ウィバル・コート 前編
現在俺は全身を拘束されていた。
そして六畳よりも狭い部屋で巨大なモニタを前にいる。
手にはゲームのコントローラー。操作は可能だ。
拘束された状態で大きなシートに座っていた。
まず、ヘルメットをかぶせられてそれをシートの固定具で完全に固定さてわずかにでも動かなくされている。厚手の、確実に破けない全身服をの上からシートにくくりつけられている。そう、車のバケットシートのように。それから尻をシート底のくぼみに差し込んでから腰の固定、太ももと脛は着ている服からきつく縛られておりやや痛いくらいだ。そして他に漏れず拘束ベルトで巻かれている。丁寧に足裏まで足置きにぴたりと合わせられていた。
金魚鉢をかぶせられて全身拘束されて床屋に座らせられている、と言えば少しくらいは伝わるのではないだろうか。
コントローラーはしっかりと握っている。
しかしその上を滑る指先は繊細に繊細を重ねた動きでボタン類を操作していく。
やるべきことは決まっているのだ。
相手に接近してからの近接攻撃。これは主に右手の幅広剣で行なう。基本的な攻撃方法は真上からの振り下ろし。どちらかといえばやや斜めだろうか。
基本はこれだけだ。
近づいて、斬る。
しかしエネルギープールのゲージを使用してブーストをかけて近づくのか、ステップで近づくのか、それとも歩いて近づくのかで、すべては変わる。なんとなくか、それとも状況的に許されずなのか、それが最適なのか、現状ではそれが最良であるのか。
ブーストボタンと方向キーを同時に押して相手に肉薄する。
ドカン、と狭い室内が大きな金槌で打たれたかのような衝撃が走った。いつものことだ。何の問題もない。別に壊れるというわけでもないのだから。
正面の大きな半球型のモニターをただじっと見ている。半球型であるが、俺の座っているシートからは平面になるように配置されているので特に違和感はない。
俺はその画面に映し出されている相手をしっかりと見据える。
簡単に言えばTPSと呼ばれるゲーム画面だろう。
画面の手前側に自機である黒いロボットが立っており、奥の方に敵である白いロボットが立っている。どちらも騎士を意匠とした造詣を取っており、こちらが丸みを帯びた細身で凝った外見であるのに対して、あちらは角ばった無骨な重装騎士といったそれだ。
さっさと言ってしまうと相手のほうが有利だ。
機体ステータス上はほとんどの数値が相手を有利と示している。
こちらが勝っているのは三つ。
運動性、射程距離、そしてその二つを活かした総合性だ。
こちらの機体は「ブラックチャンバー」と呼ばれる機体だ。人間の全身甲冑の姿よりも少し膨らんだ程度の外見だ。全身が艶の黒で覆われており銀色の跳ねた縁取りをしている。個人認識は存在せず、ロールアウト直後とほとんど変わらない外観だ。本来ならパーソナルカラーやパーソナルマーク、外装変更を行なうそうだ。しかしどうせ後々で使わなくなるのだから俺はそういう細工はしていない。
機体の特徴としては、個人的には中型、汎用型、没個性型個性と称したくなるが残念なことに使える機体はこのブラックチャンバーとホワイトキャバルリーと呼ばれる射撃機体の二機だけだ。分類分けなんかできない。
こちらの武装は剣と盾、そして背部に搭載された二門の実弾砲だ。
バルカンユニットも存在するが残念なことに敵の白い騎士の装甲にはまったく通用しないので忘れてもいいだろう。
盾は俺らでいうところの丸型中盾だ。
予備武器として剣をさらに一本所持している。これは背部のキャノンユニットの側部に無理矢理ランチされたものだ。雑すぎる仕事であるがないよりははるかにあったほうがいいので見ないことにしている。
剣を白い騎士に叩きつける。
響き、痺れるような感触が部屋を貫いていく。
白い騎士は「ナイトヘッド」だ。
三角錐と三角柱を綺麗に合わせたような人型の魔神を髣髴とさせる意匠だ。どちらかといえば俺はこのナイトヘッドのほうが好みだ。真っ白の角型装甲に灰色の筋肉装甲が見え隠れしており背部の突撃用の大出力スラスターは出力的な空だって飛べるだろう。
そして装備は剣と盾のみ。ブロードソードとミドルシールドだけだ。
装甲と機動性を生かした重量攻撃が最高の持ち味だ。
浪漫が溢れてくるような味のある機体だ。
俺はぺちぺちとボタンを丁寧に叩いていく。
そのたびに恐ろしいほどの大音量が外から聞こえてくる。
衝撃だって異常すぎるほどだ。
六畳一間の部屋くらいの大きさの箱をボールにバスケをやられているんじゃないかと錯覚するほどの衝撃だ。普通なら即座に壁に叩きつけられて死ぬだろう。
しかしそんなものはへっちゃらだ。
なにせ、俺は全身を拘束しているのだから。
パイロットシートに頭、胸、肩、腕、腰、太もも、脛、足裏をしっかりと固定具にくっつけてパイロット用の拘束ベルトで固定している。中で転げまわってシェイクされてピンク色の泡にならないためにだ。
ぺちぺちとコントローラーを操作する。
俺のブラックチャンバーが、敵のナイトヘッドを一方的に剣で攻撃していく。
三度ほど斬りつけると、サイドステップからのキャンセル攻撃で三度斬りつけ、後方へとブーストキャンセルブースト攻撃で間隙を入れながら揺さぶって攻撃を仕掛ける。
別に本当に攻撃やブーストをキャンセルしているわけではない。
厳密に言えばシステム的なキャンセル行為だ。
例えば近接用攻撃ボタンを的確に三回押すと四回攻撃を行なう。
ひとつ目のボタンで振り下ろし、
二つ目のボタンで振り上げ、
三つ目のボタンで振り下ろしと左肩の体当たりだ。
体当たりはアレなのでブースト行動やステップ行動で行為そのものを消している。本来なら後方へ下がりながらキャノンで攻撃するべきなのだが、実は弾切れを起こしており帰還するまで補充する手立てがない。
仕方がないので剣だけでガンガンとぶん殴っているのだ。
しかし硬い。
この振り下ろしはしっかりと刃筋を立てているが、相手の三角装甲がそれを良しとしない。人間が人間に行なうのであればそれも是とすることが可能であると思うが、ボタンを押しただけで攻撃をするようなそれに何かを期待するのは違っているだろう。
無駄な文句をいうことより、さっさと数値と乱数に俺の運を加味してサイコロを振り続けていくべきだ。つまり、殴り続けるのだ。
俺の対戦相手は手にしている剣と盾で俺の攻撃を防いでいる。
防いでいるがそのダメージ、衝撃は腕や肩、装甲裏の内部筋肉に蓄積されていく。集団戦闘なら気の長い無駄な戦術であるが、この決闘なら抜群の信頼性を生む。
「ねえ、いまどんな気持ち? ねえ、いまどんな気持ち?」
独り言を口にする。
サイドステップとブーストキャンセルブーストを的確に行ないながら相手の機先を制して封殺していく。やはり対人戦は心躍る。知恵比べで勝利しているということが確実に理解できるからだ。逆は逆で、まあそこそこ楽しい。
そのまま幸運に打ち勝ち、俺は剣を折ることなく決定打を放つ。
ナイトヘッドの両腕が上がらなくなったので、正面の分厚い装甲向こうにある無限機関を破壊するために腹の隙間から剣を突き刺す。
俺の視点から具体的に言えば「止め」と画面に書かれたので、それに対応したボタンを押しただけだ。後は勝手にやってくれる。
バガン! と何かが無限機関が大きく砕けた音を鳴らしてその全身駆動を完全に沈黙させた。
これで基本的には、もう動かない。
基本的には。
小気味良い破裂音が鳴り響いてナイトヘッドの背部から何かが射出された。
なんでもない。ただの脱出用の飛行機だ。ジェット戦闘機と複葉機の合いの子みたいな外見でとにかく物凄い速度で飛んで逃げていった。
画面にはターゲットアイコンが表示されてボタンのひとつがバルカンユニットに接続されていることを示していた。つまり、あれを撃墜しろということだ。
たっぷりと五秒ほどしてからターゲットアイコンは消えた。
飛行機が射程距離外へと出て行ってしまったからだ。
しばらくして画面が非戦闘状態を表すグリーンライトの縁取りになった。
もう、敵はいないのだ。
少なくともこの辺りには。
つまんねえな。
俺はスタートボタンを押してメニューを表示させると「拘束解除」を選んだ。二度の確認作業の後、俺をシートに縛り付ける拘束具はすべて外された。最後に外されたヘルメットの物理ボルトが抜き取られて俺は自由を手にする。
再度コントローラーを操作して、外へ出るための通路に電力を通した。
正面の半球状モニタのすぐ隣に赤い二重ラインが上方へと伸びていく。俺は赤いラインの傍まで来ると壁のでっぱりと掴むと「昇降機」を動かした。煙突のように伸びる真っ暗な縦穴に赤のガイドラインが照っている。俺からだと若干早い昇降速度で動くと、先に開いていたパイロット用の出入り口から外へと上った。
カッ、と遠くから夕焼けの赤い光が突き刺してくる。地平線の向こう側から、青赤のグラデーションのはるか遠くからこちらを攻撃しているようだ。真上の空はまだ青い。気の早い赤空はこの青い空に黒の帳をかぶせようと手を伸ばしているようだった。
おそろしく悲しい気分になった。
だが無視をした。
必要ないからだ。
風が吹いている。
強い風が吹いている。
俺の体を強く押す透明の何か意識する。昇降機に手をしたまま、俺はヘルメットを外した。
強い風が吹いていた。
地上二百メートル近い場所にいるのだ。仕方ない。
ごうごうとしきりに死神が鳴く。さあさあと俺の手を引き体を押すように誘いをかける。
さすがにそれに乗るわけにはいかない。
隣を見上げるとまさに黒騎士といった様相の顔が鎮座していた。雄々しい牛の角が四本も生え揃ったような意匠の兜が傍にあるとさすがに慄いてしまう。だが頼りになる相棒のようなものだ。
なんということはない。
俺は今、日本の自宅から六千キロ以上離れた、遠い遠い異国であるグラスフォート皇国へと働きに来ているのだ。
職業はロボットのパイロット。
ロボットはこの黒騎士ブラックチャンバー。
全長二百メートルの巨大な人型ロボットだ。
操作方法はゲームのコントローラー。
俺はいまだに何を信じていいのか迷っている。
だが、家に戻れるということだけは信じていたい。
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上司に呼ばれた。
上級将校の執務室はさすがに広い。無駄に上司、俺を除いて上司の親衛隊が四人もいる。全員女だ。全員軍服はもちろんそうなんだが、わざわざ軍剣と拳銃を吊るしている。お前らこの基地じゃ普段そういうの持たないじゃん。
「ウィバル、お前はしばらく謹慎だ!」
口角泡をぶっ飛ばしながら日本からの知り合いが俺に怒声を放った。
額に十字青筋、というのはよく聞くフィクションだがこの知り合いの顔にはそのフィクション青筋に勝るとも劣らない血管のような青い筋が額から首元まで斜めに横切っている。「私はとても怒っています」という意思表示であり彼女のモエポイントのひとつだろう。モエポイントであると俺は信じている。個人的な好みとしては年下のおっぱいの大きい女の子だが。
「何か意見はあるか!」
日本では職場の先輩をやっていたキユナ・キユナだ。年は確か二十歳だか二十一歳だったはず。職場にある職員が勝手に写真を貼り付けてもいいコルクボードにいつのまにか増えていた彼女の成人式の記念写真があったのでほぼ間違いないだろう。いきなり何年も前の写真を引っ張り出してきたり、未来の写真を先取りしてきたとかいうのであればさすがに気持ち悪い。こいつのことは嫌いであるがさすがにそんな気持ちの悪い女でないことは把握している。もし気持ちの悪い女だったら転属願いを出すだけなので問題ない。
一応、面倒見の良い女なのでこうやって昔のよしみで俺の上司をしてくれているのだからその辺は年齢分くらい敬わなくてはいけない。
「特にありません」
俺の返事にビキィッとさらに顔を縦断する青筋がより立体感を増す。
さすがに理不尽じゃないかしら。
そうは思ったが女を理解するという意味のない無駄なことをするつもりなんかないので、俺はその感情を真摯に受け止める。そして優しく室内に転がしておく。ぽい、と。
キユナはグラスフォート皇国軍の軍服をかっちりと着込んでいる。残念ながら彼女のバストは日本人女性特有のふんわり感とふんわりブラなだけなので厚手の軍服の相性が良い。「上司の軍人」を地で行く完成度の高さだ。
上から軍帽――は重そうな黒塗りの執務机の上に置かれているか。前髪ぱっつんに太めのみつあみ――こいつまた毛先を揃え直したのかよ。あまり似合うとは思えない。ツリ目に高い鼻、そしてスマートな輪郭とそれに合わせてこしらえたかのような抜群の大きさの唇がある。キリッとした表情はあまりにみつあみに合っていない。眼光はするどく一言で現すのであれば「デキる女」だった。実際にその通りだ。
身を包んでいる軍服も一分の隙もない完成度の高さに閉口する。着用しているのが略式軍服であるので勲章がひとつもないがそれでも礼装の豪華さが透けて見えるようだ。
上級将校用の暗い赤色の軍服を着ているのはこの基地では十人に満たない。つまり、この俺の元先輩現上司様はありえないほどすごいということだ。
階級こそ「大尉」だがキユナはこれから准将まで約束された人物なのは間違いない。もちろん不祥事を起こさないことが前提であるが、多少の不祥事くらいならさっさもみ消せるし、そもそもそういうやつなら自分でなんとかできる実力を有している。
一方、できの悪い俺はどうか。
俺は首筋と肩に「少尉」の階級章を貼り付けている。青い線に綺麗な星がひとつ。
巨大人型ロボット「クライムエンジン」のパイロットの証明である純白の軍服を、こちらもしっかりと着込んでいる。襟も隙間なく塞いで背筋も伸ばして立つ。「立位姿勢」を親に強く教えられたのでただ立っているだけでもその姿に自信はある。それよりも自信があるのは喧嘩の強さくらいだ。社会人としては自慢になることはない。
俺と同じ真っ白な軍服を着ているのはこの基地ではやはり少ない。キユナのような上級将校よりは断然多いがそれでも少ないといわざるを得ない。
十八人。
二百メートル級人型ロボットであるクライムエンジンのパイロット。その証明たる白の軍服の着衣者はたったの十八人だ。この基地には一万人以上の人間が詰めていることを考えるとその少なさは常軌を逸する少なさだろう。
百メートル以下の人型ロボットは単純に「ロボ」と大まかに呼ばれている。その大きさにより「百」や「五十」「二十」と呼ばれたり、その後ろにグラスフォート皇国を現す「皇」の字を当てて「百皇」などと呼んでいるらしい。
個人的には「クライムエンジンのパイロット」よりは「百皇のパイロット」と呼ばれたほうが格好良いがそのあたりは趣味によるだろう。
一応、十メートル以下の等級もあるがその辺は戦闘用ではない。
とにかく俺はこの基地ではレアな札である。
最初に話を戻そう。
そのレア札を謹慎にさせるというのは実はありえないことでもある。この俺が所属するグラスフォート皇国は常に隣のヴァンフラート王国と戦闘を続けている熱い戦争状態だ。一ヶ月間も何もないこともあるらしいが俺が着てからは二週間と置かずに戦闘を繰り返している。
この基地から出せるクライムエンジンの最大数は十八機。一機でも欠けるとかなり戦闘に難が出るだろう。その俺を謹慎させるのだ。
つまり、キユナ女史は相当にお怒りである、ということだ。
「では二週間の謹慎を重く受け止めます。私は基地内かテザーくらいしか行く場所がありませんので何かあればお気軽に呼び戻しください」
バンッ、とキユナが机を手のひらで叩いた。
キユナの衝撃力、というか純粋に重さが足りない。机の重さに負けてしまいあまり大きな音は鳴らなかったがキユナの重量であれだけ出せれば上等なものだ。相当カッカしている。
「他には、何もない、のか?」
キユナは怨嗟を吐くように俺に語りかけてくる。
新人の死神が俺の首に大鎌を当てている程度の圧力が俺を蝕む。ちょっとよくわからないんだが、なぜこいつはこんなに怒っているのだろうか。聞いてみてもいいのか。
「確かに私は敵軍の脱出飛行機を見逃しました。見逃しましたが、それは先にお話していた通りです。戦略的見地から見て俺が倒せるレベルのパイロットを逃がすことによって、次も同じように撃破することによってヴァンフラート側のクライムエンジンの数を減らすことを目的とした措置です。おそらくあの基地には残存するクライムエンジンの数はかなり減った――」
「うるさいッ!! さがれ!!」
俺の発言は怒声によってかき消された。
唾が俺の顔に少しかかった。残念なことにご褒美とはならない女傑なので、本当に残念だ。というか不快だ。普通に。
「は、ウィバル・コート、謹慎に入ります」
俺はくるりと背中を向けて出口へと向かい、完全にドアを閉める前に一礼してから出て行った。
「――ッッ!! ウィバルぅぅぅぅッッ!!!!」
誰もいないことを確認して通路を全速力で逃走する俺の背後からキユナの大怒声が聞こえてきた。顔面をどす黒く煮えたぎらせて口を開かなければでないような大音声だ。
あいつはほんとに何に対して怒ってんのだか不思議だ。
俺、十七歳、元地方定時制高校出身である中卒少尉のウィバル・コートはかねてよりやろうと思っていたことを行なうために基地資料室へと向かった。
あそこには一度も行った事がないのでまずキユナと鉢合わせすることはないだろう。そんな考えもあったのは確かであるが、それにしてもこの国の成り立ちや歴史が知りたかったというのが大きい。
俺はジャンボジェット機の乗り継ぎで到着したこのグラスフォート皇国に、それなりに不信感を抱いている。不信感というよりは、不思議か。
とにかく、俺はようやくまともな休暇が得られたことを感謝した。
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資料室を追い出された。
歴史書の一冊をパラパラとめくりながら日本から持ってきた埃をかぶっていたノートにキーワード抜き出しでメモしていたのがそんなによくなかっただろうか。
「グラスフォート皇国の歴史」という俺のためにあつらえたかのような本が転がっていたのでさっさと引っ張り出して速読で読んでいたのだ。もちろん本当にすべて理解できているわけではない。一ページ二秒ほどで読み飛ばしながら気になったキーワードをノートに書き込んでいたのだ。何冊か大まかに読み飛ばしたら重なったキーワードから必要な本当に必要な本の選定を行なうという俺の読み方であるのだが……
四時間ほどそうやって「調べ物のための調べ物」をやっていたら資料室の娘に追い出されたのだ。
「ウィバル・コート少尉、申し訳ありませんが本日はもう資料室を閉めようと思いますのでお引取りください。明日、ですか? 明日も資料室が開いているかはわかりかねます。もしかしたら明後日かもしれませんし明々後日かもしれません。とりあえず、お引取りください。ノートはこちらで預からせていただきます」
そうやってノートが奪われた。
ノートが奪われたために関連付け記憶で脳みそ付け焼刃がほとんど機能しない。だって四時間しか勉強してないんだぜ。そりゃ覚えてないだろうよ。
さすがに全部覚えていないわけじゃないがすごい内容があったのでその辺りは覚えている。
この世界は「五竜」と呼ばれる一匹の超大型ドラゴンがすべての英知の源であるらしい。大昔(宗教的な意味で)に「光の巨人」と呼ばれる連中を倒すために五竜が現れ、自分の体の中から大量の小型ドラゴンを生み出してそれこそ神話のような強大な戦いになったそうだ。
すっとばして、その小型ドラゴンを模して作られたのが現在のクライムエンジンというわけだ。一応、五竜に使える神官がこの大地に残り王国を築いたそうだ。
それがただの御伽噺ではないという事実が現在も人間的因子として残っていたのだが「完成なんたら」というキーワードだったはずだがなんだったかは思い出せない。ノートに簡単にまとめているので見ればわかるだろうし、その文節も思い出せるはずなんだが。
おかげさまで俺はまだ日が高いのにテザーまでやってきた。
テザーとは基地の周辺にあるそこそこの規模を持った街のことだ。さすがに基地に隣接して街を併設するのは違法らしいので最低でも十キロほど離れている。俺が所属している基地からは二十キロほど離れているのでまともに移動するとなるとどうしても車が必要だ。紙切れ一枚とわずか五分の時間で車の一台くらい楽勝で借りることが可能なのだが、本日付けで謹慎処分を下されたやつがそのわずか数時間後に車で街まで繰り出すとかキユナの耳に入ったらまた怒鳴られるだろう。
いや、街まで行ったことが気に入らないのだろうが。
俺は通常の兵士が着る黒のインバネスと軍帽をかぶって誰も見ていないであろう場所から外へと出た。監視カメラと人の目から離れ、俺が知る限りは完璧な形で外へと出る。出て行く最中に「誰にも知られずに出る。あれ、これって違法なんじゃなかろか?」とか思わなくもなかったが、出てから考えることにした。
二十キロほどなら二十分も走れば到着できる。石畳とアスファルトを掛け合わせたような灰色のアスファルトもどきの上を疾駆しながらこれからのことについて考える。
まあやることなんて多くはない。
地球産の何かがあるならそれを見て回り、そう、ラム酒とかあればいいかもしれない。レーズンはこちらでも不気味なほどいっしょなやつが売っているのでラムレーズンのアイスが作れる。あとはポタージュが飲みたいのでジャガイモと牛乳が欲しい。あとはそうだな、ノートが欲しい。今日は一冊なくしたからな。謹慎中の勉強用にザラ紙とかの紙束でもいいから欲しい。あ、ボールペンが機能しないおそれがあるのでペンも欲しいな。くそ、本当にここは不便だな。巨大ロボのパイロットやっても足が出るほどいらだつ。
軍人のサガというか、金は多い。
しかも基地で十八人しかいないクライムエンジンのパイロットなのでかなりの額の給料が貰える。物価的な円換算すると年収一千万超から三千万ほどだろうか。経済の仕組みを知らないのでかなり雑な換算だ。
通常はテザーには確実に存在する大型売春宿に軍人が金を落とすという構図なのだが、俺はちょっと遠慮した。妙な技術も多いので病気の心配はない。ないが、他の連中と兄弟になるというのも釈然としない何かを感じたので利用していないのだ。
あと、これが一番大きな要因になるんだが、
不気味なのだ。
どうやら男の欲望を満たすためにたくさんの女がいるらしいのだが……そうだな、たとえば聞いた話で一番そうだと思ったのはいわゆる「ロリ要員」だ。十年前にガチロリで童貞を捨てた男がいたそうなんだが、最近同じ年代のロリ要員が入ってきてたとかなんとかで二人同時に、みたいな話が出ていた。
いや、ロリって成長するだろう。
稀にロリで成長が止まってる悲しい連中もいないことはないだろうが、それにしてもどんなロリでも十年も経てばそれなりに年を取る。
と、ここまで思考の手を伸ばして気がついたのだが、みんなそこまで厳密にロリとかぽちゃとかお姉さんとか分類分けしないのかもしれない。多少、幼い外見ならみんなロリなのだろう。
そこまで考えると俺も売春宿に行ってもいいかな、などと考える。どうせ謹慎中なんだ。暇なんだ。資料室での勉強? いや、どうでもいいんじゃないかな。いつでもできるし、俺としては整備の連中に話を聞くのが先だ。あのクライムエンジンで何千キロ移動できるのかとか、この地球ではない大地のどこまで稼動できるのかとか、そもそも地球でも動くのかとか、あれは動かなくても脱出用の飛行機でどのくらい飛べるのかとか極端な話、
日本に帰れるのか、とか。
俺は自前の強靭な脚力で疾走する。
いつかこのおかしな大地から逃げ出すための助走として。
テザーに向かう。
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良いコップが見つかった。
陶器製で均一的な厚みを持った白いコップだ。マグカップと言い換えてもいいだろう。
見かけたときにピンとくる何かを感じた一品だ。大量生産品に見えるそれだが、計算されて作られたハンドメイドだ。
俺は厚手の茶色の紙袋に地元新聞紙でくるまれたコップをいそいそとしまいこむと次の店へと歩き出した。紙袋の底にはジャガイモ、そして縦にラム酒の瓶、ついでに紙箱のレーズン、そしてザラ紙の束が入っている。ペンとインクに関しては購買で買えばいいと気づいたので買ってない。その代わり行きつけの小物屋でコップを見ていたというわけだ。牛乳は、今日は混ぜ物が多かったので買わなかった。店員が「気づかれた!」みたいなかわいい笑顔をしていたので許した。別に買わなければいいだけなのでどうでもいい話ではある。
ジャガイモは……ジャガモチにして食べるか。ポタージュは、今度で。
空から何か降ってきた。
俺はすいと体を開いて避ける。
それは石畳に吸い込まれて色濃い染みになった。
舌打ちする。
雨だ。
どこかの喫茶店にでも入ろうかと思索する。確か一番近い場所がこの二番道路の反対、一番道路の通りにあったはずだ。
俺はぱらつく雨を身に受けながら紙袋を低く抱えて反対の手で押さえる。さすがに紙束があるので本降りになる前に雨宿りが必要だ。
俺は路地裏を通る。
入って一歩目で後悔した。そこはゴミが詰まれた死んだ通路だった。抜けられなくもないだろうが普通はひとつ隣の路地裏を使用する。路地裏の距離は十メートルもない。無理をすることなんてないのだ。
俺は加速をつけた足で近くのゴミ――木箱を足場に跳んだ。ついでに壁を蹴ってさらに高く跳躍するように壁を走った。別に特別な技術じゃない。子供が坂のような壁を持ち前の身軽さで蹴って走ることがある。それと同じだ。
木箱を飛び越えて、次の高く詰まれた何かを足場にしようと――
何かがいた。
俺は紙袋を押さえていた手で近くの壁に指を突き立てる。がりがりと音を立てて俺の跳躍の運動エネルギーが消滅して俺はゴミの真ん中に着地した。
壊れた木箱。それに重なるように壊れた木箱が重なる。バラバラになったものあれば釘がむき出して自然と罠のようになっているよくできた木箱もある。
そしてその上に子供がいた。
子供は膝を抱えて座っている。
あまりに粗末な服を着ているなと思ったらボロの服の上から穀物を詰める麻袋、それも破れて使い物にならないものをマントのように着ていた。俯いて表情は見えない。
薄汚れた白い髪が脂と汚れで肌に頭皮に張り付いている。見えるだけの手足も汚れがこびりついておりにわかには落とせないと思えるほどだ。指先と足先はずっと使い続けたのだろうか、血が汚れと脂と混ざりこんで膨らんで固まっているのがわかる。
浮浪者、乞食、というにはあまりに慣れていないスタイルだ。
「どうした。親は?」
俺の言葉に子供は黙ったままだ。
起きてはいるし、俺が目の前に立ったことも理解はしているだろう。
だが、黙ったままだ。
雨が少し強くなった。
「お前の面倒を見る責任者はいるか?」
子供は黙ったままだ。
呼吸をしているのはわかる。多少、動いている。
しばらく考える。
俺は軍人でそこそこ信頼性のある人間だ。そのはずだ。
ここに子供が転がっているということはつまり、親が死んだか、親に捨てられたか、親が嫌いか、そもそも警察がなんとかできない種類の子供なのだろう。
俺は軍務規定にあった「外部協力者」や「軍務徴発」だかを思い出す。本来は戦闘で敵にロボが撃破された後に逃走を円滑に行なうための措置であるが別にそれでやっても問題はないだろう。
なんかいつだったか軍人がテザーの人間に性的暴行を行なってうやむやになったとかいう件があったはずだ。そんな感じのノリでなんとかなるのではないだろうか。
駄目だったら駄目で「謹慎処分が不服でむしゃくしゃしてやった」とかキユナに丸投げでいいだろう。あれで面倒見はいい女だ。いつか刺されることを意識していれば問題ない。
俺は子供に近づく。
子供が目に見えて怯えた。ガタガタと体を震わせて、しかしそれでも子供は俺から離れようと逃げた。逃げるついでに釘で足を引き裂くのが見えた。だがそれでも俺から離れようと逃げ出す。大きな赤い足跡を付けて、雨がそれを洗い流す。
俺は要塞化している木箱と釘に蹴りを入れて子供を追う。木箱が吹き飛ぶ音にさらに怯えた子供が加速しようとして足を滑らせるべったりとした血液が子供の生命の危機を告げる。
俺は子供の肩を掴んで壁に押し付ける。
「動くな。治療をする」
大きな瞳でこちらを見ながらガタガタと震えている子供はあまり愉快なものじゃない。
俺は大きく裂いてしまった足裏を手をかざす。
……さて、どうやったっけか。
簡易治療方法があったことは覚えているが、どうやったかは覚えていない。
ロボの操縦科目にあったんでやったことはあるし、問題ない効果を発揮したのでいけるはずなのだがいかんせんやりかたが思い出せない。
俺は地面に紙袋を置く。
雨が少し強くなっていく。
懐から手帳を取り出して目的の場所を開く。
ぱたぱたと雨が張り付くが撥水性のある紙が使われている軍用の手帳なのでそこまで問題はない。むしろ油性インクじゃないと書けないのでそのあたりが面倒だ。
目的のページを開くとやり方を一気に思い出す。手帳を軽く振って閉じると懐に戻した。
俺の中の「何か」を回転させる。
五つある属性のそれをゆっくりと回転させていく。呼吸をするたびにイメージとしての「気」を循環させるような、精神論としての、そして痛み止めとしてのあれだ。
だがこの世界、ルオールアースではそれは物理的な仕組みとして回る。
本来、人間に標準搭載されている内燃機関を意識してより強いエネルギーを生み出す方法。それが無限機関法だ。正直、最初に説明されたときは「ははあ、宗教的な神聖儀式の一環だな、おい」とか馬鹿にしたが、そもそもこの世界において言葉と文字の壁を世界中の人間が乗り越えているという事実を思い出して少し信じてみたらこのざまだよ。
俺の手からマグネシウムの発光を思わせる強い光が溢れるとその光に傷が焼かれるように裂傷はゆっくりと蒸発して消えていった。
いわゆる「回復魔法」と呼ぶしかない奇跡儀式であるが、この世界では「応急簡易手当」としての基本的な治癒方法として軍隊の末端まで届いている。もちろん雑な理解力のせいで使えないやつもいるが、仕組みとしては全人類が行なえる普通のことらしい。危ねえ力に閉口したし、応用として爆裂火球が自作できたので余裕で見なかったことにした。
傷口は塞がった。
が、内部まで塞がったかどうかわからない。強めにかけておいたが念のために触診を行なう。
「治癒が完了したかどうか触って確かめる。痛みがあるなら少しでいいから顔をしかめろ」
俺は驚くほど柔らかい足裏をぐいと押す。引っ掛けた釘の長さを意識しながら多方向から確かめてみるが子供の怯える顔に痛みは見られない。上手くいったとうぬぼれてもいいだろう。自分にはよく使う力であるが他人に作用させるのはアプローチが違っており、そもそも講習以外では初めてだ。上手くいってよかった。
「さすがに靴くらいは探して履いたほうがいいぞ。素足だと今みたいに硬いものに引っ掛けて裂傷をつくることもあるし、化膿や感染症を引き起こすこともある。あとこの辺りではわからないが、人の足裏に取り付くダニで酷い痛みを引き起こすこともあるからな」
俺は前にネットで見たツツガムシを思い出す。
超削りたい。カサブタとかも超剥がしたい。
子供がおそるおそる俺の手を触ろうとしている。
そうじゃないかもしれない。俺の手を引き剥がしたいのかもしれない。
だが俺は子供の手を握った。
おそるおそる伸ばす手をしっかりと取り、包み込むように握った。
「悪いが、お前は俺といっしょにセイル基地まで来てもらうぞ。お前を解放するのは二日後だ。それまではおとなしく俺の言うことを聞け」
冷たい子供の手だ。汚れが降り注ぐ雨で溶けてぬるぬるとしていく。
それでもしっかりと握る。
運がよければ基地で働くことくらいはできるかもしれない。
さすがにこんな子供を雨の中で放り捨てていけるほど俺も年齢を重ねていない。どうしても心にしこりが残る。こいつが俺に持たれかかるなら容赦なく捨てられるが、自分で立てるのであればその手伝いくらいはやりたい。
どちらにせよここで仕事にありつこうと思えば売春宿だ。
職業差別というわけではないが、そこへはいつでもいける。別の仕事があるのであればそちらに誘導してもいいだろう。良い大人が「風俗で働く」というのは別にどうでもいいが、子供がそちら進むしかないというのであれば、多少の年長者として人生の先輩らしいことはやりたい。幸い、金も地位もある。
あまりに汚いせいでこの子供が男か女かすらわからないが、どちらにせよ売春宿の戸を叩くことになることは近いうちに起こりうる普通の現実だ。
だから、少しくらいは「何か」してやりたい。
俺はぬるりとした手を離す。
子供もそれがわかっているのか、手を離した。
「……ぃ」
子供がしゃべった。
喉が渇いて張り付いているのか、第一声は聞き取れなかった。
俺は紙袋の中からラム酒の瓶を取り出した。
酒のラベルが貼り付けられているのでちらりとでも目にしたら酒であるとわかる。
俺は子供にそれを手渡す。蓋を開けて、しっかりと握らせた。
本当なら水を渡したかったが喉が潤うものはこれくらいしかない。厳密に言えばアルコールなので水分とは言えないが何もないよりはいいだろう。
手渡された酒瓶からラム特有のつんとした香りが広がる。明らかに酒だ。
子供は意を決したように瓶に口を付けて二度ほど喉を鳴らし――
そして大きくむせた。
大きく何度も何度も咳き込みながら、それでもさらに一口を口付ける。
そしてある程度は予想していた言葉を口にした。
「わたしを、奴隷にしてください」
怯える小動物のような顔で俺の機嫌を伺うように、子供はそれだけ口にした。
俺は返事をせずにインバネスを子供に着せると紙袋といっしょに抱きかかえて基地へと走り出した。
強く打ちすえる雨から守るために子供に軍帽をかぶせた。
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基地に帰ると少々まずいことになっていた。
キユナが俺を探していたようなのだ。
基地から出たときのように高いフェンスを走り、返しの付いた有刺鉄線部分を分厚い皮の手袋で掴んで反動を使って基地内へと戻る。俺が実際に見た限りではこの場所は監視カメラが見られない部分だ。おそらく誰かが故意的に作っている死角なので有効に活用させてもらっている。
俺は子供ひとりを抱きかかえたまま着地するとひとつの都市がまるごと入るほどの広大な敷地面積を誇る現在の最前線であるセイル基地に帰還した。
俺はさらりと侵入したが本当はこんなに簡単に入れるような場所じゃない。
今の俺だって即座に銃撃を食らってもおかしくない立場にいる。仮に、俺がキユナと同じ上級将校だったとしてもだ。何せこれは同じ方法を使えばヴァンフラート側からの破壊工作を行なえるという欠陥を放置しているということになる。
まあ、それはそれとして俺は身を低くしながらこの豪雨の中を進む。
見張り台は機能しているが俺がタイミングを計って移動しているので気づかれていない。
俺の強力な視力と運動能力があってのことだ。普通のやつらができることではない。見回りの時間配分やその手順と流れがわかるからできる。もちろん見つかったら軍法会議一歩手前になるだろう。が、殺されはしないとたかを括っている。さすがにクライムエンジン操縦者は貴重だ。どの基地も手放したくはないだろう。俺らがいるからこの最前線はこの場で維持されているのだから。
だからこそ俺の部屋の前にキユナが立っていたということは「少しまずいこと」なのだ。
「どう、聞けばいいのかしら?」
全部知ってますよ、という体でキユナが俺に話しかけてくる。親衛隊はいない。今日、執務室で別れたときと同じまま、軍服にみつあみ軍帽だ。
「別に。出入り口から出て、そして帰ってきただけです。外出許可証も提出しましたよ」
「明日までにね。日付は間違えないでよ」
危ねえ、というかこればかりはキユナに感謝だ。
さすがに外出許可証なしで外に出たのが「上級将校にバレたら」まずい。このあたりは融通を利かせてもらっている。
俺はしれっとキユナを避けて荷物を抱えたまま部屋に入ろうとする。
「それは、なに?」
「ジャガイモとラム酒です。ノートをパクられたので紙束買ってきたんですが、どうも濡れてしまって」
「私が言っているのは、その女の子よ」
さすがに子供は見逃してもらえなかったようだ。
それにしてもこいつ、女だったのか。インバネスと麻袋越しの感触では女性特有の柔らかさなどわからない。そのためにいまだに判別が付かなかったが、キユナが言ったのであればこいつは女なのだろう。
それだけキユナは優秀だ。
ものの判断能力と判別能力が優れており、的確な指示が飛ばせる。おそらくその辺りが上層部に受けて上級将校になったのだろう。
ここの軍隊は俺達のような余所の、たとえば日本からの人間をこのように上級将校として取り立てることもあれば、国内ならば素性の知れないやつですら軍隊の徴用するくらいおそろしくオープンだ。他人の心を読むような能力者がいてもまったく不思議ではないほど、常軌を逸している。
キユナが嬉しそうなイラついているような、それでいて俺をいぶかしむようなアンビバレントな顔をしている。顔面に青筋が入るほどではないらしいが、これ以上は何か無駄なことを言って怒らせるのは得策じゃない。
「テザーで拾ってきたんですよ。なんか俺の奴隷になりたいらしくて。いや、ほんとに」
「ふうん。見せてもらってもいい?」
「駄目です。こいつは怯えています。できれば明日か明後日か、とりあえず次に執務室に行くときにいっしょに連れて行きますので今日は勘弁してください」
さすがに怯えた子供を別のやつに預けるような行為をしたくない。
俺はそれは勘弁してくれと思いながらキユナに強く視線を送る。
「……わかったわ。明日、今日の分の外出許可証を持ってきなさい。午前中は執務室にいるから」
「ありがとうございます。では」
よし、俺の意思が通じたと思いたい。
相手に俺の考えが届いたところで相手が――たとえば今はキユナが――それを了承してくれなければなんの意味もない。最終的にはキユナの判断だ。俺はしっかりとキユナに感謝する。心の中で。
「大尉、それでいいんですか!」
部屋に入ろうとしたら通路奥から女の声がした。
まったく気が付かなかったが、どうやら親衛隊のひとりがいたらしい。キユナの隣で見たことのある顔のひとつがそこにいた。
彼女はつかつかと歩いてくると俺の目の前で止まった。
どうやらグーパンに自信があるようだ。女なのに珍しい。
ぎしりと詰まった筋肉が軍服の上からでも理解る。
だがそれは肥えた筋肉じゃない。だからと言ってスマートなそれでもない。
なんといえばいいのか、骨が、神経が、振る舞いが見せる必要量の筋肉だ。純粋な量では俺のほうが上だが、明らかに俺が無策で挑めば殺されるほどの膂力を秘めている。その一撃が鉄を砕く、そんな映像すら伺える。
惜しむらくは俺が彼女の名前すら知らないということだ。
「オーベル、止めるんだ」
「止めないでください大尉。こいつ、大尉に甘えすぎです。一度痛い目に合わせないとわから――」
轟音、轟音、轟音轟音轟音――
豪雨にまぎれて巨大な雷が落ちた。
何度も、何度もだ。
俺の左腕が常識を超えた速度で動き外への壁を粉砕する。
一度だけではない何度も振るわれてハニカム構造を持つ強度のある士官宿舎の壁に大きな穴が開いた。楽勝で人間ひとりがくぐれるほどでかい。
「――ない」
オーベルと呼ばれた女は尻すぼみに会話を終わらせた。青い顔で。
右手で子供と紙袋を抱えた俺。その空いた左手はオーベルにそこそこ大きな風圧を与えながら壁に大穴を空けたという事実を受け入れたようだ。
本当なら俺の拳と壁の間にこのオーベルとやらを挟みこんでも別にかまわなかったが、いきなりやるのもかわいそうだったので止めておいた。あとキユナが止めたということも大きい。
「オーベル少尉、お帰りはこちらですよ」
俺は空けた大穴を指してお帰りを願う。
ごうごうと吹きすさぶ風がこの通路まで流れる。大量の雨が通路を濡らす。近くのはめ殺し窓が風雨でばちばちと唸りをあげている。
オーベルはそれなりにグーパンに自信があったと見えるがやはり俺のほうが強いようだ。今の一撃、まったく見えなかったのだろう。
こちらにきてから極端に強くなった俺であるが、それは地球で培った技術と肉体と知性が基本となっているようだ。そのために俺の肉体性能の上昇が著しい。
と、考えると俺よりもキユナのほうが頭が良いという事実が浮かび上がる。
さすがに定時制高校に通おうと決めた俺の人生判断基準がおかしいということにしておく。
キユナのほうが正しく、頭が良い。
「じゃあもういいですか? あとで修繕依頼出しときます」
「私が出しておこう。お前では遅すぎる」
俺はオーベル少尉に言ったつもりだったが、キユナがさらりと俺の言葉を回収する。マジ有能だと思う。俺が行動遅いことを知っている上でフォローすることを含めて。
俺は「失礼します」と言ってから室内へと入った。
士官室は防音性が高いので、入り口を閉じてしまえばほとんど音は聞こえなくなる。
そこそこ耳が良い俺でもわからない。
何を言っていようともだ。
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室内錠をしっかりと掛けてから俺は子供を、女の子をおろした。暗い赤の絨毯に雨の染みが付く。
そろそろ破けそうな紙袋は食卓用の猫足の丸いオシャレテーブルに置く。基本的に一人用のテーブルだが、詰めれば二人分のご飯くらいは置ける狭さだ。来客用の椅子なんか考えていたわけではなかったが「いつか必要になるよ」と念を押されて買わされた同じ猫足の椅子、その二脚目がようやく活躍する日を迎えたと言ってもいいだろう。一応、最初からオブジェクトとして置かれていたのであるが、やや埃をかぶっている。俺は小さな炊事場から布巾を取ってきて椅子を拭いた。
とりあえず水でも用意するか。
俺はガラスの水差しからガラスコップに水を注ぐ。水道管を捻ったら軟水が出てくる。個人的によかったと思えることのひとつだ。水道があるので別に水差しはいらないと思っていたのだが、意外に使うので便利だ。ちなみにお茶用の水差しは冷蔵庫の中にしまっている。
洗濯物用のカゴに濡れた上着を投げ捨てた。
さすがに洗濯機はなかった。正確にはあるのだが、専門の業者が使う精密機械のひとつだ。士官室に備え付けられているどでかい冷蔵庫も便利といえば便利だが、日本での生活とは比べられない。
水道で手を洗ってよく拭いてからバスタオルと水を手にして女の子のほうへと近づいた。
女の子はおろしたときの位置から一歩も動いていない。
ただ悲しそうな顔で俺を見ていた。
「水だ、飲め。さすがに酒だけを飲ませて風呂に入れたらまずい気がする」
俺がガラスのコップを手渡すときに、やや困った表情でゆっくりと受け取って水を一気に飲み干した。それでようやく一息つけたのだろう。ゆっくりと深呼吸をしたようだ。
「もっと飲むか?」
女の子はふるふると首を横に振る。
汚れた雨粒が俺の室内に散ったことに気づいたらさらに動かなくなった。
俺は汚れたコップを受け取ると猫足テーブルに置いた。女の子が嫌そうな顔をしたので見えないように流しに置いた。別に洗うのは俺じゃない。日に一度か二度、士官用のルームサービス? なんかメイドみたいなのがやってきて洗物や食事配膳、洗濯をやってくれる。実にありがたい。
「……エカリテ」
女の子はぼそりとしゃべった。
女の子の名前だろう。
あと、俺の名前が知りたいのではないだろうか。
俺も偉くなったもんだ。先に名乗らせてしまった。
「ウィバルだ。ウィバル・コート。この基地のクライムエンジンパイロットだ」
女の子の顔が「あれ?」みたいな顔になった。何か間違えた、みたいな顔だ。
その表情から俺も何か「間違えたか?」みたいな感触を得たが、とりあえずは風呂が先だ。もともと女の子――エカリテの手は冷たかった。この雨の中を突き進んできたのだ。相当に冷たくなっているだろう。俺もそれなりに寒いが筋肉量の少ないエカリテはそれ以上だ。
風呂に入る。
その前に俺は言っておかなくてはならないことがあるし、聞かなければならないことがある。
そうじゃない。俺が、エカリテに命令しなければならないことがあるんだ。
「エカリテ。俺はお前にしたいことがある」
エカリテはぴくりと体を震わせる。「きたか」みたな流れだ。
「これは痛い。まず間違いなく痛いだろう。もしかしたら状況によっては痛くないかもしれないがおおよそ、痛い。本当ならしっかりと説明してから行ないたいことであるし、そもそも何をやるかというのも言いたいが俺のこれはまず理解されづらい。故に、先に言っておくことにする」
エカリテはこくりと頷く。頷いたまま、こちらを見ない。
俺に失望しているのか、それとも顔を赤らめているのかわからない。
「これは俺の趣味だ。あまり良い趣味ではない。風呂に入ってしまうとあまり意味がなくなる可能性が高い。そのために風呂で行なう。そもそも痛いので怪我をともなうが、しっかりとその傷を治すことは責任をもって行なうことを約束しよう」
ま、俺がどんな建前をつくろうとも「奴隷になりたいです」と言った手前、エカリテはそれを断ることはないだろう。また断るという弁を持たない。そのために俺が言っているのは汚い手段であると言っても過言じゃない。断れないことを前提にエカリテに肯定させるのだから。
「だが悪いことばかりじゃない。まず肌が綺麗になる。かなりな。他にもいろいろあるが、まあ体を綺麗に洗うということは間違いない。だが、痛い」
痛いことを強調しておく。実際、大人でも耐えられずに逃げ出すほどの痛みがある。
こんな年幼い少女が耐えられるかは未知数だ。
そういえばいくつくらいなのだろうか、エカリテは。
身長はおよそ百四十ほど。小学校高学年から中学二年の間くらいだろうか。その辺は風呂に入ってからでもおそくない。
「それでもいいか?」
俺は頷かせるための一言でお願いを終える。
どう考えたってこの状況で断るようなやつはいないだろう。しかも子供だ。もっと子供なら嫌だというかもしれないが分別がついてきたこの頃合ならまず言わないだろう。
そしてややあって、エカリテは頷いた。「はい」と小さい声で鳴くように。
よしよしよし、俺は喜びにむせる。
さすがにこの年の娘にやるのは初めてだが概ね問題はないだろう。
俺は風呂場に移動する。一応、風呂場と呼称しているが、どちらかといえばシャワールームだ。大き目のシャワールームに四脚のバスタブが置かれているかなり大きく身長百九十近い俺が足を伸ばして入れるほどだ。エカリテと二人で入っても問題ない。
俺は風呂場にある洗面台からひとつの道具を取り出す。
よく手入れされた鎌のようなものだ。これは日本から持ってきた私物であり俺が必要としているものだ。形状は先も言ったが鎌状で内側にはやや薄くなっている。別に刃物ではなく内側を触っても切れることはない。持ち手はゴムグリップで風呂場で使ってもすっぽ抜けないようになっている。金属製だ。
俺はぺたぺたと付いてきたエカリテからインバネスを剥ぎ取る。ついでに麻袋も剥ぎ取る。あまり質のよくない綿製の洋服とズボンを自分で脱がして裸にすると自作の木製椅子に座らせる。風呂場で使う小さなやつだ。ついでに木桶もある。でかい背中を洗うブラシが備え付けられていたのを考えるとアメリカ式に湯船に使って垢を落とすのであろうが、さすがに日本人としては体を洗ってから湯船に浸かりたい。そのために準備したものだ。壊れたときのために椅子も木桶も三つあるのでちょうど良かった。
俺は裸のエカリテを椅子に座らせる。
俺もその後ろで椅子に座る。
じろじろとエカリテの背中を見る。きっとあるだろうアレをみつけるためにだ。
だが、ない。汚れてはいるが、綺麗なものだ。肌は。
あれ、と思いながらエカリテの肩を掴んでこちらを向かせる。エカリテは驚いて両目を大きく見開いて俺の方を見ているが俺としてはそれどころじゃない。じろじろとエカリテの肌を見回す。
正直言えば超残念な体だ。
女性特有の脂肪がまったくない。なんと言いのだろう。とにかく女性の丸みがなく、子供特有のすらっとした手足と体だ。肋骨が浮いているといえば浮いているのだが、腱や筋はしっかりしているので欠食児童特有のガリガリ感はない。あくまでも成長していない、といえばいいのか。
俺は増設した下部シャワー管からお湯を木桶に注ぐ。そこでようやくバスタブにお湯を溜めていないことに気づいたのでお湯を出す。ドドドド、と音を立ててお湯が流れる。まったく士官様々だ。即座にお湯が出てくるのは士官以上だけらしい。というかそもそも士官の数が少ないそうだ。百人に満たないという話を聞いている。そう考えるとあのキユナの親衛隊はなんであんな無駄なことをしているのだろうか。パイロットじゃない士官ならやること多いだろうに。
俺は着桶のお湯にエカリテの手をつける。熱かったのかピクリと跳ねたがぶっちゃけちょっと浸けるだけでよかった。バスタブに多少の水を混ぜながら、お湯に浸したエカリテの手を再度取って指先を軽く擦る。すると黒い血の塊のような汚れがさらさらと崩れていった。
……これは、まさか。
同じように黒いこびりつきのあるエカリテの手足の先を優しく洗う。強くやってはなんの意味もない。というか本当はお湯ですら浸したくなかったがこうであれば仕方ない。
ぱっと見て汚れが広がっただけのようだが、バスタブから湯を掬ってかけててやると綺麗に汚れが落ちた。本当に綺麗に落ちた。妙に白い指先が現れると、黒いこびりつきの原因であるはずの傷が見当たらない。
俺は首を傾げる。
そのままざっとお湯と俺の硬い指先で軽く擦りながらエカリテの肌を流す。
特に傷らしい傷はなく綺麗になった。
シャンプー粉をかけて真っ白な髪を洗う。泡立ちが悪かったので二度ほど丁寧に洗ってお湯で流した。これで乾いたら綺麗になっているだろう。
そこで始めて気づいたのだがエカリテの目は赤かった。
赤い目に、白い髪、白い肌……
「アルビノか?」
エカリテは首を振る。
そりゃそうだろうな。なんというか、違う。
髪も「色が抜け落ちた」じゃなくて、「白色の髪」であるし瞳もキラキラした強い赤色だ。肌も純粋に白人としてキメが細かいといった感じだ。
「綺麗だな。綺麗な色だ。色が乗っている」
俺は笑いかける。
エカリテは俯く。
いや、まあ、これからのことを考えるといきなり褒めても「いかにも」だろう。あまり褒めないほうがいいかもしれない。この後で褒めてやればいいだろう。
さて、本番に移るか。
俺は立ち上がる。
エカリテが体を震わせて立ち上がったのでバスタブに手をつくように指示する。バスタブがやや低めの位置にあるのでエカリテは俺に向かって尻を突き出す。貧弱すぎる。
「痛いぞ」
エカリテはぎゅっと強くバスタブを握る。
自分でもわかるほどにやけている。ここに来てからは他人にするのは随分とご無沙汰だったので嬉しさもひとしおだ。
おっと、怯える少女を前にこうなるのは失礼か。いや、それでも自分の心に嘘はつけない。それにエカリテにもそんなに悪くないことだ。見たところまだっぽい。
俺はエカリテの体を固定するために左手でその細い腰を掴んだ。
あまり長引かせても痛いだけなので一気に行なうことにする。
「我慢しろよ」
返事は待たず、俺は一気に引いた。
エカリテの柔らかい部分を思い切り擦る。
あまりに苦痛だったのだろう。「ぎっ!?」と押し殺すような声がエカリテから漏れた。一度やってしまえば後は恐怖が増すだけだ。俺は連続で続けていく。
噛み潰した悲鳴と嗚咽がエカリテから聞こえてくるが、俺は陶酔する自分の感情を抑えられない。ワンストロークごとに真っ赤に腫れ上がっていくだろうそれを見ながらにやける。
しかし抵抗が少ない。
思ったよりも、だ。
もしかしたら経験があったのだろうか。エカリテなら、きっと経験がないと思っていたのだがそうでもなようだ。もしかしたらそういう体質なのかもしれない。
「うーん」
あっさりと終わった。
排水溝にうっすらと血の筋が流れていく。正直、回復魔法があるのでわりと強めにやった感は否めない。むしろそれがあるからかなり強くやった。のだが、それでもなんか物足りない。
エカリテは足を震わせて膝をついた。
終わったことを理解したのだろう。
俺はエカリテの血のついたそれを見る。
鎌状の金属である垢擦りを。
「おっかしいなー。エカリテならもっとたくさん取れると思ったんだがな」
俺は趣味のアカスリを終わる。
真っ赤になったエカリテの背中と肩と腕、それらにさっさと回復魔法をかけた。すぐさま傷になっていた赤みが引いた。さすがいふとももや胸、腹をやる勇気は俺にはない。あまりに脂肪が少ないためにこの金属製のアカスリでは普通に皮膚を削り取るだろう。
浮浪者然としていたし、手足の先に血の塊のようなものがあったのでカサブタを剥がそうと思ったがそもそも傷がない。十年以上も生きてきてこの量の垢は少ないってか、そもそもないも同然だ。ってか存在していない。このレベルだとただの汚れだ。
つまりだ。
俺は趣味のアカスリでもなんでもなく、エカリテの肌をただ痛めつけたという事実が残った。
それは、ちょっと、どうなんですかね、実際として。
脂汗のようなものをぽたりぽたりと流しながら、俺はこの室温と湿度の高い風呂場の中で考え込む。普通に虐待になるんじゃ、これ……
下手するとキユナの野郎が気づいて俺に罵声を浴びせたり失望してもうフォローしたりしてくれなくなったりするんじゃ。いや、嫌いだから互いに利用するくらいでちょうどいいんだが、さすがにこの別れ方はちょっとな。
そんなまずバレないことを考えていると、ぐったりしていたエカリテがこちらを向いた。
「どうだった……上手くできた……?」
渾身のストレートが鳩尾に決まったような、そんな自責の念で死にたくなってくる。
なんといえばいいのか。
「エカリテって垢ないね。まったく取れなかったよ」と言っても言わなくてもなんか違う気がする。そっもそも成功なのか失敗なのすら曖昧だ。体が綺麗になったということに関しては間違いなく成功ではある。だがそれはそもそも俺の困った趣味である他者へのアカスリ、大量の垢を擦りだすという目的からは逸脱しておりその点は間違いなく失敗だ。
俺はぐったりした裸のエカリテを抱きしめる。
「大成功だ。ありがとう。痛かったよな」
俺は成功の旨を伝えた。
エカリテはそれに対して何も言ってはこない。なんとも気まずい。さすがに俺の心までわかっているとは思わないので、そのあたりは少しは気が楽だ。こう見えて嘘は上手いほうだ。顔面の筋肉の操作はお手の物だ。まあ、キユナにはあまり通じないのだが。特にここに来てから強くそう思う。娯楽の大半が潰えたから感覚が鋭くなったのだろうか。
いつのまにかエカリテは俺の胸の中から俺を見上げていた。真っ直ぐな視線を俺に向けている。何かも見透かすような子供特有の視線が痛い。
「さ、寒かったろ。湯船に浸かるといい」
「……まだ、洗ってないところ、いっぱいある」
言われてみればその通りだ。
アカスリに夢中になりすぎて他のところは特に洗っていない。
本来ならその体のほとんどをアカスリで擦るべきなのだが、基本的に他者に行なう場合は背中と腕と肩の三箇所くらいだ。俺は男のまたぐらをアカスリしたくない。ついでにいえば別に女性のまたぐらもアカスリしたくない。
だがまあエカリテくらいの年齢なら別にやってもいいかな、とは思う。どうせ垢は出ないからやらないけど。
仕方ないので粗めの布を取り出す。
これもアカスリ用であるがめっちゃ加重しないと取れないのであまり好きではない。この金属製のアカスリがやはり最高だ。
体を洗う、という一点においては他の追随を許さないので、普通に石鹸を使うときはこれを使うが。
「よし、じゃあ座って」
エカリテは俺と向かい合うように座る。
え、なに、誘ってんの?
とか思ったが背中側はめっちゃ痛かったであろうアカスリを行なったので、今度は正面をやるのが正しい流れだ。
俺は固形石鹸を使ってしっかり泡立ててから布で優しく擦る。とりあえずエカリテの右脇から腕の内側辺りを。さすがに内側は皮膚が柔らかすぎてアカスリは使えなかったのだ。
「ウィバル、さ、ま……痛いです……」
「おっとごめん。あと別に様付けじゃなくてもいいよ。あんまり年齢も変わらないし。あ、俺は十七歳ね」
女性に年齢を聞くのはどうかと思う、そんな意味のわからない歴史が俺を縛ったので探りを入れるようなアプローチで年齢の枠に踏み込む。
俺は力を抜いて布で再度擦る。
「あの……わたし、その、見た目よりも年が、ないです。あと……痛いです」
マジかよ。
俺よりもだいぶ年下なのかよ、とか思うよりも「こいつここまでして年齢言いたくないのかよ。地球産の女かお前」みたいなことを考える。エカリテはビクッと震えて俺の優しい丸洗いに抵抗を示した。
「あの、なんかぴりぴりします……痛い、です」
しまったな。
おそらく金属製のほうのアカスリが痛かったせいで肌が過敏になっているのだろう。
どうするかな。
布巾用の布が流し台の下にあったからそれでなんとかするか。
「あの、その、手で、やってもらえませんか……」
やだ、なにそれ、エロい。
っていうか、エカリテもわかってて言っているのだろう。顔を赤くして俯いている。いや、室温で茹っているだけの可能性もあるんだが。
まあ、どちらにせよだな。
「悪いがエカリテ、俺の指は硬い。指というか、そもそも手が硬い。たぶんこの布のほうが優しいぞ」
俺の手はごつごつとしてる。
俺はこの年で「D」の名手だ。こと喧嘩や技術比べにおいて負けたことがない。おそらく俺の年では珍しいことだろう。どこかで敗北しなければならないと思うほど、俺は強い。
それだけの修練を積んできた。そのために俺の全身、特に指先は硬い。
何か意味があるの?
と付き合っていた彼女の聞かれたことがある。喧嘩になった。ついでに別れた。
「わ、わたしは、ウィバルさ、まの手で、やってほしい……です」
そう言われてもな。
とは思ったが仕方ないので手で洗うことにした。布をばふばふと空気を含ませて大量の泡を作り上げてそれを手に取ってエカリテの全身をくまなく綺麗に洗った。
洗い終えたときにエカリテが茹蛸みたいになるほど丁寧に洗った。
ここに誰か男がいたら「お前そこまでしておいて手を出さないのかよ!」と言われるくらい、マジで丁寧に洗った。
そしてエカリテをバスタブの中に漬け込んだ。
「ついでに俺も風呂に入るからな。あ、おい、あまり見るなよ」
エカリテを丸洗いする前からずぶ濡れだった俺は着ていた肌着とズボンを脱ぐ。軍用の四角いパンツを下ろすときにガン見しているエカリテを半分ほど無視して湯船から木桶で湯を掬ってアカスリを行なう。
自分で言うのもなんだが均整の取れた最高の筋肉だ。存分に衝撃を与えて太らせた骨に精密な鍛錬で鍛え上げた神経と筋繊維がまとわりつき強靭な柔軟性と弾力を維持している。俺が求める最高の筋肉だ。
それでいて中肉を保っているのだから何の問題もない。
本当ならヘビー級のボクサーのような体が欲しいが、さすがそこまでの肉体的才能がない。かろうじて体重が百を超えているくらいだ。身長が百九十五くらいあるならもっと体重を増やせるがさすがに俺ではここまでしか増やせない。
ざりざりと音を立ててアカスリを行なう。金属製アカスリの衝撃にまったく負けない筋肉の弾力が俺の手に伝わる。ついでに垢は出ない。指先を見ると爪は綺麗に切りそろえられている。足の指もそうだ。
アカスリがしたくて仕方ない。
爪が切りたくてしかたない。
ああ、地球にいたころはよかったな。
天才アカスリ少年として駄肉マダムの垢を擦り落としていたあのときは。まさに輝いていた瞬間だった。ひょんなことから知り合ったヤクザが紹介してくれた違法性バリバリのマッサージ屋で働いていた俺はその中で本当に「マッサージとアカスリ」だけで金を貰っていた。
「どうして、そんなに、アカスリ好き、なんです、か」
手を伸ばして俺に触れて話しかけてくるエカリテ。そんなことせずとも別に無視しないし耳もいいので問題はない。が、本人としてはなんらかの強迫観念でもあるのだろう。好きにさせておく。こういうのは言葉で言っても意味がない。実際に「そうである」と態度で示さなくていけない。
「俺はナルシストの面があってな。ああ、そうだな。なんといえばいいのか」
俺は男親に育てられた。
親父は「D」の道場を開いていたが、あまりに教え方が下手くそだったのでまったく儲かってはいなかった。俺はそんな親父に教わりながら日夜訓練に明け暮れていた。
体が出来上がってきたある日のことだ。
右腕だけ妙に筋肉のつき方がよいことに気がついた。仕方ない。俺は右利きであるし正直、左手からの動作に注力していたことはなかったからだ。
親父はそんなことはなかった。きわめて均一的だった。そして強かった。
苦手な型がない。どんな状況でも対応できる。体のバランスがよいので動きが軽快だった。
親父に言われて嫌々左手を鍛え始めた。
効果は明らかで一気に俺も強くなった。
それから何事もバランスよく鍛えるようになった。
毎日、自分の体を観察する癖が付いた。
またある日、垢がついていることに気がついた。それが垢であるとわかった。
擦ったらボロボロ取れた。
やりすぎたら翌日は痛くて死んでいた。
だがそれをやるたびに皮膚がゆっくりと硬くなっていった。弾力が増していった。まきわらを突いて痛めた拳が硬くなるのと同じ理屈なのだろうと思った。柔らかい皮膚だと戦うときに不利だと思ったので積極的に行なった。
そっからが問題だった。
アカスリに妙な快感を感じてしまったために毎日アカスリと悶絶を繰り返し、俺は硬い皮膚を身につけることができた。だがアカスリ(皮膚を剥く)ことに快感を覚えてしまった俺は毎日アカスリを行ってまったく垢らしい垢がでなくなった。ついには近くの銭湯に頼み込んでで三助を行いそして地上げヤクザが……
どうでもいい話だな。
「ほら、爪切りとか好きすぎて深爪しちゃうやつがいるだろ。あれだよ。特に意味はないよ。強いて言うなら自分の肉体を維持するためにアカスリしてたら趣味になっちゃって人様にまで手を出し始めただけさ」
「ナルシスト、関係ない、よね」
「いや、アカスリ時には風呂場に備え付けられていた鏡で全身を見ながら行なっていたんだ。で、それとは別に俺は理想の体を手に入れるために鍛錬していてね。アカスリ、イコール、肉体の完成度を確認、になってしまってたぶんそれが染み付いたんじゃないかな。わりと本気で」
もはやガリガリと音を立てながら肩や腹、ふとももに金属製アカスリを行なうがまったく痛くない。むしろ全身すべて一分の隙もなく痛くない。明らかにやりすぎた。
だが色素沈着を起こしてはいない。普通の色、だと思う。
俺は、なぜアカスリをしているのだろうか。
アカスリを握り締めながら考える。
そこに垢があるから?
いや、そんなものはない。
すでに癖になっている?
いや、癖というよりは何かを求めている。
何を求めている?
何をだろうか?
垢?
硬い皮膚?
それ以外の何か?
馬鹿な。
アカスリにそんな深遠は必要ない。
アカスリはアカスリだ。それだけだ。
俺はただがむしゃらに行なうアカスリはすでに通り過ぎた。
確かに今は軽い禁断症状で子供の柔肌を裂いたかもしれないが、それでもアカスリはアカスリだ。そもそも普通はアカスリを行なわなければ垢というものは残る。今回、エカリテの件はまったくのイレギュラーだ。確かにおかしいと思って多少は強くやっていしまったが、それでもだ。
アカスリの先……
いや、やはりそんなものはない。あって良いわけがない。
アカスリで世界の真理を得たところでそんなものは何の意味もない。
真理は真理にこそ宿る。
アカスリはアカスリだ。そう、それだけ。
ならば何を求めているのか。
やはり、俺はまだただ垢を擦りだすという無限の快楽に身を浸かったままなのだろうか……
駄目だ。
俺はまだアカスリの快楽地獄から抜け出せていない。
普遍たるアカスリの、垢を擦るという事実を見出せていない。
これでは爪を切って深爪をしたり、耳掃除をして鼓膜を破いたり、鼻を穿って鼻血をだすただの快楽主義者の末路といっしょじゃないか。
俺もそうだというのか。
違う、そうじゃない。
いっしょなのだ。
俺は快楽主義者であり、ひと時の覚めざる欲求のために子供の柔肌を裂いた愚劣な男なのだ。
そこから認めなくてはいけない。
俺はまだ快楽主義者であるのだ。
俺のアカスリはまだこれからだ。
俺は十七歳。アカスリの坂をどこまで上れるかわからないが、きっと制覇してみせる。
そう、俺はアカスリの坂をまだ上り始めたばかりなのだ。
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翌日だ。
昨日はエカリテといっしょに風呂に入り「○ん○ん、おっきいですね」という特大の誘い文句を「アカスリで擦ったら大きくなった」という現実で返したら尊敬された。
そんな翌日だ。
午前七時に目を覚ましたら先に起きていたエカリテが俺の金属製アカスリに無限の可能性を感じていたので間違って自分の乳首を切り落とさない前に奪い取って叱っておいた。
俺のシャツ一枚だけを着ているエカリテがあまった袖をまくって、俺のつくった朝食を取っている。ハウスメイドだか豚小屋の番人だかのお手伝いさんは基本的に朝食は持ってこない。昨日の夕食時は熱い視線で見つめられたのでどちらにせよ朝食は持ってきてもらえなかったような、そんな気もする。
エカリテの髪がさらりと流れている。昨日は脂で固まっていてわからなかったが髪は肩を越えたところまで伸びていた。時折うっとうしそうに後方に撫で付けていたので輪ゴムでポニーテールにしておいた。耳の辺りは結べなかったので流れっぱなしだが、それがいい。
白が乗った髪が室内灯を優雅に反射している。陽光ならば笑顔が映えるだろうなと考えながら大きな赤い瞳を、小さな鼻と血色のよくなった唇とそのかわいさを際立たせている輪郭線が俺の視界いっぱいに広がる。
おそろしくかわいい。
こういうと頭おかしいやつと思われかねないが、あまりにも均整が取れすぎている。まるでそうあつらえたかのように、人形のような印象を強く受けた。顔に限らないが、体のいたるところから人生の年輪のようなものが感じられない。それは傷であったり、日焼けであったり、何かの抵抗を受けて発達した自然な筋肉であったり、そういうものがない。まるで美麗な彫刻やイラストを見たような、そんな美術的な外的センスを感じた。
いや、実にけっこう。
あまりの希少価値に超自然的な何かを感じる。
エカリテは三枚目のバタートーストを腹に詰め込んでいる最中だ。
猫足テーブルには二人分の皿とコップとスープカップが置かれている。今日の朝食はバタートーストにサニーサイドアップ、ジャガイモとブルストのペッパースープだ。前にこの朝食を見られて「へえ朝食に卵かい。豪勢だね」と戦後もかくやという発言を貰ってからは絶対に人に見せないことにした。かなりショックだった。そもそもお前、卵の値段に関しては日本とたいして変わらねえじゃねえか。
いや、待てよ。俺の物価理解の触れ幅が三倍ほどあることを考えたら卵十個で六百円の可能性もある。いや、騙されねえぞ。一個六十円の卵を朝食で食って何が悪いか。安いわ。パイロットじゃなくても安いわ。
目玉焼きには醤油派なんだがここには醤油がない。しかたないのでケチャップで代用している。ケチャップなら卵焼き派なんだが、朝は目玉焼きが最高なので我慢する。
この時点で不特定多数の人間を敵に回すことになるのだが、別に痛くも痒くもない。大いに嫌ってくれたまえ、って感じで喧嘩したことがある。相手は男だったので外に放り投げておいた。
エカリテがあまりに一生懸命食べるので迂闊にも「うまいか?」とかかなり無粋なことを聞きそうになったのでなんとか堪えた。そんな恥ずかしいことを言っていいのは料理人か主婦だけだ。
しかし昨日の夕食のときも思ったのだが、エカリテは本当に何も食べていなかったと伺える。ちょっとアレあ話だがテザーには無料の水道があるので水だけは飲んでいたと推測したい。が、昨日のエカリテはかなり喉を乾かせていた。死ぬ前提だったのだろうか。それとも知らなかったのだろうか。まあ、そういうこともあるだろう。どちらにせよ。
本日の予定はエカリテの服を買いに行くことだ。
雨が降らなければそのままテザーで服のひとつや二つくらい買ったのであるが、雨が降ってせいですっかり失念していた。昨日の風呂の後からずっと俺のシャツ一枚で過ごしている。おそろしいほど特殊性癖が積み重なっている。
俺がエカリテの開いた胸元を「なんで最後までボタン留めないんだろ」と見つめていたら、それに気づいて恥ずかしそうに胸元を手で押さえた。やや意図が不明である。見られることを意識していたのか、そうじゃないのかどちらかにして欲しい。押さえたシャツの胸元に卵の黄身がべたりとついた。それに気づいたエカリテが驚いてそれを拭おうとしてさらに被害を拡大させるという赤ちゃんか幼児しかやらないような行動を取っている。俺はエカリテをどう思っていたか自分でもわからないがそういう行動を取ってしまったエカリテに若干ショックを受ける。失望ではない。衝撃的な何かを感じた。だからなんじゃという話ではあるのだが。
あとで新しいシャツを出す予定で、テザーまで行く服装を考える。昨日着ていた服は全部洗濯物に回した。それに関しては正しい判断であったと思う。しかし服を買いに行く服がない。洗濯は今日の夕方辺りに終わるのでそれを待ってからでもいいのだが、時間は有効に使いたい。俺だけが買い物をしてエカリテに着せるのもいいがサイズが合わなかったらなんか気を使わせそうでやりたくない。
シャツをしっかりと着せてから俺のインバネスで覆うか。
特殊性癖がまたうず高くかさむ。
イメージが悪い。しかし早ければ三十分で解消できる案件なのでさっさとやってしまうほうがいだろう。昨日のようにエカリテを抱えて走れば早い。
「エカリテ」
呼ばれたエカリテが強い静電気でも受けたかのようにびくつく。
焦った表情でシャツに移った黄色と俺の顔色を伺っているのでかまわずに続けた。
「服を買いに行く。食事が終わったら手を洗って服を着替えろ。すまないがお前に合う服がないのでテザーまではシャツとインバネスだけで頼む。五着くらい買うつもりだから好きなのを選べよ」
エカリテがそれを聞いてぽかんと口を開けたままになった。
「お前かわいいからな、しばらく俺の傍にいろ。少なくとも食事は不自由しないだろう。仮にも軍隊だからな」
俺の一言にエカリテが表情を輝かせる。
ちょっと意味がわからないですね。今のセリフのどこに嬉しがる要素があったんだか。
キユナに、というか上官にバレたらどうなるのだろうかという疑問がわいたが、そのときはそのときだ。上官に謝ってエカリテを「ペットです」で通そう。いけるだろ。たぶん。
……上官が「エカリテを貸せ」と言ったら俺はどうするだろうか?
だいぶ、困る、だろうな。とりあえず、身元不明の死体になってもらうかな。
短慮に浅慮を重ねた思考結果にたどり着いた。キユナに聞けば少しはいい考えを提案してもらえるだろうからそのときはそのときだろうか。ほんとに。
嫌いなやつでも、利用するのは心が痛む。
そっと、俺の手にエカリテの小さな手が重ねられる。
不安な表情をしている。
おっと、そんなに怖い顔だっただろうか。
どうでもいいけど大根と細切りベーコンの味噌汁が飲みたい。一晩置いたやつ。
「ところで、喉の調子はどうだ。喉が渇いているときにラムとか飲ませたからかなり心配していたんだが」
「はい、だいじょおぶです……もとに、もどりました」
どうやら会話の経験値が少ないか、それとも自信がないのだろう。単に人見知りという可能性もある。俺の友人に基本的に人見知りの癖に女性と会話をするのは問題ないという頭のおかしいやつがいたが、あいつは絶対に人見知りではないだろう。ただ自分よりも強そうなやつにキョドってるだけだ。そろそろ三十歳とか言っていたが元気だろうか。自分の娘に手を出していないことを祈るが。
ま、おいおいでいいだろう。
今日は服を買いに行けばいいだけだ。
女との買い物にあまり良い記憶を持っていないが、なんとかなるだろう。
俺は食事が済むと腹ごなしにエカリテとしばらく話をした。
エカリテはあまり自分のことを言いたくなさそうだったので、俺の話をした。テザーの常識は知らないのに基地の、しかもパイロット限定の所作を知っているような節があったり軍用格闘術は知らないのに空手を知っていたり、なのに地球は知らないのに日本は知っていたりと知識に妙な偏りがある。
しかもごまかすのが下手だ。
ルオールアースの住人であることは間違いないのだろうが、それにしても生きるのが下手そうだと会話から受けた。俺に置いていかれないのか怖かったのか、ずっと手を握っていた。
だが一時間も話をしているとだんだんと俺に慣れてきたのか話し方も滑らかになってきた。
相当、生きるのが下手そうだ。
少しくらい人と触れさせてから開放したほうがいいだろう。
「俺の傍にいろ」と言った手前アレであるが、いつかはエカリテは俺の傍から離れることになる。それが俺の「恋人のようなもの」になってから離れるのか「奴隷のようなもの」になってから離れるのか「俺を憎悪の対象」として離れるのかで結末は違うだろうが、結果としては変わらない。
そんなものだ。
俺は浮き沈みの激しい子供の感情はわからない。
やや落ち込んでいるエカリテの手を取って手を洗わせてから新しいシャツを着せた。そして安全ピンで丈を調節したインバネスを着せる。
靴がない。
仕方がないので俺がバンデージに使っていた細布を足に巻いてやる歩きづらそうだったがないよりはマシだと、そう思いたい。
俺達二人は外へと出るために玄関へと向かう。
「あの、エッチはしないんですか?」
すっかり滑らかになった口調で俺に声をかける。あまり子供の口から聞きたくない言葉であるが、これくらいの年なら興味津々だろう。実際、俺もそうだった。女の子だけが違うということは絶対にないはずだ。
「よく知らない相手を、抱きたくない」
それだけ返すとエカリテはひとつ頷いた。
初めて納得してくれたように感じる。
俺が売春宿を利用しないのもこの辺りにある。もっと年を重ねれば考えも変わるのだろうが、今はどうにもそう考えてしまう。精神性とか、乙女チックとか、とにかく俺は女々しいのだろう。それを克服する術を俺はまだ持たない。時間が解決するはずだ。
俺はエカリテの頭を撫でて外へと出るために扉を開いた。
「おでかけ、かしら」
そこには皇国上級将校前線大尉、キユナ・キユナが俺達を待ち構えていた。
一分の隙もないかっちりとした軍服着用に昨日よりも切りそろえられた前髪、たっぷりとボリュームのあるみつあみに軍帽。そして俺を威圧するような鋭い眼光が俺を突き刺す。
それだけなら別にいつものことだ。多少物理的な攻撃を刺激を伴ったところでなんの問題もない。
だがキユナの後ろにいる人物はヤバイ、だろう。
見たことのない暗い赤の上級軍服者、架空種族を思わせるような長身痩躯と耳の尖りが俺の心に大きな不安を掻き立てさせる。
彫りの深い、それでいて薄味の細目が心と裏腹であろう笑顔で俺を嘗め回すように視線を向けてきた。掛けている小さな眼鏡の反射がちらりと俺の網膜に映る。
「本国監察官のアド・アンダーソン特別大尉だ。実務優先のために階級こそ大尉だが、扱いは二階級上の中佐待遇だ。失礼のないように」
キユナはそれだけ言ってから自分の後方にいる監察官に譲る。
裏で何をしているのかわからない有能眼鏡みたいな雰囲気だ。多少は隙がある緩さを持っている。その緩さが、あまりに危うい。その口からの第一声が「ああ、やはり処分ですね、彼は」と言っても驚かないだろう。
俺はキユナ退くと同時に、俺はエカリテを自分の体で隠した。
まずないとは思うが殴りかかられても大丈夫なように、振舞う。
「監察官のアド・アンダーソンです。あまり階級に意味などないので無礼でなければどう扱っていただいてもかまいません。あと、よくわかりませんが――」
監察官がくいと眼鏡のブリッジを押し上げる。
「別に彼女のことではありません。その後ろの、小さな彼女」
ぴくりとキユナが動く。神経を尖らせているんだから無駄なことは止めて欲しい。
「ウィバル・コート二百皇少尉、あなたに召喚状が出ています。その説明のためにお時間をいただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
お前、よろしいでしょうかって、明らかに断る余地がないじゃないか。
「だいじょうぶ。小さな彼女さんは、関係ありませんよ」
清々しい夏を思わせる笑顔を俺に向ける監察官。
それは「応じなければエカリテに何かする」という裏返しだ。
否応なく、俺は監察官の言葉に頷きだけを返した。
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並み居る大量の書物がところ狭しと並べられている。
手間と暇をかけてつくられた書は数十年と時間を重ねても劣化が少なくいつまでも読める状態を保っていた。書棚の拵えも柔ではない。本が重いためにそれに耐えられる質の良い樹木を分厚くつかった頑丈なものだ。多少の地震ではびくともしないだろう。
四方を、そして膨大な敷地の九割を資料だけで埋められた閉鎖的な空間が広がっている。
ここは資料室だ。
独特の本の、紙の匂いがする。嫌いじゃない。
俺は資料室にある不思議な印象を受けたテーブルとチェアに腰を下ろしていた。
俺の部屋にある猫足テーブルを大きくした四人用のテーブルだ。少々洒落ている感があり、テーブルにもチェアにも木彫り細工がされているものだ。
資料室の他は複数人用の長机と簡素で丈夫なつくりの椅子だけが置かれている。その中に一脚だけ細工テーブルとチェアが置かれているのは不思議だった。不思議だったのだが、これで合点がいった。これは高官用なのだ。
やっべえな、オラ、昨日これに座って資料調べてたぞ。
そら四時間で司書に追い出されるわけだ。
「ではウィバル少尉。これはあなたのノートで間違いないですね」
昨日、司書に奪われたノートが監察官の手ずからテーブルに置かれた。
俺の背筋に電流が走る。
間違いない。これは俺への査問案件だ。
ということはロリ誘拐は別件取調べになり俺の罪状がざっくりと増える。
俺は思考にタグをつけて良い考えが浮かんだら使用できるようにしておいた。
「沈黙は肯定と受け取ります。何か間違ったところがあれば口に出してください」
ザクザクと話を進めていく。
監察官はとても真面目な顔をしている。
向かい合わせになるとこの優男の妙な圧力がわかる。俺の負い目が敗北を呼んでいるのかも知れない。
「昨日、ウィバル少尉はこの資料室で四時間と二十三分、調べ物をしていた。その後、司書にこのノートを取られて資料室を出て行った。
ノート書いてある内容はグラスフォートの歴史だ。特に五竜のくだりと魔法関係が多い。
また別の、複数の著者の歴史書から同じようなことばかりを抜き出している。
これは、どういうことかね」
どういうことかね、と言われてもな。
俺は「思い出すのでノートを見せてくれ」と断ってからノートを受け取る。よくもまあ四時間程度でノートの半分を埋めるくらい書きなぐったものだ。時間優先で書いたために俺ですら読み取るのが難しい日本語をよくもまあ読み取れたよ。いくらバベル言語で理解できるとはいえ、汚い字は汚い字のまま翻訳される。
俺はパラパラとめくりながらあのときにだいたい何をやっていたのか思い出す。
「見つけたなんとなくのキーワードから目標を決めて書きなぐってますね。興味があったのが歴史と魔法の二点で巨大ロボットの作成秘話と万人に使える魔法のプロセスが気になったのでその辺から進めています。最終目的としては歴史の理解かな。ああ、思い出した。当初の目的はクライムエンジンの説明書が、システム仕様書が欲しかったんです。コマンドの受付時間やキャンセルタイミングとか、昔の操縦者が使っていた連続攻撃を知りたかった」
俺はノートの関連付けキーワードから記憶を呼び起こす。
そもそも「勉強」ですらなかった。「勉強をするためのアタリ付け」だったのでほとんど覚えていない。というか一週間掛けてやるつもりだったので最初はかなり大雑把にノートを取っていた。ノートに書きなぐられた文章量の多いこと多いこと。無駄だ。持ってきたノートはこれ一冊だけなので早々にザラ紙が必要になっただろう。昨日買ったあれは今は風呂場の換気扇を当てに干されている。
「ふむ、これは君が書いたものだよね」
「そうですよ。歴史なんてどうせ最終的に記憶で留めなくてはならないし、歴史のすべては繋がっているので俺が興味を引いて覚えられそうな取っ掛かりを探していたんです。だからここに書いてあることはいわゆる重複行為で俺の興味を引くための儀式です。あまり頭が良くないんでね」
俺はノートを返却する。
一時的には思い出したので問題ない。このノートに関しての会話する時間くらいは覚えていられるだろう。数学とかなら公式さえ覚えていれば地力で解答できるのでその辺のほうが楽だ。だが歴史やそれに類する民族間の問題なんかは全体を知らないと何もわからないのでそもそも時間が足りなさ過ぎる。グラスフォートに関しては複数の民族間抗争や国家間のやり取りが少ないのである程度は楽であるが、それでも覚えるべきことは多い。それは俺の周りにある書物の量が現している。
極度の記憶力か理解力のどちらかが欲しい。判別に時間を取られすぎている。
「ウィバル少尉、君の言っていることは乖離が激しい。なぜクライムエンジンの操縦のために歴史書を熟読する必要があるんだ?」
「いや、別に熟読なんかしてませんよ。速読以下のキーワード選別だけです」
「目的のものが見つかったらノートを取りながら何度も読み直すだろう?」
「はあ、まあ」
エルフ監察官が耳を尖らせながら唸りを上げている。
「ならば普通は整備マニュアルを読まないか?」
「あれ整備マニュアルじゃないですよ。だってただのパーツ交換だけじゃないですか。本国から配給される大量のロボをパーツ取りでバラして壊れたところと交換する。破損した部位を直すこともありますが、基本的にテザーに払い下げて辺りの技術レベルアップや生活を潤している。一応、修理している旨もありますが微調整とかできないし「まったく同じ」にしか仕上がらない。あれじゃパーツ足りなくなったときに困りませんか?」
ここのロボの修理はぶっちゃけプラモの組み立てキットのようなものだ。みんな素組みしかできないし、破損した場所も同じようにパテで直して取り付けることしかできない。関節稼動域を広げたり盾に装甲版を貼り付けて増加装甲することもできない。
なんというか、この国はあまりに技術レベルがちぐはぐなのだ。
借り物の技術をそのまま受け継いで使ってしまっているせいで地力があまりにも足りない。
クライムエンジンなんかその最たるものだ。
あれは強大な力を誇る。まさに大人と子供の違いだ。
だが、誰も操縦できない。
一歩動くたびに震度八以上の揺れが起こり、攻撃のひとつでブラックアウト級の慣性がかかる。そりゃ半端なパイロットが乗ったら死ぬわ。
おかげで雑な動きしかできないクライムエンジンでもかなりの戦力を有することになる。
百皇の違いなんか一目瞭然で、どんなにトロトロ動いていてもゲームのようなターゲットシステムがあるせいでブーストと攻撃ボタンをぺちぺち押しているだけで確実に勝てる。ただしクライムエンジンの中にいるやつは全身を強く揺らされて死ぬ。死ぬことを考えなければたったひとりの人員で相手のクライムエンジンを撃破できる可能性がある。ヴァンフラートだって同じだ。かろうじて動かせる人員でかろうじて動かして、戦線を保っているのだ。
なんだこの世界。
俺はルオールアースに来たときの効果の能力向上によってもともと高かった肉体能力の上昇率が高かった。そのためにクライムエンジンに乗っても別になんとも思わない。いや、できればもっと静かなところでゲームをやりたいかな。
能力向上に関しては俺だけじゃない。この世界の住人にもそれが作用されている。実際に俺のように格闘技を行なっていたやつの身体能力も高い。だが、高いだけなのだ。誰でも持ってる「あ、ここまででいいかな」みたいな作用が働きある一定の力を持ったら止めてしまう。
おそらくヘビー級のボクサーならだいたいいけるんじゃないだろうか、クライムエンジンの操縦は。だがボクサーはここにこないだろう。別に必要ないだろうし、そもそも知らない。俺だって知らなかったし、ここに来てからもキユナに「乗れよ」と言われるまでは乗ろうという考えすらなかった。
「そうですね」
眼鏡監察官は何か納得したことがあったのか晴れやかな顔になると、俺に無垢な笑みを向けてきた。さすがにいい年をした成人男性がやるのはちょっと勘弁遠慮してもらいたい表情だ。
「ウィバル・コート少尉。あなたをグラスフォート皇国の皇族として迎え入れます」
……だいじょうぶかこいつ?
「いえ、少し言葉が違いましたね。あなたは皇族です。最大十六年の教育期間を経て他国へ留学していた皇族です。本国への送還をお願いいたします」
十六年の教育期間。小学六年、中学三年、高校三年、大学四年の合計十六年ということか。
つまり、このグラスフォートの皇族というのは――
「ウィバル・コート少尉が考えていることは後日にご説明いたしましょう。とりあえず近く皇族の除隊昇進として二階級特進して大尉になることになります。それからすぐに本国へと移動になりますので、そうですね、一ヶ月ほどをお時間をお許しください」
話が早い。
俺の処理速度では追いつかない。
受けるにしても断るにしても情報が足りない。
というか正直言えば断る理由があまり見当たらない。俺個人としてはさっさと日本に帰りたい。主に現代文明の恩恵を享受したい。外に出てコンビニでパンと缶コーヒー買って適当に食べて、ゲーセンよって対戦したり、テレビをみて馬鹿笑いしたり、そんなことがやりたい。これに関しては間違いなく俺の言っているほうが贅沢だ。確かに金銭の量は足りないかもしれないが、十七歳の俺でも中世の王様なんかよりはるかにいい生活していると自覚できる。
残念ながら断る。
「もちろん日本に置いて来たものもあるでしょう。暮らしも違うでしょう。しかしある程度は交易もありますので何か欲しいものを取り寄せることもできます。ああ、本国には電気がありますよ。ここみたいなクライムエンジンから出力される純エネルギーとは違う、普通の電気が」
こいつの言っていることが本当ならば、天秤は釣り合う。確かに揺れ続けているが、釣り合っているといえるだろう。嘘でなければ。
「主な公務は……そうですね、あまりこちらでは口にするべきではないかもしれませんが、基本的には子供をつくってもらうことですね。もちろんそちらの小さい彼女を連れてきていただいてもかまいません。嘘と思われるかもしれませんが、本国に来ていただければだいたいわかります」
考えるべき案件ではある。
常軌を逸するほど素晴らしい申し出だ。あまりに俺に有利すぎて逆にうそ臭いくらいだ。だが特に嘘をつくことはないと思う。俺は別に特殊な能力を持っているわけじゃない。別にクライムエンジンと生身で戦えるほど戦闘力を有していないし異常に高い数値の魔力っぽい何かがあるわけでもない。頭が良いわけでもないし神様から何が贈り物を貰ったということもない。
基本的にこの世界の人間であれば概ねみんなが持っているものだ。
死ぬほどしごけばクライムエンジンに乗れるやつらを量産できる可能性もある。
もしかしたらこの「クライムエンジンのパイロットを量産する」という考えに至れるのも特殊な能力のひとつかもしれないが、これは「俺の身体能力で搭乗可能」という逆算で考えられることだ。俺の上昇率の触れ幅が大きい可能性もあるが、少なからずルオールアースに派遣されている人材を考えるとそこまで凄い値とも思いづらい。俺がクライムエンジンで活躍したのは今に始まったことじゃない。
とっつかまって脳みそだけ培養槽にぷかぷか浮かされる可能性がないこともないがおもしろそうではある。
「なにかあれば質問してください」
「では私からひとつ」
キユナが右手を軽く上げた。
俺と監察官は「あ、そうだった。いたね」というキリッとした顔つきでキユナの方を見た。軍帽を外してテーブルの端に置いている。
ついでにいえばエカリテもいる。
俺と監察官が向かい合わせ、エカリテが俺のすぐ隣、キユナは俺と監察官のちょうど真ん中の角度。つまりは「ト」の字型でこの丸いテーブルに座っている。みんな左側に座っているといえば少しはわかりやすいか。
エカリテはずっと俺の左手を握ったままだ。まあ怖いよな。俺だって怖い。
ぎゅっとさらに握られたエカリテを愛らしく思いながら、俺はキユナのほうに注意を払う。
「私も本国に行きたいのだが、どうしたらいい?」
まあ出世の人だから知りたいよな、こいつも。もしかして皇族になりたいのか。代わってやるぜ、って感じだ。監察官の言っていることが本当だったとしてもどちらかといえば日本のほうに傾いていないこともない。ただ札束風呂とか金貨の風呂とかやってみたいではある。それくらいだが。
「申し訳ありません。キユナ大尉は本国召喚の資格を持っておられません。また取得方法もお教えできません」
「ありがとう。それだけわかればかまわない。私は本国召喚を諦めない」
監察官の言葉の裏に「キユナも本国行きはできなくないけど、資格とってからにしてね」というニュアンスが含まれている。というか俺の場合って「資料室で四時間勉強したら資格取得だよ」って逆説的にそうなるんだが、それはさすがにどうよ。もうちょっと精査するべきなんじゃないだろうか。
すべてにおいて別にどうでもよいという考えが膨らむ。
どうせヘビー級のボクサーになってもチャンピオンになれないんだから俺の夢なんか最初からないも同然だ。だからこっちに来たんだ。流れ流れてそれが楽なほうへ進んでいくのであれば俺は一向に構わない。誰だってそうだ。
「ま、いいかな。皇族とやらはわからないけど、本国行きの召喚命令だと思えば悪くはないさ。俺も少しは偉いさんになれるってもんだし」
「偉いさんではすまないのですけれどね。とにかく了承していただけてけっこうです」
監察官は笑顔で「ではまた近く話し合いましょう。そうですね、昇進辞令の後にでも」と言って俺のノートを自分の手元に手繰り寄せる。あ、それは持っていかれるんですね。何か俺の資格証拠みたいのがあるんですね。いや、できれば返して欲しいんですけど。勉強したいですし。
監察官はそんな俺の視線をさらりと受け流して立ち上がった。どうやらこれで話は終わりらしい。
なんの問題もなく終わったことに感謝しながら一息つく。下手すると昨日の無許可外出で軍法会議後に死刑とかありえたから怖かった。いや、本当はそんなことになることはまずないだろうと思うんだが、本国監察官がわざわざやってくるとか適当な罪状をでっち上げられてやべえことにならないとも限らない。
みんなで優しく見守って監察官が資料室から出て行くのを待った。
監察官は司書と話があるのかいっしょに出て行った。
俺達に配慮した可能性もなくはないが、まあ違うだろう。
監察官が立ち上がったのを見計らってキユナも立ち上がる。
立ち上がるときにテーブルの上に置いてあった軍帽を手にぶつけて落としてしまった。硬い音を立てて軍帽が床に転がる。
キユナにしては珍しいな。失敗したというよりも「落としちゃったわ、拾いなさいよ」というほうが信じられるケアレスミスだ。俺はさっさと拾おうと左手を動かそうとしたがそこにはエカリテがいる。拾えない。
「すまんなエカリテ、ちょっとどいてくれ」
俺はエカリテをどけながらキユナの軍帽を拾おうとした。一応上官の持ち物なんだから俺が拾うのが筋だろう。たぶん。軍隊、よくわからないけど。ってか同じことされた覚えがある。あのときは今なんかよりも明らかに「あー、落としちゃったわー。誰か拾ってくださらないかしらー」とかいう表情だったせいで俺が顔面神経痛でキユナをにらみつけた記憶がある。拾ったあとで両手で俺の手を握って「ありがとう」と笑顔を向けられたので許した。許した。嫌いだけど。
エカリテは俺の行動を察したのだろう。自分でエカリテの軍帽を優しく拾った。
「あの……はい、どうぞ」
おずおずとエカリテが帽子を両手で渡す。
悪いがエカリテそれだと八十点だ。拾った後は見聞して軽く埃を払う仕草まで入れないと百点は出せないな。これは別にキユナに対しての問題ではなく「やあ上官様、あなたのお帽子に汚れや埃がついていたら大変です。よかった問題はないようですよ。ではどうぞ」という意味合いが込められている。地球にいたとき伊達や酔狂で昼間は働いていたわけではない。
まあだがいくらなんでもキユナがほぼ初対面の「汚い手で触らないでもらえるかしら」とか言って頬をはたくことはないだろう。さすがにやったらキユナの命令を総スカンしてやるレベルだ。
ちょっと笑顔がこみ上げてくる。
キユナがエカリテを気に入ってくれると俺は嬉しい。キユナはこの基地の偉いさんであるからこいつの加護を受ければある程度はなんとか――――
「このッ、売女ッッ!!」
パァン、小気味よい乾いた音が聞こえた。
急いで振り向くとそこには床に尻をついて頬を押さえているエカリテと、怒りに表情を縫いとめられたキユナの姿があった。
「貴様ッ、よくもッ!!」
「おいちょっとまてキユナ、何をしている」
追撃で蹴りを行なおうとしたキユナの足を、機先を制して自分の膝で押さえ込む。しっかりとエカリテとキユナの間に入り込んでこれこれ以上の追撃をさせないようにした。
あまり触れてるのも不快に思われるかもしれないので軽く押して、意図的にキユナにバランスを取らせる。つまりは少しの間は動けなくさせた。
そして少しだけ離れる。
二人の距離は一メートルもない。
そしてようやく俺に気づいたのか、表情をぴくりと動かして、
「触るなッ!!」
物理的な圧力を伴ったキユナの怒声が辺りに衝撃を撒き散らした。衝撃は俺の体を貫く。衝撃に耐えられなかった顔の皮膚が少し擦過傷をつくるが、問題ない。むしろ体に直撃した不可視の衝撃が重い正拳突きのように鈍い痛みを与えてくる。
膝はすでに離したじゃねえか。わざわざ大きな声をあげるなよな。
多少、イラつきながら俺は姿勢を崩さない。
キユナは俺を見ている。見ているが、俺に注意を払っていない。俺の後ろにいるエカリテを睨みつけている。
何があったか聞いてみたいがキユナは感情を剥き出しにして話し合える状況じゃない。エカリテに聞いてみたいが後ろを見せたらそのまま襲ってきそうだ。
「触るなと言っているだろうッ!!」
キユナが完全なテレフォンパンチを繰り出してくる。俺なら避けることが可能だが、避けてしまうと床に座り込んでいるエカリテにキユナの衝撃波が直撃する。というかそれが狙いなのか。
俺は顔をかばい股を絞めるように、少しでもエカリテに衝撃が行かないようにかばった。
痛ってえ。
これ俺だから痛いですんでるけど、常人だったら普通に怪我してるレベルだ。地球で同じことやられたら病院送りだ。キユナの本気が伺える。
まあキユナが本当に本気を出したら普通のやつなんか死ぬ攻撃を可能だから、本気度は把握できるがまだまだ冷静であると言えるだろう。
あ、てめえ。
俺は続くキユナの攻撃を封殺する。手を伸ばして優しく抑えるように、こちらからは痛くないようにキユナを止める。いや、触るなとかちょっと無理ですわ。
殴る蹴るの暴行を、効果を発揮する前になんとかする。キユナは俺が見えていない。なぜか知らないがエカリテのほうを見ておりこの攻撃はかなりおざなりだ。
「キユナ、なにが起きた! 落ち着け!!」
組み伏せるかどうか本気で思案する。
しかし迂闊に上官に暴行を働いたら俺の扱いが悪くなる可能性が存在するのでできかねているという始末だ。結局のところは俺だって楽がしたい。あと俺が雑な考えと扱いだけどここ軍隊だからな。まずいことはできるだけやりたくない。
「コート! こいつはッ、この女はッッ!!」
俺に腕を押さえられてぎりぎりと音を立てて押し込んでくる。
俺の後ろに視線をやりながら譲れない何かに怒りを覚えているようだ。
「エカリテがどうかしたのか?」
「そいつはお前を――ッッ」
そこまで言ってからキユナの動きが止まる。
何かに苦悩するように、どうしても言えない何かを守るように、キユナは自分の身を守るように苦しそうな表情で心を押し殺している。
エカリテのことで俺に何かを忠告したいようだがそれを口にすると自分の身を切ってしまうかのように口にしないようでもあった。
キユナはぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、ゆっくりと俺の腕を投げつけて離れた。
「そいつは、売女だ。コート、忘れるな」
俺から離れたキユナは身を翻して資料室から出て行こうとする。
「おい、帽子忘れてるぞ」
俺は軍帽を拾うとキユナにふわりとフリスビーの要領で優しく投げた。
「いらんッッ!!」
軍帽を汚物と言わんばかりに風で弾き飛ばした。
自分のものであるにも関わらずだ。エカリテが触れたからなのだろうか。
俺はようやくエカリテのフォローを入れようとキユナに背を向けようとした。
「貴様ッ、わかってるだろうなッ!」
キユナがまた怒声を飛ばす。
わっかんねーよ。さっさと帰れよ。あとで外出許可証持ってくからよ。
完全にキユナが資料室から出たのを確認して、さらに十秒ほど時間を置いてキユナが戻ってこないことを確認してからようやく俺はエカリテの方を振り向いた。
そこにはガタガタと震えるエカリテが最後に見たときと同じようにへたり込んだままだった。
もともと色白であるがそれを超えて顔面蒼白だ。あと一押しで死ぬんじゃないかと思うほど強烈な死相を現していた。自分の両手を穴が空くほど見つめながらぼろぼろと涙をこぼしている。
「すまんな、あいつは現代女性の鑑たる存在だから感情のコントロールが下手くそなんだ。勘弁してやってくれ。しかもいまだに「幸せになりたい」とか目的意識の欠片もない雑な夢ばかり見ている子供みたいなやつだからあまり気にしなくてもいいぞ」
そこまでキユナを貶してフォローを入れてみたが、よく考えたらエカリテも同じ目的意識の可能性もあるのでしくじった可能性が無きにしも非ず。一応、幸せはみんななりたいだろうと思いなおした。むしろ自分の好きなことだけをして生きていたい俺のほうが珍しいのだろうか。ヘビー級ボクサーチャンピオンはちょっと無理だから諦めるけど。
「ほら行くぞ」
俺はエカリテに手を伸ばした。
すると声にならない悲鳴をあげたエカリテが俺の手を避けた。
嫌われたかな。
自分の心情をエカリテに悟られないよう、先に転がったキユナの軍帽を拾う。そして丁寧に埃を払い、インバネスの懐へとしまい込んだ。俺よりも頭が小さいくせに、俺と同じサイズの軍帽だ。かっこいいとでも思っているのか。
そこまで時間を使ってもエカリテを慰める魔法のひとつ紡ぐことはできなかった。
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