を使って襲い掛かる方法を行う。


 最初はネマも驚いていたが、すぐに対応された。すなわち、避ける。つらい。本当につらい。もう立つのがつらい。頭ははっきりしているし、太もも以外はたいしたことがないので問題ない。そのためにまだまだやる気はあるのに動けないという事実が一番つらい。


「豚――」


 ネマの言葉が終わる前に行動を起こしている。いきなり立ち上がって殴りつけるのだ。それ以外できない。ネマは丁寧語のままで罵倒してくる。あれだ。きっと映画とかでよくある精神的にも痛めつけるというやつだろう。ネマは優しいのかあまり俺の心に響いてこない。一番最初に「豚! 死ね豚!! 焼き豚にして食ってしまうぞ!」みたいなことを丁寧語で罵倒していたが、時間が経つにつれて語彙力が減少している。やはりネマも疲れているのだろう。


 バンッ、と音を立てて投げつけられる。

 息が詰まった。強烈な痛みが背中に響く。痛みに耐えるために目をつぶって背中を緊張させる。腹式呼吸を意識し、集中力や意識を呼吸を行いながら全身を回転させるようにイメージした。むかし胆のう炎で学んだ個人的な痛みの軽減法だ。気休めであるが、わずかながら効果があるので多用している。いつのまにか胆のう炎の痛みがなくなったので、もしかしたらこの呼吸法のおかげではと考えているほどだ。


 だが痛い。


「豚、今日は止めますか? ちょっと動いただけで体も痛そうです。本当に体を動かしたことがなかったんんですね。残念です。見込みありと思ったのは勘違いだったようです」


 ネマの発言は無視して体の動くところを確認する。

 太もも辺りはもうだめだろう。ほとんど力が入らない。動かすくらいは問題ないのだが立つとなると話は別だ。腕力に関してはまだまだいける。腹筋もだ。少し呼吸がつらいがすぐになんとかなるだろう。


「もう立てな――」


 ネマの声に合わせて地面を蹴る。どうにも立位が困難なので腕を支点に地面を蹴りつけて回転しながら脛を狙った。寝転んだままだ。ネマは少し驚いたようだが、所詮は素人の浅知恵だ。なんなく回避される。そのまま腕と腹筋で移動しながら蹴りを見舞うがやはり当たらない。少し離れた場所で消波ブロックに腰を下ろしているマイケルから見ると足で何かを取ろうとしている寝転んだデブに見えるのではないだろうか。なさけない。


 疲れたので動きを止める。


「ぶ――」


 ネマがしゃべりだしたのでこちらも動いた。蹴りを放つ。足で掴めれば御の字なのだが、まったくそうもいかない。


 ちなみにネマがしゃべろうとしているときに攻撃をしているのは、別に罵詈雑言が聞きたくないというわけじゃない。一応、事実であるし、たぶんわざと強く言っているだけで中身がない悪口であるからだ。さすがにそんなものにいちいち反応するほど子供じゃない。いきなり言われたら腹立たしいが、こうやって「訓練です」とジャージまで渡されて怒りをあらわにするほどの熱意はとっくに消えた。

 つまりだ、純粋に相手が何か別のものに意識を割いたときを狙って攻撃しているだけだ。これを繰り返してからネマの語彙力が減ったのでおそらく効いてはいる。


 というか、明らかに手加減されているわけだからなんとか一撃くらい当てたいところであるが、万全の状態で不可能だったのが芋虫状態の俺に可能なはずもない。


 結局、俺は一時間か二時間ほどで本当に動けなくなった。

 動けなくなってから十分ほどフルパワーでネマになじられたが、本当に動けないので何もできなかった。手も貸してくれずその場から動かしてもくれなかったので、とりあえず体力を回復させるために眠ることにした。


 運が悪いことに雨が降ってきた。

 寝返りすら打てなかったので土場に溜まった泥水で口をふさがれないように横を向いて――黒い女の子が見ていた――また眠った。







 目が覚めたら夜だった。

 眠る前と同じ場所で寝転がっていた。寝相のひどい俺がまったく位置を変えていないところを考えると、やはりあの訓練はかなりつらかったと理解した。


 まだ雨は降っていたが特におぼれてはいない。工場を見ると電灯の明かりがあった。今は何時だろうか。俺は全身に力を込めてゆっくりと立ち上がる。バランスは悪いがなんとか立てた。歩くことも可能だ。問題はないようだ。


 俺は工場の中へと入るために体を引きずった。


 ネマがいきなり格闘訓練を行った理由はわからないが予想はできる。

 俺の運動能力が見たかったのがひとつ。

 本当なら丁寧に記録測定を行うべきだと思うが、デブだと火を見るよりあきらかだからな。無意味だ。

 もうひとつは誰かを本気で殴れるかどうかだろう。ざっと言えば相手を殺せるかどうかだ。


 どうだろうか。

 俺に人が殺せるだろうか。

 さすがにひとり殺そうとしてみないとわからない。

 やれるとは思う。

 どうかな。

 わからないな。


 考えてみるが、想像してみるが、やはりわからない。

 俺もこれで社会不適合者になってしまうかと思うと何か強く胸が熱くなる。

 前に見たマンガで「泣くほど嫌な風俗の仕事を、仕事を解雇された女が何の仕事もないからやっている」という話があったが、それに近いか。いや、やはり俺はそっちのほうがどうかしていると思う。確実にネタありきだ。


 とりあえずそれはどうでもいいか。

 俺は視界の端にいる黒い女の子を無視して進む。


「風呂、ないか」


 俺は電気のついていた部屋に入るとすぐにそう言った。

 中ではネマとマイケルと、誰か知らない女が飯を食っていた。


「巨乳でいい?」


「そっちじゃねえよ」


 マイケルがスパゲッティを食いながらジョークを言ってくる。


「俺も飯が食いたいがこのままソファに座るのがためらわれる。シャワーでもいいからスッキリしたいんだが」


「巨乳でいい?」


「シャワーでいいから体の汚れを落としたいんだが」


 マイケルの天丼に俺は言い直す。


「シャワーはあるにはあるんだがな。少し離れている。あとで案内するから座って待っててくれないか。飯を食いたい」


「わかった。広場への出入り口で待ってる」


「おいおい、そこに座っていればいいだろう。寒いだろ」


「ここに継続して居続けると床が汚れる」


 俺は軽く手を振って外へ、踏み石のほうへと戻った。腰を下ろしてもいいものか悩んだが継続して立っているのもつらいので座った。太ももが熱い。明日は筋肉痛間違いないだろう。


 数分待っているとネマと知らない女がやってきた。


「失礼しました。シャワー室まで案内します」


 そう言ってネマは俺の腕を掴もうと手を伸ばした。


「触るな」


 俺は後方の広場に仰向けに倒れながらネマの腕を回避した。

 ネマの腕が止まっている。やや腰を屈めたまま静止していた。どんな止まり方だ。


 おっと、俺がネマを嫌っているように見えるな。

 フォローを入れなくてはいけない。


「言葉が足りなかったな。お前が濡れるから俺に触るんじゃない。泥で汚れる。見たところお前も着替えをしたんだろう。日に何度も着替える必要はないだろう。ましてや――」


「うりゃ」


 知らない女が雨の中、外へと出ると俺の腕を全身で掴んだ。

 ……なんということだ。女のピンク色のタンクトップに赤土がべったりと張り付いた。


「ネマ、あたしもいっしょにシャワー浴びてくるね」


「……よろしくお願いします」


「なんということを……日本語、わかるか。英語で話すか?」


 女は白人女性だ。細目の狐みたいな印象を受ける。ややぼやけてよく見えなかったが、まだまだ年若い。俺も日本人の類に漏れず外国人の容姿や年齢はわかりづらいのだが、どうにもローティーンではないかと思う。手足が健康的に細い。骨自体が細いのだろう。明らかに成長が終了していない。しかし細い手足とは不釣合いなほど巨乳だった。俺はまったく驚きを隠せない。ぐいぐいと俺の腕を谷間に寄せているので嬉しいのだが、そのたびに彼女のタンクトップがどんどん汚れていっているので感触に集中できない。


「はい、シャワー室に行こうね!」


 倒れている俺を起こして俺に肩を貸す。俺の重い体重を安定して持っている。見た目よりもなかなか力があるようだ。


「彼女はマリーです。主に食事と慰安担当です」


 この巨乳はマリーというらしい。マリーね。マイケルのやつといっしょでかなり多い名前だ。こちらも偽名だろうか。


「ありていに言えば性処理です。彼女の手が開いているときであればどうぞご使用ください」


 マリーも何かしら問題を起こして――なんだと?


「いつでも言ってね。いっぱい気持ちよくするからね!」


 マリーが笑顔で俺に顔を寄せてくる。

 俺はネマのほうへ顔を向ける。


「彼女はそういう目的で雇われています」


 慰安ね。どういう流れなんだろうか。そもそもここには何人いるんだ。

 肩を貸された俺は引きずられるようにシャワー室まで移動した。大量の泥水が裾から落ちているのも気になるが、顔面偏差値の低くデブである俺が女に密着しているという事実もかなり気になる。しかも隙あらば好きにしていいと言われたのだ。どう考えても気にならないわけがない。とりあえず早く服を脱ぎたい。マリーの服を汚していることにとんでもないほどの不快感と自己嫌悪が泥といっしょに俺に張りついている。


 シャワー室は広かった。シャワー器が五つと、その隣に仕切りがあるだけの大人数用のシャワールームだ。もともとは工場で使っていたのだろうか。増設した痕跡がないのでそういうことだろう。俺はタイルの上に着ていたジャージの上着を脱ぎ落とした。そしてインナーに手をかけようとしたとき、あることに気がついた。


 脱げない。


 女が隣にいるから服を脱ぎたくないという理由もあるが、それ以前に腕が上がらない。上着を脱ぐのもつらかったが、これはそれの比ではない。


「すまん、悪いが脱ぐのを手伝ってくれないか。腕が上がらない」


「はいはーい」


 マリーは笑顔で俺の服を脱がす。途中でビキビキとかなりの痛みが走ったが、別に彼女のせいではないしそもそも我慢できるレベルなので問題がないことにした。個人的にはもう少し優しくしてほしかったではある。


「ありがとう。あとは自分でできる。マリーも着替えるといい」


 ふと着替えの服がどうなっているのか気になったが、着てきた服があるのでなんとかなるだろう。フルチンでロッカーまで取りに行くのは情けないのでマリーに持ってきてもらおう。


「マリー、俺の服がロッカーに入っているから取ってきてくれないか、っておい」


 俺がマリーに声をかける。しかしすでにマリーは服をすべて脱ぎ終わった後だった。真っ白な細い体に不釣合いなほど張りのある大きな乳房が揺れる。またぐらには茶色の小さな茂みがあった。


「あ、着替え持ってきてなかったね。取ってくるね」


「ちょっと待て!」


 自分の言葉の途中でマリーはシャワールームを飛び出た。俺の声なんか届かないほど早くだ。俺は急に大声をあげたので腹筋を中心に傷んだ筋肉に痛みが走った。痛かったのでシャワールームのタイルにぼとりと倒れるとそのまま動かない。痛いのもあるが誰もいなくなったので緊張感が緩んだというのが大きいだろう。誰かが見ていないとサボろうという基本的な社会人の癖だ。


 数分してからマリーが戻ってくる。もちろん裸のままだ。周りの連中はどう思っているのだろうか。恥じらいの欠如なのか、それとも仲間意識があるからか、または仕事意識か。最後ならかなりのプライドを持っているといえる。


「外のカゴにおいといたよ! ってわああッ!? だいじょうぶ!? 痛いの?」


 水辺で寝そべっていたトドのように横たわっていた俺を心配してきた。うつ伏せ気味だったので、マリーは俺の体とタイルの間に細く小さな手を滑り込ませると驚きの体重移動で俺を仰向けにする。介護をやっていた俺だからわかる。今のはすごい。


「ああ、すまん。大丈夫だ。体が重いから動きたくないだけなんだ。タイルがひんやりしてるし」


「よかった。死にそうなのかと思った。じゃあ体を洗ってあげるね」


 これくらいで死ぬわけはない。

 それよりも何かとんでもないことを言われた。


「いや、自分でやるから大丈夫だ」


「説得力ないよ?」


 俺のがら空きの顔面に渾身のストレートパンチが叩き込まれたかのような、パワーのある説得力を持った言葉が投げかけられた。確かに今の俺なら明日の朝までここに転がっているのも容易だ。むしろ体が熱を持っているので水を出しっぱなしにしておいてほしいくらいだ。


「だいじょうぶ。マリー、体を洗うの得意だよ!」


「マジで? じゃあお願いする。ああ、エッチなのはなしで普通に頼む」


「なんで!? マリーじゃダメ?」


 マリーが先手を打たれたかのように悲哀の表情になった。生まれてから現在まで、そしてこれからも彼女がいないだろう俺にとってはかなり不思議な感情だ。性行為に何を求めているのだろうか。

 俺は普通に返す。


「ボコボコにされて体力もないのにエッチなことをするのは無理だ。今度頼む」


「あー」


 マリーが納得してくれたのか「そうだよねー」みたいな顔をしている。

 その後は普通にマリーが体を洗ってくれた。







 夜が明けた。

 部屋で目が覚めると見慣れない天井が俺を夢から出迎えてくれた。悪くない気分だ。今日もやる気が出てくる。そんな仕事の毎日から目をそらすたわ言を脳に叩き込んだ。

 そうじゃないか。今日は新しい仕事の二日目だ。これからだ。それなりに生活に充実感を感じさせてくれる流れのプログラムの昨日だったので、今日もそれなりに期待させてもらう。もちろん仕事において楽しいとか期待とか馬鹿なことを考えるのは現代の禁忌タブーであるが、それでもあの慰安的なサムシングでマリーとヤレるという事実だけで浮ついた気持ちにはなれる。


 立ち上がる。

 ズガンッ! と手を滑らせてベッドの下へと転がり、隣にあったスチールラックに思い切り体をぶつけた。痛い。痛いがすでに終わった痛みなのであとは耐えるだけだ。これならばなんとかなる。


 俺はベッド下からきょろきょろと顔をめぐらせた。

 俺に割り当てられた部屋はおよそ六畳くらいの縦長の部屋だ。ベッドが少し大きいために反対の壁に隣接させたスチールラックとの距離が短い。俺の肩幅もない。あとはやけに新しいエアコンがある。それだけだ。ベッド、ラック、エアコンの三つしかないと言っても過言じゃない。一応コンセントはあるので適当に何かを買ってきたら使えはする。いちいちそんなことを考えるくらい別世界じみた雰囲気がある。


 体がいまいち動かしづらい。人類に標準搭載された平衡感覚オートバランサーが不具合を起こしているのかガクガクと壊れたロボットのような動きになる。わかってる。俺の足と腹筋が死に掛けているのだ。


 部屋を出ると昨日みんながいた部屋にやってきた。


「おはよう。早いね。まだ六時だ」


「おはよう。トータルで十三時間くらい眠ったからな。いつもより早く目が覚めた。そういえばここでの生活の規則はどんなもんなんだ。さすがに寝て過ごしていいわけじゃないだろう」


 広間でマイケルが新聞を読んでいた。

 長い机を中心に囲むよう、三人用ソファとひとり用ソファが向かい合わせに置かれている。マイケルは三人用ソファに座っていた。マイケルの前のテーブルには大量の新聞が積まれていた。どれも多少膨らんでいたのですでに読み終わった後なのだろう。


「そうだね。基本的には何もないときは朝九時から夜九時までが待機時間さ。トレーニングをしながら日々を過ごすのが普通かな。仕事は事前に通達があって前準備から後始末までの日取りは仕事優先で行う。だから真夜中だろうと働いてほしい。簡単に言えばこんなものだ。仕事のタイプは決まっているけど、そこそこ種類があるからね、仕事の前に説明するよ。まあ、なんていうか――」


 マイケルは言いづらそうに頭を掻く。

 そして俺のほうをしっかり見た。


「――逃げるなよ」


 殺意を感じさせるような表情だった。


「理性的には逃げるつもりはない。もし俺が状況に耐えられずに逃げ出したら頭でも撃って止めてくれ。一度もやったことがない分野の仕事だ。約束ができない。人質が必要なら俺の肉親の住所を教える。何か書くものと書かれるものはあるか」


 俺はペンと紙を探すように見回した。

 マイケルが笑う。


「ははは、別にそこまでしてもらうわけにはいかないよ。調べればわかることだしね」


「それもそうか。ところで昨日の俺の夕飯って余ってる?」


「残念ながらないよ。ネマが食べてしまった。七時頃から朝食だからそれまで我慢してくれ」


 俺は「そうする」と言ってからマイケルの斜向かいのソファに腰を下ろした。テーブルに置かれている新聞を手にする。俺はマイケルに軽く「読むよ」と合図を出すと、マイケルも手の平を出すように「どうぞ」と言ってくれた。


 新聞の一面記事を読む。県内の米軍基地問題に対する“新聞社の見解”が住民の声として載っていた。もちろんそういうやつらはいるだろうが、ほとんどの連中は無関心だ。無関心というのも語弊があるか。「今のところは問題がないので黙ってろ」というのが正しいのかもしれない。G市における基地反対運動演説の内地訛りは聞いていて楽しいものじゃない。むしろ耳障りだ。

 一面記事を見た後、俺は新聞を優しく開いていく。両端のマイケルが掴んだ跡であろう部分に注意しながら、マイケルが何を読んでいるのか確かめる。紙のしわが大きい場所を見つける。さらに折り込んで目を近づけて呼んでいる部分があった。記事の内容は「暴力団の抗争」と書かれている。銃撃戦のような音が聞こえたあとあるが、実際はどうなのかわからない。付近の住民からは有力な手がかりはないと書かれている。しかし見出しはそうなのだから新聞屋さんもわりとテキトーか、でなければ恣意的だ。

 後は普通に読んでいく。あまりおもしろい記事はなかった。


「仕事は銃撃戦なのか」


「いや、そうなることはあまりないね。一方的に駆除することになる。銃の扱いが慣れていないならネマから教わってくれ。彼女は戦闘のスペシャリストだからね」


「年端も行かない少女が戦闘のスペシャリストという事実に、世の中の不安が凝縮されているようで悲しい」


「まあね」


 マイケルはざっとお茶を濁すとまた新聞を読み始めた。もともと手にしている一紙をさらに読み続けている。何かおもしろい記事でもあったんだろうか。ここにある十紙ほどの新聞はおおよそ高速で読んでいるようで最初の折り目を気にせず無理やり折っているのを見るとあんなに注視するような読み方をするようには思えないのだが。ああ、二週目かな。


「おはようございまーす!」


 茶色の髪をポニーテールにしたマリーが元気よく入ってきた。初めて見た昨日よりもかわいいので、どうやらほんとにこの娘はかわいいようだ。俺はわりと人の顔を見ないで適当なアタリをつけていることがあるので、どうにも一見とそれ以降で印象が合わないことがある。人の顔をしっかり見ろよ、って話なのだが初対面で相手の顔をじっと見つめるのも正直どうかと思いはする。そのため、俺は人の顔を覚えられない。


「うわ、新聞読んでる!」


「そら読むさ。老眼まではまだまだ時間があるからね」


「もしかして頭がいいんですか?」


「新聞読めるくらいで頭がいいなら俺は――」


 待てよ、新聞は記事の文字数が制限されているのでたまに舐めた表現や雑な内容がある。確かにそれをクリアして読むのであれば、その読解力で頭がいいと表現できる。

 いや、ないな。

 俺は適当に考えたことを適当に破棄する。


「読ませてもらったらどうだ」


「あー、マリー読めないんです」


「日本語難しいからな。今の時期の新聞は恣意的な表現も多いし、面倒だ。英語の新聞がいるか」


「マリーはO県生まれのO県育ちです。だから英語は読めません」


 わお、俺と同じ地元民か。

 新聞の話はやぶへびになりそうだ。これ以上は止めておこう。


「じゃあ朝ごはんつくってきますね」


 マイケルが「よろしく」と言ったので俺も「ありがとう」と言っておいた。


「いい娘だろう」


「まったくだ。俺みたいな不審者に対しても普通に振舞ってくれる」


「普通に?」


「お風呂で全身を洗ってくれるくらい甘く振舞ってくれる」


「だよね」


 俺は手にしていた新聞を置いて新しいのを取る。内地の有名なやつだ。同じように読むがマイケルが注目しているのでわりとバラバラのようなので、あくまでも興味のある記事をじっと読んでいたのだろう。


「ところで、俺への訓練ってもうネマの仕事に組み込まれてる?」


「……嫌かい?」


「むしろ大歓迎だ。とりあえず目的がないと痩せる事すらできないからな」


「まるで目的があれば痩せられるみたいな言い方だ」


「もちろんさ。まだ実証されてないけど、今度は違う。今度こそ違うさ。きっとね」


 呆れた声でマイケルが言ったのを俺はしっかりと受け止めて返す。

 おどけた俺の言い方に口元をニヤつかせる。


 しばらく待っていると扉の向こうからガラガラと音を立てて何かが近づいてくる。時間的にみて朝食だろうか。すぐ隣にキッチンがないようなのでホテルなどで使うサービスワゴンのようなもので運んできているのだろうかと予想する。

 そしてそれは正解だった。


「お待たせしましたー! 朝ごはんでーす!!」


 マリーが元気よくドアを開ける。鈍色のサービスワゴンに朝食を載せてやってきた。マリーは俺たちの前にメインディッシュを景気よく置く。


「……目玉焼き、か?」


 自信なく俺がつぶやいたのを誰も聞いてはいない。もしくはシカトされた。

 俺の知っている目玉焼きと少し違うからだ。それはとても大きかった。そして、両面焼きだったからだ。俺の皿に載っているのは両面焼きにされた十個の目玉焼きだ。一度に十個焼いてあるので見た事のない有様になっている。

 マリーは大きなバスケットを取り出してテーブルの真ん中に置く。中には胚芽パンのスライスが大量に収まっていた。もともとはバゲット状だったのか大量に詰まっている。そしてイチゴ、ブルーベリー、マーマレード、ルバーブのジャム壷のホルダーが置かれる。

 そしてオレンジジュースのペットボトルが置かれた。よく行くファストフード店舗で買えるハーフガロンのやつだ。普通のオレンジジュースと違う味だ。好きなやつだ。

 以上だ。


「ネマが食事時間までにこないのは珍しいな。マリー、呼んできてもらえるか。食事はそれからにしよう」


「はーい、行ってきます」


 本当なら「新入りだから俺が行く」と言いたいところだったが、ネマの部屋を知らない上に朝から野郎が起こしに行くとか最悪だと思ったので言わないでおいた。決して体が痛いからとかではない。


「なかなかパワーのあるメニューだな。やっぱりたんぱく質か」


「そうだね。別になくてもいいといえばなくてもいいんだけど、それよりはあったがほういいよ」


 さすがに固焼き玉子を十個食うのはきついんじゃなかろうか。それができるような体調を整えるのが大切なのはわかるんだが。ボディビルダーが毎朝、卵の白身だけを食べるのは知識では知っているし「へえ、おもしろそうだ」と思ったこともある。だがいざ出されてみると少し引く。


「あ、卵は全部食べてね。パンはいいけど」


「わかった」


 今日も格闘訓練をすることになるので俺も食べておいたほうがいいと思う。プロテインはまずくて飲めたものじゃないので卵でいいだろう。卵十個でたんぱく質五十グラムくらいだろうか。ボディビルダーというわけではないしこれくらいでちょうどいい。


「連れてきたよ!」


「おはようございます……」


 マリーの後でネマが入ってくる。


「ヒュー」


 俺は思わず口で言った。


 ネマは灰色のスポーツブラと同じタイプのショーツだ。ぴったりとしており体の線が綺麗に出すぎている。頭は寝癖で爆発しているのだが、昨日とあまり変わらない気がする。

 それよりも俺の興味を引いたことがある。

 筋肉だ。

 凄い筋肉をしている。筋肉があるというと、つまり“大きさ”があると思われがちであるが彼女はそっちのほうではなくて“溝”が凄い。いわゆるカットと呼ばれる部分だ。特に脇腹の鱗状の筋肉はどうやってつけているのだろうか。腕はもちろん太ももにもある。その上にかぶさるように脂肪も載っているがそれでも十分にわかるほどだ。触ってみたい。


 ふと、音がないことに気づく。


 気づけばネマが俺を見ている。

 視線が合う。

 マリーを見る。

 視線が合う。

 マイケルを見る。

 視線が合った。


「ゴホッゴホゴホッ……」


 思い切り怪しい咳払いをする。しくじった。女を見るときは“顔だけを見なくてはいけない”という世界的流儀を忘れていた。すばらしい体だ。芸術的だった。ボディビルとして考えるとそりゃまだまだ上があると言うやつがいるかもしれないが、普通に生活しながらあれを維持していると考えるとその生き様からすでに芸術だと言ってもおかしくないだろう。ボディビルダーはわずかコンテストの一日のために鍛えているようなものだ。それに引き換え……


 ちらり、と三人を見る。

 やはり俺を見ている。


「悪かった。あまり女性の肌を見るものじゃなかったな。すまない」


 素直に謝った。


「……ああ、いえ、別に」


 ネマもどう反応していいのかわからないのか、適当な返しだ。

 マイケルとマリーは目元まで笑顔で崩しながら俺を見ていた。


「ほら、食事じゃないのか。昨日は昼から何も食べてないから腹が空いてるんだ」


「そうだな。そろそろ食事にしよう」


「……そうですね。いただきましょう」


「はーい」


 四人、それぞれ思い思いの食事の作法を行ってフォークを手に取った。

 味は、見た目通りだ。

 俺はしっかりと租借しながらすべてを平らげた。






 うら若き乙女が二人も、主観的な羞恥心の向こう側にいるようなので俺も本当に注意しなくてはいけないようだ。ネマは基本的にシャツとネクタイであるらしいが朝はあんな感じらしい。マイケルから適当に話を聞いたのでおおよそのことは掴んだ。


 まずこのチームはネマをリーダーとした五人構成だ。マリーも仲間らしいが戦闘はできないので除外。つまりネマ、マイケル以外にあと三人の仲間がいるそうだ。もともとは三人だけのチームだったのだが最近二人の追加があった。その二人と古参のひとりが現在仕事に出ている。諜報らしいので人数が多くても問題なんだそうで三人だけで向かっている。

 諜報と言ったが、別に凄まじく警備の厚い場所に行くわけではないのでいわゆる“諜報員スパイ”とは違う。場所や建物、近所の立地確認や普段の行動を見るために張り込みをしているらしい。またスパイ活動もやることはあるそうだが、マイケルしかできないのでまずやらないそうだ。決定権リーダーはネマだが、経験と判断はマイケルなので助言を受けているそうだ。参謀ってやつだろうか。


 ざっと話を聞いてみた感じはかなり脆い印象を受けた。退役軍人や専門家プロフェッショナルだけが入れる特別班スペシャルチームという印象はない。大きい組織の使い捨て小間使いか、民間の殺し屋チームといった風が吹いている。つまり、みんな最高のクオリティを持った兵士というわけではなく、みんなでできることをやる人殺し集団だ。

 そのために俺みたいな経験のないやつも簡単に仲間に引き込む。

 その代わり、背後から撃たれる可能性も十分に高いはずだ。どちらも。


 この仕事の危険性について聞いてみたが、驚いたことにかなり低いらしい。

 まずここが日本ことが大きい。排除対象の誰もが大腕を振って拳銃を持ち歩いていない。そのために危機感が低い。しっかりと情報収集を行って夜中に出向いたら楽に仕事が終わらせられるらしい。だから余計ない体力もいらない。簡単な銃の撃ち方と、そして人を殺せる覚悟だけあれば問題ないと言われた。

 とはいえ、最低限の体力は必要だ。少なくとも走って逃げるくらいはできないと死んでしまう。


 あと昨日の、俺は格闘訓練だと思っていたものは実は格闘訓練などではなく、いわゆる「本気になれるかどうかの確認」だったそうだ。ちなみに今日もやるらしい。


「だいたいはわかってくれたかな」


「わかった。わかったんだが、昨日まで一般人の俺をここまで受け入れてもいいのか。それともこの程度では受け入れたことにならないのか? 俺がやっぱ止めた帰る、とか言ったらどうするつもりなんだ。この程度で殺していたら足が着きやすくないか?」


「はははっ、本当に帰るようなやつならここにはこないよ。時給一万円なんてバカな誘いには乗らないさ。それにあんな雑な地図でここを見つけるのも難しい。あの地図を読みきれる人物がほしかったからね」


「あの地図で何がわかるんだ」


「ネマが言っていたじゃないか。決断力だよ。あんな胡散臭いもの、興味だけでここにはこられないさ」


 マイケルがニヤニヤと笑う。

 とは言うが、現代においてブチギレた野郎は少なくないわけだから、今の仕事を辞めてでも――ああ、そうか。そうやって精神を病んでるやつがいいのか。普通の精神状態では人を撃つなんてできないからな。


「もう一度聞くけど、人は撃てるかい?」


「たぶん撃てる。少なくとも一発は無理にでも撃つ。それから判断する」


「なかなかいい決断力だ。普通の人間は理性と良心が邪魔してその言葉すら言えないよ」


「俺はわりと普通の部類だよ。今までしっかりと普遍的な社会に溶け込んでいたからな。まあ、仕事はバンバン辞めて転職していたが」


「それ、溶け込めてないんじゃないかな」


 ……なるほど。そういう見方もあるか。

 というかそれが正しい、はず。


「そうだ金の話なんだが、時給一万円ってことはあれか。実働時間あたり一時間一万円ってことか?」


「ああ、ごめん。それ嘘なんだ」


 シット。


「正確には何もせずとも一ヶ月で三十万は約束する。そして実働一日でプラス二十万、たまにボーナスもある。君が考えていたのは一日八時間の二十二日で百七十二万円かな。さすがにそこまでは無理かな。けど、ボーナスがよければもしかしたら年収でそれを超えるかもね」


 まあだよな。

 いくら頭の悪い俺でもそれくらいはわかっていた。

 どちらにせよ破格だから文句はない。


 しかしボーナスね。


「ボーナスってなんだ。まさかサラリーマンみたいに夏と冬の二回に給料数か月分ってわけじゃないんだろう」


「それは見てのお楽しみかな。もしかしたら近くあるかもしれないね。一週間以内に仕事があるはずだからそれまでにしっかりと体を動かせるようにしておいてくれ。ああ見えてもネマは優しい娘だからあまり邪険にしないでくれると嬉しい」


 片目をつぶって手刀を切る。おっさんのウインクなんて見れたものじゃないと思っていたがかなり様になっている。さすがハンサム。さすがハンサム・マイケル。男の俺がときめくことはないが不快さはまったくない。


「向こうが嫌わなければ邪険にするつもりなんかないさ。いや、本当はそれじゃ駄目なんだろうけど。どうにもね、嫌われたら好きになることができない。この辺りは社会人として失格だ」


「だいじょうぶ。あの娘は君を嫌わないよ。君というか、誰も嫌わない。君が邪険に扱わなければあの娘も何もしない」


「なるほど。じゃあネマが俺を嫌いだしたら俺が嫌なやつだという意思表示になるのか。それは助かる。他者から自分がどう見ているかなんてわからないから助かる」


「おもしろいね、きみ」


「言葉通りに行動できるなら俺もここにはいないよ。成長した性格エゴは俺の理性を常に脅かす。もしおかしいなら注意してくれ。さすがに暴れることはないと思うが、約束できない」


「ははっ、じゃあ君が暴れたら力ずくでも取り押さえるよ」


「頼む」


「はははっ」


 何がおかしいのかハンサム・マイケルは自慢のハンサム顔を泣き顔にするように腹を抱えて笑っていた。


 少しは打ち解けた気がするが、あくまでも気がする程度だ。

 マイケルが俺のことをどう思っているのかなんて誰もわからないし、俺のことをマイケルがどの程度理解したのかも知れない。俺はマイケルを先輩としてできるだけ尊敬していかなければならない。それが仕事をする上で大切だからだ。

 できるだけ自分で判断することを減らしたい。


 俺は立ち上がる。


「ちょっと出かけてくる。発信機を取り付けるなら今だぞ」


「いや、君の調査は終わってる。君が“何かよくないもの”ではないことは判明した」


「おっと、あとは俺を骨までしゃぶりつくすだけか」


「僕、あまり脂っこいのは好きじゃないんだよね。君も言ったように後始末のほうが難儀だ。できれば生きて自分の世話をしてほしいよ」


「ああ、わかる。けど、それって一番の俺の不得意分野なんだ」


「うん、僕もそれ、わかるよ」


 俺は手を振って、部屋を出た。

 工場内部の広場といえばいいのかコンテナやロッカーが高く積まれているトレーニングルームだかを歩いて出入り口に向かう。鍵の掛かっていない扉から漏れてくる雨音を聞いてから「傘か車を貸してほしいな」とようやく思い立った。朝起きたときからシカトしていたが昨日から雨が降り続けている。


 扉の陰に黒い穴の目を持った女の子が立っている。昨日と同じフリルのワンピースを着ている。ここの子なんだろうか。教育に悪い気がするがその分野で育っていくなら別にいいかと考える。


 ……いや、もしかして幽霊なんじゃなかろうか。


 紹介されていないし、冷静に考えてまぶたも眼球もないやつなんて存在するわけがない。絶対にいないとは言い切れないが、わざわざ俺の行動範囲内にいるわけがない。いたらもう少し有名になっているだろう。ネットをやって珍しいものを記事にした日本のサイトでもこういったファッションや病気はみたことがない。一番近いのはホラーマンガのそれだ。


 じっと見つめる。

 向こうも俺を見ている、気がする。視線がわからない。


 ざり、と埃を踏む音が背後から聞こえた。

 振り向くとネマがいた。


「ネマ。彼女は、誰だ?」


 俺は訊いてみた。

 もしもネマに見えなかったら、とりあえず「不確定名称・幽霊の女の子」として俺の中で判断しておく。俺は少しわくわくしながらネマの返事を待った。


「……彼女は、カデナです」


「カデナ、ね」


 ようやく名前がわかった。

 ネマも見えるようだし幽霊と言う事はなさそうだ。

 俺は名前を呼ぶために振り向いた。


 目の前に大きな壁があった。

 いつのまにか、俺の目の前に壁のような何かがそびえ立っていた。

 俺は視線を上に向ける。

 そこには鬼がいた。


「お前は誰だ」


 鬼がしゃべる。

 牙のように長い犬歯と同じように続く尖った刃のような歯が見えた。


「よろしく。初心者ニュービーだ」


 俺は壁の上に手を伸ばして握手を求める。


 ぶん殴られた。

 見えた上に防御が間に合った。おそらくかなり手加減したのだろう。しかしそれでも吹き飛ばされた俺は壁に叩きつけられる。頭を打つことはなかった。


「……この国の人間は戦場の価値観がわからなさすぎる」


 どさり、と鬼が何かを捨てた。

 大きな何かだ。身の丈ほどもある。


 人間だった。やはり人間だった。


 だが全体像が把握できない。俺の知覚では基本的な概観を理解できない。


「……気にすることはありません。こうやって、補充もいます」


 鬼がこちらを向くが、個人的にはそれどころじゃない。右手らしき細くて小さい指が見えるのに全体が把握できないなんて尋常じゃない。俺はしっかりとそれを見やる。


 そして理解できた。


 そいつはうつ伏せに寝ている高校生だ。俺も通っていた高校の制服を着ている。体つきや俺式年齢判別法を行うためにふくらはぎを確認、妙に細いことから高校一年生だと判断する。手も小さいので極端に発育不良でなければ正解だろう。


 問題なのは頭部の半分がないことだ。

 うつ伏せになっているのに後頭部が砕けている。どこぞのネットサイトで確認した通りの頭の内部が目の前で確認できた。あまりにも作り物めいていたネットの画像はどうやら本物のようだ。ピンクと白がまだらのように確認できた。脳みそにあたる部分はすべてない。ここに来るまでにどこかに落としてきたのだろう。

 彼女が死んでいるのは明らかだ。


 俺はじっと、見つめていた。


「では初心者ニュービーさん。彼女から装備を剥ぎ取ってください」


 ネマがとんでもないことを言った。

 ……そう思ったが、それは正しいことだ。この職業でこれから生活していくなら、これくらいでガタガタ言っていては何もできない。


 俺は動きづらい体を無理やりに移動させて女子高生の体を仰向けにした。

 ぎょろりと向こう側・・・・を向いた両目があった。俺を見ていないはずなのに、見られている気がする錯覚が感覚を焼く。少し、時間をかけてゆっくりとまぶたを閉じさせる。ドラマやマンガでしか見た事のない、一度もやったことがないはずなのに両目はしっかりと閉じた。


 その閉じた目の真ん中の上部。おでこに黒い穴があった。あの黒い女の子のような泥のような穴ではない。普通の、肉を穿ったような奥が見える穴だ。弾痕、だろうか。


 標準的な体温より少し低いのか、やや冷たい気がする。透けないくらいに雨で濡れているのでもしかしたら雨のせいかもしれない。気のせいかもしれない。


 俺はよく考えながら・・・・・・・彼女を触る。

 彼女の唇を触る。唇は閉じている。指先を鼻先に持っていく。そして自分の耳を鼻と口の間に近づけた。しばらくそうした。俺はややあって諦めた。


 女子高生は黒灰色のベストを着ていた。鉄製のカロリーバーのようなものがいくつも収められており、俺の知らない何かも挟まっている。俺はアジャスタを外してベストを脱がせた。鉄が収まっているので重いのはわかるが、なぜかそれ以上に重い気がする。


「おい」


 俺は高校指定のブラウスを外した。フロントホックの薄い桃色のブラジャーが目に入る。外す。弾けるようにブラのカップが左右に飛び、小さな乳房が露になった。俺は乳房の真ん中あたりに手のひらを置いて、静かに目を閉じる。しばらくしてから自分の耳を胸に当てた。じっと、身じろぎもせず音を聞く。


「おい」


 二度目の鬼の声。しかし先ほどとは違う声音だ。


 俺は耳を離すとブラジャーを付け直した。できるだけもとあったように左右の肉をカップに入れる。でかいお世話だろう。それから贅肉のない脇腹をむにむにと触る。左右から挟み腹腔を押すように、上下からはさんで脂肪を摘むように。まだ暖かい。


「本当に……死んでるのか」


 ぼそりと俺が漏らす。

 その場にいる誰もが何も言わない。俺はベストを取るとベルトを伸ばして着る。俺の胸囲と腹回りが大きいのでアジャスタをはめることはできなかったが問題はないだろう。それから腰に巻かれていた拳銃のホルスターを外す。これは正面に拳銃を置くものだこちらはギリギリまで伸ばして、ギリギリ巻けた。


「彼女はどうしたらいい」


「……放っておけ。今はな」


 俺にできることは何もないので、せめてもと思い彼女の両手を腹の上で組ませた。髪もさっと直す。

 おそらくこれがここの日常なのだろう。泣き言も言わないし八つ当たりもしない。普通の、ただ嫌な出来事だ。


「ネマ。残念だが偵察は中止だ。残念だが偵察は中止して今すぐ踏み込もう。今ならやつらも油断している。だから今しかない。今日の夜になればまた警備体制が変わる。今ならやれるんだ。今なら人数がただ増えただけ・・・・・・・・・・だ」


 俺は鬼から視線をネマに移す。ネマはこちらを見ていた。

 じっと見ている。

 何が言いたいのだろうか。俺は少し考え、この場に沿った一言を捻出する。


「俺は賛成だ」


 先輩に追従する肯定意見は基本的に正しい。

 そういうことにしておくと社会は楽だ。


 この熱血漢な鬼の肩を持つわけじゃない。おそらくこいつはこの娘の死を無駄にしたくないのだろう。すぐに敵討ちをしたいのだろう。正直言えば「馬鹿じゃねえかな、勝つときに行けよ」と言いたいところだが俺の首が捻じ切られる可能性があるので控えておく。そしてこいつの言っていることが正しいのであれば確かに今がいいだろう。彼女の体温があまり落ちていなかったことから戦場とやらはわりと近場だ。迂闊に後をつけられていようもならここも危ない。全滅させたほうがいいだろう、とゲーム脳の俺は考える。


「……マイケルの意見も聞きます」


「是非、頼む」


 ネマは踵を返して去っていった。背中が寂しい。本気で「おっと、今日でこのチームは全滅なのかな」と思わせる何かを感じさせている。死亡フラグとしては弱いが、初心者の俺としては判断に困る。早まっただろうか。


 立ち上がり、鬼を見上げる。

 俺よりも二十センチは高い身長だ。短く刈り込んだ頭髪はすべて白い。ついでに肌も白い。だが表情は暗かった。幾重にも刻まれた皺のひとつひとつに悲しい思い出を刻んでしまったような、古強者を感じさせる表情だ。表情は暗いが、目だけは鋭く輝いている。すべてを許さない修羅のような構えだ。隣に立っているだけで逃げ出したくなる。

 年を感じさせない肉体だ。がっちりとしており深緑の薄いコートの下、黒の肌着とスラックスを押し出している筋肉は一撃で俺の顔面を割ってしまいそうな膂力を匂わせた。こうやって見ているとやはり先ほどの一撃は明らかに手加減されている。仲間が死んでイラついているのだろう。思い切り、殺すつもりで殴られなかったことを感謝しておく。


「……お前。どこの誰だ。見た事がないが」


「昨日までカタギだった一般人だ。何の実力もない新人で、真に初心者なのでよろしく頼む」


「バカが……そのままカタギをやっていればいいものを」


 そうは言うが、そうも言っていられない事情もある。まあ、金だが。


「死体を見た事はあるのか」


「何度かある」


「名前は」


初心者ニュービーって呼んでくれ。いつか、名前で呼んでくれる日まで。一応、マイケルとネマにはバレてるみたいなんで名前を隠したいってわけじゃない。ただ、なんというか、俺は甘える場所にとことん甘える癖があるんでぶん殴って躾けてくれると助かる」


「イヴァンだ。阿呆だな、自分の面倒くらい自分でみろ」


「雷帝と同じ名前か。縁起がいい」


「それに気がついたのは仲間が死んだ後だ。大昔にな。着いて来い。他の装備を渡す」


 まだネマが戻ってきていないが、イヴァンの中では行くことになっているのだろう。俺も反対するつもりはないし、何より新人様だからな。先輩の後を着いていくしかない。


 俺はイヴァンの後を付いて外へ出た。どっちつかずの弱い雨が粒を大きくして降っている。

 ――何か呼ばれたような気がしたので振り向いた。


 女子高生の死体の傍に黒い女の子が立っている。カデナ、だったか。いや、もしかしすると死んだ女子高生のほうがカデナなのかもしれない。タイミング悪かったからな。それにネマには見えない可能性もある。個人的には人間でも幽霊でもどちらでもいいがいきなり現れるのは勘弁してもらいたい。怖いでは、ある。


 黒い女の子が大きく口を開く。口を開くと表現したが、顔面に穴が開いたという可能性もある。しばらく観察してから幽霊だったら近くまで寄って調べてみよう。


 まあ幽霊なんていないけど。

 あれが人間じゃなかったら、たぶん幻覚だ。

 正確に言えば、幻覚の方向性から攻める。もしも本当に幽霊なら懐柔して手駒として使おう。もしも俺の脳内にしかいない幻覚だった場合、俺の精神はかなりヤバイことになっているわけだからみんなには迷惑をかけることになる。ま、なんとかなるだろ。


「早く来い」


 俺は意味もなく濡れた後、イヴァンの後を追って工場前のワンボックスカーに乗り込んだ。








「射撃の訓練はしたか? でなければ撃つくらいはしたか。したことがないなら拳銃だけにしておけ。お前のその出っ張ったケツみたいな腹にくくりつけられているそれだ。誤射が怖い」


 女子高生の持っていた銃だ。残念ながら知らない銃で、ゲームやネット、マンガでも見た事がない。


「左側面のセイフティを外せば撃てる。撃鉄が上がっていなくても強く引き金を引けば弾は発射される。撃とうと思ったら撃て。ただし、相手をよく狙ってからだ。狙えなかったら、死ね」


 ダブルアクションというシステムの銃か。それは知っている。

 ホルスターから拳銃を取り出そうと思ったが、誤射が怖いので止めておいた。


「……誤射は、怖いね。本当に」


 後部座席に乗っているマイケルがぼそりとつぶやく。何か嫌な思い出でもあるのだろう。マイケルの隣にいるネマも暗い面持ちだ。


 結局、襲撃は行うことになった。決定的な理由は不明だが、もともとの仕事であることとこの機を逃せばより難しくなるからだろう。あくまでイヴァンの話を前提とした話だが。


 イヴァンが乱暴にワンボックスカーを運転している。急いでいるのもあるが、そもそも運転が荒いのだろう。そんなブレーキワークだ。前のめりにならないように意味もなく丁寧にブレーキを使う俺とは正反対の運転を行っている。


 助手席に座っている俺は黙って話を聞いて、端的な返事を返している。イヴァンが怖いのもあるが、そもそも人見知りするので閉鎖空間でのお話はあまり弾まない。友人たちとオタク話をするときはもっとガシガシしゃべる。


「場所はどこなんだ」


「U市のカリフォルニアタウンだ」


 マジかよ。近所――というには遠いが俺の行動範囲内だ。行ったことないけど。というかU市なのか。

 カリフォルニアタウンは元は外国人が集まった地域だ。今ではそうでもないがアメリカ人が多く住んでいる。U市にしては珍しく開発が遅れている場所だ。いろいろオリエンタルオシャレッティな店もちらほらあるが、ちらほら程度なので基本的に来客は少ない。そんな場所だ。


「カリフォルニアタウンに住み着いている中国人が標的だ。アジア系だから撃つ対象を間違えるな。白人は敵じゃない。むしろ味方だ。絶対に撃つなよ。国道側から入るが、万が一の場合はバラバラで逃げるが地図は頭に入ってるか?」


「地図だけなら。実際に行ったことはない」


「上等だ。ただし逃げるときは国道側からは逃げるな。目立つ」


 恐怖で震えない自分を逆に不信に思いながらカリフォルニアタウンの横道に入る。細い路地を、坂を上る。まずこれもあって人が入らない。天然の人払い結界だ。


 中を少し進み、大きなマンションの前にくると車を止めた。


「この先にある最近建てられた新しいアパートがある。そこの四階と五階がすべてそうだ。事前の確認でアジア系は全員そうだ・・・。お前は俺がいいと言うまで絶対に発砲するな。弾装マガジンの交換も許さん。返事!」


「わかった」


 とりあえず“死ぬかもしれない”という覚悟をする。覚悟だけだが。実際に死んだことなんかないし、死ぬような目にもあったことがないので理解の一端すら掴めない。それなりの適当加減だ。


「何かあるか?」


「アジア人がすべて殺害対象なんだろう。俺を撃つの勘弁してくれよ。撃つなら頭を一撃で頼む。痛いのは嫌いなんだ」


「それだけ言えればいいな。ネマ、目標は先ほど渡した書類の通りだ。指揮を取れ」


「わかりました。マイケルは残ってわたしたちの回収を。イヴァンは前衛。わたしは初心者ニュービーと後衛。時間はまだありますが念のために手早く処理します」


 全員で車から降りる。マイケルは運転席に、残りはそのまま歩き始めた。


「……おいおい、なんかこう、陣形フォーメーションとかないのか」


「無駄口を叩くな。あれは十分な訓練を受けた人間が使える特殊な技だ。普通は前衛と後衛のみを決める」


 言われてみれば納得できる。全員が対処マニュアルを網羅しているからこそ、素早く動けるのだろう。スーパーずぶの素人である俺がいると動きにくいことこの上もないはずだ。


 しかしそれにしてもザカザカと靴を鳴らして容赦なく歩いているのだが、何か小走りとかそういうのもないのか。イヴァンが脇に吊っていた銃を抜いた。銃口に筒状の物体がついている。ネマも俺と同じベストを着ているだけで拳銃は一丁しか持っていない。しかも小型だ。イヴァンと同じように拳銃の先には筒状の物体を装着させていた。減音器サプレッサーというやつだろう。


 アパートの前までやってきた。

 遠くからだとよく見えなかったが近くまでやってくるとそこそこの人数がたむろっていた。みんな柱の陰で涼むように腰を下ろしているアジア人だ。


「地元民の可能性は?」


「ゼロだ」


 イヴァンが拳銃をぶっ放した。

 ブシュッ、と破裂音を丁寧にした音が鳴る。


 目の前にいた男が倒れた。


 死んだ。

 もしくは、死ぬのだ。どうしようもなく。

 俺の常識では測れない恐ろしい日常が始まった。

 人が死ぬ。

 殺していく、という現実がようやく目の前に広がり、そして実感していく。


 これはいったいどういう流れなんだろうか。

 今までにない新しい事象だ。

 新人体験の多い俺でもここまで衝撃的なファーストタッチはなかった。

 介護も、いきなり人様のオムツを外して垂れ流された糞を洗い流すという非日常が広がったが、ここまでじゃない。もしかしたら介護と人殺しをいっしょにするなと思うかもしれないが、あまり変わらない。介護は俺たちが、相手の、緩やかで、他者からの文句のつけようのない、しかし罵倒される、劇のような死を、最後を、看取るのだ。罵倒されて、手取り十一万で。変わらない。どちらも人が死んでいく。

 死ぬ。

 死んでいく。


 頭に一番新しい死が思い浮かぶ。

 寝たきりの老人。まともな反応はない。どこを見ているのか虚ろな目に半開きの口。しかしどこか見ている。オムツ交換時、強い下血、血尿と呼べないほどぬるりとした大量の血液が噴出す。動かなくなる。即座にナースコールと大声で近くの職員を呼ぶ。近くにいた看護師が駆けつける。俺ともうひとりが二人で看護師の補助をした。フロアには痴呆症老人が九人。職員はひとり。新人だ。いつのまにか痴呆症老人は八人になっており、いつの間にかひとりが転んで頭をぶつけて死んでいた。偶然だった。下血した老人はまだ生きている。新人は家族と介護課の課長から猛烈に罵倒され、辞めた。

 次の日、新人は死んだ。


 あと余命いくばくもない、まともな消費活動すらできないニート以下の痴呆老人のために、まだ十八歳の少女が命を絶った。ありえなかった。なぜか問題にはならなかった。


 なんてむごい職場だったのだろうか。

 わずか十八の娘が意味もなく死ぬとは。

 これが介護の世界だった。


 ざわりと腹から下に悪寒が走る。ケツがむずむずする。いまさらだ。

 頭ではわかっていても今まで成長させてきた常識や理性が警鐘を鳴らす。強く、鳴らしている。


 ブシュッ、ブシュッ、と間抜けな音が鳴るたびに映画のようにバタバタと人が倒れていく。

 かなり精神にくるものがあった。

 もしかしたらちょっと間違えば俺もあそこにいた可能性があるからだ。それはそれでかまわないが、やはりこちら側がいい。


 ちょっとしたうめき声だけで階下にいた十人足らずの人間が死んでしまった。

 かわいそうに。こいつらだって他の連中といっしょだ。普通に、他人に適度な迷惑をかけながらこれから先も生きていくはずだったのだ。程度の差はあれ、生きるはずだった。もっと死ぬべき人間が多いにも関わらず、むごい。


「ニュービー」


 イヴァンの声がした。今のは二度目の声だろうか。一度目は記憶にない。これが最初だろう。きっとそうだ。そうに違いない。今、彼は何を求めて俺を呼んだのだろうか。そうか、俺が一般人だから人殺しに対する動揺を聞いているのか。今なら、確かに今ならまだ戻れる。車に戻ってガタガタと震えることができる。もしかしたらこの仕事も辞めることができるかもしれない。まだ帰ることができるポイントだ。


「人が死んだというのにあまり感触がない。悲しい。動揺が見られない自分に、悲しい。もっと死ぬべき人間が世界には多いんだ」


 イヴァンは軽く俯いてから、視線を戻すと倒れた連中の前に近寄る。動いてはいない。

 動いてはいないが、イヴァンは倒れたやつの頭にしっかりとさらに一発ずつ弾丸を発射した。途中で弾丸がなくなったので弾装交換を行う。その瞬間にネマが前に出て警戒する。弾装交換が終了したらまた同じ事を繰り返した。


「上にバレた可能性は?」


「大丈夫だ。事前に仕掛けた盗聴器から声がしない」


 人がいるのは決定済みなのに声がしないということはかなり遠くに仕掛けたのだろうか。おそらくそこも含めて一週間以内に仕事ということだったのだろう。マイケルとしては。


 イヴァンは無言で階段を上り始めた。

 五階建ての普通より低予算気味のアパートなのでエレベータはない。そもそも五階までならつける義務はないのでしょうがない。あってもどうせ使ってはいけないだろう。

 それになくてよかったと言える。

 エレベータがあると取りこぼし・・・・・の可能性が出てくる。そうなるとネマとイヴァンが二箇所から攻めることになり作戦の成功率は下がった。


 当たり前だが二階、三階と上っても誰も見当たらない。こんな時間ということもあるが、アパートの通路や階段なんて十分も二十分もかけて上るものじゃない。そもそもすれ違うことが少ない。それに今は雨が降っている。休みの連中が今すぐ出かけることもない。

 確かに襲撃するなら今なのだ。


 四階に上る。

 先頭のイヴァンが上り終えた瞬間に拳銃を通路に向けた。二度の発射音。通路の向こう側でうめき声と何かが倒れる音がした。しかしそれにしてもイヴァンの射撃技術がとんでもない。知識として拳銃の命中成功距離は十メートル以内とあったが、今のところイヴァンはその範囲内で射撃に失敗していない。誰もまともな悲鳴をあげていないし逃走もできていない。


 俺はおそらく後方を確認しながら進んできているネマに一瞥すらくれず、悠々とまるで王様のように二人に敵のアジトまで案内されている。


「ニュービー、後ろを向け」


 俺はイヴァンがこちらを向く前にテンポよく振り返る。

 目の前にネマがいた。いや、当たり前といえばそうなんだが、それにしても思ったより顔が違い。どうやらかばうように守られているようだ。情けない。


 イヴァンは俺に渡していたバックパックに手を突っ込むと何の迷いもなく目的の物品を掴み出した。

 缶だ。

 円柱型の缶にレバーがついたものを取り出した。

 手榴弾だ。とっさにそう思った。

 思ったのだが、わざわざ減音器を使っているのに爆発音が鳴るようなものは使わないだろう。世で言うところの閃光弾なのだろうか。あれも音が響くと聞いたのだが。


 通路を進む。

 二人の男が転がっていた。下の連中と違って体格がいい。筋肉モリモリだ。まともに肉弾戦を行ったらイヴァンですらまず勝ち目はないだろうと思わせるほどだ。しかしこめかみに一撃を受けて向こう側に汚物を吐き散らしていた。隣にいる男もそうだ。脳漿が散っていなければまるで昼寝でもしているかのような倒れ方だった。


 イヴァンがネマに指示をする。

 ネマは俺の肩を後ろから掴むと「ついてこい」のジェスチャーをひとつする。俺は白痴のようにネマに従い後をついていった。ネマは五階へと向かう。俺はスラックス越しの丸い尻に心を奪われながらも、意識を払う。五階まで連続でのぼったので足が痛い。太ももが痛み、通常よりも弱い力しか込められない。昨日の訓練がなければ多少の痛みと倦怠感で済んだ。俺は黙って進む。


 ネマが先ほどのイヴァンと同じように通路に顔を出すと同時に射撃を行った。向こう側で誰かが倒れる音がする。ひとりだけのようだ。数秒ほど経過してからネマがこちらを振り向いた。俺はネマに背中を向ける。ネマがバックパックに手を突っ込んで目的のものを引き抜いた。続けて触ってくる感触がなかったので俺はネマに向き直る。


 しかし四階と五階の見回りは合計で三人しかいなかった。しかも倒れている状態から五室あるうちの真ん中しか守られていない。どういうことだろうか。中の部屋はすべてぶち抜きなのだろうか。それとも真ん中の部屋に偉いやつがひとりずついるのか。

 おそらくこの辺りも含めてイヴァンたちは調査しており、すでに把握しているのだろう。


 俺はいざとなったら撃たれる覚悟をする。誰かをかばうということではなく、自衛で武器を使用しないという意味だ。しくじって後ろからネマを撃ちたくない。


 ネマが取り出したグレネードを通路の手摺りに軽く二度打ちつける。小さい音が鳴ると、階下で同じ音が二度聞こえてきた。イヴァンとの音頭を取っているのか。


 俺は何をしたらいいのか悩んだが、何も言われていないので何もする必要はないのだろう。

 おそらく“何もしない”ことを俺はしなくてはいけないのだ。


 ネマが見ていた時計から目を離して銃でドアレバーの隣を二度撃った。ロックがかかるデッドボルトがある部分だ。ドアが殴られたような音が鳴った。中にいる連中も何かしら気づいただろう。ネマはすぐにドアレバーを握り内部に踏み込む。少し迷ったが、俺も中に入ることにした。ただしネマがドアレバーを離して踏み込んだ後だ。


 ざわめき。

 怒声というにはあまりに小さい。突然の出来事に心に空白を作った人間のかすれ声だ。


 ネマがドアレバーを離して中に入ったので俺は閉まろうとする前のドアを掴んで滑り込んだ。

 人が集まってきている。相手側の反応は上々だ。パッと見ると手に銃器どころか何も持っていない。

 ネマは何をしているのか、銃を向けたまま動かない。フロアぶち抜きになっている部屋から人が集まってくるのを見回して確認していた。しまった。手榴弾を使うために人を集めているのか。まずい外に出る必要が出た、とは思ったがたぶん違う。ネマは右手に銃、左手に缶を持っている。ドアを開けるときは小指を引っ掛けて開けていた。


 ピンはどこで引く予定なのか?


 そして、ネマは手にしている缶を無造作に投げる。

 室内のアジア系の連中が悲鳴をあげた。どうやらそれが何か知っているようだ。


 |しかしピンは抜いていない(・・・・・・・・・・・・)。


 障害物に隠れた連中をネマがひとりずつ銃弾を叩き込んで殺していく。丁寧に、頭を撃ち抜いている。距離は……三メートルくらいか。その辺りまで近づいてから的確に殺害している。手近な連中を殺した後で手早く缶を拾い上げて遠くに投げる。わずか数秒の出来事だ。缶に怯えて身を低くしている連中を確実に殺してく。

 八発ほど撃ってから手早く弾装交換をする。空の弾装を地面に落としていたので、拾っておいた。念のため、排出された薬莢も拾っておく。思ったよりも熱かったがなんとかなった。熱さよりも邪魔にならないように立ち回るのが大変だったほどだ。

 この辺りになると相手側も手榴弾が偽物か何か、とにかく囮であることが向こうもわかったのだろう。立ち上がって手近な武器を手にした。

 だがもう遅い。

 ナイフや灰皿を手にしたままネマに撃ち殺されていく。脳漿を撒き散らしながらコミカルに倒れる。一階の連中といっしょだ。これが数が多いときならまだなんとかなったかもしれないが、背後をクリアされた状態で向かってきてもただのカモ撃ちだ。真にどうしようもない。ただ撃たれ、倒れる。


 俺は生きていることに感謝した。ごくごく当たり前のことをなんとなく喜んだ。他者の死によって自分の生を感じるという背徳的な悪情を一度かみ締めてから廃棄する。どうでもいいことだ。他者が死んでいるからといって自分の生に価値があるわけでもない。生にはいつだって価値がある。それだけだ。それとは別に死にたい自分もいるが、いまのところは忘れておこう。


「無断でしゃべらないでください。あなたはメッセージマンにしますので殺したくありません。無断でしゃべると頭を撃ちます。動いても撃ちます。今からわたしが言ったことを記憶してください」


 ネマが何か言っている。

 俺に言われたのかと思ったが違うようだ。

 ネマはうつ伏せになっている貧弱そうな男の背中を踏みつけている。男はブルブルと震えながら涙を流していた。近寄ったときにアンモニア臭がしたので男の股付近を見るとゆっくりと尿の染みが広がっていくのがわかった。


「まず、ひとつ目――」


 ネマが何かを言い始める。しかし残念ながら専門的な用語による専門的な言い回しでよくわからない。わかった範囲だと「これは報復である。故○○の無残な死はお前たちの責任であり、今回の襲撃は当然なものである」くらいだ。あとは何らかのアイテムを寄越せとか権利がどうこう言っていた。

 要求が三つ目になったときにネマは俺に銃を渡してきた。片付けろってことだろうか。予備のホルスターなんかないんだが。

 するとネマが足元の男に対して銃を撃つジェスチャーをする。軽く首を傾げて再度指示を貰うが、変化はない。こいつを殺せということらしい。メッセージマンの話はどこに吹き飛んだのだろうか。俺はハンドサインやまともなジェスチャーを知らないのでネマに近寄って耳元で囁いた。


「殺してもいいのか?」


 ネマはなぜか笑顔でくすぐったそうに笑いながら、頷いた。

 感情の揺れや状況が合わせられず把握できない。しかし撃てと言っているのであればいいのだろう。アイヒマン実験を思い出しながら俺は銃を構えた。


 今、俺はこいつの生殺与奪の権利を握っている。権利というとおかしいか。殺せる状態にある。

 俺は葛藤した。


 一秒後、トリガーの重さを感じながら引き金を引く。


 銃弾が男の後頭部に直撃して、割れた。血華が咲いた。汚い、汚い命の華だ。


「いいのか。メッセージマンじゃなかったのか」


「いえ、あなたに安全に銃を撃たせるための方便です」


 ニコニコと容姿によく似合った笑顔で、ネマは俺から拳銃を受け取った。

 お、今度は俺が撃たれるかな、なんて思ったがそんなことはなかった。


「ようこそ、バン・レキオへ。バン・レキオはあなたを歓迎します」


 ネマは自身の煙い血濡れの手を俺に差し出した。

 俺も血に濡れた手を出すと、しっかりと握手をした。


 そして離そうとする。

 離れない。


「よろしく、お願いします」


「よろしく。人殺しはまだできない初心者だけど」


 俺たちはイヴァンが上がってくるまで、ずっと握手をしていた。

 俺たちを見るなりイヴァンは何か複雑な表情をしていたが、すぐに普通の鬼の形相に戻った。

 だからといって何かを俺たちに言ってはこなかった。たぶんこれが普通の顔なのだろう。


 薬莢拾い程度の簡単な後始末をした後で一階に戻ると、アパートに横付けしてあるワンボックスカーからマイケルが出てきており、いつのまにかいるヒョロい白人に金を渡していた。輪ゴムで固定された丸めた紙幣だ。本当にあんなむき出しで持ち歩いているんだなと感心してしまった。


 ネマとイヴァンが白人を無視して車に乗り込む。イヴァンが助手席に乗り込んだので俺は後部座席のスライドドアを開けてから体をどかしてネマを先に乗り込ませると、流れるように自分も乗り込んでドアを閉めた。ひゅー、俺ってばかっこいい。友人の車でやっていたことなんだがこちらでも上手くできたようだ。


 しかし、特に何か、そう、なんと言えばいいか、初めて人を殺してしまったが何かしらの感傷が浮かばない。今までの自分と決別してしまったはずなのに地面から湧き出てくるような罪悪感がない。これはまずいのではないか。人を殺したのだから罪悪感どころか、不快で動けなくなってもいいと思うのだがまったくその気配がない。おそらく出ているであろうアドレナリンのせいなのか、それとも俺はその手の才能だか疾患を持っていたのだろうか。

 後者だとまずい。

 距離感が掴めなくて近いうちに死ぬだろう。

 明日は罪悪感で震えていることを祈る。


 そうだ。せっかく後部座席に座ったのだからやることが――


「だいじょうぶ、ですか?」


 ネマが俺の手に触れてくる。正直に言えばあまり女性に触れたくない。相手に不快感を与えたくないからだ。その延長線上で相手が触れてくるのもあまり好ましくない。だが邪険に振り払うこともできない。

 いつのまにか祈るように両手を握り合わせていた俺の両手を包み込むようにネマが体を寄せてくる。俺、勘違いするな。これは俺に対する性的な好意ではない。わずかに芽生えた共犯という甘えの仲間意識だ。俺は女慣れしていない感情に鞭を打つ。


「わからん。今のところは大丈夫だ。明日はどうなっているか、皆目見当もつかん。明日、もし俺が部屋から出てこなかったら引っ張り出してくれると嬉しい」


「俺がやろう」


「頼む」


 イヴァンがこちらを見ないで口を出してきてくれた。実にありがたい申し出だ。入ってきたばかりとはいえ、自分の部屋に女を入れるのは抵抗がある。ついでにいえば先輩だか上司だかを入れるのも死ぬほど抵抗があるが外見年齢通りだった場合、ネマを部屋に入れるのはなおのこと嫌だ。俺も男であるから状況的な観点で錯覚して性的興奮を励起させる可能性が高い。あまり続くと勘違いする、はず。今までの人生でそんなことになったことは絶無であるが、この先もないとは言いがたい。


 マイケルが乗り込むと車が発進した。

 発信と同時に車底に仕掛けられた爆弾が爆発するような映画めいたイメージが浮かぶがなんの問題もなかった。そうならないためにマイケルがいたのだ。


 しかし見張りが少なかったのが気になる。

 入り口側には見張りが立っていたが、俺たちがやってきた逆側であるベランダにはひとりもいなかった。もちろんそういう日を狙っていたとか、何かしらの理由があるのかもしれない。ただ不思議ではある。味方だといった白人とやらがなんとかしたのだろうか。どうでもいいか。何もしていないのに疲れた。


 気づくとネマがこちらを見ていた。すぐ近くだ。

 手も握られたままだ。なんだこりゃ。


「ありがとう、ネマ。自分で耐えなくてはいけないから手を離してもらえるか。俺にはよい仲間がいるようだ」


 ネマが年齢相応の笑顔を見せると、ややあって、ゆっくりと手を離した。


「勘違いするなよ。ネマは優しいだけだ」


 イヴァンがやはりこちらを見ないで言ってくる。

 なんと返したらいいかわからなかったので、黙っておいた。何を言っても変だし、ネマを前に「性的魅力はないからアプローチを仕掛けないよ」や「あ、ぼく鈍感系だから」と迂遠的に言ってもただの戯言だ。聞いていたことにして、返事はしないのがいいだろう。


 そうだ、忘れていた。


 俺は後部座席を見回す。ドカタや造園業のように細かい道具がぶら下げられている車内である。俺はあるものを探した。


 見つけた。


 すぐ後ろの三列目のシートに無作法にも拳銃が転がっている。これは知っている。たぶんグロックだ。俺はそれに手を伸ばした。


 バシン、大きな音が鳴った。シートは拳銃の形にたわみ、俺の腕力では取り出せないほどめり込んだ。大きな古い手が拳銃のほとんどを押さえ込んでいる。


 イヴァンだ。

 イヴァンが、いつのまにか俺の隣に膝をついて手を伸ばしている。俺が拳銃を手にするのを阻止していた。その速さと俊敏性は俺では感知できなかった。拳銃を手で押さえられてようやく気がついた。フロントシートから一瞬の話だ。気づかれない。これが必要な技能なのだと気づかされる。


「何か?」


 俺は拳銃の、その銃身を掴んでいる。残りはイヴァンが抑えている。ちょっと甘めに判定しても俺の負けだ。どうしようもない。俺は拳銃から手を離した。だがイヴァンと合わせた視線は外さない。


「……なぜ、銃を触った」


「車内に転がっているのは危ないから、ネマに渡そうかと」


「もういちどだけ、訊く。何を知りたかった」


 イヴァンの強い言葉が響く。返事を間違えるとぶん殴られそうだ。たぶん、ぶん殴られるだけで済む。当てればいいのか、外せばいいのかはわからない。


 故に、正しく答える。いつものように。


「いや、拳銃が温かい……かなって」


 正直に答えてみるがイヴァンは俺と視線を合わせたまま静かにこちらを見ている。


 俺は拳銃の温度が知りたかった。


「予想通りか」


「いや、銃身は冷たかったよ」


 意図的に返事をずらす。イヴァンはそれを聞くと拳銃を毟り取るように自分の懐に戻す。そして巨体を前方へと滑り込ませるように戻っていった。運転席側と後部座席側をつなぐ部分はかなり狭いのだがイヴァンはあっさりと通ってしまう。かっこいいな。俺も暇なときに練習しよう。


 俺は若い娘と適当な話でもしようかと考える。ナイスアイディアだ。上手いことにイヴァンが意図的に俺とネマの間に空間を作ってくれたので話しやすそうだ。


 俺はネマのほうを向いた。


 顔がすぐそばにあった。

 真っ黒い真っ黒い丸い穴のような目が二つある。水分の足りないインクを伸ばしたような口がそこにある。髪がこぼれ、黒いフリルが視界の端に転がっていた。


 ……ああ、これは、いかんやつか。


 黒い女の子がそこにいた。


 俺は窓の外に視線を移す。俺の顔に並ぶように黒い女の子が顔を伸ばす。


 どうやら幽霊か俺の妄想であるらしい。

 走っている車の中に急に現れたということは、つまりそうなのだろう。

 幽霊のほうがいいな。幽霊だと完全な外的要因だ。俺にもいくらかの要因はあるかもしれないがどちらかといえばかなり少ないだろう。これがいい。


 問題なのは俺の妄想である場合だ。

 これだとつまり俺の脳みそだかなんだかが幻覚を見せているということだ。ついでに言えば痴呆症よろしく「客観的には異常であるのに、主観では異常に気づけない」という最悪のパターンが存在するということだ。一番、最悪なパターンは「すでに俺は狂っており殺し屋という設定の元で何もない空間でごっこ遊びをしている」だ。


 俺は黒い女の子に触れようと試みる。

 黒い女の子は俺の手を避けた。触れられない。つまり、整合性を保つために俺への接触を行わないという脳処理とも受け取れる。


「ネマ。今、俺の目の前に黒いフリルドレスの少女が見えるんだが、これは君にも見えているか」


「どういうことだ?」


「イヴァンでもかまわない。俺の近くに女の子がいるかどうかだ」


「……ネマがいるだろう」


「ありがとう」


 どうやらいないらしい見えていないらしい。

 これは……やばいな。今までも「ヤバい」とか使ってきたが俺の三十四年の人生の中で間違いなく最悪の事態だ。自己の認識がまともではない。


「……ニュービー。どういうことだ?」


「残念なことに俺はすでに狂っているらしい。今この瞬間でも俺は自分の近くに黒いフリルドレスの幽霊のようなものが見える。はっきりとな。霊感など信じていないし確たる証拠も出せないような陳腐な存在を信じるつもりもないので、つまり俺の脳が何か誤った判断を行っているようだ」


「……それで?」


「まあ異常者なので少し気にかけてくれると助かる。今のところは無害の少女が見える程度だが戦闘中に視界を邪魔されると怖い」


「自分で自分を異常者であると判断できている。そんな異常者は初めて見たな。本当か」


「異常者でも社会的観念くらいは理解できるだろう。行ったら警察に逮捕されるだけだ。世に言う異常者の類は警察に逮捕されるとわかっていながらもそれを行う。そして警察などの法的抑止が抑止力とならない連中に当てはめられるのが基本だ。大量殺人者だって「やった! 目の前に人間がいるぞ! 殺そう!」ってなるやつはいないだろう。その大半は社会性を失うことなんかないし、普通は判断できる。強いストレス下など判断力が低下する要因があればパッと見て異常者に見えるかもしれないがな」


「やった! 目の前に人間がいるぞ! 殺そう! ってやつにはあったことがあるぞ」


「ばーかやろー。俺が言ったのはそんなレベルじゃねえよ。人間的な論理思考を介在させる暇なんかなくノータイムの反射レベルで人間を殺すやつだ。人間を見かけたら絶対に殺すようなやつだ。敵とか仲間とか関係なく野生生物のようなやつ。そんな今まで無事に生きてきたのが奇跡と思える異常者はレア個体な異常者だが、そんなやつばかりじゃないだろう。人間を殺したくて殺したくてたまらないようなやつでも警察に捕まるのが嫌だから普段は常人のフリをしているやつもいる。俺はそのレベルだ。理由は不明だが通常の人間では見えないものが見える。たぶん脳のどこかをやられている。今はそのまま暮らせるかもしれないが、いつかどうなるかわかったものじゃない。だから普通のやつがやらないような行動を行おうとしたら止めてくれ、って言っているんだ」


「だが今は自分が異常者だってわかるんだろう」


「今はな」


 沈黙が広がる。黒い女の子は俺の周りをわさわさとうごめいている。そんな隙間なんかないと言ってもいいほどの狭さなのにだ。つまり、俺の感覚的なものがやられている。しかしハッキリと理解できている部分はまだ救えるだろう。

 だからこそ、もしもこれから俺の感覚が低下してきたときにその凄まじさが、俺に・・浮き彫りになるわけだ。俺が絶望するわけだ。俺が俺に失望する日がくる。


「あの、これはわかりますか?」


 ネマが俺の手を取った。避けようとしたのだがネマのほうが早く鋭いので捕まった。


「ああ、ネマが俺の両手を掴んでいる」


「ですよね」


 ネマが笑う。

 最初に会ったときとは違う笑みだ。いや、同じといえば同じなのだが、どこか違う気がする。最初のが営業スマイルだとするなら、これは本当に笑っていると思える。

 という営業スマイルの可能性もあるが、そこまで疑っても意味はないし、真実を判明させたところで俺が不快に思うならそれは完全なマイナスだ。知らないでいたほうがいい。


「だいじょうぶですよ。わたしがこうやっていますから」


「そうは言うが、もしかしたら俺は実は要介護三以上の家族ではどうしようもないレベルの痴呆老人で、実はお前らは介護士の連中で、俺の壊死した脳はなんとなく自分に都合のよい妄想に浸っている可能性もあるわけだ」


 俺の震える現実もうそうに対してイヴァンが声をあげる。


「クオリアだな。お前が示した現実あかと俺たちが行っている現実あかは同じではない可能性がある。だがそれは誰にも証明できない。仮にお前が痴呆老人で泡を吹いていようが、俺の中では新しい仲間だ。お前の現実と俺の現実が完全に重ならなくてもいいだろう」


「観測される世界はひとつだ。そんな馬鹿なことがあってたまるか」


「原子の動きとエネルギー分配さえ間違っていなければこの世界はどう見えたところでいいんじゃないかな? 僕はそう思うけど。アクターは誰でもキグルミは同じ動きをするし、キグルミさえ違えば同じ動きでも違う存在に見えるものだからね」


 マイケルが運転しながら口を挟んでくる。

 マイケルの言っていることはわかる。言っていることはわかるが、その別の世界を認識できない俺からしてみればそれこそ妄想だ。話にならないと思えるほどの妄想だ。

 マイケルが口を挟んできたということはそろそろ聞くに堪えない内容になってきたということだ。実際に思い返してみればその通りだ。


「まあ……とにかく、頼む」


 俺はネマに手を握られながら、正面に居座る黒い女の子を見ていた。

 黒い女の子はこちらを笑うように見ていた。







「待ってくれ」


 車から降りる三人、俺は前を歩くネマとイヴァンを止めた。


「誰かが入った形跡がある。門の隙間の間隔が違う」


「お前、けっこう細かいんだな」


「あと玄関前の植え込み、少し折れてる。少なくともそちらまでは誰かがいた形跡がある」


 イヴァンの指摘をシカトしながら俺は前に出ようとしたが、俺の機先を制してネマが門を開けた。重い音が鳴って開くとネマは辺りを確認しながら無用心ながらに足を進める。俺にはただ歩いているようにしか思えないが、間違いなく俺よりも注意を払っているくらいはなんとかわかった。


 俺は別に細かいわけではない。

 ただ覚えているだけだ。特に自室だと顕著でゴミが散乱していてもどこに何があるかはわかる。正確に言えば意識的に行ったゴミだけだ。ゴミ箱に丸めたティッシュを放り投げてそれが失敗した場合、当たり前だが見てみる。そのためにゴミが落ちて停止している角度くらいまでならなんとなく記憶している。寝返りなどでゴミが移動した場合は無理だが、そうでなければ覚えている。捨て直しをすることはあまりない。


 門や玄関もその一環だ。

 偶然にも意識的に見ていたので覚えているに過ぎない。ただし意識的に見ているものすべてを覚えているわけではない。たとえば今日の朝のネマの格好などは細部までは覚えていないし、数値を計測する術もわからないので胸の大きさや腰の細さはわからない。たった今、計測できるようになったところで覚えている記憶があやふやなので覚えていないに等しい。


「だいじょうぶです。おそらくジャハナが帰ってきています」


 仲間なのだろう。そのジャハナとやらが開けた門を律儀に最後まで閉め、なのに植え込みの枝を少し折ったのか。折れた枝が植え込みの土に放り投げられている。丁寧に葉を毟ってあるので玄関を開けるのをためらった節がある。


 となるとジャハナ、なのかな。


 ネマが玄関を開けて俺たちを誘導している。俺に安心感を与えるためだろう。扉を前回にして手招きする。


 だが、死体はない。

 玄関口に放置しておいた死体がない。

 ジャハナとやらが動かしたのだろう。それを見て安心しきっているネマを合わせると、つまりジャハナが死体を動かしても特に違和感はないのだろう。死体置き場か、それに類する物置の類でもあるのだろうか。それなら先に安置しておくべきだとは思う。だがまあ、放置していったということはまずここに来る人間なんかいないという裏返しでもある。何せ鍵をかけていないのだから。となるとこの地域の一角、この辺りはすべてこいつらの持ち物か、そうでなくてはそういう人間が住んでいるのだろうか。

 やはり今更に仕事辞めますというのは無理だろう。辞めるつもりはないが。


「ニュービー、どう考えている」


「意図が不明瞭すぎて返答に困る。死体と玄関の鍵に対する地域住民のご理解、ジャハナちゃんの性癖と初対面の第一声の挨拶について哲学しながら深淵に目を凝らしているような考察を行っている最中だけど」


「浅学な俺にはお前の言っていることがわからない」


「俺もわからないよ」


 俺は玄関をくぐる。

 やはり死体がない。引きずったような痕跡が二本の線になって奥へと続いている。靴底のゴムだろう。何を履いていたか覚えていないがそう変な物だった記憶はない。そんなのを履いていれば気がつく。

 ……顔は覚えていないな。見ればわかるとは思う程度だ。どうにも他人様の顔を覚えるのが苦手だ。あまり直視なんかしないからな。その割には小学校の好きな子の顔とかは覚えている。たぶん実物と違うだろうが。


「ニュービー」


「毟られた枝の位置が妙に低かったのと、一枚ずつ葉を毟るなんて典型的なおん――そう、子供の行動だ。罰を先延ばしにするわかりやすい行動だ」


「結論から言え」


「いや、殴られるの嫌だし」


「殴らないから、言え」


 イヴァンは威圧しながら俺に聞いてくる。どう贔屓目に見ても俺を殴ろうとしているような気がするが、本人にその自覚がないのかそれともそんなこと関係ないのかとにかく答えを要求してくる。言うべきなのだろうか。


「いや、その、なんだ」


「言わないと殴るぞ」


 おっと、言うも正し言わぬも正し。禅問答かよ。


「ジャハナちゃんがカデナちゃんを事故死させたのかなって」


 思い切りぶん殴られる。

 死ぬほど遅かったので素人丸出しの俺でも余裕で防御できたが、そもそも防御しても腕は痛いのでただの慰めにしかならない。痛い。


「推論を言え」


「そうだな。どういえばいいか」


 壁に叩きつけられて塗料が塗られただけのコンクリートに叩き伏せられた俺はどうしたら次の一撃が弱くなるかを一心に考える。イヴァンの攻撃はおそらく八つ当たりに近いだろう。あと、仲間を信じろという部分だろうか。


「イヴァンはここに戻ってきたときに銃創のあるカデナを連れてきた。銃創は後頭部が大きく破損していたのでそんなに遠くから受けた傷ではないと思った。しかし出向いた先に拳銃を持っているやつはいなかった。そして相手側は俺たちの襲撃を予想しているようには思えないほどの雑さだ。そして移動に使った車に無造作に置かれている拳銃があった。もしも意図的に拳銃と殺意を持った人間がいた場合、イヴァンが怒りを持って死体を尊重するのはややおかしいし、イヴァンがカデナを殺す、または返り討ちにしたとしても反応が妙だ。それなら事故だと思っただけだ。そしてそれなら三人目を追加するのが正しい。マイケルもチームは五人だと言っていた」


「それだけか?」


「俺はそう・・だと思った」


 立ち上がった俺をイヴァンが更に殴りつける。ネマが止めようとしたが、今度はかなり速かった。殴られると意識していなければ防御は間に合わなかった。大振りなのは感謝しておく。


「だいたい、当たっている。拳銃の操作ミスでカデナは死んだ。そしてジャハナは恐怖のあまり逃走したよ。止めようとしたんだがな。そして銃声を聞かれた可能性を考慮して襲撃を推したのだ。何かの間違えでジャハナがカリフォルニアタウンに戻ってきてもいいようにな。結局、ここに戻ってきたようだが。それを踏まえてだが新人ニュービー


 なんだ?

 そう聞く間もなく、俺はイヴァンから三度目の拳を受けた。防御することもできず、俺は左頬を強打された。歯や骨を折るような殴り方ではなかったが、手加減と容赦のない一撃だった。踏ん張りで耐えられず、俺はまたコンクリートの壁に打ち据えられた。なんとか後頭部の接触は阻止した。


「冗談でも、真実でも仲間を疑うな。それだけだ」


 なかなか気合の入ったことを言ってくる男だ。一昔前のヤンキー漫画のようなことを言って俺に背中を向けて去っていく。イヴァンからの高感度は下がっただろうが、いい感じだ。最初から高感度が高すぎると下がったときに相手の機嫌を損ねたときに厄介であるし、俺も期待に応えにくい。フラットか、少し低いスタートがよい。そのまま下がっていくならそいつはそういうやつなのだ。高くても意味がない仲間だ。

 まあイヴァンとはそこそこ仲良くなれそうな気がする。少なくともマイケルよりはだ。マイケルは何を考えているのかわからない。俺を褒めたが、なんか、なんというか……どことなく嘘を感じる。職場によくいる妙に愛想だけはよい中年女性のような雰囲気を感じた。嘘つきではない気はするが、どことなく気を許すことはできない。


「だいじょうぶですか」


 ネマが慌ててて俺に手を差し出す。俺は一言「ありがとう」と言ってから自分で立ち上がる。デブが少女の力を借りて立つとか醜いにもほどがある。

 ネマは少し黙った後、俺の手首を取る。思わず取られた手首を上に向けるように返し、防御してみるがそういうことではないらしい。


「イヴァンは、悪い人じゃないんです。ただ昔、悲しいことが多かっただけで……」


「わかってるよ。俺が無遠慮に発言したのがよくないんだ。どうも口が軽くてね。不快にさせてしまったようだ。謝っておくよ」


「……すみません」


 俺は舌の根が乾かないうちにイヴァンを探して謝ることにした。女じゃないんだ。不機嫌ごときで謝罪は揮発しない。または相殺しない。謝っておけば、今は俺のことが不快でも時間が経てば、まあ、わかってくるはずだ。殺し屋だか軍人だか傭兵だかのメンタルがどういうものかはわからないが、損はないはずだ。


 俺は死体を引きずったであろう線を追う。

 最後に指揮していたのがイヴァンだ。イヴァンもその責任を大きく感じているだろう。おそらくジャハナがいる場所を探しているはずだ。


 通路を歩き、俺の部屋を越えて工場の奥にある部屋についた。イヴァンも熊のような巨体を縮めながら部屋の前に居心地が悪そうに立ちすくんでいる。


「……なんのようだ」


「イヴァン、俺が悪かった、すまん」


「……謝罪が済んだのならどこかに行け。俺は今、忙しい」


「その様子だとまだ声もかけていないんだろう。俺が代わろう。俺が失敗したらそれを餌に話しかけるといい。責任者がいきなり話しかけたら怖がるんじゃないか」


「なぜお前がやるんだ。これは、俺の責任だ。だから俺がやるべきだ」


「下手すると自殺する可能性がある。大失敗中の大失敗だ。慎重に行ったほうがいい」


「なおさらお前には任せられんな」


「じゃあ間を取ってネマに任せるのはどうだ? おそらく同性だろうしイヴァンほど背も高くないから威圧感が少ない。ネマは優しいだろう」


「…………そうだな。わかった、そうしよう」


 俺は後方を振り返る。ネマがいた。俺の後をつけてきたのだろう、というよりはジャハナが気になるのだろう。当たり前のことだ。

 俺はネマに両手を合わせて拝む。ネマも話は聞いていたのか、しっかりとした足取りでジャハナの部屋の前に向かった。

 部屋の前に立っているネマをしっかりと確認してから「ネマ、ありがとう」と、俺はその場を離れた。


「すまない、助かった」


 急に後ろから声がかけられる。イヴァンだ。驚いたがびくりとするほどではない。

 足音が聞こえないように歩いているのか、気がつかなかった。


「ははは、俺も助かったよ。実は女の扱いは慣れてなくてね。普通に人生相談を行う予定だった」


「ふ、ははっ……おもしろいやつだな、お前は」


「よかった。その言葉、あまり言われたことがないんだ。少しは俺の脆弱性がわかってくれたようでなにより」


 イヴァンは小さく笑いながら俺の背中をバンバンと叩いた。皮膚を打つ叩き方でなかったためにそこまで痛くなかったが、衝撃はかなりのものだったのでしばらくしたら腫れてきそうだ。そんなことを思った。


「じゃあ俺は部屋に戻る。何かあれば言ってくれ」


 イヴァンが俺にそう声をかけてくれた。気にかけてくれたことが嬉しかった。

 イヴァンは通路の途中で「じゃあ」と別れると後ろ手で俺に手を振る。俺も「ああ」と返した。


 携帯で時刻を確認すると昼の十一時になろうとしているところだった。

 そろそろ食事かと思い、俺は昼食の内容を聞きに食堂の冷蔵庫へと向かった。








「あ、ニュービー。どうしたの、お腹が空いたの?」


 食堂にはマリーがいた。

 タンクトップにスパッツというとんでもない格好だったのでピンク色のハート付きエプロンを着ていると裸エプロンに見えないこともない。若干スパッツが見えるがそれでも裸エプロンに……うわ、やめろ! 胸元を見せるように屈むな!


「好き嫌いもあるんでちょっと覗きにきた」


 方便だ。別に嫌いな食べ物はない。強いて言えば苦菜にがなと熱を通した春菊とパクチーが嫌いだ。しれっと平らげることもできるのでなんの問題もないが、たとえばシュールストレミングなどの食べたことがなく鼻が潰れる匂いのあるやつは勘弁願いたい。


 それはともかく朝食のように目玉焼きを十個も食えというのは少しつらい。中が半熟で醤油があれば楽勝で食えるが、今朝のように固焼きで、両面焼きで、パンとオレンジジュースだけだと、その……なんだ、つらい。

 そうならないように事前に手を入れようとここまで来たというわけだ。

 冷蔵庫を覗き込みたいが、部屋主がいるのでまずは遠慮する。まずは、だ。


「好き嫌い? 誰が?」


「俺が、俺が」


 きょとんとしているマリー。俺は自分を指差しながら笑った。


「え、好き嫌いないでしょ?」


「はは、まあそんな――」


 俺に電流が走ったような閃きが過ぎる。

 今の発言は俺のことをあらかじめ知っているような素振りであるが、まずそんな馬鹿なことはない。仮にそうだったらホラーかサスペンスだ。なぜ事前に俺の情報が手に入れられるのか。マイケルがいくらか俺の情報を仕入れたとか言っていたが、さすがに俺の好き嫌いまで把握しているということはあるまい。


 つまりだ。

 彼女の、マリーの中では“好き嫌い”なるものは存在し得ないということなのだろう。いや、それはおかしいというやつもいるかもしれないが、俺は女という生き物を、少なくとも感情と主観においてあまり信用していない。雑に言えば困ったら泣く生き物だと思っている。仕事においては“仕事”という正義ジャスティスが存在するのである程度は問題ない。みんなそちらを向いているのだから。だが、こういう場面では、自分が法であると呼べる場所で自分の感覚で作業している場合においては一段は癖をつけていると仮定したほうがいい。


 何が言いたいかというと「わたしがつくるものが食えないのか」ということだ。

 裏筋の読みとしては「自分が何でも食べられるからこの世には好き嫌いなどという存在はありえない」ということもありえる。

 うちの婆さんがそんな感じだった。自分の嫌いなものは何ひとつ買ってこないので食べられないものは存在せず、自分が食べられるものは誰もが食べられてしかるべきだとう姿勢の持ち主だ。また婆さんに育てられた母親も同じくらい好き嫌いが多いのでどうしようもない。どうしようもない。


 その匂いを嗅ぎ取った――とは言えないが、嗅ぎ取ってしまったらお仕舞いなので迂回しておくの吉だ。できるだけ女には逆らわないように生きる。少なくとも職場ではそうするべきだ。そうでなければ実に面倒なことになる。


「――好き嫌いはないかな」


「でしょっ!」


 俺の不自然な発言の噛みっぷりを気にも留めず、俺の同意にさらに賛同を重ねてくる。


「ところで今日の昼食って何? お腹ぺこぺこでさ」


 デブってる腹を触りながら食事を聞くという完全なデブキャラアピールを行う。こういうときは便利だ。あとはすべて不便だが。


「今日は

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